6話 呪いの進行
侍女カミラによる王宮内案内は二時間にも及んだ。普段エステルが使用する部屋、晩餐の間、それに踏み入ってはいけない棟。
カミラと別れた後、エステルはベルナールを伴い、ライナスの執務室へと向かっていた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「ええ、なんとか」
思えば、この国において人の言葉を話すのはエステルとベルナールだけ。おまけに半猫と化した人々の言葉を聞き取れるのはエステルだけなのだ。
ということは、ベルナールがまともに会話を出来るのはエステルだけということになる。今まで殆ど放ったらかしだったことに気が付き、エステルはベルナールに謝罪した。
「そんなこと! お嬢様が謝ることではありません!」──『半猫さんたちとは、意思疎通ができるし大丈夫です』
「意思の疎通が出来るの?」
「はい!」──『僕の美しさは万国共通だから!』
「……そう」
ベルナールの言葉がトドメとなり、すっかり疲れ切ったエステルは、ライナスへ挨拶を済ませた後に与えられた自室に引っ込もうと決めた。先程の執務室の扉の前には赤毛の騎士──アルフが、腰の後ろで腕を組んで佇んでいた。
「アルフ〜!」
『にゃおん──また来たのか』
アルフはラベンダー色の瞳を細め、呆れたようにベルナールを睨んだ。
「ライナス殿下にお会いしたいのだけど、まだいらっしゃる?」
『にゃ──ああ、いらっしゃる。エステル様も、さ』
「ありがとうアルフ〜」
驚いたことに、ベルナールは言葉が通じずとも上手い具合にコミュニケーションをとっていた。エステルは目を丸くしたまま、ベルナールに称賛の言葉を向けた。
アルフが扉をノックした後、中から「にゃ」と一声返事が返ってきた──ライナスだ。少しやりとりがあった後、アルフが扉を開いてくれるので、エステルとベルナールは室内へと踏み込んだ。
「殿下、失礼します」
『みゃーん?──どうした?』
「一旦部屋に下がりますので、ご挨拶を」
『みゃん──そうか……ちょっといいか? 頼みがある』
ライナスは未だ執務に励んでいた。執務机の上の山のようだった書類はかなり小さくなっている。それと引き換えに、ライナスの顔には疲れの色が見えた。
「何でしょうか?」
ライナスの横に立つと、無言で見つめられる。青い瞳は真っすぐにエステルを見つめていて。
『うん……エステルがかわいい。好きだ』
「はい!?」
『かわいい……いや、美しいのか? どちらにしても好きだ』
「で……殿下!」
『にゃ──あ……すまない。心を読んだのだな?』
正面からの賛辞に、エステルの頬は熱を持つ。称賛の言葉も、好意を向けられることも、慣れていないのだ。いい歳をして恥ずかしいという感情も相まって、エステルの顔も耳も果実のように真っ赤に染まった。
『にゃおん──君の心を私に向けねばならないのだから、積極的な思考になるのは当然のことだろう?』
「わたくしのどこにそんな価値が?」
『にゃおん──君は謙遜しすぎだ』
「謙遜くらいしますよ。しないほうがおかしいでしょう?」
若いとはいえない歳だ。子も産めるかどうかわからない。エステルが持っているものは、母譲りの美しい髪と、月の如く輝く瞳だけ。それも、今より若かった頃に比べて年々くすみを増していて、美しいとはいえない代物だ。
『にゃおん──君は美しい。外見だけではない、内面もだ』
「内面……?」
『みゃみゃ──幼い頃、私と遊んでくれたことを覚えている?』
「ええ……まあ」
エステルは呪いを受けた時のことを思い出す。あの時出会った幼子が、まさか王太子だとは思いもよらなかったが。
『にゃにゃん──あの頃の私は、家庭教師との勉強漬けの日々にうんざりしていたんだ。気晴らしに抜け出した街の中で、君に出会った』
「そうでしたか……」
『みゃーん──心の温かい、優しい人だと。幼心ながらに、私は君に惹かれていた』
ライナスの手がエステルの髪に触れると、エステルは驚いて目を固く瞑った。
「で……殿下、お願いとは一体何なのですか?」
『うにゃ……』
「あ、えっと」
目を開くと、未だ見つめられたままだった。どうやら逃がしてもらえないらしい。
『うにゃあ──執務を頑張った褒美に、頭を撫でてくれないか?』
「頭っ!?」
『にゃお──頼む。……駄目?』
ライナスが首を傾けると、オパールのような髪がきらきらと輝く。まさかの反則技に、心臓が暴れ出した。男性の上目遣いを見るのも初めてのことであったし、頭に触れたことなどあるわけもない。
『にゃぁ──ねえ、エステル』
「う……わかりました!」
覚悟を決めたエステルは、そっと腕を伸ばす。指先が頭に──触れた。
エステルの手がライナスの頭に触れた途端、彼は心地よさそうに目を細めた。その表情に思わずどきりと胸が跳ねる。
『ああ……愛しい。もっと触れてほしい、触れたい』
「……あの」
『いっそのこと、今夜一緒に眠りたい』
「殿下っ!?」
『うみゃ──ああすまない、聞こえるんだったな』
この王太子、心の中でとんでもないことを考える。しかも心を読まれることに慣れてきたのか、先程見せた焦っている本心を隠して、おかしな思考を見せるのだ。年頃の男とはこれが普通なのかとエステルはベルナールに視線を移す。
『お嬢様ってば、赤くなっちゃって可愛いな〜』
何も知らないベルナールの心の、なんと能天気なことか。ライナスとは大違いだ。
やれやれと頭を横に振り、エステルはふと執務机の上の書類が目に止まった。どうやら道路整備に関する、予算の審議書類のようだ。一番下の空いた空間に、ライナスの意見が走り書いてあり、その下にサインが──……。
「……殿下」
『にゃーん?──なんだ?』
「あ……の……」
エステルの声が震えた。まさかそんなはずが、と信じられない事態が、書類の上で起きていた。
『みゃーんみゃん?──どうしたというのだ?』
「この文字は一体何なのですか……?」
『みゃ?──え?』
エステルが指差すのはライナスの走り書きの部分だ。
「ハルヴェルゲン王国は、ハルゲン語が公用語ですよね」
『うにゃー──そうだとも、詳しいな』
「わたくし、引きこもりだったので色々と語学は勉強していて、一応読み書きも……恐らくは会話も出来ると思うのです」
エステルの社会性は、呪いを受ける軟禁前に参加していた社交で身についたものだ。語学などに関する知識は、呪いを受けた軟禁後に身につけたものだった。それ故、多くの言語を使いこなすことができるのだが、そんな彼女でも見覚えのない文字が書類の上に書き綴られている。
『にゃーん──聡明な妻で私は鼻が高い』
「こ……これは何語ですか?」
妻になった覚えはないが、エステルにはライナスの言葉を受け流す余裕もなかった。
ライナスはエステルが指差す書類の文字に視線を移す。そこに書かれていたのは──否、先程自らが記入した文字は、流れるように美しい文字が特徴的なハルゲン語ではなかった。先日一度だけ目にした、渦を巻くような奇妙で不気味な文字の羅列に、背中がゾッと冷えた。
『にゃお──嘘だ、これは……』
「殿下……?」
口元を抑え、後退りしたライナスの体が書類棚に衝突する。弾みで散らばった書類には、同じ文字で署名されたものばかりだ。
『うにゃあ──……遂に来てしまったか』
「……え?」
『うにゃ──猫化の進行だ』
「それは一体……?」
『にゃにゃ──この国が半猫化して約半月。少しずつ本物の猫に近づいているという事例も上がってきている』
ライナスの父──国王はもう人の言葉を書けないのだとライナスは呟く。使用人の中にも、何人かそういった者たちが出てきているとのことだった。
『みゃん──こうなる前に、貿易相手諸国への書状は書いてもらったので、日程通りに外交にやって来るが……そのあと父は人の言葉を書けなくなり、私が執務を引き継いでいたのだ」
やけに執務量が多いと思ったらそういうことだったのか。床に落下した書類を確認するライナスは、途中から人の言葉を書けていない物をまとめて引っ張り出し、机の端に避けた。
『うにゃあ──なんということだ! 私がこうなってしまっては、一体どうすれば……』
ライナスが頭を抱え込んだ。先程エステルが撫でつけた美しい髪が、ぐしゃりと乱れる。ガタガタと震えるその姿に、エステルの顔も不安のせいか歪んでゆく。
(半猫化……響きは可愛らしいのに、とんでもなく恐ろしいわ)
少しずつ本物の猫に近づいてしまえば、最終的にこの国はどうなってしまうのか。世界屈指の貿易大国が機能不全となれば、その資源を奪い合うために戦争が起きてしまうかもしれない。
(そんなこと、絶対にあってはならないわ)
エステルは奥歯を噛み締め、震えるライナスの頭を抱き寄せた。
(わたくしも強くならないと……! この国のためにも、この方のためにも)
「大丈夫ですわ、殿下。わたくしが書きます」
『……みゅう』
「ご安心を。わたくし、体力と腕っぷしには自信がありますわ。殿下のお手伝いをさせてください」
『みゃん……』
腕の中で震えるライナスの心は見ることができないが、きっと不安でいっぱいのはず。エステルは腕に力を込め、思い切りライナスを抱きしめた。
「ご不安ですよね。大丈夫です、わたくしがおります。これでもわたくし、その辺の令嬢に比べれば出来ることも多いですの。いざとなれば剣を持って戦うこともできますのよ?」
『うにゃ──はは、心強いな』
「いいえ、弱いですよ。ここに来るまでは怖くて怖くて、人の顔を見ることも出来ませんでした。一緒に強くなりましょう、ね?」
やっとのことで顔を上げたライナスの眉はハの字に下がり、覇気は何処かへ行ってしまったようだ。
『にゃにゃ……──エステル……』
「殿下、お心が疲れたのでしょう……少しお休みになったほうがよろしいかと思います」
『うみゃあ……──そうだな……』
急に人の言葉を書けなくなり、不安に飲み込まれてしまったに違いない。王太子とはいえまだ二十と若く、このような経験など初めてとあっては、顔色を悪くしてしまうのも仕方がないことだ。
エステルとベルナールの肩に掴まったライナスは、ベッドへと足を向けた──その時。ドンドン、と激しく扉が叩かれた。
『うみゃん──大変ですライナス殿下!』
『にゃああ──何事だ』
勢いよく開かれた扉の向こうに控える男──あれは宰相だ。王の間で国王陛下の足元に控えていた初老の男は、尻尾をバタバタと振りながら息も切れ切れにその場に崩れ落ちた。
「にゃあん──陛下が……国王陛下がっ……!』




