表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/23

幸せの崩壊

貴方がハンカチをくれたこと、今でも覚えています。

雨が降る日のことでしたね。


急に降りだした雨にわたしは濡れてしまって、慌てて庭園の小屋に駆け込んだのでした。

帰りが遅いわたしのことを心配してくれたのでしょうか。

貴方は雨に打たれながら走り回り、小屋の中で震えるわたしを見つけてくれました。


あのときは本当に嬉しかった。

髪をしたたる水滴に涙が混じって、目の前がぼやけて見えなくなるほどに。

貴方は一枚のハンカチをわたしにくれて、濡れた髪を拭いてくれました。

いつの間にか貴方まで泣き出していて、二人でくすりと笑いましたね。


本音を言うと少し意外だったのです。

いつも弱気で、周囲の男の子にもからかわれてばかりの貴方が……こんなに勇気を出して探しに来てくれるだなんて。

やっぱり優しい人なんだって、そう思いました。


だから、わたしは貴方を愛すると決めたのです。

婚約者として相応しい令嬢になろうとしたのです。

わたしは今も貴方がくれたハンカチを肌身離さず持っています。


ねえ。

貴方は今でも覚えていますか?

わたしのことを……愛してくれていましたか?


 ***


「マリーズ。すまないが君との婚約を破棄させてもらう」


突然の婚約破棄。

わたしは頭の中がまっしろになった。

彼がいま、何を言ったのかわからない。


婚約者のトリスタン伯爵令息。

長めの金髪に、切れ長の青い瞳。

誰が見ても惚れ惚れするような端正な顔立ち。

いつも見とれていた彼の姿だけれど、今は直視するのが恐ろしい。

それでもわたしは、何とか言葉を紡いだ。


「理由を……教えてくれる?」


トリスタンは、傍らにいる見知らぬ少女を抱き寄せた。

まるでわたしに見せつけるように。


「君は私を愛していないのだろう?」


まったく予想外の言葉がトリスタンの口から出た。

わたしが……彼を愛していない?


「……いいえ、それは違うわ。トリスタン、わたしは……」


「無理に弁明しなくてもいい。もともと私たちの両親が決めた婚約だ。そこに愛などあるはずもなかったんだ。婚約を結んでから八年間、よく私のような男に付き合ってくれたな。ありがとう」


感謝を述べながらも、トリスタンの言葉に感情は籠もっていなかった。

依然として向けられた冷ややかな視線。

――目まいがする。

息がうまくできなくなってきた。


「君は……一度も私に『愛している』と言ってくれたことはなかった。本当は心の底で嫌っていたのだろう?」


「そ、そんなことは……ないわ。わたしは貴方を愛している……」


「……」


トリスタンは沈黙していた。

私に困惑の視線を向けたあと、隣に立つ栗毛の少女にあたたかい視線を向ける。


「彼女……ニコレットは私の新しい婚約者だ。出自は平民だが、愛に身分など関係ない。彼女は私に何度も言ってくれたよ、『愛している』と」


"愛している"

ああ、貴方はその言葉が欲しかったのですね。

どうして……言ってくれなかったのだろう。

いや、わたしが気づいてあげるべきだったのだろうか。


うわべだけの言葉に意味はないと思っていた。

わたしの愛はすべて行動で伝わっているものだと――


「君は私なんかよりも立派な人を愛し、好きに生きてくれ。私はこれからニコレットと共に貴族学校へ入学し、新たな人生を歩むことにする。では、さらばだ」


トリスタンは淡々と言い放ち、ニコレットをエスコートして歩いて行った。

彼女だけに柔らかな笑みを向けて。


「はぁ……っ」


息がうまくできなくなって、床に膝をつく。

去り際、一瞬だけトリスタンが立ち止まったが……彼が手を差し伸べてくれることはなかった。

足音はそのまま遠ざかっていき……わたしもやがて意識を落とした。


 ***


「お嬢様……!? お目覚めになられたのですね!」


暗闇から意識を引きずり出す。

本当ならずっと眠っていたかったのだけど。


……あの雨の日の夢を見ていた。

侍女のロジーヌは心配そうにわたしの顔を覗き込んでいる。


「倒れられていたのを発見しまして……いったい何があったのですか? トリスタン様とお会いになられていたのですよね?」


……ああ、そうか。

まだ誰も知らないんだ。


「……婚約破棄、されたのよ」


「…………え」


「トリスタンはわたしとの婚約を破棄した。それでショックを受けて、気を失ってしまったみたい。けがはないわ」


ロジーヌは絶句していた。

いきなりこんなことを言われても困るだろう。

お父様やお母様にどう説明すればよいものか……。


「ごめんなさいね。いきなりの話で驚いたでしょう? とりあえずお父様に報告しに行くわ」


「お、お待ちを! せめて少し休まれてから……」


「いい。すぐに今後の方針を決めないと」


何もかもが非現実的だ。

まだ婚約破棄を現実として受け入れられていない。

浮遊感を伴う失意のなか、わたしは父の書斎に向かった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ