第13話 境に立つための訓練
朝霧が、青藍院の裏手の森を薄く覆っていた。
迅は、少し湿った土の感触を足裏に感じながら立っている。
目の前には夜刀。
背後には、少し離れて見守る灯火と蓮生の姿があった。
「まず確認しておくわ」
夜刀は静かに言った。
「今日は“火守の力”は一切使わない」
「……使わない?」
迅は思わず眉をひそめる。
「それ、俺に何が残るんだ」
夜刀は肩をすくめた。
「それを知るのが、今日の訓練よ」
そう言って、地面に細い線を引く。
「この線から一歩も動かないで」
「え、それだけ?」
「ええ。それだけ」
灯火が不安そうに口を挟む。
「夜刀さん……それ、訓練なんですか?」
夜刀は灯火をちらりと見て、少しだけ微笑んだ。
「境に立つ者の最初の訓練は、いつだって地味なの」
迅は半信半疑のまま、線の上に立った。
「で、何が起きる?」
「何も起きない……はず」
「はずって」
その瞬間、空気が変わった。
森の奥から、ひやりとした気配が流れ込む。
視界の端が、わずかに歪んだ。
「迅……」
灯火が息を呑む。
夜刀は一歩も動かない。
「感じるでしょう。境が“ずれて”きてる」
迅は喉を鳴らした。
「……来てるな」
影ではない。
でも“こちら”でもない。
空間の継ぎ目が、きしむような感覚。
「逃げたくなったら、どうする?」
夜刀が問う。
「……逃げる、か?」
「いいえ」
夜刀の声が、鋭くなる。
「立つの」
「立つ?」
「火守は、燃やして拒む。
境渡りは、境目に“存在する”」
迅の足元で、線が淡く光った。
境が揺れ、視界が二重に見える。
本能が叫ぶ。
――危険だ。
胸の奥が熱を持ち、焔が出たがる。
「迅!」
灯火の声が飛ぶ。
「使わないで……!」
迅は歯を食いしばる。
「……分かってる」
焔を“出さない”のは、思った以上に辛い。
力を抑えるというより、選ばない感覚に近かった。
「呼吸を整えなさい」
夜刀が淡々と言う。
「境は、感情の揺れに反応する」
迅は深く息を吸った。
灯火の顔が浮かぶ。
青藍院の朝。
昨日の白湯の温かさ。
「……ここにいる」
小さく呟いた瞬間、揺れが一瞬だけ止まった。
夜刀の目が、わずかに見開かれる。
「……今のよ」
「え?」
「今、あなたは“どちらにも寄らなかった”」
森の気配が、ゆっくりと落ち着いていく。
蓮生が、低く息を吐いた。
「……初日で、それができるとはな」
迅は、汗を拭いながら苦笑した。
「正直、何が起きたのか分からない」
夜刀は迅の前に立ち、真っ直ぐに言った。
「それでいい」
「いいのかよ」
「境に立つ者は、“分かりすぎて”はいけない」
夜刀は地面の線を消した。
「今日はここまで」
「え、短くない?」
「十分よ」
夜刀は振り返り、灯火の方を見る。
「あなたがいるから、彼は立てた」
灯火は驚いて目を瞬かせた。
「私……?」
「ええ。錨は、力じゃない」
灯火は、そっと迅を見る。
迅は少し照れたように視線を逸らした。
「……頼りにしてます」
夜刀は歩き出しながら言った。
「次は、“境が崩れる場所”へ行く」
「それって……安全?」
「全然」
迅は笑った。
「……上等」
森の霧が、ゆっくりと晴れていく。
迅はまだ弱い。
火守の力に頼らず、境に立つ術も、始めたばかりだ。
それでも――。
確かに一歩、前に進んでいた。




