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第一話 遠さと近さの境界線

 俺――真菅蓮(ますがれん)は、石見飛鳥(いわみあすか)の目が好きだ。


 透き通っているのに、焦点だけは遠くに合っていて。

 まるで、この世界そのものを見ていないみたいで──それが、妙に焼きついた。


 石見さんとは同じゼミだが、話したことは数えるほどしかない。

 たぶん、それは俺だけじゃない。ゼミの誰もが、どこか距離を置いていた。


 高校時代に性別が変わった──そんな噂が、彼女にはついて回っていた。

 “転性”。正式には性転位症候群と呼ばれている。

 名前だけなら、ニュースやネットで何度も見たことがある。

 けれど、それはいつも遠い世界の出来事だった。


 週に一度、同じ教室で顔を合わせるくらいの相手。

 だから、“そう”だと知ったとき、胸の奥に小さな戸惑いが滲んだ。

 どう距離を詰めればいいのか分からず、ただ遠くから見ているだけだった。


 同じ高校出身の学生が何人かいて、そこから噂が広まったらしい。

 ゼミに入った頃には、誰も口には出さないけれど、皆が知っていることになっていた。


 “転性”は、まだ分からないことが多い症状だ。

 中には「肉体的な接触で感染する」なんて、笑えない冗談を真顔で言うやつもいる。

 そんな根拠のない噂でも、一度広まれば、人と人のあいだに目に見えない壁を作ってしまう。


 石見さんも、それを分かっているみたいだった。

 だからこそ、いつも距離を測るような笑い方をしていた。


 ただ一度だけ、迷ったような顔を見てしまったことがある。

 その一瞬は、表情の奥に隠していた素顔を、ふいに覗いてしまったみたいで。

 胸が詰まり、思わず視線を逸らした。


 どう関わればいいのか。

 手を伸ばすべきか、それとも引くべきか。

 答えが出ないまま、同じゼミで顔を合わせる日々が続いた。


 それでも、同じ場にいれば視線は交わる。

 その延長に、その日のゼミ飲み会があった。



 教授が席を立った途端、場の空気は輪郭を失ったように緩んでいった。

 グラスを置く音、皿と皿が軽くぶつかる音。

 遠くで上がる笑い声が、時おり途切れる。

 学生だけのテーブルでは、つまみをつつく手も、会話も、ゆるく間延びしていた。


 姿勢を伸ばしたとき、ふと視線を流すと、彼女がいた。


 石見飛鳥。


 談笑しながらも、どこか一歩引いた位置にいるように見えた。

 グラスを口元に運んでも、ほとんど減っていない。

 視線の先は、会話の相手よりも少しだけ遠くを見ているようだった。


 その横顔が、ふいにこちらを向いた。

 肩にかかる黒髪が、照明を受けて艶を帯び、わずかに揺れる。

 澄んでいるのに、決して焦点を合わせないような目が、一瞬だけ俺を捉えた。


 心臓が、ひとつ余計に打ったみたいだった。


 慌ててグラスを覗き込み、視線を逃す。

 それでも、会話が途切れるたび、視線は勝手に石見さんへと吸い寄せられる。

 逸らそうとしても、目の端に焼き付いたまま離れてくれなかった。


 時間が経つにつれ、席の顔ぶれが、いつのまにか少しずつ変わっていた。

 誰かがトイレに立ち、別の誰かが隣のテーブルへ移る。


 気づけば、隣にいた友人がトイレに立っていて、その席がぽっかり空いていた。


「……ここ、いい?」


 声に、胸の奥がわずかに鳴った。

 見上げた先、石見さんの澄んだ目が、すぐ目の前まで迫っていた。

 長いまつげが瞬くたび、その影がかすかに揺れる。


 ──どうして、俺のところに。


 その問いと同時に、心の奥が水面のように揺れはじめた。


「あ、うん。どうぞ」


 胸の熱を悟られないように、わざと落ち着いた声を作る。


「ありがとう」


 石見さんは軽く笑い、ためらいなく腰を下ろしながらタッチパネルを手に取った。

 それから視線をこちらに戻し、首を少し傾ける。


「真菅くんも、何か飲む?」


 そう聞かれて、自分のグラスが空だったことに気がつく。


「あ、じゃあ……ハイボールで」

「オッケー。私も同じにしよ」


 口元をわずかに和らげて、注文を入れる。

 タッチパネルに触れる細い指先。短く整えた爪の艶が、照明の下で淡く揺れた。

 その小さな動きに、思わず目を奪われる。


「お酒、強いほう?」


 なんとなく口にした。他愛もない会話。

 けれど、この妙な緊張をほどくには、それくらいの温度がちょうどよかった。


「どうだろ、普段からそんなに飲まないからね」

「確かに。さっきから口はつけているのに、全然減ってなかったよね」

「……ふーん」


 薄く笑ったその目が、何かを確かめるようにこちらを見ていた。

 胸の奥が、すっと冷える。

 今のって……ほとんど、ずっと見てましたって自白じゃないか。

 自分で口にしたくせに、言いかけた言葉が、舌の奥で絡まって消えた。


「……なんだよ」


 視線を外し、口元だけで言う。

 照れ隠しのつもりで、わざと素っ気なく声を落とした。


「もしかして、私のことけっこう見てた?」


 そう言いながらも、石見さんの声には、ほんのわずかな間があった。

 見透かしているようでいて、どこか──確認するみたいな響きだった。


 否定の言葉が、喉につかえて出てこなかった。


 石見さんが、ふっと身を寄せてくる。

 隣で体を少し傾けた拍子に、シャンプーの香りに微かにアルコールが混じった匂いが漂った。

 視線が、俺の横顔をなぞるように落ちてくる。

 鼓動が、耳の奥でやけにうるさい。


「顔、赤いね……やっぱり図星?」


 言葉が胸の奥で固まって、声にならなかった。

 否定すればするほど、余計に図星だと宣言するみたいで。

 かといって黙っていれば、その沈黙を肯定と取られる。


「……そういう顔してる」


 石見さんはそう言って、わずかに口角を上げた。

 挑発というより、答えを待つみたいな笑み。

 胸の内で熱が膨らんで、息が浅くなる。


 ちょうどそのとき、ハイボールが運ばれてきた。

 ジョッキがテーブルに軽く置かれる音が、妙に鮮明に響く。

 グラスを持ち上げた指先に、ひんやりした冷たさが広がった。


「……とりあえず、乾杯しよっか」


 口元に笑みを浮かべながら、石見さんが軽くグラスを差し出す。

 その仕草につられて、胸の強ばりがゆるんでいく気がした。


「そうだね」


 俺もグラスを持ち上げ、軽く合わせる。

 カラン、と氷がかすかに鳴った。


 口をつけたグラスの中から、炭酸の刺激が喉を撫でていく。

 それだけで、少しだけ頭が冷える気がした。


「あー……やっぱりちょっと薄いね」


 グラスを置きながら、石見さんが笑う。


「居酒屋のハイボールって、なんでこうなんだろ」

「安いし、回転早くするためじゃない?」

「だよね。……まあ、強かったら強かったで困るけど」


 冗談めかした口調なのに、目の奥だけは笑っていないように見えた。

 けれど次の瞬間、ふっと目元がやわらぐ。


「そういえば、真菅くんって何飲むのが一番好き?」


 意外と普通の質問に、胸の奥を締めつけていた警戒が少しゆるんだ。


「レモンのチューハイかな」

「思った以上に普通だった」


 口元だけじゃなく、肩まで軽く揺れるような笑い。

 その声につられて、俺もつい口元が緩んだ。

 さっきまでの張りつめた空気が、ほんの少し遠のいていく。


「ねえ、真菅くんって、普通そうに見えるのに……ちょっと変わってるよね」


 石見さんは飲み口に軽く唇をつけながら、目だけはこちらを離さなかった。

 返事を探す間に、氷が小さく音を立てる。


「そろそろ終電やばい人もいるよねー。いったんお開きにしよっか」


 幹事の声が場に響く。

 答え損ねたまま、テーブルのあちこちで「あー、そんな時間か」という声が上がった。

 それぞれが上着や荷物を手に、ゆるやかに立ち上がっていく。


「……良かったら、また後でね」


 石見さんは、俺にだけ聞こえるように、耳打ちを残して席を立った。


 その声が消えてからも、頭の奥でいつまでも反響している気がした。

 「また後でね」──ただそれだけの言葉なのに、

 やけに意味を持ちすぎて聞こえるのは、きっと酔いのせいだ。


 そのまま一次会は解散となり、店の外へと流れ出る。

 夜風が思っていたより冷たくて、頬の火照りを一気にさらっていった。

 それでも、残った熱だけは、なかなか消えてくれなかった。


 誰かが「二次会どうする?」と口にして、数人がその場に残ったが、俺は自然とそこから外れていた。

 行ってもいいし、帰ってもいい。

 そんな曖昧な気分で立ち尽くしていたとき、近くで黒髪がふわりと揺れた。

 反射的にそちらを向いた瞬間、声がかかる。


「ね、真菅くん」


 名前を呼ばれ、視線が重なる。

 柔らかく微笑んだその瞳に、胸の奥が一瞬だけ熱くなる。


 華奢な体つきに、白いワンピースの上に淡い色のカーディガン。

 手にはスマホと、小ぶりのショルダーバッグ。

 ふんわりとしたシルエットは、どこからどう見ても女の子のそれだった。


 ──なのに、立ち姿のどこかに、かつて“男だった”影が残っている気がした。

 背筋の伸ばし方、足の開き方、重心の置き方。

 そういう、ごく些細な癖がふと滲むたびに、どう接していいのか分からなくなる。

 目を逸らす理由を、無理やり探してしまう。


 けれど、それでも目が離せなかった。

 その違和感ごと、どこか惹かれている自分がいた。


 髪が夜風に少しだけ揺れて、さっきまでの室内よりも、その目がはっきり見えた。


「ちょっとだけ、飲み直さない?」


 あまりに自然で、冗談かと思った。

 でも石見さんの声は穏やかで、どこか少しだけ本気っぽくもあって。

 一瞬、意味を飲み込むまでに、ほんの一拍遅れた。

 気づけば、もう首が縦に動いていた。


「……うん。いいよ」


 自分でも、その即答に少し驚いた。


「じゃ、行こっか」


 石見さんは唇の端をわずかに上げた。その笑みは、どこかいたずらっぽい。

 並んで歩き出す。夜風の中、肩が少しだけ近づいた。



 二軒目は、駅前の落ち着いたチェーンのバーだった。

 照明は柔らかく、音楽も小さめで、外の喧騒が遠くに感じられる。

 グラスの音と、二人の呼吸だけが静かに混じっていた。


「じゃ、改めて」

「うん。かんぱーい」


 カランと氷が鳴って、二人だけの飲みが始まる。

 さっきよりも静かで、さっきよりも少しだけ、距離が近い。


「……真菅くん、一軒目からずっとペース速くない?」

「え、そう?」

「うん。見てて気づいた」


 そう言われて、思わずグラスを持つ手が止まる。


「……なんかさ、今日、富雄に言われたんだよ」

「富雄って、ゼミの?」

「うん。“お前ってほんと、自分のこと決められないよな”って」

「へえ」

「いや、まあ正論なんだけどさ。でも、今言う?っていうか」

「酔ってても根に持ってるんだ」

「……そういう言い方する?」


 グラスを傾けて、もう一口。


「で、ちょっと飲みすぎた?」

「うん、ちょっとだけ。酔ってるのは、富雄のせいってことで」

「うん、それなら責任転嫁しても許す」


 石見さんは、淡々とした調子で笑った。


 その笑いが、グラスの中で溶けていく氷みたいに静かだった。

 気づけば、視線を合わせるのも少しずつズレていく。

 グラスの中身がやけにきらきらして見えて、頭の奥がじんわりと熱を帯びていた。

 考えようとしたことが、すぐに霧の中に溶けていく。

 それでも、目の前の石見さんだけは、やけに鮮明に見えていた。


「真菅くん、大丈夫? けっこう酔ってるみたいだよ」


 声は穏やかで、からかうような響きはなかった。

 揺れる意識の中で、その優しさだけがはっきりと届く。


「……大丈夫。まだ飲める」


 自分で言いながら、ちょっとだけ舌がもつれる。

 グラスを置く音が、思ったよりも大きく響いた。


 グラスをテーブルに戻して、ふと、口に出した。


「……ていうかさ。さっき“一軒目からずっと”って言ったよね」

「うん?」

「……それってつまり、石見さんも俺のこと見てたってこと?」


 ほんの冗談のつもりだった。

 けれど、石見さんはあっさりと頷く。


「うん、見てたよ」

「え、マジで」

「マジで」


 涼しい顔で即答されて、言葉が止まる。

 その沈黙を楽しむように、石見さんは首をかしげた。


「で──真菅くんは? 私のこと、見てたの?」


 澄んだ目が、まっすぐ俺を射抜いてくる。

 その視線の中にいると、息をするたびに、酔いと一緒に理性が溶けていくみたいだった。


「俺も、石見さんのこと……見てたよ」


 言葉にした瞬間、石見さんの目がぱっと大きく見開かれた。

 照明の光を反射して、グラスの氷みたいにきらきらと揺れる。


「おー……素直だね」


 感心したように言ってから、グラスを口に運ぶ。

 その口元には薄い笑み。けれど、瞳だけは少しも揺れなかった。

 そこに映っているのは、まるで俺の反応を確かめる鏡のようで。


「やっぱり真菅くんって、ちょっと変わってるよね」


 わざとらしく笑って、グラスを揺らす。


「だって、私、“転性”だよ?」


 挑発というより、試すように。

 ──この言葉でどう返すかを、確かめようとするみたいに。


「……そうだけど」


 言ったあと、頭の奥がさらに熱くなる。

 自分でも何を言うつもりか分からないまま、口からこぼれた。


「……石見さんの目が、きれいだなって思ったから」

「やっぱり真菅くん、酔ってるよね」


 わざと突き放すように笑ったあとで、ふっと息を吐く。

 その目は、一瞬だけ俺を通り越して、どこか遠くを見ていた。


「ほんと、明日覚えてたら後悔するよ?」

「……たぶん覚えてるよ」


 舌がもつれているのに、不思議と即答していた。


「そっか」


 グラスを置く音が小さく響く。

 視界がふわふわしているのに、石見さんの目だけがやけに鮮明だった。

 その視線が、さっきよりも真っすぐに俺を射抜いてくる。


 笑っているのに、どこか寂しそうな光があった。

 その目に吸い込まれそうになる。


「じゃあ──もう少しだけ、付き合ってよ。……なんとなく、そんな気分だから」



 目を覚ますと、部屋はまだ薄暗かった。

 カーテンがしっかり閉じられていて、朝の光はほとんど入ってこない。

 壁際の照明だけがついていて、その淡い明かりが、部屋の輪郭をぼんやり浮かび上がらせていた。


 ここが自分の部屋じゃないことは、すぐに分かった。

 布団の肌ざわりも、漂う匂いも、どこかよそよそしい。


 身体を少し動かしたとき、隣の気配に気づく。

 一瞬、何が起きたのか分からず、息をのんだ。


 視線を向けると、シーツの中で静かな寝息を立てる石見さんがいた。

 黒髪が肩からこぼれて枕に広がり、額には前髪がふわりとかかっている。

 その寝顔は、驚くほど柔らかで、女の子らしかった。


 普段は少し距離を置いているその横顔が、いまは無防備で、すぐそばにある。

 どうしても目を逸らせなかった。

 ただの好奇心じゃなく、もっと別の感情に引き寄せられている気がした。


 そのとき、小さく身じろぎして、ゆっくりと目を開けた。

 眠たげな視線がこちらに向く。

 その目は、まだ焦点が定まらず、夢の続きを見ているようだった。


 気まずさに耐えられず、声が出た。


「……おはよう」

「おはよ」


 掠れるような声で返すと、石見さんはシーツを胸元まで引き寄せた。

 その拍子に、思わず胸元に目が吸い寄せられる。

 思っていた以上に華奢で──その事実に、動揺した。


 気づけば、目が離せなくなっていた自分にハッとする。

 我に返り、慌てて視線を逸らした。


「……ごめん」

「良いよ。気持ちは分かるし」


 そう言ってシーツを胸元まで引き寄せる。

 その顔は、なぜか少し安心したようにも見えた。


 会話はそこで途切れた。

 何か言わなきゃと思うのに、言葉が出てこない。

 静けさが、気まずさを際立たせていた。


 視線をさまよわせたとき、ふと気づいた。

 シーツの端に、赤い染みがにじんでいる。


 息が詰まり、頭の奥がずきりと痛んだ。

 昨夜の断片的な記憶が一気に押し寄せる。

 肌の感触も、声の余韻も──その染みが、昨夜をどうしようもなく現実に変えた。


 顔を上げると、石見さんと視線がぶつかる。

 口元には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいた。


「……別に、嫌じゃなかったよ」


 そう言いながら、石見さんの視線が一瞬だけ遠くをかすめた。

 その目の奥に、笑いとは別の光が揺れた気がした。


 そして、シーツを少しずらす。

 胸元がわずかにのぞいて、視線が吸い寄せられる。

 わざとなのか、それともただの無造作なのか──判別できない。


「真菅くんも、嫌じゃなかったでしょ?」


 どこか楽しそうな声。

 からかわれたみたいで、返事が喉に詰まった。


「……それは」


 言葉を濁した瞬間、昨夜の感覚が蘇る。

 触れたときの柔らかさ。耳に残る、押し殺した声。

 その瞬間の息づかいが、まだどこかで残響している気がした。

 思い出すだけで、息が詰まりそうになる。


「……そうだけど」


 結局、否定はできなかった。


「正直でよろしい」


 石見さんは目尻をゆるめ、楽しそうに笑った。

 けれど、その目の奥はどこか静かで、何かを見極めようとしているようだった。

 その余裕に押されても、胸のざわつきは消えてくれなかった。


 ──正直、こうなったのは初めてじゃない。


 昔も、似たようなことがあった。

 酔った勢いで一夜を共にして、その流れで付き合うことになった。

 けれど、そんな始まりで長く続くはずもなかった。

 一か月もたたないうちに終わったとき、二人とも心のどこかで、そうなることは分かっていた。


 今回も同じかもしれない。

 ましてや、相手は石見飛鳥だ。

 普通に考えれば、長く続くはずがない。


 それでも、言葉にできない何かが、胸の奥をかすめた。


「……付き合ってみる?」


 口から出た声は、自分でも驚くほど頼りなかった。

 でも、もう取り消せなかった。


 石見さんは目を細め、少し間を置く。

 そして、口元に笑みを浮かべた。


「……責任取ろうと思ってる?」


 軽い調子。

 けれど、胸の奥にずしりと残る響きだった。


「……そうだな」


 自分でも歯切れの悪さを感じながら、それでも答えるしかなかった。

 石見さんは、ふっと笑った。


「そっか。じゃあ、よろしく」


 さらりと受け流すような声音。

 それなのに、胸の奥に残ったのは、もう引き返せない熱だけだった。



 チェックアウトを済ませて外に出ると、空気は澄んでいるのに、肌に触れる冷たさが妙に現実的だった。

 閉まった居酒屋の前には、ゴミ袋が積まれていた。

 少し離れたところで、ごみ収集車がゆっくりと動いている。

 作業員の掛け声と機械の音が、静かな通りに響いていた。

 その向こうに、同じようにホテルを出てきたらしいカップルの背中が見えた。


 歩き出すにつれて、コンビニの袋を提げた学生や、出勤途中らしい人影がぽつぽつと混じり始める。

 夜と朝のあいだに、自分たちも、なんとなく置き去りにされている気がした。


 石見さんは肩にかかる髪を手で整えて、軽く伸びをした。


「……なんか、空気だけは爽やかだね」

「二日酔いにはちょっと眩しすぎるけどな」


 思わず返すと、石見さんは小さく笑った。


「だから飲みすぎだよ、って言ったのに」

「昨日、何話してたか……あんまり覚えてない」


 気まずさを隠すように言うと、石見さんがちらりと横を見てきた。


「覚えてないの?」


 小さく笑ってから、続ける。


「私の目がきれいって、言ってくれたよ?」


 そう言いながら、隣から上目づかいに覗き込まれる。


 黒目がちの瞳が、朝の光を映して揺れていた。

 ほんの一瞬、視線を外せなくなって、心臓が跳ねた。


「……そんなこと、言ったっけ」

「言った。覚えてないんだ?」


 追い詰めるでもなく、からかうような調子。

 それなのに、胸の奥がざわつく。


「……覚えてないほうがいいこともあるだろ」

「ふーん。私は、けっこううれしかったけど」


 視線を前に戻しながら、石見さんは軽く肩をすくめる。

 その仕草に、返す言葉が見つからなかった。


 ちょうどそのとき、ぐう、と腹が鳴った。

 その音に、思わず笑いそうになる。

 ほんの少しだけ、空気がやわらいだ。


「……なんか、ハンバーガーでも食べるか」

「喫茶店のモーニングの方がよくない?」

「そんなんで足りるのかよ」

「だって、まだ顔色悪いよ?」


 さらっと言われて、思わず言葉が詰まる。

 図星だったし、反論する気にもなれなかった。


 そんなふうにしてたどり着いたのは、駅前の喫茶店だった。

 店内は、まだ半分ほどしか席が埋まっていなかった。

 コーヒーの香りの奥に、どこか昨夜のアルコールがまだ残っている気がした。

 窓から差し込む朝日が木目のテーブルをやわらかく照らし、ゆったりとした空気が流れている。


 モーニングセットには、こんがり焼かれたトーストとゆで卵、サラダ。

 そして、なぜか湯気を立てる味噌汁まで添えられていた。


「……二日酔いに味噌汁が染みる」


 ひと口すすって思わず漏らすと、向かいの石見さんが小さく吹き出した。


「おっさん臭いよ、それ」

「悪かったな。でも、なんでモーニングに味噌汁なんだろうな」

「確かに。パンと味噌汁って、変な組み合わせだよね」


 そんなやり取りに、つい笑ってしまう。

 胸の重さが、ふっと軽くなった気がした。


「……このあと、講義どうする?」


 トーストをかじりながら切り出すと、石見さんはコーヒーをひと口飲んで肩をすくめた。


「別に。行かなくても死なないでしょ」

「いやいや、出席とかあるだろ」

「えー、そんな顔して行く気ある?」

「どんな顔だよ」

「いかにも、“昨夜、何かありました”って顔」


 軽く笑いながら返されて、言葉に詰まる。

 結局トーストをもうひと口かじってごまかした。


「……まあ、今日くらいはサボるか」

「正直でよろしい」


 石見さんは楽しそうに笑った。


「……石見さんもサボったりするんだな」

「今回が初めてだよ。昨日と同じ服で講義に出たら、何人かに『あれ?』って思われるでしょ。真菅くんと二次会まで行ったの、みんな見てたと思うし」


 さらっと言われて、耳の奥が熱くなる。


 店を出ると、朝の光はもう強くなっていて、街はすっかり昼の顔に変わりつつあった。

 駅へ向かう人の流れに混じって、俺と石見さんは並んで歩いた。


 駅前に差しかかると、自然と足が止まる。


「じゃあ……また、石見さん」


 石見さんは振り返り、少しだけ目を細めた。

 朝の光のなかで、笑みがほんの少し照れて見えた。


「昨日のこと思えば、もう“飛鳥”でいいんじゃない?」


 軽く笑う声に、思わず苦笑が漏れた。

 一瞬、何か言い返そうとして、やめた。


「……ああ。じゃあ、また……飛鳥」


 彼女は軽く笑って、手を振った。


「うん。またね、蓮」


 その笑顔が、しばらく頭から離れなかった。

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