第11話 残された火種と、静かな朝
青藍院に朝が来た。
夜明けの光はやわらかく、昨夜の騒乱が嘘のように庭を照らしている。
結界の痕跡も、裂け目の名残も、表向きはすべて消えていた。
迅は、客間の布団の中で目を覚ました。
「……ここ……」
身体が鉛のように重い。
起き上がろうとすると、胸の奥がじくりと痛んだ。
――燃え残り。
そんな感覚が、確かにある。
「起きた?」
声の方を見ると、灯火が縁側に座っていた。
湯気の立つ椀を両手で包み、こちらを見ている。
「灯火……」
声を出しただけで、喉がひりついた。
灯火はすぐに立ち上がり、迅のそばに寄る。
「無理しないで。まだ“余熱”が残ってる」
「余熱?」
「うん。火守の力……完全に拒んだわけじゃないから」
灯火は椀を差し出した。
「白湯。今はそれだけでいい」
迅は受け取り、ゆっくり口をつけた。
温かさが、胸の奥にじんわり染みていく。
「……結界は?」
「一応、安定してる。蓮生さんが夜通し張り直してくれた」
灯火はそう言って、少しだけ目を伏せた。
「でもね、迅……完全に“終わった”わけじゃない」
迅は、静かに頷いた。
「ああ……分かる」
胸の奥に、まだ“火”がある。
暴れはしないが、確実にそこにある。
「影はもう来ない?」
「しばらくは来ない。
でも……迅が“拒んだ”こと自体が、向こうにとっては異常事態なの」
灯火は苦笑した。
「王に拒まれた、ってことだから」
「……やっぱ重いな、それ」
迅がそう言うと、灯火は小さく笑った。
「うん。だからこそ、代償もある」
「代償……?」
灯火は一瞬だけ迷い、それからはっきりと言った。
「迅はもう、“普通の人間”としては生きられない」
その言葉は、静かだったが、重かった。
迅は少し考えてから答える。
「……でもさ、もう普通じゃなかっただろ。
青藍院に来た時点で」
灯火の目が、少しだけ潤んだ。
「それでも……選んでくれたんだよね」
「何を?」
「ここを。私を」
迅は照れたように視線を逸らす。
「……選んだっていうか、自然だった」
灯火は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
そのとき、襖が静かに開いた。
「起きたか」
蓮生だった。
いつも通りの落ち着いた声だが、その顔色はわずかに青い。
「蓮生さん……」
「無理をするな。迅、身体はどうだ」
「重いです。でも……生きてる感じはします」
蓮生は小さく頷いた。
「それでいい」
縁側に腰を下ろし、蓮生は続ける。
「迅。昨夜の件で、お前は一つの“立場”を得た」
「立場?」
「火守を拒んだ境渡り。
どちらの世界にも完全には属さない存在だ」
迅は黙って聞いている。
「それは同時に、両方から“狙われる”立場でもある」
灯火の肩が、ぴくりと揺れた。
蓮生はそれを見て、少しだけ声を和らげる。
「だが、青藍院はお前を守る。
灯火も、そして――私もだ」
迅は、少し驚いた顔をした。
「……いいんですか」
「昨夜、お前は選んだ。
世界よりも、人を」
蓮生の視線が、灯火へ向く。
「それは、我々が信じるに足る選択だ」
灯火は思わず、迅の袖をぎゅっと掴んだ。
胸の奥が、じんと温かくなる。
「ただし――」
蓮生の声が、再び引き締まる。
「火守の力は、完全には消えない。
今後、お前が感情を強く揺らせば、再び“焔”は目を覚ます」
「怒ったり……守りたいと思ったり?」
「その通りだ」
迅は、少し笑った。
「……じゃあ、気をつけます」
「いや」
蓮生は首を振る。
「抑え込むな。
制御を学べ」
灯火が顔を上げた。
「制御……?」
「灯火。お前が、迅の“錨”になれ」
「……はい」
灯火は迷わず答えた。
蓮生は立ち上がり、部屋を出る前に言った。
「迅。
これからは“戦いの中心”に巻き込まれる」
「覚悟は?」
迅は少し考え、灯火を見てから答えた。
「……あります」
灯火は、そっと迅の手を握った。
朝の光が、二人を包む。
静かな日常は戻ったように見えて、もう同じではない。
迅の中には、消えない火種がある。
灯火は、その隣で生きることを選んだ。
そして青藍院は――
次に訪れる“境の揺れ”を、静かに待っていた。




