第1話 『薬師、転生して最初の患者と出会う』
最初に感じたのは、薬草の香りだった。
苦みを含んだ甘い匂い。乾燥させた桂皮と、粉末にした花椒。そして、ごくわずかに混じる艾草の煙の残り香──どれも、私が調剤室で毎日のように扱っていたものだ。
(……え? なんで後宮の匂いが……?)
次に聞こえてきたのは、女中らしい若い声だった。
「百合様、気がつかれましたか!?」
目を開けると、見知らぬ天井。絹の天蓋が揺れ、金糸で刺繍された花鳥がこちらを見下ろしている。豪奢すぎる。というかここはどこ。
「……あの、病院じゃないですよね?」
「びょう……いん? 百合様、まだご気分が優れませんの? ここは後宮の“青藍院”、百合様のお部屋にございます」
(いやいや、ちょっと待って)
意識がはっきりすると同時に、胸の奥で冷たいものがざわめいた。私は確かに、夜勤明けの帰り道で倒れて……。
(まさかとは思うけど──転生?)
状況を説明されるよりも早く、頭に“前の百合の記憶”が流れ込んできた。
──結城百合。後宮に仕える薬師の娘。皇子の婚約者候補として育てられたが、間もなく婚約破棄され、さらに“毒の調合に関わった”と疑われ失脚する運命。
要するに、物語的には“負けヒロインのテンプレコース”である。
(ちょっと、嘘でしょ……!?)
私は思わず頭を抱えた。いや、この世界に毒物管理法も薬機法もないのはわかる。でも、冤罪で人生終了とか、さすがに酷すぎる。
「百合様……その、やはり無理をなさらぬほうが……」
「だ、大丈夫。ありがとう。けど少し休めば平気だから」
そう答えながら、私はひとつだけ確信していた。
(この運命、絶対に書き換えてやる)
体を起こして少し歩いた頃、院の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「青藍院に薬師はおらぬか! 皇子殿下の側近が倒れられた!」
声を張り上げていたのは、武官と思しき青年だった。
「症状は!?」私は条件反射で叫んでいた。
青年は驚いたように振り返った。「あ、貴女は……?」
「ここの薬師です。状況を説明してください」
本当は“薬師の娘”だが、今それを説明する時間はない。
「息が浅く、瞳孔がわずかに縮小。手足が痙攣して……毒の可能性が高いと!」
(瞳孔縮小、痙攣……副交感神経の異常興奮? ムスカリン様症状……ってことは──)
「現場はどこですか?」
「西苑の亭……急ぎましょう!」
私は走った。足はまだ震えていたけれど、それでも前へ進んだ。
これが“最初の患者”。
そして、負けヒロインとして終わるはずだった私の、新しい第一歩なのだ。
到着すると、湖畔の小さな東屋の床に、一人の青年が横たわっていた。蒼白い顔。荒い呼吸。口元には少量の泡沫。
(やっぱり……これはコリンエステラーゼ阻害剤系の症状に似てる)
もちろん、この世界に“農薬中毒”なんて概念はない。でも同じような作用を持つ毒草は存在する。
「すぐ水を。あと、炭化した木の灰か吸着性のある土を持ってきて!」
「な、何を……!?」
「毒を吸着させます! いいから急いで!」
私の声に押されて、周囲の者たちは動き出した。
私は青年の意識を確かめつつ、脈拍を測る。手首に触れると、ひどく速い。体温はやや低い。
(急性中毒でこんなに早く……? これは自然毒だけじゃない。誰かが“混ぜている”)
手を汚しながら、私は口元に残っていた茶を指ですくう。舐めはしない。匂いだけ確認する。
(甘い……人工的な甘味。これ、薬草茶にこんなの入れる?)
やがて水と灰が届き、私は応急処置を施す。武官たちは息を呑み、女官たちは祈るような目で見守っていた。
「──あとは数時間以内に解毒薬を調合する必要があります。材料を集めるのを手伝ってください」
「そ、そんな……解毒薬など存在するのか!?」
「この症状に効く薬は作れます。時間との勝負ですが」
その時。
「面白いことを言うな、薬師殿」
振り向くと、そこには黒衣をまとった青年が立っていた。静かな眼差しだが、その奥は鋭い。
彼を見た瞬間、胸がざわつく。
(この人……“百合が本来、婚約破棄されるはずだった相手の皇子”!?)
青年──蒼緋皇子は、倒れた側近を一瞥し、私の手元に視線を落とした。
「毒の種類を即座に判断した上で、応急処置まで行うとは。見事だ。名を聞こう」
「……結城百合と申します」
「百合、と」
彼はわずかに目を細めた。
「本来、そなたは私の婚約者候補の一人だったな。だが──」
その先の言葉を言い切る前に、私は遮った。
「申し訳ありません、殿下。婚約の件は今はどうでもよいことです。それより、治療を急ぐべき患者がここにいます」
蒼緋は瞬きもせず、私を見つめた。そしてわずかに口元が緩む。
「……よかろう。そなたに任せる」
その言葉が、私の決意をより強くした。
(負けヒロイン? そんな運命、絶対に受け入れない)
私は青藍院へ走り出した。
この世界で初めて、誰かの命を救うために。
──そして、私自身の物語を書き換えるために。




