6-11『兄』
「ユートは泣き虫だなぁ」
夢を見ていた。
記憶の中の兄は笑っていた。
記憶の中の僕は、いつも泣いていた。
兄は全てにおいて僕に優っていた。
千年に一度の天才。
それが、僕の兄だった。
「だ、だって……」
「だっても何も無い! 男なら泣くな! その方がカッコイイからな!」
清々しい男だったと覚えている。
カッコつけるべくして格好つける。
それがまた堂に入るのだから、また悔しい。
兄は、肉体的にも頭脳的にも、精神的にも。
あらゆる【最適】を体現したような人間だったと思う。
弟として、幼いながらに僕は思った。
きっと、こういう人物が世の中を動かしていくんだろうと。
老若男女問わず、誰からも好かれるような人間。
僕なんかとは、比べ物にならぬほど優れた人間。
「ぼ、僕は……兄さんとは違うから。僕は……才能もないし、努力しても……誰にも認めて貰えない。この家に僕の居場所なんてない……。僕は、ダメなんだ」
僕は、天才ではなかったと思う。
というか、凡才極まりない少年だった。
何も無い、何も持たない、何も与えない、与えられない。
無益無害の凡庸。
それが、僕だった。
けれど、兄は否定した。
僕が1番理解する【僕】を、それでも否定した。
「違う! 違うぞユート! お前は天才だ。まだ……お前の才能は目覚めてないだけ。きっと、いつか! ふとした弾みで目覚める! そしたらお前は――」
兄の言葉は、途中で途切れて。
次の瞬間には、僕は、血溜まりの中に立っていた。
目の前には、血を流して倒れる兄の姿。
僕の両手は血に濡れていて、少年の頬には壊れた笑みが張り付いている。
あぁ、やっぱり。
兄の言うことは、正しかった。
その時、少年は凡庸を辞めた。
ふとした瞬間。
兄が死んだと理解した瞬間。
少年の中で、怪物が目を覚ました。
☆☆☆
「1年C組は、今日帰るのかい」
最終日。
嫌な夢を見たせいか、早く目が覚めてしまった。
……いいや、一番の理由は嫌な奴にあったから、だろうな。
橘と話さなきゃこんな最悪な精神状態にはならなかっただろうに。
僕は日が明けて間もない時間帯、ウッドハウスの前に設置された蛇口の水で、顔を洗っていた。
でもって、今の声である。
僕は蛇口の水を止めて顔を上げると、目の前には……生徒会長。最上優が立っていた。
「……貴方は」
「あぁ、こうして二人で話すのは初めまして、だね。おはよう。初めまして、雨森悠人くん。僕は最上優。知っていたりするのかな?」
「……ええ、まぁ」
二つの意味で、僕は答えた。
僕はこの男を、生徒会長として知っている。
が、それ以前に……この学園に入るより先に知っていた。
だって、この男もまた、僕の同郷なのだから。
「……何の用ですか? こんなモブに」
「はっはー。モブと来たかい。君がモブなら、きっとこの世界の大半がその他雑多に成り下がるだろう。謙遜は時に人を傷つける。覚えておくといい」
「……ご忠告どうも」
うっはぁ、やりづらいなこの男。
喋り方、決してブレない精神力もそうだが、1番やりづらいのが、最上優は雨森を過剰に評価しているということ。
……まぁ、分からなくはないけれど。
「……そうだね。なんの用、か。用といえば、そうなんだろう。雨森くん、君の様子を見ておきたくてね」
「赤の他人を、ですか。生徒会長も暇なんですね」
「うん。そういうことにしておこうか」
彼はそう一人ごちると、空を見上げた。
霞がかった青空には、薄らと満月が浮かんでいる。
それを見上げて……最上は、懐かしむように口を開いた。
「君が、僕の知らない雨森悠人だとして。……これは関係の無い話になるのかもしれないけれど。僕の友人に……天守という少年がいてね。才能の塊のような少年で、太陽のような存在だった」
――名前を、【弥人】と言う。
彼の言葉に、僕は動じない。
全く聞き覚えのない言葉だったから。
「……で?」
「弥人には……弟が居てね。まぁ、僕も遠目でしか見たことがないし……なにより、小学校のときの話だ。正直、今再会しても分かるかどうか……自信が無い。けど、弥人の言葉だけはよく覚えてる」
かくして、彼は語る。
千年に一度の天才が語った、その言葉を。
「『僕の弟ほど、優れた天才は見たことがない』」
その言葉に、僕は思わず鼻で笑った。
笑わずにはいられなかった。
「余程、記憶がねじ曲がっていると見える」
「そうだねぇ。僕も信じられないさ。天守弥人の上が居る? そんなことはありえない。過去も未来も全て含めて、あの男は最強になるべくして生まれてきた男だった」
「…………」
「だからこそ、今も、信じられない気持ちでいっぱいさ。目の前に、当時の彼に匹敵する化け物が現れたのだからね。雨森悠人くん」
最上の言葉を受けて。
僕は、改めて彼を真正面から見返した。
その瞳はどこまでも優しげで。
安心したような、悲しいような。
今にも泣き出してしまいそうな様子だった。
「君が……弥人の弟なのかは分からない。正直、本当に判断がつかないで居るんだ。名前は奇跡的に一致しているし、顔も、弥人に少し似ている気がする。けれど……そうだね。違うのかもしれない。君は、天守優人くんを模倣した、見知らぬ誰かなのかもしれない」
「…………」
「だけど察せられる。君はきっと、血が滲むような努力の末に、そこに立っている。尋常ではない、狂気的な鍛錬の果てにそこに居る。……君の強さは才能じゃない。努力の成果だ」
彼の言葉は、正確に、僕の胸を貫いた。
あぁ、だからこの男は、天守弥人の友人足れたのか。
この男は、どんな理不尽をも『理不尽』と流さない。
その理由を、考えてくれる人だ。
目の前に立つ【自分より強い存在】を、ただの不条理と吐き捨てず、その背後までしっかりと考えてくれた。
それだけで、少しだけ、救われたような気がする。
「どっちなんだろうね。弟なのか、赤の他人なのか。いずれにせよ、弥人から、何かを言われたんだろう? なんて言われたんだい?」
「何も。言われたわけじゃない。ただ、自分で思っただけだ」
あの時、あの瞬間。
天守弥人から、何かを言われたわけじゃない。
いいや、言われた言葉を、思い出せずにいるだけかもしれない。
それでも尚、僕は腸が煮えくり返るような強烈さを伴って、憎悪よりも強く、熱く、大きな決意を胸に抱えた。
「強く在る。その為だけに、僕は生きる」
僕の答えに、何を見出したか。
最上優は、優しく笑った。
「……そうかい。哀しい生き方だ」
「だが、後悔はない」
「だろうね。僕もそう思うよ」
そう言って、最上優は背後を振り返る。
きっと、この男は全て知っているのだろう。
今の僕の言葉が本心であり。
その上で、全てではない、ということも。
その全てを、雨森悠人は最上優へと語らないということも。
きっと、全てを知っている。
ただ、一番知りたいと思ったことだけ知らないだけだ。
「それじゃあ、僕はそろそろ行くよ。3年A組は明日までキャンプがあるんだ。高校生最後の夏休み。謳歌しないと損ってものだろう?」
「……受験勉強はいいんですか?」
「大丈夫。僕は天才だよ? 普通の授業だけで十分事足りるさ」
彼は最後にそう笑うと、片手を振って去っていく。
……のはいいが、おいちょっと。今お前、勉強のできない全生徒へと喧嘩を売ったな? その言葉が命取りになっても知らないぞ……。
僕は大きく息を吐くと、背後のログハウスが開く音がした。
「……む、もう起きていたのか、雨森」
「あぁ、愉か。なんだ、こんな朝早くから」
「ゲームのログインボーナスを……って、慣れないな、その呼び方は」
彼は照れくさそうに笑い、僕も微笑を貼り付ける。
それは、自然と浮かんだ笑顔だったように思う。
……けれど。
随分と、僕も丸くなってきたように思うけれど。
――笑えていると思っている今、僕は本当に笑えているのか?
それが、どうしようもなく不安だった。
自分の浮かべた表情なんて、自分が一番分からない。
笑っているのか、泣いているのか。
いつものように、無表情なのかもしれない。
僕には、僕の表情が分からない。
だって、感情なんて。
あの日、あの瞬間、真っ先に失ったモノだから。
最上優は、過去を見てきた。
天守弥人の友として。
誰より隣で、その輝かしき路を見てきた。
故にこそ、考えるのだ。
何故、あの男が死に絶えて。
この少年は、どういう気持ちで今を生きるのか。
彼は知らない。
最も知りたいことを前に、彼はいつだって蚊帳の外。
一切の情報なく、僕は悩み、荒び、果ててゆく。
されど、新しく入学してきた君を見て。
不思議と、心の底から安心したんだ。
「……君なら、この学園を止められる」
これが無責任な行為と知っている。
この安堵が、最低だとも分かっている。
ただの逃走。現実から目を逸らしているだけと分かっている。
彼に解決を押し付けるのは……本当に、酷だと思う。
ただ、これだけは分かって欲しい。
少なくとも、僕にはできなかった。
出来なかったんだよ、雨森悠人くん。
僕には……どうしても、彼を止められなかったんだ。
次回【後日談】




