儚い花
ネシウス伯爵領の西にある花畑。
今はネモフィラが咲き誇る。
青い花弁が風に揺れて流れていく。
わたしの前に広がる一面の花々は、まるで海のようだった。
「さすがマリーズ嬢の領地だ。君の心のように美しい」
リディオはゆっくりと花畑を眺めながら、ときおりわたしの方を見る。
花畑の入り口までは護衛がついていたが、今は二人きりで過ごしていた。
「昔は毎年のように来ていましたわ。ここで花冠を作ると、幸福になれるという伝承があるのですよ」
「そうか……では、俺から君に花冠を贈ってもいいかな? 君が幸せになれるように……そんな願いをこめてね」
リディオの問いに、わたしは肯定も否定もできなかった。
ただ狼狽えて視線を落とすばかり。
わがことながら、非常に情けない気持ちになる。
「リディオ様……二人きりの今のうちに、打ち明けておきたいことがあるのです」
「……? 何か困りごとか?」
「ええと。どうやらわたしの両親は、リディオ様とわたしが懇意にしていると勘違いしてしまったようで。わたしも一年前に婚約破棄されて、今もなお相手を探している状況ですから。両親も焦りを感じているのでしょうね……」
こんな話をされてはリディオも困るだけだろう。
まるで眼中にない傷物の令嬢、その両親が婚約を期待しているなどと……自分でも目を覆いたくなる。
だが、返答はわたしの想定しているものとは異なった。
「なるほど。それはつまり……君のご両親が俺との婚約を望んでおられる、と? 悪い話ではないかもしれないな」
「え? で、ですが……リディオ様には婚約者がいらっしゃいますよね?」
リディオは視線を漂わせた後、花々を見守るように屈みこむ。
そして哀愁を感じさせるため息をついた。
「はぁ……その件についてだけどね。俺の方も婚約に関しては複雑な事情があるのさ。こんなこと、トリスタンに婚約破棄されたマリーズ嬢に言うべきじゃないかもしれないが……俺も婚約者と仲が悪いんだ。それこそ、今にも婚約破棄されそうなくらいに」
初めて聞いた話だ。
リディオの婚約者は誠実な令嬢で、婚約者との仲が険悪などという話は一度も耳にしたことがない。
やはり人目に見えないところで、貴族の軋轢は日々生じているのだろう。
「仲が悪いのは……何か理由が?」
「俺から何かしたわけじゃない。ただ、俺の婚約者は別の男に熱を上げているみたいで。真実の愛……とか言いながら、最近は浮気してばかりだよ。困ったもんだね」
リディオは困ったように笑った。
わたしには彼の表情が作り笑いのように見えて……見るに堪えない。
なんだか自分自身を重ねてしまう。
ただ婚約者に尽くしてきただけなのに、一方的に捨てられてしまったわたしに。
「俺はマリーズ嬢に共感している。だって、そうだろう? 俺たちは誠実に婚約者と付き合って、貴族の責務を果たそうとしているのに。身勝手な相手のせいで人生を台無しにされてしまう。それなら、最初から誠実なマリーズ嬢のような人と付き合いたい……そう思うよ」
「……リディオ様も苦しんでおられるのですね」
嫌なしがらみだ。
貴族に生まれたというだけで、血統の呪縛が付きまとう。
本当なら望む相手と結婚したい。
トリスタンに婚約破棄されてから、わたしはこの”呪縛”をひしひしと感じるようになった。
もしも身分に縛られない地位に生まれていたら、どんなに素敵な人と結婚していたのだろうか。
こんなこと、一年前までは全く考えていなかったのに。
わたしは……婚約破棄されるあの瞬間まで、きっと……心の底からトリスタンを愛していた。
けれど愛は伝わっていなかったから。
もう悔やんでも遅い。
「マリーズ嬢」
ふと、声に引っ張られて顔を上げる。
悔恨の物思いにふけっている間に、リディオは何やらせっせと手を動かしていた。
彼は立ち上がってわたしの頭上に何かを載せる。
「初めて作ったから、上手くできているかわからないけれど。君の幸福を願って花冠を編んでみたよ」
「あ……ありがとうございます。ふふ、上手に作れていますよ」
お世辞にも上出来とは言えないが、わたしは出来栄えを褒めた。
彼がわたしの幸福を願ってくれている……そのことが何よりも嬉しくて。
「わたしもお返しに花冠を編みますね。どうかリディオ様の未来が幸福になりますように」
「マリーズ嬢……叶うことなら、君と一緒に幸せを掴みたいものだな……」
リディオはそう言ってくれるけれど。
わたしはどうなのか……自分の気持ちに整理がつかない。
彼とて、自分の婚約をふいにしてまでわたしと生きたいとは思っていないだろう。
勝手な決めつけだけれど……何となくそんな気がした。
結局、人生とは妥協の連続なのかもしれない。
だからわたしも妥協するべきか。
いや、違う……妥協ではない。
人生の大きな決断を、強い意思をもってするべきなのだろう。