第一話 遠さと近さの境界線
俺――真菅蓮は、石見飛鳥の目が好きだ。
透き通っているのに、焦点だけは遠くに合っていて。
まるで、この世界そのものを見ていないみたいで──それが、妙に焼きついた。
石見さんとは同じゼミだが、話したことは数えるほどしかない。
たぶん、それは俺だけじゃない。ゼミの誰もが、どこか距離を置いていた。
高校時代に性別が変わった──そんな噂が、彼女にはついて回っていた。
“転性”。正式には性転位症候群と呼ばれている。
名前だけなら、ニュースやネットで何度も見たことがある。
けれど、それはいつも遠い世界の出来事だった。
週に一度、同じ教室で顔を合わせるくらいの相手。
だから、“そう”だと知ったとき、胸の奥に小さな戸惑いが滲んだ。
どう距離を詰めればいいのか分からず、ただ遠くから見ているだけだった。
同じ高校出身の学生が何人かいて、そこから噂が広まったらしい。
ゼミに入った頃には、誰も口には出さないけれど、皆が知っていることになっていた。
“転性”は、まだ分からないことが多い症状だ。
中には「肉体的な接触で感染する」なんて、笑えない冗談を真顔で言うやつもいる。
そんな根拠のない噂でも、一度広まれば、人と人のあいだに目に見えない壁を作ってしまう。
石見さんも、それを分かっているみたいだった。
だからこそ、いつも距離を測るような笑い方をしていた。
ただ一度だけ、迷ったような顔を見てしまったことがある。
その一瞬は、表情の奥に隠していた素顔を、ふいに覗いてしまったみたいで。
胸が詰まり、思わず視線を逸らした。
どう関わればいいのか。
手を伸ばすべきか、それとも引くべきか。
答えが出ないまま、同じゼミで顔を合わせる日々が続いた。
それでも、同じ場にいれば視線は交わる。
その延長に、その日のゼミ飲み会があった。
※
教授が席を立った途端、場の空気は輪郭を失ったように緩んでいった。
グラスを置く音、皿と皿が軽くぶつかる音。
遠くで上がる笑い声が、時おり途切れる。
学生だけのテーブルでは、つまみをつつく手も、会話も、ゆるく間延びしていた。
姿勢を伸ばしたとき、ふと視線を流すと、彼女がいた。
石見飛鳥。
談笑しながらも、どこか一歩引いた位置にいるように見えた。
グラスを口元に運んでも、ほとんど減っていない。
視線の先は、会話の相手よりも少しだけ遠くを見ているようだった。
その横顔が、ふいにこちらを向いた。
肩にかかる黒髪が、照明を受けて艶を帯び、わずかに揺れる。
澄んでいるのに、決して焦点を合わせないような目が、一瞬だけ俺を捉えた。
心臓が、ひとつ余計に打ったみたいだった。
慌ててグラスを覗き込み、視線を逃す。
それでも、会話が途切れるたび、視線は勝手に石見さんへと吸い寄せられる。
逸らそうとしても、目の端に焼き付いたまま離れてくれなかった。
時間が経つにつれ、席の顔ぶれが、いつのまにか少しずつ変わっていた。
誰かがトイレに立ち、別の誰かが隣のテーブルへ移る。
気づけば、隣にいた友人がトイレに立っていて、その席がぽっかり空いていた。
「……ここ、いい?」
声に、胸の奥がわずかに鳴った。
見上げた先、石見さんの澄んだ目が、すぐ目の前まで迫っていた。
長いまつげが瞬くたび、その影がかすかに揺れる。
──どうして、俺のところに。
その問いと同時に、心の奥が水面のように揺れはじめた。
「あ、うん。どうぞ」
胸の熱を悟られないように、わざと落ち着いた声を作る。
「ありがとう」
石見さんは軽く笑い、ためらいなく腰を下ろしながらタッチパネルを手に取った。
それから視線をこちらに戻し、首を少し傾ける。
「真菅くんも、何か飲む?」
そう聞かれて、自分のグラスが空だったことに気がつく。
「あ、じゃあ……ハイボールで」
「オッケー。私も同じにしよ」
口元をわずかに和らげて、注文を入れる。
タッチパネルに触れる細い指先。短く整えた爪の艶が、照明の下で淡く揺れた。
その小さな動きに、思わず目を奪われる。
「お酒、強いほう?」
なんとなく口にした。他愛もない会話。
けれど、この妙な緊張をほどくには、それくらいの温度がちょうどよかった。
「どうだろ、普段からそんなに飲まないからね」
「確かに。さっきから口はつけているのに、全然減ってなかったよね」
「……ふーん」
薄く笑ったその目が、何かを確かめるようにこちらを見ていた。
胸の奥が、すっと冷える。
今のって……ほとんど、ずっと見てましたって自白じゃないか。
自分で口にしたくせに、言いかけた言葉が、舌の奥で絡まって消えた。
「……なんだよ」
視線を外し、口元だけで言う。
照れ隠しのつもりで、わざと素っ気なく声を落とした。
「もしかして、私のことけっこう見てた?」
そう言いながらも、石見さんの声には、ほんのわずかな間があった。
見透かしているようでいて、どこか──確認するみたいな響きだった。
否定の言葉が、喉につかえて出てこなかった。
石見さんが、ふっと身を寄せてくる。
隣で体を少し傾けた拍子に、シャンプーの香りに微かにアルコールが混じった匂いが漂った。
視線が、俺の横顔をなぞるように落ちてくる。
鼓動が、耳の奥でやけにうるさい。
「顔、赤いね……やっぱり図星?」
言葉が胸の奥で固まって、声にならなかった。
否定すればするほど、余計に図星だと宣言するみたいで。
かといって黙っていれば、その沈黙を肯定と取られる。
「……そういう顔してる」
石見さんはそう言って、わずかに口角を上げた。
挑発というより、答えを待つみたいな笑み。
胸の内で熱が膨らんで、息が浅くなる。
ちょうどそのとき、ハイボールが運ばれてきた。
ジョッキがテーブルに軽く置かれる音が、妙に鮮明に響く。
グラスを持ち上げた指先に、ひんやりした冷たさが広がった。
「……とりあえず、乾杯しよっか」
口元に笑みを浮かべながら、石見さんが軽くグラスを差し出す。
その仕草につられて、胸の強ばりがゆるんでいく気がした。
「そうだね」
俺もグラスを持ち上げ、軽く合わせる。
カラン、と氷がかすかに鳴った。
口をつけたグラスの中から、炭酸の刺激が喉を撫でていく。
それだけで、少しだけ頭が冷える気がした。
「あー……やっぱりちょっと薄いね」
グラスを置きながら、石見さんが笑う。
「居酒屋のハイボールって、なんでこうなんだろ」
「安いし、回転早くするためじゃない?」
「だよね。……まあ、強かったら強かったで困るけど」
冗談めかした口調なのに、目の奥だけは笑っていないように見えた。
けれど次の瞬間、ふっと目元がやわらぐ。
「そういえば、真菅くんって何飲むのが一番好き?」
意外と普通の質問に、胸の奥を締めつけていた警戒が少しゆるんだ。
「レモンのチューハイかな」
「思った以上に普通だった」
口元だけじゃなく、肩まで軽く揺れるような笑い。
その声につられて、俺もつい口元が緩んだ。
さっきまでの張りつめた空気が、ほんの少し遠のいていく。
「ねえ、真菅くんって、普通そうに見えるのに……ちょっと変わってるよね」
石見さんは飲み口に軽く唇をつけながら、目だけはこちらを離さなかった。
返事を探す間に、氷が小さく音を立てる。
「そろそろ終電やばい人もいるよねー。いったんお開きにしよっか」
幹事の声が場に響く。
答え損ねたまま、テーブルのあちこちで「あー、そんな時間か」という声が上がった。
それぞれが上着や荷物を手に、ゆるやかに立ち上がっていく。
「……良かったら、また後でね」
石見さんは、俺にだけ聞こえるように、耳打ちを残して席を立った。
その声が消えてからも、頭の奥でいつまでも反響している気がした。
「また後でね」──ただそれだけの言葉なのに、
やけに意味を持ちすぎて聞こえるのは、きっと酔いのせいだ。
そのまま一次会は解散となり、店の外へと流れ出る。
夜風が思っていたより冷たくて、頬の火照りを一気にさらっていった。
それでも、残った熱だけは、なかなか消えてくれなかった。
誰かが「二次会どうする?」と口にして、数人がその場に残ったが、俺は自然とそこから外れていた。
行ってもいいし、帰ってもいい。
そんな曖昧な気分で立ち尽くしていたとき、近くで黒髪がふわりと揺れた。
反射的にそちらを向いた瞬間、声がかかる。
「ね、真菅くん」
名前を呼ばれ、視線が重なる。
柔らかく微笑んだその瞳に、胸の奥が一瞬だけ熱くなる。
華奢な体つきに、白いワンピースの上に淡い色のカーディガン。
手にはスマホと、小ぶりのショルダーバッグ。
ふんわりとしたシルエットは、どこからどう見ても女の子のそれだった。
──なのに、立ち姿のどこかに、かつて“男だった”影が残っている気がした。
背筋の伸ばし方、足の開き方、重心の置き方。
そういう、ごく些細な癖がふと滲むたびに、どう接していいのか分からなくなる。
目を逸らす理由を、無理やり探してしまう。
けれど、それでも目が離せなかった。
その違和感ごと、どこか惹かれている自分がいた。
髪が夜風に少しだけ揺れて、さっきまでの室内よりも、その目がはっきり見えた。
「ちょっとだけ、飲み直さない?」
あまりに自然で、冗談かと思った。
でも石見さんの声は穏やかで、どこか少しだけ本気っぽくもあって。
一瞬、意味を飲み込むまでに、ほんの一拍遅れた。
気づけば、もう首が縦に動いていた。
「……うん。いいよ」
自分でも、その即答に少し驚いた。
「じゃ、行こっか」
石見さんは唇の端をわずかに上げた。その笑みは、どこかいたずらっぽい。
並んで歩き出す。夜風の中、肩が少しだけ近づいた。
※
二軒目は、駅前の落ち着いたチェーンのバーだった。
照明は柔らかく、音楽も小さめで、外の喧騒が遠くに感じられる。
グラスの音と、二人の呼吸だけが静かに混じっていた。
「じゃ、改めて」
「うん。かんぱーい」
カランと氷が鳴って、二人だけの飲みが始まる。
さっきよりも静かで、さっきよりも少しだけ、距離が近い。
「……真菅くん、一軒目からずっとペース速くない?」
「え、そう?」
「うん。見てて気づいた」
そう言われて、思わずグラスを持つ手が止まる。
「……なんかさ、今日、富雄に言われたんだよ」
「富雄って、ゼミの?」
「うん。“お前ってほんと、自分のこと決められないよな”って」
「へえ」
「いや、まあ正論なんだけどさ。でも、今言う?っていうか」
「酔ってても根に持ってるんだ」
「……そういう言い方する?」
グラスを傾けて、もう一口。
「で、ちょっと飲みすぎた?」
「うん、ちょっとだけ。酔ってるのは、富雄のせいってことで」
「うん、それなら責任転嫁しても許す」
石見さんは、淡々とした調子で笑った。
その笑いが、グラスの中で溶けていく氷みたいに静かだった。
気づけば、視線を合わせるのも少しずつズレていく。
グラスの中身がやけにきらきらして見えて、頭の奥がじんわりと熱を帯びていた。
考えようとしたことが、すぐに霧の中に溶けていく。
それでも、目の前の石見さんだけは、やけに鮮明に見えていた。
「真菅くん、大丈夫? けっこう酔ってるみたいだよ」
声は穏やかで、からかうような響きはなかった。
揺れる意識の中で、その優しさだけがはっきりと届く。
「……大丈夫。まだ飲める」
自分で言いながら、ちょっとだけ舌がもつれる。
グラスを置く音が、思ったよりも大きく響いた。
グラスをテーブルに戻して、ふと、口に出した。
「……ていうかさ。さっき“一軒目からずっと”って言ったよね」
「うん?」
「……それってつまり、石見さんも俺のこと見てたってこと?」
ほんの冗談のつもりだった。
けれど、石見さんはあっさりと頷く。
「うん、見てたよ」
「え、マジで」
「マジで」
涼しい顔で即答されて、言葉が止まる。
その沈黙を楽しむように、石見さんは首をかしげた。
「で──真菅くんは? 私のこと、見てたの?」
澄んだ目が、まっすぐ俺を射抜いてくる。
その視線の中にいると、息をするたびに、酔いと一緒に理性が溶けていくみたいだった。
「俺も、石見さんのこと……見てたよ」
言葉にした瞬間、石見さんの目がぱっと大きく見開かれた。
照明の光を反射して、グラスの氷みたいにきらきらと揺れる。
「おー……素直だね」
感心したように言ってから、グラスを口に運ぶ。
その口元には薄い笑み。けれど、瞳だけは少しも揺れなかった。
そこに映っているのは、まるで俺の反応を確かめる鏡のようで。
「やっぱり真菅くんって、ちょっと変わってるよね」
わざとらしく笑って、グラスを揺らす。
「だって、私、“転性”だよ?」
挑発というより、試すように。
──この言葉でどう返すかを、確かめようとするみたいに。
「……そうだけど」
言ったあと、頭の奥がさらに熱くなる。
自分でも何を言うつもりか分からないまま、口からこぼれた。
「……石見さんの目が、きれいだなって思ったから」
「やっぱり真菅くん、酔ってるよね」
わざと突き放すように笑ったあとで、ふっと息を吐く。
その目は、一瞬だけ俺を通り越して、どこか遠くを見ていた。
「ほんと、明日覚えてたら後悔するよ?」
「……たぶん覚えてるよ」
舌がもつれているのに、不思議と即答していた。
「そっか」
グラスを置く音が小さく響く。
視界がふわふわしているのに、石見さんの目だけがやけに鮮明だった。
その視線が、さっきよりも真っすぐに俺を射抜いてくる。
笑っているのに、どこか寂しそうな光があった。
その目に吸い込まれそうになる。
「じゃあ──もう少しだけ、付き合ってよ。……なんとなく、そんな気分だから」
※
目を覚ますと、部屋はまだ薄暗かった。
カーテンがしっかり閉じられていて、朝の光はほとんど入ってこない。
壁際の照明だけがついていて、その淡い明かりが、部屋の輪郭をぼんやり浮かび上がらせていた。
ここが自分の部屋じゃないことは、すぐに分かった。
布団の肌ざわりも、漂う匂いも、どこかよそよそしい。
身体を少し動かしたとき、隣の気配に気づく。
一瞬、何が起きたのか分からず、息をのんだ。
視線を向けると、シーツの中で静かな寝息を立てる石見さんがいた。
黒髪が肩からこぼれて枕に広がり、額には前髪がふわりとかかっている。
その寝顔は、驚くほど柔らかで、女の子らしかった。
普段は少し距離を置いているその横顔が、いまは無防備で、すぐそばにある。
どうしても目を逸らせなかった。
ただの好奇心じゃなく、もっと別の感情に引き寄せられている気がした。
そのとき、小さく身じろぎして、ゆっくりと目を開けた。
眠たげな視線がこちらに向く。
その目は、まだ焦点が定まらず、夢の続きを見ているようだった。
気まずさに耐えられず、声が出た。
「……おはよう」
「おはよ」
掠れるような声で返すと、石見さんはシーツを胸元まで引き寄せた。
その拍子に、思わず胸元に目が吸い寄せられる。
思っていた以上に華奢で──その事実に、動揺した。
気づけば、目が離せなくなっていた自分にハッとする。
我に返り、慌てて視線を逸らした。
「……ごめん」
「良いよ。気持ちは分かるし」
そう言ってシーツを胸元まで引き寄せる。
その顔は、なぜか少し安心したようにも見えた。
会話はそこで途切れた。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が出てこない。
静けさが、気まずさを際立たせていた。
視線をさまよわせたとき、ふと気づいた。
シーツの端に、赤い染みがにじんでいる。
息が詰まり、頭の奥がずきりと痛んだ。
昨夜の断片的な記憶が一気に押し寄せる。
肌の感触も、声の余韻も──その染みが、昨夜をどうしようもなく現実に変えた。
顔を上げると、石見さんと視線がぶつかる。
口元には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「……別に、嫌じゃなかったよ」
そう言いながら、石見さんの視線が一瞬だけ遠くをかすめた。
その目の奥に、笑いとは別の光が揺れた気がした。
そして、シーツを少しずらす。
胸元がわずかにのぞいて、視線が吸い寄せられる。
わざとなのか、それともただの無造作なのか──判別できない。
「真菅くんも、嫌じゃなかったでしょ?」
どこか楽しそうな声。
からかわれたみたいで、返事が喉に詰まった。
「……それは」
言葉を濁した瞬間、昨夜の感覚が蘇る。
触れたときの柔らかさ。耳に残る、押し殺した声。
その瞬間の息づかいが、まだどこかで残響している気がした。
思い出すだけで、息が詰まりそうになる。
「……そうだけど」
結局、否定はできなかった。
「正直でよろしい」
石見さんは目尻をゆるめ、楽しそうに笑った。
けれど、その目の奥はどこか静かで、何かを見極めようとしているようだった。
その余裕に押されても、胸のざわつきは消えてくれなかった。
──正直、こうなったのは初めてじゃない。
昔も、似たようなことがあった。
酔った勢いで一夜を共にして、その流れで付き合うことになった。
けれど、そんな始まりで長く続くはずもなかった。
一か月もたたないうちに終わったとき、二人とも心のどこかで、そうなることは分かっていた。
今回も同じかもしれない。
ましてや、相手は石見飛鳥だ。
普通に考えれば、長く続くはずがない。
それでも、言葉にできない何かが、胸の奥をかすめた。
「……付き合ってみる?」
口から出た声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
でも、もう取り消せなかった。
石見さんは目を細め、少し間を置く。
そして、口元に笑みを浮かべた。
「……責任取ろうと思ってる?」
軽い調子。
けれど、胸の奥にずしりと残る響きだった。
「……そうだな」
自分でも歯切れの悪さを感じながら、それでも答えるしかなかった。
石見さんは、ふっと笑った。
「そっか。じゃあ、よろしく」
さらりと受け流すような声音。
それなのに、胸の奥に残ったのは、もう引き返せない熱だけだった。
※
チェックアウトを済ませて外に出ると、空気は澄んでいるのに、肌に触れる冷たさが妙に現実的だった。
閉まった居酒屋の前には、ゴミ袋が積まれていた。
少し離れたところで、ごみ収集車がゆっくりと動いている。
作業員の掛け声と機械の音が、静かな通りに響いていた。
その向こうに、同じようにホテルを出てきたらしいカップルの背中が見えた。
歩き出すにつれて、コンビニの袋を提げた学生や、出勤途中らしい人影がぽつぽつと混じり始める。
夜と朝のあいだに、自分たちも、なんとなく置き去りにされている気がした。
石見さんは肩にかかる髪を手で整えて、軽く伸びをした。
「……なんか、空気だけは爽やかだね」
「二日酔いにはちょっと眩しすぎるけどな」
思わず返すと、石見さんは小さく笑った。
「だから飲みすぎだよ、って言ったのに」
「昨日、何話してたか……あんまり覚えてない」
気まずさを隠すように言うと、石見さんがちらりと横を見てきた。
「覚えてないの?」
小さく笑ってから、続ける。
「私の目がきれいって、言ってくれたよ?」
そう言いながら、隣から上目づかいに覗き込まれる。
黒目がちの瞳が、朝の光を映して揺れていた。
ほんの一瞬、視線を外せなくなって、心臓が跳ねた。
「……そんなこと、言ったっけ」
「言った。覚えてないんだ?」
追い詰めるでもなく、からかうような調子。
それなのに、胸の奥がざわつく。
「……覚えてないほうがいいこともあるだろ」
「ふーん。私は、けっこううれしかったけど」
視線を前に戻しながら、石見さんは軽く肩をすくめる。
その仕草に、返す言葉が見つからなかった。
ちょうどそのとき、ぐう、と腹が鳴った。
その音に、思わず笑いそうになる。
ほんの少しだけ、空気がやわらいだ。
「……なんか、ハンバーガーでも食べるか」
「喫茶店のモーニングの方がよくない?」
「そんなんで足りるのかよ」
「だって、まだ顔色悪いよ?」
さらっと言われて、思わず言葉が詰まる。
図星だったし、反論する気にもなれなかった。
そんなふうにしてたどり着いたのは、駅前の喫茶店だった。
店内は、まだ半分ほどしか席が埋まっていなかった。
コーヒーの香りの奥に、どこか昨夜のアルコールがまだ残っている気がした。
窓から差し込む朝日が木目のテーブルをやわらかく照らし、ゆったりとした空気が流れている。
モーニングセットには、こんがり焼かれたトーストとゆで卵、サラダ。
そして、なぜか湯気を立てる味噌汁まで添えられていた。
「……二日酔いに味噌汁が染みる」
ひと口すすって思わず漏らすと、向かいの石見さんが小さく吹き出した。
「おっさん臭いよ、それ」
「悪かったな。でも、なんでモーニングに味噌汁なんだろうな」
「確かに。パンと味噌汁って、変な組み合わせだよね」
そんなやり取りに、つい笑ってしまう。
胸の重さが、ふっと軽くなった気がした。
「……このあと、講義どうする?」
トーストをかじりながら切り出すと、石見さんはコーヒーをひと口飲んで肩をすくめた。
「別に。行かなくても死なないでしょ」
「いやいや、出席とかあるだろ」
「えー、そんな顔して行く気ある?」
「どんな顔だよ」
「いかにも、“昨夜、何かありました”って顔」
軽く笑いながら返されて、言葉に詰まる。
結局トーストをもうひと口かじってごまかした。
「……まあ、今日くらいはサボるか」
「正直でよろしい」
石見さんは楽しそうに笑った。
「……石見さんもサボったりするんだな」
「今回が初めてだよ。昨日と同じ服で講義に出たら、何人かに『あれ?』って思われるでしょ。真菅くんと二次会まで行ったの、みんな見てたと思うし」
さらっと言われて、耳の奥が熱くなる。
店を出ると、朝の光はもう強くなっていて、街はすっかり昼の顔に変わりつつあった。
駅へ向かう人の流れに混じって、俺と石見さんは並んで歩いた。
駅前に差しかかると、自然と足が止まる。
「じゃあ……また、石見さん」
石見さんは振り返り、少しだけ目を細めた。
朝の光のなかで、笑みがほんの少し照れて見えた。
「昨日のこと思えば、もう“飛鳥”でいいんじゃない?」
軽く笑う声に、思わず苦笑が漏れた。
一瞬、何か言い返そうとして、やめた。
「……ああ。じゃあ、また……飛鳥」
彼女は軽く笑って、手を振った。
「うん。またね、蓮」
その笑顔が、しばらく頭から離れなかった。




