流浪の千手観音 小結 若葉山 貞雄
若葉山は相撲解説者泣かせの戦後では屈指の手取り力士である。優勝や白星を重ねるだけが力士の評価では
なく、プロであるからには土俵を盛り上げることも彼らの宿命である。若葉山は土俵の脇役に過ぎなかったかもしれないが、名脇役がいてこそ主役も輝くのだ。勝ち負けは関係なく、大勢の観客からどんな相撲を取るのか毎回心待ちにされるなんて、力士冥利に尽きるのではないだろうか。
勝った決まり手四十五種は安美錦に次ぐ史上二位、負けた決まり手五十種は史上一位という異色の力士である。
勝つにせよ負けるにせよこれだけ決まり手のバリエーションが豊富ということは、若葉山の取り組みは、勝敗の興味もさることながら、滅多にお目にかかれないような決まり手を目の当たりに出来るという点においても、立ち合いから一瞬たりとも目の離せない興味津々の一番だった。
一般に「業師」と呼ばれる力士は、注文相撲や足技を得意とする者が多いが、若葉山は手長猿のように長い腕を生かした手技で名を売った。中でも足取りの巧さは天下一品で、潜り込んで前褌に食い下がるくらいなら足を取りにいった。
足取りで挙げた二十三もの勝ち星は空前絶後の記録だが、二十九年三月場所初日、大関栃錦を破った一番は、通常の足取りとは違う伝説の大技を披露したことで知られる。
通常足を取られた力士は、その場で転倒するかバランスを崩した状態で押し込まれて土俵を割るものだが、無類の足腰を誇る栃錦は片足立ちのまま身体を密着させて踏ん張ったため、若葉山は取った足を胸で抱え込みながら、体を預けるようにして浴びせ倒したのである。足を取っただけでなく、抱きかかえるようにして体重をかける動作が枕を抱くように見えることから、この形での決まり手は古来「波枕」という何とも風流な呼び名があった。
昭和になってからは、笠置山らが中心となって決まり手を整理したため、すでにこの呼称は使われておらず、決まり手は「足取り」と発表されたが、この一番を見ていた解説者や評論家の中で長老的存在の彦山光三だけが、この技こそが「波枕」である、と指摘した。
せっかくの彦山の指摘も、「明治時代の呼称であり、素人には難しすぎる」という協会側の判断により以後は全く用いられなくなったが、若葉山の足取りのうち七番は波枕に該当すると言われており(非公式ながら史上最多記録である)、ただの偶然と片付けるわけにはゆかない。
足取りに次いで得意としたのが、二代目“相撲の神様”幡瀬川ばりの小股掬いと渡し込みである。この二つの技も現在ではかなり珍しい部類だが、昭和三十年代くらいまでは一場所に数度は見られたものだ。ところが若葉山は、これらの変形型でさらに決まり手としての頻度が低い外小股や大股、大渡しまで披露しているのだから恐れ入る。
外小股は小股掬いの逆で太股を外側から払い、大股は自分から遠い方の足を外側から手で掬う。また大渡しは足を大外刈りのように掛けながら渡し込む大技で、幡瀬川でさえこれらの技で勝ったためしがない。どれを取っても今日では十年に一度見られるかどうかという奇手であり、手先の器用さにかけては、角界で並ぶ者はいなかった。
その一方で負けた時の決まり手も珍手、奇手のオンパレードなのは、正攻法で相撲を取ることが少なく、中途半端な体勢から出した自身の技が切り返されることが多かったことのよるものだろう。
これだけ技の種類が豊富だと、決まり手のアナウンスをする実況アナウンサーも相当気を遣わなくてはならず、さぞかしアナウンサー泣かせかと思いきや、かえってこれが名物アナを世に出すきっかけとなったことがある。
昭和三十四年春場所から四十年以上も続いた長寿番組「大相撲ダイジェスト」を放映開始時から担当し、後に「アップダウンクイズ」の名司会者としてお茶の間にその名を広く知られた小池清(毎日放送)がその人で、彼の人生を変える出来事が起こったのは、採用が内定した大阪毎日放送アナウンス部研修の一貫として二十九年初場所の実況生中継を担当させられていた時のことである。
隣にスポーツ実況の大御所、松内則三が講師として付いているとはいうものの、大して相撲に詳しいわけでもない当時早大四年の小池は、初日から毎日のように小言を言われ、内定取り消しの不安に怯える日々を過ごしていたという。
五日目の若葉山-若瀬川戦はともに手取り力士ということで、どんな技が飛び出してくるか見当もつかない。そこで小池は一夜漬けで秀ノ山(元笠置山)が著した『相撲の取り方』を熟読してきたところ、何と若葉山は小池の脳裏に図解説明まではっきり刻み込まれていた奇手、外無双で若瀬川を横転させたのである。
勝負が決まった瞬間、「外無双で若葉山の勝ち!」と叫んだ小池の耳に間髪入れずに飛び込んできたのは、「今のがよくわかったな、君!」という松内講師の驚きの声だった。
当時でも年に何度かしか拝見できない奇手をズバリと言い当てたことで松内講師をうならせた小池は、事実この「外無双」が決め手となって大相撲の実況担当に抜擢されたのだ。
若葉山のおかげでスポーツアナとして名を成すことができたといっても過言ではない小池は、記念すべき二十九年初場所の番付をずっと襖に張っていたそうだ。
若葉山こと本名岩平貞雄の出身地は中華民国の北京である。
全盛時代ですら一七三センチ九十四キロと小柄だったため、北京巡業中の安芸ノ海一行からは出羽海部屋入門を断られたが、後年の活躍を見た元安芸ノ海の藤島親方はこの時入門させなかったことを悔しがっていた。また、同期でもある出羽海部屋最大のホープ杉村(後の千代の山)との初対戦では、見事な足取りで未来の横綱を土俵に這わせている。
幼少時に両親を亡くしていたため、北京では育ての親が経営する呉服店で働いていたが、当時日本の植民地だった朝鮮の方が大相撲の巡業が多いということもあって、京城の本店に出向したところ、タイミングよく昭和十六年の秋に同地を巡業で訪れた双葉山から入門を許可された。双葉山が立浪部屋から独立して双葉山道場(後の時津風部屋)を興したばかりだったので、まだ門弟も少なく、査定も甘かったのだろう。
入門当初は朝鮮忠清南道燕岐郡出身、岩平炳也と紹介されていたが、戦後は福岡県八女村出身となり、昭和二十五年に結婚して夫人の実家の養子に入ったことで埼玉県大宮市出身、青山貞雄と改名した。八女は両親のどちらかの出身地だったのかもしれない。入幕するまで本名の岩平のまま相撲を取っていたが、これは若葉山が初めての例で、以後輪島までこのような力士は現われなかった。
創立当初の双葉山道場には、昭和以降最大の巨人力士である不動岩を筆頭に大型の力士が多かったため、入門したての頃は自身の将来に対して悲観的だったようだが、日本に全く身寄りのない彼には頼る当てもなく、相撲で一人前になるしかなかった。
そんな岩平少年のことを「ガンペイ、ガンペイ」とまるで肉親のように面倒を見てくれたのが師匠双葉山だった。「師匠のためなら死んでもいい」とまで思ったという若葉山は、道場一の練習量を自身に課した甲斐あって、入門から四年で十両に昇進すると、新十両でいきなり優勝(昭和二十二年六月場所)し、師匠双葉山をしのぐスピード入幕を果たしている(所要九場所)。
若い頃は足取りの頻度が少なく、引き技や土俵際に追い詰められたときの打棄りや切り返しといった捨て身の技に依存するやや消極的な相撲が目立っていた。それが三十歳を過ぎた頃から、攻撃型になり、立ち合いでの足取り、半身に組んでの小股掬いや下手捻りで相手を翻弄した。
技能派力士と謳われ、毎場所のように技能賞を狙っていたにもかかわらず、一度も受賞出来なかったのは角界の七不思議だった。本人は「いつも栃錦関に持っていかれる」と愚痴をこぼしていたが、四つ相撲ではなく中途半端な体勢からの奇手が多かったため、奇襲攻撃的な一面ばかりが強調され、本格的な業師という評価が得られなかったからなのかもしれない。
その代わりと言っては語弊があるかもしれないが、名古屋場所が本場所に昇格する前の準場所時代に、昭和二十七年、二十九年と二度の技能賞を獲得している。中でも殊勲賞も合わせて獲得した二十七年名古屋場所は十三勝二敗と絶好調で、巴戦となった優勝決定戦にまで駒を進めている。
初戦は奇襲の足取りで一月場所全勝優勝の横綱羽黒山を倒し、優勝目前と思われたが、十四枚も下の愛知山に不覚を取り万事休す。さすがにまぐれは続かず、二度目の対戦で羽黒山に敗れ、羽黒山が愛知山も一蹴したため大魚を逃している。
本場所での生涯唯一の三賞は二つの金星を挙げた昭和二十六年五月場所の殊勲賞だった。
前場所全勝で二場所連続優勝を飾り目下絶好調の照国と初日から激突した若葉山は、立ち合いと同時の蹴手繰りで体を泳がせておいてから、前褌を取られないよう左に廻りながら横綱を攻め立てた。
懐に潜り込まれた照国は得意の左外掛けから体を預けて押し倒そうとするが、やや踏み込みが浅く、左からの下手捻りで前のめりに土俵に倒れこんでしまった。
この番狂わせで勢いづいたか、四日目にも全勝の東冨士の猛攻で半身が土俵の外に浮いた状態から左足一本で回りこんでの逆転の突き落としを決めている。
不調の横綱相手であればまだしも、両名ともこの場所は終盤まで優勝争いの一角を占めるほど好調だっただけに(照国は若葉山戦以降十連勝している)、これらの勝利は偶然ではない。生涯対戦成績でも、若葉山は照国と二勝二敗、東冨士とも三勝三敗と互角に渡り合っているのだ。
前頭二枚目という上位陣と総当りする番付にもかかわらず、大関汐ノ海も足取りで仕留め、横綱大関戦三勝二敗と健闘し、場所後に小結に昇進した。
若葉山にとって嬉しかったのは、巡業中に稽古をつけてくれた東富士から「ガンペイさん、強くなったなあ。今日はまいったよ」と誉められたことだ。双葉山に可愛がられた東富士は、本場所で双葉山に恩返しできたことがよほど感慨深かったのだろう。胸を貸してやった双葉山の弟子が、自分から金星を奪えるまでに成長したことに対しても、心から祝福してくれたのだ。
三役はこの一場所だけで、以後は昭和三十四年十一月の九州場所まで平幕を上下していた。
非力であったため、千代の山や吉葉山のような突進力のある大型力士には歯が立たなかったが、三十路を越えた昭和二十八年頃から手技に磨きをかけたおかげで、長らく関取の座に留まることができた。
また、身体が柔らかく怪我をしないのが取り得で、二十二年六月の入幕から三十二年大阪春場所八日目まで四八四回連続出場というのは、当時の幕内連続出場最高記録だった。七日目に荒岩に打棄りで勝った際に、右脇腹を強打して肋骨にひびが入る重傷を負いながら、八日目の羽島山戦も強行出場したが、仕切りも満足にできなかったことで、自らけじめをつけた。
最大のライバルである鳴門海には十四勝八敗一分と大きく勝ち越しているが、勝った決まり手が
四十種類というこちらも稀代の相撲巧者だけに、勝敗に関係なく両者の取り組みは毎場所目の離せない熱戦となった。
長身の鳴門海は左差しから右前褌を取るのが速く、師匠春日野(元栃木山)からは、前さばきは栃錦より上、とまで評されながら軽量に泣き、首投げや外掛けを得意とする変則相撲に活路を見出していた。
昭和三十六年一月場所千秋楽は、共に十両に落ちていた両者が最後の土俵と決めて臨んだ一戦だ
けあって、年度屈指の名勝負の一つに数えられる。
目まぐるしい差し手争いが続き、鳴門海が得意の左を取った瞬間、体を寄せた若葉山が咄嗟に左足を掬い上げると、鳴門海は一回転して土俵に叩きつけられた。現役最後の一番を得意技の小股掬い(足取りの表記もある)で締めるところが憎い。とても三十八歳対三十六歳のロートル対決とは思えないほど攻防の技術を駆使したスピード感溢れる一番だった。
若葉山という四股名は、すでに引退していた千葉市若葉区出身の若葉山鐘(最高位関脇)から譲られたものだが、師匠の四股名とも二字被っているように、双葉山の弟子という意味も込められている。
先代若葉山も二代目と同じく関取を十五年も務めた長寿力士だった。体格は体重で十キロほど先代の方が重いだけだったが、取り口は正反対で、絶対に引かずに諸筈押し一点張りで十三場所も三役の座にあった。
土俵生活晩年には「納谷(後の大鵬)と富樫(後の柏戸)は将来競り合うよ」と両者の素質を早くから評価し、同じ時津風系の富樫にはよく稽古をつけていた。双葉山や羽黒山から鍛えられた若葉山に認められたことで、伊勢ノ海親方も自らスカウトしてきた富樫が将来の大物であることを確信したという。
引退後は年寄錣山を襲名し、定年まで相撲協会に残った。娘婿が力士で、その三人の息子も角界入りしたため、三代にわたる力士家系ということになる。
孫たちは、祖父である若葉山に憧れて力士になったそうだが、そのうちの一人若隆景は、令和三年七月場所に目標だった祖父の地位(小結)に昇進した。
スピード感溢れる取り口と技の切れ味は祖父譲りだが、軽量ながら強烈な筈押しで大型力士を真っ向勝負で仕留める力強さがあり、令和四年三月場所には新関脇で優勝という快挙を成し遂げている。その後、兄の若元春も関脇になったが、金星、三賞の経験がないまま関脇昇進というのは三賞制定以降初の珍記録である。ただし兄は大型力士で、取り口は若葉山鐘似の四つ相撲である。
若隆景は、祖父に近い資質の持ち主だけに、正攻法で大関を狙うより、千手観音のような千変万化の妙手で上位を食う相撲の方が、観客をときめかせてくれそうな気がする。