9話 魅惑の表情
出会ってから初めて見る、ライナスの艶っぽい表情。エステルの歳上としての余裕は何処へやら、彼のその表情に心を奪われてしまう。
(だ……駄目よ、わたくし元々政略結婚の道具としてここにいるというのに! こんな……こんな……!)
なんとか平常心を保とうとするが、ライナスの指先がエステルの頬から耳にかけてを撫でるのだ。それだけでも胸が跳ね、どくどくと自分の心臓の音が耳に届いてしまう。
「で……殿下だけずるいですよっ! わたくしだって!」
眉を吊り上げたエステルは、爪先立ちになりながらもライナスの尖った耳の付け根を揉み回す。真っ黒でもふもふな耳は触れるとほんのりと温かく、心地よい。
『みゃあ──あ……だめぇっ!』
「っ!?」
今度はライナスが頬を染める番のようだ。艶っぽい声を上げながら後退する彼の表情を目の当たりにしたエステルは、自分の中で何かが弾け、扉が開く音が聞こえたような気がした。
『うにぃ──だめだ……急にっ……耳、付け根はだめ……』
「ご……ごめんなさいっ! まさかこんなことになるなんて……」
『みゃん──エステルの、いじわる……!』
真面目な話をしていたはずだったというのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
瞳を潤ませたライナスに見つめられ、エステルは動けなくなった。
「あのぉ、お嬢様……一体何が……」
堪らずベルナールが口を挟む。彼にしては珍しく、戸惑いの色の混じった声だ。
「ごめんなさい……! ちょっと色々あってこうなってしまったの……!」
「ちょっと色々くらいで殿下がそんな表情になっちゃうんですか……」──『お嬢様はすごいなあ! もう殿下の心を掴んでいる!』
「ちょっと! ベルナールったら!」
居たたまれなくなり、エステルはベルナールに背を向ける。振り返ったその先には赤面したライナスの姿。キュッと寄せられた眉に、じっとりと潤んだ瞳。顔を手で扇ぎながら首元のボタンを緩める姿に、エステルはひどく動揺してしまう。
(こ……れ……は……)
更に後退した先の柱に背中から衝突し、エステルはずるずると腰を落とした。
「お嬢様!」
『にゃにゃっ!──エステルっ!』
「大丈夫! 大丈夫だから!」
これ以上ライナスとの距離が縮まれば、心がおかしくなってしまいそうだった。ゆっくりと立ち上がったエステルは、出入口の扉に向かってよろよろと歩き出す。
「殿下、今日のところは一先ず失礼してもよろしいでしょうか……」
最早ライナスの顔を見ることさえできない。エステルは視線をよそに投げながら、ライナスに向かって頭を下げた。
『にゃ?』
「と、とりあえずのお話は終わりましたよね? 明日も早いでしょうからわたくしはこれで……」
『にゃあ!』
扉を開くと、外で控えていたアルフと目が合った。優しげな下がり眉が、不思議そうに寄せられる。
『にゃにゃ!』
「……!?」
ぐい、と後ろから掴まれるエステルの腕の先に繋がっていたのは、ライナスの大きな手だった。部屋の中に引き戻され、ぱたんと扉が閉まる。
「なっ、何事でしょうか……?」
『にゃにゃ──エステル、今夜だけでいい、一緒に寝てくれないか?』
「……ええと」
婚前の男女が一緒に寝ることは、エステルの生まれ育った国ではよくあることではあった。そういった文化の根付いた国であったので、それほど抵抗はない。
ないがしかし、それが何を意味するかなど、閉じ込められ引きこもっていたエステルとて知らないわけではない。経験がないとはいえ、知識くらいは持ち合わせている。それを知って尚「はい」と言えるほどエステルの肝は据わっていなかった。
『うに──……怖いんだ』
「殿下……」
『うににぃ──一人だと、悪い方へばかり考えてしまうんだ……傍にいてくれないか? ……駄目?』
またこの目だ。そんな風に見つめられてしまえば、断ることなど出来そうにない。
「何もしないと約束して下さるのでしたら構いません」
『……みゃおん?──……本当に?』
「約束を破るのでしたら、また耳に触れますよ?」
『うにゃぁぁ!──それは駄目だ!』
「あっ!」
ふわりと抱きしめられ、エステルは目を白黒させた。ライナスの胸元に顔が沈み、嗅いだこともない男の香りに頭がぐらつき始めた。
『うにゃあ、にゃあ?』
『にゃあん?』
アルフとライナスの声だ。エステルは身を捩って二人の顔を捉えるが、ベルナールの姿が見当たらない。
『にゃん──殿下、エステル様。お楽しみのところ申し訳ありません。こちら、明日からの予定ですのでご覧になっておいてください。王太子妃の件、私の方から宰相に伝えておきます。貴族院にすぐに話がいくよう言っておきますので』
近寄ってきたアルフが差し出す書類の束を、ライナスが片手で受け取る。勿論反対側の腕はしっかりとエステルを抱き寄せたままだ。
『にゃん──殿下、晩餐は如何なさいますか?』
『にゃぉ──いい。気分じゃない』
『にゃにゃ──エステル様は如何なさいますか?』
「わたくしもとても……食べれない気がします」
空腹は感じるが、色々と起こりすぎたせいかどうも食欲がない。おまけにこんな状態のライナスを置いて一人で食事をとることは憚られる。
『にゃっ──承知しました。ではごゆっくり』
「ちょ……」
部屋の隅で縮こまっていたベルナールを引き連れて、アルフが部屋から出て行った。
「さ、殿下。書類を見ましょう!」
『うにゃあ……』
ライナスの腕に力が籠もる。どうやらすぐに解放してくれる気はないようだ。エステルはしばしライナスに身を預け、人肌の心地良さに頬を緩ませた。
(誰かにこんな風に……抱きしめられた記憶なんて、殆どないもの)
それはうんと幼い頃の記憶。呪いにかかる前は、父も母もエステルのことを抱きしめてくれた。エステルも、幼い弟のことを抱きしめていたように思う。
久しぶりに触れる人肌の温もりは、エステルの思考を鈍らせ、快楽の淵へと導く。
『にゃにゃ?『』
エステルはハッとして顔を上げる。一瞬、意識が飛んでいたように思えた。もしかして眠ってしまっていたのだろうか。
「申し訳ありません……!」
『うにゃにゃん──すまなかった。具合も悪いのに無理ばかり。こちらへ座って?』
腕を引かれ、ベッドへと腰掛ける。ランプをつけて、二人揃って書類に目を落とす。
『にゃにゃ?──エステル?』
「はい?」
『にゃにゃみゃぁ──疲れているなら無理はしないでほしい。僕がしっかり目を通しておくから』
「それでは駄目なのです。わたくし、お荷物通事として行くつもりなんてありませんもの」
エステルは食い入るように書類に目を落とす。訪れる町、特産品、それに抱えている問題。頭の中の引き出しに全てを押し込んだ時には、間もなく日付が変わろうかという時間になっていた。
(流石にそろそろ……)
眠い目を擦ると、体がふらふらと横に揺れる。抱きしめてくれたライナスの腕の中で、エステルは意識を手放した。
『おやすみ、エステル』
ライナスはエステルの額の髪を払う。唇を落としたくなる衝動を堪え、その体をベッドへと横たえた。
『何もしない……何も……しかし、可愛すぎる』
心の中で念じながら、ライナスはエステルの体に腕を回す。抱きしめたまま眠りに落ち、翌朝はエステルの悲鳴が目覚まし代わりとなることを、今はまだ知らないのであった。




