21:あとしまつ
こびりついた汚れを洗い落として、濡れたままの右手でアステルの首に手をかける。
水で冷えた掌に、アステルの首の熱い温度が伝わってくる。
頸動脈を握られているというのに、当の本人は未だぼんやりしたかおのまま、危機感のきの字もない。
「なっ、なに……?ちべたい……」
「一個、聞いときたくてよ」
「放しておくれよぅ……、ちべたいし濡れててきもちわるい……」
「ちべ、……。悪いが手は離せない。正直に答えりゃすぐ終わる」
「もぅ、なんだよう……眠いんだけろ……」
呂律も碌に回っていない。指の腹で触れる頸動脈が、熱く脈打っている。規則的でゆっくりとした拍動からは、アステルが今まさに暢気に眠気を感じていることが鮮明に伝わってくる。
「人を捌いたのは、何回目だ?」
「なんかいめ?」
「お前の手つきには迷いがなかった。人を実際に解剖した経験、あるだろ。これの前に」
「………。」
「臓器の位置、作り、機能。知ってなきゃ出来ねぇ動きだ」
眠気でとろりとしていたアステルの目から光が消える。
睨んでいるのか、値踏みしているのか。
鈍色に澄んだ、ガラス玉のような目がロアの事を見ている。
「別にお前が何をしていようと誰かに言うつもりはねぇし、裁くつもりもねぇよ」
「………。」
「俺は助手なんだろ、アステル。だったら教えてくれ。どんな奴に協力してんのか、俺には知る権利がある」
重い瞼がゆっくりと落ちる。
一度の長い瞬きのあと、アステルは退屈そうな声でつぶやいた。
「今回で13回目」
「デメコレアとガキ6人で計12回……って認識で合ってるか?」
「そう言っているじゃない」
「……じゃあ、最初の1回目は?」
力がこもりそうになる指先を抑える。
浅くなる呼吸を意図的に深く吸う。
「師匠」
「……殺したのか?」
脳裏に浮かぶのはアステルに案内された、「師匠」の部屋。切り取られたカーテン、片づけられたマットレス、床の血痕。
そして――ドアノブに残された、アステルの手と同じ大きさの血の手形。
確実に「何か」があった部屋。
半年前に死んだという、アステルの師匠。
「違うよ」
「じゃああの部屋はなんだ?」
「あの部屋?」
「お前の師匠の部屋だ。血痕が残っていた。他にもいろいろあるが……まともな死に方であの部屋にはならねえ」
「…………むぅ………」
唇を尖らせたアステルがうんざりしたように視線を巡らせる。
指先から感じる脈拍は、未だゆっくりと変わらない。
「師匠がいいって言ったんだ」
「……?」
「死んだら好きにしていいって。僕だってラボで解剖したかった」
「は?」
「死んだら動いてくれないもの。君もいなかったし、あそこでやるしかなかった」
アステルの口調に変わりはない。
「死体の損壊は死者を辱める行動だ。重罪だって分かってたのか?」
「重罪だから、師匠が自分を使っていいって言ったんだよ。ばれないようにしなさいって。……でも、これでロアも共犯だね」
ゆっくりとアステルの瞳孔が開いて、皓々と光る満月になってロアを睥睨する。
「彼らの処置は君が僕に依頼した。その技術は、僕が師匠から得たものだ」
トクトクと鼓動が早くなる。
それがロアの心臓によるものなのか、指の下で蠢くアステルの脈によるものなのか、分からなかった。
「つまり、ロア。君は――」
「初めからそのつもりだ」
「へ?」
「お前が誰にも言うなって言ったときから、とっくに腹は決まってる」
「は?」
鳩が豆鉄砲を食らったようだった。
狂気を湛えた満月は、一つの瞬きのあとに丸くなり、驚愕の色に塗りつぶされていた。
アステルの首から手を離したロアは、その髪をぐしゃぐしゃかき混ぜるようになでると薄く笑った。
「な、なんだよう」
「殺してないんだな」
「そうだっていってるじゃん」
「師匠がいいって言ったんだな?」
「うん」
「師匠は、好きか?」
「……好き」
「一人でやったのか?」
「うん」
「じゃあ、これは俺とお前だけの秘密だな」
そう言って破顔したロアの表情に、アステルは呆然としていた。
目の前の男が何を言っているのか、さっきからずっとよく分からなかった。
一方、ロアと言えば、頭の回転が速いアステルが呆然としている姿をニヤニヤと眺めていた。
ハッと我に返ったアステルの顔が、リンゴのようにみるみると赤くなる。
目を吊り上げてハクハクと口を震わせたアステルは、今まで聞いた中で一番大きな声で叫んだ。
「きっ、君が!! ロアが、む、無理矢理言わせたんだぞ!!」
「アーッハッハッハ!!」
「何笑ってんだよぅ!! ねぇ!! ほんとにわけわかんないんだけど!! 首べちゃべちゃにするし怖い顔するし!! ねえ!!」
「あーーー、気が抜けた……」
「ねぇってば!!」
「お前が人を殺してなくてよかった」
「そんなのするわけないだろ!!」
「正直13って聞いたとき13人殺ったのかと思って焦った」
「やってない!!」
ぎゃあぎゃあ喚いてポカポカとロアの胸を殴りつける拳を甘んじて受け入れる。
人を殴り慣れていない、暴力と無縁の拳が無性に愛おしかった。
「そのままでいてくれよ、アステル」
「は⁉」
「殺しの味なんぞ、一生知らなくていい」
「僕別に人を殺したいなんて思ってないけど⁉」
「でも解剖はしたいんじゃないか?」
「うん!!」
「ほれみろ」
「それとこれとは別問題ってわかるでしょ!! 常識!! ロアってすっごく非常識だよね!!」
「お前に言われたくはねぇなぁ……」
「ロアのバーカバーカバーカバーカバーーーーーーカ!!!!!!!!」
自分の拳がロアに何のダメージも与えていないどころか、反作用で自分の方がダメージを食らいつつあることに気づいたアステルは、ロアに幼稚な罵倒を言い捨てると上階にある自分の部屋へと逃げようとした。
しかし、アステルが上へとつながる階段に足を向けた瞬間、逃亡の意思を察知したロアに手首を掴まれる。
「はい、待て」
「もう何!? 眠いんだけど!!」
「風呂。その汚ェ服でベッドに入るな」
「もう疲れたの!! ロアのせいで!!」
「責任取ってやるから風呂に入れ、ほれ」
掴んだ手首をそのまま引き寄せ、逃げられないように抱き上げる。
ロア自身もアステルの助手をしていたせいで汚れてしまっている。
今日の服は全部処分してしまってもいいかもしれない。
思考を巡らせながら、放せ放せと大暴れするアステルを落とさぬようにしっかりと胸に抱きかかえる。流石にこの暴れ具合は途中で落としかねない。
大人しくなるまでしばし待っていれば、数分もしないうちにアステルはすっかり大人しくなった。
元々体力を使い果たしていた上に、最後の大暴れで残りの予備体力的なものも使い果たしてしまったのだろう。
背中を緩くたたいてやれば、ぐずぐずとした不明瞭な声が返ってくる。
「さ、……洗ってやるから風呂だ風呂」
「……ねる…ぅ…」
「駄々をこねるな。あー、こら、血の付いた手で目をこするな」
むにゃむにゃと意味不明な言葉を漏らしているアステルの意識は、もう半分ほど夢の世界に突入しかけている。
「おい、寝るな。シャツ脱がすから手ぇあげろ」
意識が朦朧としているせいで随分と素直なアステルから手早く服を脱がせていつものように風呂場に放り込む。
ぬるま湯を頭からかけたらやっと目を覚ました。
「うぅー……」
「体は自分で洗えよ」
「おたんこなす……」
「はいはい」
もちゃもちゃと適当に体をこするアステルの動きは緩慢で大雑把だ。
髪の毛にも飛んでいる血を石鹸の泡で丁寧に落としてやる。
ロアは洗浄を適当なところでやめてしまったアステルからタオルを取り上げた。
彼は手指の先など雑に済ませられていた部分を丁寧に洗い、アステルの体に残っていた泡を全部流してしまった。
「体拭いてから寝ろよ」
「ぅー……」
風呂場から出してバスタオルをかぶせたときのアステルの声は、もう殆ど落ちかけていた。
ベッドまで運んでやりたいが、ロア自身も血塗れだ。
手早く服を脱ぎ捨てたロアはじゃぶじゃぶと全身の血を落としていく。
戦場と同じようで違う、薬臭い血の匂いがまだ鼻の奥にこびりついているような感じだった。
風呂から上がれば、脱衣所でバスタオルを被ってアステルが爆睡していた。
あまりにも予想通りで、ロアは思わず笑ってしまった。
「体拭いてから寝ろって言ったのになぁ……」
頭からタオルをひっかけたままのロアは苦笑を浮かべたまま、アステルを抱き上げた。
風邪をひく前に、温かいベッドの中に突っ込んでやらねばなるまい。
風呂場から出たばかりの、ロアの水濡れした足跡が点々とアステルの部屋まで伸びていった。
寝過ごしたら月曜日でした。
日曜日は死にました。




