第10話 火守の拒絶、そして選択
蓮生の声と同時に、青藍院の結界が大きくうねった。
裂け目から伸びていた影の腕が、びくりと痙攣し、動きを止める。
それでも闇は消えない。むしろ“押し返されている”ことに苛立つように、濃さを増していた。
「迅、灯火! こちらへ来い!」
蓮生が杖を構え、結界の内側へと二人を招く。
迅は灯火の手を引き、走った。
背後で、影がうめく。
『……拒むのか、火守……』
その声は、怒りよりも困惑に近かった。
迅は立ち止まり、振り返る。
胸の奥で、あの熱が静かに燃えている。
「……拒む」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
「俺は“戻らない”。お前らの王でも、守り手でもない」
影がざわりと揺れた。
『虚偽だ……お前は我らを導いた……』
「知らねぇよ、そんな過去」
迅は歯を食いしばる。
「もし昔の俺が、お前らの世界に関わったことがあるとしても……
今の俺は、ここにいる」
迅は、灯火を一度だけ振り返った。
彼女は涙をこらえ、必死に頷いている。
「俺は……守る側を、選ぶ」
その瞬間だった。
影の中心が激しく歪み、裂け目の奥から、今までとは明らかに“格”の違う存在が現れ始めた。
黒よりも深い闇。
輪郭は人型だが、頭部に角のような影が揺らめいている。
蓮生が息を呑んだ。
「……まずい。あれは“上位影”だ」
灯火が震える声で言う。
「迅……あれ、普通じゃない……」
上位影は、ゆっくりと迅を見下ろした。
『火守カガリ……拒絶は許されぬ』
『お前は門であり、鍵であり……』
『我らの世界を繋ぐ“焔”だ』
迅の頭に、再び映像が流れ込む。
闇に囲まれた世界。
影たちの群れ。
そして、炎を操り、彼らを鎮めていた――自分。
「あ……」
思わず膝が崩れかける。
灯火がすぐに支えた。
「迅! 見ちゃだめ、引きずられる!」
蓮生が杖を振り上げる。
「迅、今だ! 選べ!」
「選ぶ……?」
「“思い出す”か、“拒み切る”かだ!」
上位影が手を伸ばす。
『思い出せ……』
『王としての責務を……』
迅の胸が裂けそうになる。
楽だった。
影の世界は、迷いがなかった。
役割があり、必要とされ、すべてが単純だった。
だが――。
迅は、灯火の手の温もりを感じた。
震えているのに、離れない手。
「……俺は」
声が、震える。
「俺は……王なんかになりたくない」
迅は顔を上げ、上位影を睨みつけた。
「世界の均衡とか、責務とか……
全部、知らない」
胸の奥の炎が、一気に燃え上がる。
「それでも――今の俺は、灯火のそばにいたい」
灯火の目から、涙が零れた。
上位影が、初めて動揺したように後ずさる。
『……拒絶……だと……』
迅の身体から、赤い焔が溢れ出した。
それは破壊の炎ではない。
“遮断する”ための焔。
「俺は、門じゃない」
焔が裂け目に触れる。
『――ぐっ……!』
闇が焼かれ、悲鳴のような音が響く。
蓮生が即座に術を重ねる。
「今だ、封印を重ねる!」
灯火も歯を食いしばり、印を結んだ。
「迅……私を信じて!」
二人の足元に、光の紋が重なり合う。
焔と光が絡み合い、裂け目を一気に押し潰した。
影たちの声が、遠ざかっていく。
『……火守……忘れるな……』
最後の声が消え、夜が戻った。
結界は静まり、青藍院に風が通る。
迅は、その場に崩れ落ちた。
「迅!」
灯火が抱きとめる。
迅は荒い息をつきながら、かすかに笑った。
「……拒んだ、よな……?」
「うん……拒んだ。ちゃんと」
灯火は泣きながら笑った。
蓮生は二人を見下ろし、静かに言った。
「完全に断ち切ったわけではない。
“カガリ”は、まだ迅の中にある」
迅は頷いた。
「……それでもいい」
灯火の手を握る。
「俺は……俺として、ここにいる」
蓮生は目を細めた。
「ならば、これより迅は――
“火守を拒んだ境渡り”として、この院に留まれ」
その言葉は、宣告であり、許しでもあった。
夜明けの気配が、空を薄く染め始めている。
迅はその光を見つめながら、静かに思った。
過去は消えない。
影も、完全には終わらない。
それでも――。
今、自分が立つ場所だけは、はっきりしていた。
灯火の隣。
それが、迅の選んだ“世界”だった。




