8話 エステルの作戦
落ち着きを取り戻したのか、ライナスは執務椅子に腰を下ろす。
ベッドに横になることを拒み続けたエステルには、長椅子に座るよう声をかけた。
「殿下、わたくしの体調よりも、殿下は大丈夫なのですか?」
『うにゃ──大丈夫だ。それに休んでいる暇などない』
先程までの怯弱な姿を隠してしまったのは流石の一言に尽きる。ライナスの気持ちの切り替えの早いことに感心してしまう。
(目が覚めてくれたのは嬉しいけれど……やはり叩いてしまったのはやりすぎだったわよね……)
ライナスが不思議そうに見つめてくるので、何でもないと頭を横に振った。
『にゃにゃ──エステル、父は元に戻ると思う?』
「どうでしょうか……戻らない可能性もあると考えて動かれたほうが良いかと思います」
行動もまるで獣のようだった。人の文字も書けなくなり、人の言葉も失った者がどうすれば元の姿に戻ることができるのか。容易ではないように思えて、エステルは顔を曇らせた。
『……うにゃ──……少し、この国の法律の話をしても?』
「はい」
『にゃ──これから、父上が元に戻らなかった最悪の場合の話をする』
「……!」
ハルヴェルゲン王国の法では、国王に万が一のことがあれば王妃が国政を引き継ぎ、担う。拒否も可能だが、その場合は王太子が引き継ぐことになっている。
その王太子にもしものことがあればその妻が──と、順々に引き継ぐ仕組みらしい。
『にゃん──しかし問題は、私に妻がいないということだ。この状況で私に何かあれば、シャーロットに政権がいく。どう考えても無理だろうに……』
「シャーロット様に?」
双子の姉弟の姉シャーロット。齢七つの幼子に何が出来るのか。
『勿論、宰相達が支えるだろう。宰相は信頼できる男だが、貴族院にはそうでない輩もいるのだ……政権を横取りしようとする者が出てきても不思議ではない。現に心当たりはいるのだ』
声に出さなかったのは、万が一にでも情報が漏れてしまわないようにという配慮か。唇の前で人さし指を立てるライナスは真剣な眼差しであった。
(この表情は反則だと思うの……!)
大事な話をしているというのに。ころころと変わるライナスの表情や仕草に、エステルは振り回されっぱなしだ。
頭を横に振って気持ちを切り替える。
先程会った宰相は高齢であった。彼がどこまでシャーロットを支えられるかなど未知であるし、猫化が進行する可能性もゼロではない。それに貴族院の者たちの動きも気になってしまう。
どうするのがこの国にとっての最善なのか。エステルはこめかみに中指を押し当てる。
──勿論、半猫化が解ければそれが一番である。しかし闇色の魔女がそう簡単に呪いを解くとは限らないし、そもそも彼女がどこにいるのかを突き止めなければ、呪いの解除は現実的ではない。
(では魔女を探す?)
手がかりもないまま闇雲に魔女を探すことは最善ではないだろう。そうこうしている間にも猫化が進んでしまう可能性もある。
──大切なことは今、国民達の不安を増幅させないことだ。その上で「大丈夫だ」と安心してもらうこと。
(……それならば)
エステルは最善の策を頭の中で導き出すが、自分の口からそれを言葉にする決意はまだ出来なかった。この国に嫁いで、呪いの力を道具として使われるのだろうという覚悟でやって来たのだ。それがまさか、自分が政権を握る立場になるかもしれないとなれば話は別。覚悟が出来ないのは勿論のこと、周りがそれを認めるかどうか怪しいところだ。
(行動が早すぎれば、この国を乗っ取ろうとしている、だなんて噂が流れる可能性だってあるわ……意図的に流される可能性もあるかも)
そうなれば敵対勢力の思うつぼだ。国民達に認められ、且つエステルという人物がどういう者なのか、時間をかけて知ってもらう必要があるだろう。
しかし猫化に至るまでの時間はどのくらい残されているかわからない。
「殿下、考えがあるのですがよろしいですか?」
『うにゃあ──ああ、なんだ』
エステルはグッと唇を噛み締めた後、口を開く。
「差し出がましいのですが、わたくしが殿下と婚約すればいいのですよね?」
『にゃ?──……え?』
「それが最善策であり、安全策……ですよね? わたくしは半猫化する心配はありません」
『うみゃ──そうだがしかし……父の口添えもなく貴族院が承諾するかどうか……』
この国を救うためとはいえ、やって来たばかりの他国の令嬢。おまけに齢三十手前。国王の公妾ならまだしも、いきなり王太子の妻になどと認められるだろうか。
「わたくしをこの国に呼ぶことが決まった時、貴族院でわたくしを王太子妃に、という話は出たのでしょうか?」
『にゃん──いや……私にはわからない』
「そうでしたか……貴族院が肯定的な意見ならば、幸先が良いとも思ったのですが」
『みゃお──しかし……君はいいのか? 私と婚約することになっても』
ライナスは嬉しさ半分、不安半分といった表情だ。
『悩んで拒んでいたのに何故急に……王太子妃になるなどと……』
自分からエステルを口説きにかかっていたライナスだったが、エステル自ら王太子妃にと言い出したせいもあり、戸惑っている様子も見られる。
「殿下。殿下が戸惑うお気持ちも理解できます。わたくし、どういった形であれ元より嫁ぐ覚悟でこの国に来たことを、すっかり忘れていました。ですので、問題は……ありません」
『うにゃあ?──本当に? 私を愛していなくても結婚できる?』
ライナスの首がこてん、と横に倒れる。部屋の照明を受けて、美しい髪がきらきらと輝いた。スッと持ち上がった形の良い唇に惹きつけられてしまう。
『にゃにゃ?──エステル?』
きらめく真っ青な双眸に吸い込まれてしまいそうで、エステルの胸がキュッと音を立てる。
(お互い、第一印象は最悪だったというのに……この短時間で惹かれているだなんて知られてしまえば、尻の軽い女だと思われてしまうかもしれないわ)
惹かれていると素直に言えればいいのに。あれこれ考えてしまうのは、長い間閉鎖的な屋敷に閉じ込められていた後遺症だ。
「……これから好きになれるよう……愛せるよう、努力致します」
これが今エステルの出せる、精一杯の言葉だった。
『うみゃぁぁっ!?──本当っ!?』
ライナスが勢いよく立ち上がるので、エステルの肩はビクリと跳ね上がる。そこに大きな手が伸びてきて、剥き出しのエステルの肩を掴む。
「なっ……殿下っ!」
『にゃにゃんにゃ──愛してもらえるよう、私も努力しなければな!』
「ど、努力って……それはわたくしが……!」
『うにうにぃ──愛してもらえるよう努力すると言っただろう? それに、エステルは押しに弱いと見た』
ライナスの長い指がエステルの髪を掬う。その毛先に唇を押し当てると、途端にエステルの顔が真っ赤に染まった。
『にゃぁ──ほら、弱い』
「なっなっなっ……!」
『みゃあん──僕もエステルに愛されるよう、これから毎日努力する』
「……僕?」
頬を染めたまま、エステルはライナスを見上げる。あまりにも近距離で生きた心地がしないが、どうしても気になることがあったのだ。
「殿下、お訊きしたいのですが……先程、僕と仰いました……?」
『みゃうん──公用時は私だ。それ以外は僕。変かな?』
「いえ……いいと思います」
『うにゃあん?──良いと思う?』
不思議と喜ぶライナスの顔を見て、気まずくなり距離を取ろうとするが、彼はエステルを離してくれる気はないようだ。
「え、ええ……まあ」
『にゃっ──それは、私のことを好きだということかな?』
ライナスの口元がいやらしく歪む。妖艶なその表情に、エステルの目はこれでもかというほど見開かれた。




