10話 いざ王都の外へ
翌朝。馬車に揺られるライナスの頬は赤く腫れ上がっていた。氷嚢で冷やしながら窓の外を見つめる彼を見て、アルフがプッと吹き出した。
『にゃにゃ──エステル様と同じ馬車でなくて残念でしたね』
『うみゃぁ──お前が来なければ、同じ馬車に乗れたのにな』
ライナスの頬が不機嫌そうに膨れる。短く溜め息をつくと、恨めしそうにアルフを睨んだ。
『うんみゃぅ──馬鹿言わないで下さいよ。私は護衛ですよ?』
『みゃーにゃん──それならばあのベルなんとかと同じ馬車に乗ればよかっただろう? 僕はエステルと一緒がよかった』
『うみゃ──それでは護衛の意味がありません』
先頭を走るライナスの乗る馬車には、護衛騎士のアルフが同乗している。その後ろを走る馬車には、エステルとベルナールが。そのまた後ろには荷物を積んだ馬車が続く。
ライナスは出発の直前まで「エステルと同じ馬車がいい」とごねたが、護衛がしづらいとアルフに却下され、エステル本人からも「今日は無理」と断られてしまった。
『うにゃあにゃん──それにしても殿下、エステル様に執着しすぎなのでは?』
『にゃおん──そんなことない、普通だ』
『にゃ……──普通ですか……』
大きな手の中で、氷嚢がごろりと音を立てる。ライナスが思い出すのは、今朝目覚めた時のことであった。
エステルを抱きしめたまま眠りに落ちたライナスよりも先に、エステルは目を覚ましてしまった。まさかの状況に驚いたエステルは叫び声を上げ、ライナスの頬を平手で打ったのだ。
「湯浴みもせずに眠ってしまったのに……! 近寄らないで下さい!」
と、エステルは頬を真っ赤に染めて訴えた。匂いなど全く気にならなかったし、愛しい女の纏う香りならば、どんなものであれ大歓迎だったというのに。
おまけにエステルの叫び声を聞いて飛んできたカミラに、朝から雷を落とされてしまう始末。何もしていないと何度説明をしても、「婚約もしていない男女が!」とカミラはずっとぷりぷりと頬を膨らませていた。
『にゃっ──……プッ』
『うにゃあ──何がおかしい』
『にゃおにゃ──だって殿下……本当に何もしていないのでしょう?』
『うにゃ──ああ』
あんなにも怒っているカミラを見たのは何年ぶりだっただろうか。子供の時にイタズラをして叱られた記憶が蘇り、ライナスは顔を顰めた。
『にゃおにゃ?──……何でしょうか?』
『うにゃんにゃ?──止まったのか?』
馬車が合図もなくゆっくりと止まる。剣を手にしたアルフはライナスに決して馬車から降りぬよう釘を刺すと、馬車を降りて行く。
同じく後ろから剣を手にしたベルナールと合流したアルフは、彼の後ろに剣を携えたエステルがいることに驚き、眉を跳ね上げた。
◇
目的地の地であるアルトという町までは、馬車でおよそ五時間だと聞いていた。にも関わらず、馬車は予告もなく二時間も経たぬうちに道の真ん中で止まってしまった。
「何事かしら……」
「見て参ります」
「待って、わたくしも行くわ」
馬車の外はにゃあにゃあと騒がしい。ベルナール一人に任せても、言葉が通じないのであれば自分が行くしかないと、エステルは剣を手に取った。
(大丈夫……もう半猫さんたちの顔を見ることには慣れてきたもの……怖くない、大丈夫よ……!)
エステルはごくりと唾を飲み干し、大きく息を吐いた。
「えぇ……?」──お嬢様は言い出したら止まらないからなあ』
「安易に剣を抜いては駄目よ」
馬車を降りた二人が目撃したのは、道を塞ぐ半猫集団だった。野盗の類いではなく、近隣の町の住民のようだ。
道を塞ぐ彼らはにゃあにゃあと何やら必死だ。ボンネットを深く被ったエステルは、多くの者が視界に入らぬよう気をつけながら、目にとまった中年の半猫の顔を見た。
『にゃあ、うにゃん!──助けて、町が大変なんだ!』
「え……」
『みゃんにゃ──王家の馬車だ、きっと助けてくれる!』
隣の半猫も、そのまた隣も、同じような思考であった。エステルはゆっくりと彼らに歩み寄り、大きく息を吸い込むと口を開く。
「わたくしはエステルと申します。ライナス王太子殿下の妻となるため、そしてこの国の通事となるために参りました。教えてください。何が起こっているのです?」
半猫たちの声がぴたりと止んだ。顔を見合わせた彼らは、驚きながらもエステルに視線を投げる。
その中から一人の半猫が一歩こちらに近づいて口を開いた。
『うにゃん──恐れながらエステル様。我らが町ミュラーは現在大混乱が起きております』
「大混乱?」
『みゃあっ──驚いた。我らの言葉がわかるので?』
「少し違いますが、言葉は通じます」
驚き声を上げる者、喜び飛び跳ねる者。それらが落ち着くのを待って、エステルは再び口を開いた。
「大混乱とは一体?」
『にゃにゃう──我らが町は大きな港町なのですが……今月に入って漁獲量が大幅に増え、言葉も通じぬ相手にそれを伝えることができずにおります』
「それについては明後日、ミュラーで話し合うよう手配をしていたはずですが」
エステルは頭の中の予定帳を開く。五時間かけて向かう町アルトでの会合の後、少しずつ王都に戻りながら町を視察し、明後日ミュラーで諸外国と会合をする予定である。
にも関わらず、この通せんぼは頂けない。困っているのはどの町も同じなのだから。
『にゃあん──それよりも大変なことが起きてしまったのです』
「大変なこと?」
『にゃ──ええ。大量の魚を目にした住民達が、まるで本物の猫のように駆け回り、魚を求めて暴れ出してしまったのです』
『にゃにゃぅ──怪我人も多く、どうしたものかと……』
唇を噛み締めたエステルは、ライナスの乗る馬車に駆け寄ると窓を叩く。
驚いたライナスは、何事かとエステルに身を寄せた。それと同時に彼女が剣を手にしている姿に、口をあんぐりと開く。
「殿下、お伝えしたいことが」
『にゃん──私はあとでその剣について、聞いてもいいかな』
「勿論ですとも。それよりも、急ぎ予定の変更をせねばなりません」
エステルの伝えた現状に、ライナスの顔が曇る。今にも震えだしてしまいそうな手を握り、エステルは唇を押し当てた。
『にゃにゃっ!?──エステルッ!?』
「大丈夫です、傍におります。ですから、震えないで」
『にゃん──けれど……』
「大丈夫ですわ」
エステルの手にぐっと力が籠もる。深く頷いたライナスは、アルフを呼び寄せて予定の変更を伝えた。
(強くならなければ……殿下のためにも、自分自身のためにも)
この国ではエステルの顔を見て怖がる者もいない。それに、人の顔を見ることにも少しずつ慣れてきた。
(大丈夫、きっと大丈夫よ)
唇を噛み締めて、エステルはライナスの顔を見上げた。
次の街への到着が遅れるという旨を伝えるために、荷物を積んだ馬車が先行して出発することとなった。不安げに馬車を見送るライナスの手を、エステルは握りしめて離さなかった。




