死なないモラトリアム
「思えば、期待していなかったはずでした」
ぽつり、零れた音程は酷く平坦だった。だけれど言葉に意味はあって、感情は灯っている。閉じた口の中は絞り切ったオレンジみたいな味がして思わず眉を顰めて見せると、彼女はそんな僕を見て笑う。可笑しいくらいに踊っているのに、なんだかとても冷たい音だった。
「あなたは今でも夢を見ることができる?」
「ええ、もちろん。毎日のように」
「星には何を?」
「叶えられませんよ、塵芥には」
彼女が置いたコーヒーカップに埃が落ちる。まだ土色はカップに満たされているから、やけにその白が目立って少し苛立った。とはいえ、すぐに飲まなかった僕が悪いのだから彼女に文句を言える訳もなく、感情ごと星だったものを飲み干す。
うん、酸っぱい。僕の好みは苦いコーヒーなんだけれど。
「コントロールができるものならいいんですけれどね。むつかしいんですよ、未来というものは」
「諦めを覚えたのでなくって?」
「塗り替えたのはまだ半分です」
「あら、でもとても綺麗だわ」
「僕ァ不格好なのが嫌いなんですが」
「私の終わりは私が決めるものよ」
「そうカッカしないでください、そのうち新しくできますから」
彼女は口紅を塗り直す。今日はやたらとめかしこんでいるからきっと出かけるのであろう。
そうだな、夢、夢か。僕の夢は、無数に生きていた。厳密には過去形で進行形だ。生み出す過程で死んでしまったものもいるし、生み出してから殺したものもいる。殺す理由は、生んだことと生き長らえさせることを可哀想だから。だから、早い内に殺してしまうのだ。それでもまた自然発生するから、生命というものはしぶといのかもしれない。
期待をしていなかったはずなのに、どうしてこうも毎日夢というものは生まれてしまうのだろうか。まるで眠った気がしない。いい加減にしてくれと頭を殴ったところで痛いだけだから、物理的な攻撃はやめたのだが。
「ああ、でも不可思議なことが起こったんです」
「ちっとも変じゃないわよ」
「ちゃんと殺したはずなんですが」
「ヘンゼルとグレーテルだって一度はお家に帰るじゃない」
「僕は、つもりだったと?」
「私も、きっと帰るわ」
数ヶ月程度使い込んだ椅子は、いつものように床を擦る。少しだけ不快な音が鳴った、聞き飽きた音だ。
彼女は僕に、真っ赤な口紅を渡した。僕はこの色がずっと嫌いだった。
「もう行くんですか」
「時間を間違えたの」
「カヌレが食べたいです」
「あれはクッキーじゃない?」
「しっかり殺してくださいよ」
「できるならね」
ヒールを大袈裟に地面にぶつけると、彼女はドアへと向かって歩き出す。特別な気持ちが湧く訳ではなかったが、いつもは言えていない言葉を彼女の背に向けて投げた。
「いい旅を」
「あなたも、いい夢を」
彼女は笑った。




