3-12『前日譚』
殴れ蹴られ、暴力の果てに訪れたのは、孤独だった。
嵐は去ったが、現状は何も変わらない。
両腕は太いロープによって、木の柱に縛り付けられている。
頬は晴れ、床は血に染まっている。
今生きていられるのは、ひとえに手加減されていたから、だろう。
「う、っ……なんで、なんでこんな目に……!」
痛みで、逆に意識がハッキリしている。
壁まで見通せないほどの暗闇で、時間の感覚すら薄れてくる。
痛くても、辛くても、お腹は減る。
彼女の腹の虫が鳴く。
腹が減った、喉が渇いた、身体中が痛くて痛くて堪らない。
「だ、誰か、誰かいないの……!」
両足をモゾモゾと動かしながら、声を上げる。
されど、反応はない。
誰の気配も感じない。
誰も居ない。
ただ、暗闇だけが広がっている。
「水……ご飯っ、と、トイレも! 誰か……誰かっ」
誰にも声は届かない。
いや、届いていて、嘲笑っているのかもしれない。
喉も乾き、腹を鳴らして、小便も漏らしそうになっている自分の姿を。姿を隠して笑っているのかもしれない。
だとしたら腹の底が熱くなるようで……それ以上に、今の自分が情けなくって。
(こ、こんな力……欲しくなかった! 私にも……私にも! 力があれば! 戦えるだけの力があれば……!)
心の底から溢れ出た願望も、どこにも届きやしないのだ。
彼女には彼女の力があって。
彼女には、それ以外の力はない。
自分に出来ることは限られる。それが、異能を与えられ、彼女が初めて気がついた【学園の残酷さ】であった。
「あ、あぁ、あ、あああああああ!」
限界を迎え、足元に黄色い水溜まりが広がっていく。
既に彼女のプライドはズタボロだった。
心身ともに傷がつけられ、彼女の心に暗い影が落ちる。
それでも、僅かな希望を見いだしていた。
(わ、私の……私の力なら……きっと!)
彼女の力は、嘘王の戯れ。
他人の嘘を見破り。
そして、自身の言葉を信じやすくさせる力。
正確に言えば――【他者の好感度を稼ぎやすくする力】。
殴られても、蹴られても、我慢してやる。
話し続けてやる。
そうすれば、いつか、きっと。
四季は歯を食いしばり、暗闇を睨みつける。
「絶対に……絶対に、後悔させてやる……!」
彼女は、次に来るであろう暴力の嵐へ想いを馳せる。
――されど、いつまで待っても【その時】は来ないのであった。
☆☆☆
どれだけの時間が経っただろうか。
既に時間の感覚は四季いろはの中にはなかった。
まだ、一日程度かもしれない。
はたまた、数週間が経っているのかもしれない。
まぶたを開けても閉じても暗闇しか映らない。
もう、どれだけの怨嗟を吐き出しただろうか。
次なる暴力に怯えて。
それでも必死に前を向いて。
響き続ける痛みに喘いで。
喉の乾きと腹の虫に悲鳴をあげて。
汚物に塗れた地面に、不快感を覚えて座り続ける。
「誰か……誰か、いないの?」
何度目の問いかけだったか。
既に、彼女の中に怨嗟の感情は消えかけていた。
ただ、寂しかった、不安だった。
誰でもいい、姿を見せて欲しい。
誰かと話したい。
なんでもいいから、罵倒でもいいから声が聞きたい。
でないと、心が壊れてしまう。
暗闇が彼女の心を蝕み続ける。
暴力よりも、なによりも。
残酷で、強力な恐怖、それが孤独だ。
彼女の頬を、涙が伝う。
嗚咽が漏れる。
「お願い……します。見ているのなら、笑ってくれていいから……もう、暴力でも、なんでも……受け入れるから。だから……だからっ」
悲鳴が倉庫内に響き渡る。
そして――コツリと、足音が返った。
その音に、四季は咄嗟に反応ができない。
誰も居ない、誰も来ないと思ってた。
そこに現れた【音】に、彼女は固まり……それでも、すぐに顔を上げる。
そして、そこに立っていた少年を見て……目を見開いた。
だって、その少年は、自分の敵だったのだから。
「あ、アンタ……! あ、雨森……」
「大丈夫か? 四季いろは」
驚いた四季の言葉に、雨森は淡々と声を返した。
その声に、その表情に、一切の感情を感じない。
だけど、怒りと殺意と憎悪と……様々な感情に晒され、孤独の限りを味わって、その果てに感じた彼の声は、どこか優しげに感じた。
「ど、どうしてここに……」
「お前が捕まっていると、新崎の話が聞こえた。だから、様子を見に来たんだ。新崎がお前を助ける素振りはなさそうなんでな」
彼の言葉に、絶望……よりも、幸福を感じてしまう。
助けは来ないということよりも。
孤独死してしまいそうで、今にも壊れてしまいそうで。
悲鳴をあげていた心が、彼と話すことで癒されてしまうから。
だから、悔しさよりも辛さよりも、喜びだけがそこにはあった。
「……アンタは、助けてくれないの?」
ふと、飛び出した言葉に四季自身も驚いた。
助けてくれるはずがない、だって、雨森悠人は敵なのだから。
だから、こんな自分を嘲笑うためにここに来たのだ。
(そもそも……先に、星奈さんを傷つけたのは私じゃない!)
星奈蕾をクラスの最底辺に位置付ける。
それが、他でもない新崎康仁の決定だから。
だから、必死になってそれに倣った。
それが自分の身を守るためだと言っても……言い訳にしかならない。だって、自分が、雨森悠人の大切な人を傷つけたことには変わりないのだから。
……そんなもの、助けられなくて当然だ。
彼女は心の中で結論付けて、顔を俯かせる。
そんな彼女の頭を、雨森は優しく撫でた。
「馬鹿を言うな。助けるためにここに来たんだ」
「……っ!」
思いもしていなかった、彼の言葉に。
言葉が出るより先に、涙が溢れた。
だってそれは、一片の曇りなき本心だったから。
噛み殺していた嗚咽が、一気に漏れる。
顔を俯かせ、肩を震わせ泣く四季を、雨森は優しく抱きしめた。
とても、優しかった。
「敵だとか、そういうことは関係なしだ。僕はお前が心配だった。だから来た。他の誰かに言われた訳でもない。……知ってるだろ。僕は守りたいと思う奴のためになら、どんな事でもしでかす男だ」
「う、ん……っ、知っ、てる。わよ……っ」
なにせ、この男は、一人の少女を助けるために、B組へと喧嘩を売ったのだから。だから、この男の言葉は信頼出来る。この男は、守りたいと思った人のためならどんなことだってする。
何故か、四季は心の底からそう思った。
それは、孤独が故の思考放棄だったのかもしれない。
でも、それでいいと思った。
だってこの人は、私を助けに来てくれたんだから。
「ただ……すまない。今、この周辺には尋常じゃない警戒網が敷かれていてな。これを打破し、お前を助けるまでには……もう少し時間がかかる」
「……分かった。……でも、あなたはどうやって――」
不思議に思った四季は、顔を上げる。
警戒網が敷かれているのなら、どうやってこの男はこの場所までやってこれたのか。そんな疑問が頭に浮かんで……ふっと、雨森の人差し指が四季の唇へと触れた。
「これは秘密なんだがな……。僕の能力は【変身】。一度見た相手に姿を変えることが出来る力だ。たまたま見つけた見張りの一人に変身し、ここまでやってきたということだ」
「な、なるほど……便利な力ね」
四季は、どこか照れたように早口で言った。
久しぶりに触れた温もり、誰かの前で泣きじゃくった恥ずかしさ。
そして、誰かと話すことが出来た嬉しさ。
色々な感情が相まって、彼女の頬が赤く染まる。
(こ、ここが、暗くて助かったわ……)
こんな顔、誰かに見せられっこない。
彼女は咄嗟に視線を逸らして……ふと、地面へと目がいった。
そして、声にならない悲鳴が漏れた。
「……っ! あ、雨森! お願い、下は見ないで……!」
彼女の足元には、多くの汚物が溜まっていた。
黄色い水溜まりが床にシミを作り、強烈な匂いが鼻を突く。
四季は大きな悲鳴をあげる。それは、拉致されてから最も大きな悲鳴だったろう。乙女としての譲れぬ一線、自分の汚物、吐物など、同級生の男子には見せられない。だけど。
「これは、恥じることじゃない。お前は頑張った」
雨森悠人は眉ひとつ動かすことなく、背負っていたバッグから雑巾を取りだした。彼は手早く汚物を片付け、床を拭く。
自分の出したものを掃除させていると思うと、四季はどうしようもなく気恥ずかしくなったけれど……なぜだか、無性に嬉しくって、頬が火照った。
「あ、……あ、あり、がと」
「気にするな。……あぁ、一応、水と食料も持ってきたんだ」
彼は、バッグの中よりペットボトルと、小さなおにぎりを取りだした。
その存在に、四季の目の色が変わる。
それは空腹や喉の乾きのせいもあるが、自分の汚物から話題をそらせると思ったからだ。
「う、うん! 食べたい! 喉が渇いてしょうがないの……」
「分かった。落ち着け、今飲ませる」
そう言うと、雨森はペットボトルを四季の口へと近づけてくる。
頭の後ろに手を当てて、飲みやすいよう、少しずつペットボトルを傾けてくれる。その一挙手一投足にも優しさを感じて、四季の胸の中には、水が染み込むように歓喜が広がってゆく。
その後も、気恥しさを覚えながらおにぎりを食べさせてもらった四季は、立ち上がった雨森を見上げた。
「……すまない。今すぐにでもお前を救ってやりたいが」
「わ、分かってる。今の状況じゃ、どうしようもないんでしょ? 安心してちょうだい、あなたが助けてくれるまで、何年だって耐えてやるわよ!」
四季の心に、余裕が生まれていた。
それは、雨森悠人の優しさに触れたが故だった。
彼の優しさはまるで麻薬で。
一緒に居るだけで、話しているだけで、辛さを忘れられる。
「それに、また来てくれるんでしょ……?」
「当たり前だ。僕は、お前を見捨てない」
「……っ、そ、そう! な、なら、いいわっ」
彼女は恥ずかしさに顔を背ける。
その光景に、雨森悠人は笑った気がした。
「あぁ、また来る。待っていてくれ」
驚いて彼を見るも、既に彼は無表情へと戻っていた。
彼の笑顔が見れなかったのがなんだか心残りで。
でも、また来てくれると言ったことが無性に嬉しくて。
「うん、待ってる。待ってるから……!」
四季いろはは、笑顔で叫んだ。
ありったけの喜びを、言葉に込めて。
☆☆☆
それからも、雨森悠人は度々やってきた。
一日周期か、それとももう少し長い周期だったかもしれない。
相変わらず、雨森悠人以外には誰も来ない。
暗闇の中は孤独で、冷たくて、垂れ流す汚物が気持ち悪くて。
でも、大丈夫だった。
だって、雨森悠人が居るから。
彼は来る度、四季いろはへと優しさをくれた。
水を飲ませてくれた、汚いものだって嫌がらずに片付けてくれた。
優しく撫でてくれた、声をかけてくれた。
ずっと、味方で居てくれた。
四季は、いつの間にか彼のことばかり考えるようになっていた。
新崎康仁の事など、とうに頭にはなかったと思う。
次はいつやって来るだろう。
次はどんなことを話そう。
次も頭を撫でてくれるだろうか。
次こそは、笑顔を見せてくれるだろうか。
彼女は不遇でも、幸せだった。
こんなにも大きな幸せは、今までに感じたことも無い。
青春が退屈に思うほど充実していて。
彼女の心は癒されていて。
――だからこそ。
雨森悠人が来ない事実に、心が震えた。
どうして、なんで、見捨てられた?
そんな不安――――なんて、一切なかった。
あったのは、雨森悠人への心配だけだった。
なにか、あったんじゃないか。
ここまで来るのに、捕まってしまったんじゃないか。
はたまた、新崎康仁に絡まれているんじゃないか。
様々な不安が頭を過り、募り、心に再び影が差す。
最初の絶望なんて、比じゃないくらいに。
彼のことで頭がいっぱいで、どうにかなってしまいそうだった。
なんで、どうして。
どうして私は、彼の役に立てないの。
私が彼に、どれだけ救われたか。
今度は私が、彼を助けたいのに。
彼が望むなら、なんだってやってやる。
彼の恩に報いるため……なんかじゃない。
ただ、私がやりたいのだ。
彼の役に立ちたい。
そうすればきっと、私は彼の隣に居られるから。
また、頭を撫でてもらえる。
抱きしめてもらえる。
笑顔を向けてもらえるかもしれない。
そこまで考えて……彼女は理解した。
「……あぁ、私は、あの人のことが好きなんだ」
理解した瞬間、彼女の中で何かが晴れた。
否、壊れたと言ってもいいかもしれない。
既に不安はなく、心配だけが心に残る。
自分がどうなったって構わない。
ただ、雨森悠人が無事であれば、それでいい。
彼女はまぶたを閉ざし、大きく息を吐く。
そのために、私ができることは。
そこまで考えて――ふと、彼女は気がついた。
遠くから聞こえてきた、喧騒に。
「……? な、なにが……」
その喧騒は、徐々に大きくなっていく。
まるで、男たちが殴り合いをしているような。
戦争が勃発してしまったような。
凄まじい轟音に、剣戟の音に、破壊音に。
彼女は体を竦めるが……すぐに、その音はピタリと止んだ。
「…………?」
不思議に思って、彼女はまぶたを開く。
そして――凄まじい音と共に、眩い光が倉庫へと入り込んだ。
彼女は久しぶりに感じた光を前に、まぶたを閉ざして。
それでも感じた【優しい匂い】に、体を硬直させた。
「悪い、少しだけ……遅くなった」
目が痛むのも気にせずに、四季いろはは目を見開いた。
霞む視界で前を見すえる。
倉庫の入口は木っ端微塵に砕かれていた。
外から溢れ出す光は優しくて……その光を背に、一人の少年がたっている。
身体中に傷を残して。
満身創痍になりながら、自分の方へと歩いてくる。
「あ、あま、もり……っ」
「……なかなか、退ける気配が見当たらなくて。仕方ないから、全員倒した。……骨が折れたよ、物理的に」
彼はそう言いながら、四季の拘束を解いた。
その体はいつになく儚げで……四季は、拘束が解けた瞬間、雨森悠人の体を強く、強く抱き締めていた。
「よかった、よかった……無事で、無事でいてくれて!」
「……僕も、四季を助けられて……本当に良かった」
雨森もまた、四季の体を抱きしめる。
外から差し込む光が、二人を照らす。
四季の心の中を優しさと安堵と恥ずかしさと、様々な感情が包み込み、彼女は雨森悠人の優しい匂いを、おなかいっぱいに吸い込んだ。
そして、幸せそうに微笑んだ。
(私はやっぱり、この人が好きだ)
私を助けてくれた人。
私に優しくしてくれた人。
私のために、命をかけてくれた人。
この人の為になら、なんだってやってやる。
彼がやれというのなら、人だって殺す。
どんなことだって、笑顔でやってやる。
それほどまでに雨森悠人が愛おしい。
狂おしいほどに、彼が好きだ。
愛している、心の底から。
「……悠人。世界中の誰より、大好きよ」
かくして、四季いろはは、雨森悠人に恋をした。
☆☆☆
それが、今回の前日譚。
雨森悠人と、新崎康仁。
二人が戦う、直前にあった物語。
倉庫から出てみれば思ったより時間が経っていなかったり。
私を攫ったクラスを特定できなかったり。
不思議なことは多々あったけれど、今の私にとって悠人以外のすべては些事だ。
新崎康仁は、雨森悠人から興味をなくした。
雨森悠人が敗北したことにより、彼を格下と位置づけた。
まぁ、それこそ彼の狙いだと思うけれど。
そも、雨森悠人は負傷していた。
なにせ、単体で二年生の一クラスを崩壊させたのだ。
彼は傷を負いながら、新崎と戦った。
心配だった、心の底から。
でも、顔に出すなと言われているから。
必死になって、歯を食いしばって全てを耐えた。
あぁ、悠人。
私はあなたが心配だけれど。
それでも、あなたが言うのなら、この悲しみさえ押し殺す。
ねぇ、新崎。
アンタ、とんでもない人を敵に回したの、分かってる?
自慢だけれど、あの人は最強よ。
強さ、賢さ、優しさ。……そして狡さ。
どれをとっても世界最強だと思ってる。
いとも簡単に星奈さんを取り戻し……こうして、【四季いろは】という『スパイ』をB組の中に作り出した。
加えて今回の戦いで、自分の存在を新崎の意識外へと位置づけ。
結果として雨森悠人は、1年B組の誰からも警戒されなくなった。
例えその場で負けたとしても。
こうして最後まで終わってみれば、最終的な目標はいつの間にか完遂している。
まるで理性の獣、合理性の塊のような彼を思い出し、私は少し微笑んだ。
満足気に笑った新崎の姿を見る。
きっと、彼の中には朝比奈霞と、黒月奏のことばかり。
どんな方法で倒してやろうか。
どんな結末を見せてやろうか。
そんなことを考えているから……足元をすくわれる。
「ねぇねぇ、いろはー! あの二人、どうやって潰したい?」
彼の考えていることなんて、どうだっていい。
私が大切に思うのは、たった一人だけ。
世界中の誰を敵に回したところで、私は必ずあの人の隣に立ち続ける。
そのために。
彼が望むというのなら。
私は私のまま、笑顔を造る。
「そうね、例えばこんなのはどうかしら――」
そして今日も私は【四季いろは】を演じ続ける。
目的はただ一つ。
――雨森悠人の願い通り、新崎康仁を破滅させること。
そのためになら、どんなことだってやってみせる。
たとえあの人のすべてが、嘘で出来ていたとしても。
少女は初めて恋を知る。
暗闇の中で、孤独の中で。
知った優しさを、温もりを。
微笑み抱いて、彼を愛した。
されど少女は。
それが不出来な恋だと知っている。
でも、それがなんだと笑い飛ばした。
たとえ彼が嘘で出来ていようと。
たとえその恋が偽物だろうと。
誰からも祝福されなくても。
この先には、破滅しか待っていなくても。
この胸に宿る愛だけは、本物だから。
彼女は、今日も彼を愛し続ける。
きっとこの先も、いつまでも。
彼女自身が擦り潰れる、その日まで。
次回『後日談』




