2-11『黒月奏』
少年は善性だった。
自分の才能が誇らしかった。
何でもできるし、何にでも手が届く。
自分の才能は、きっと誰かの役に立つ。
そう、信じていたんだ。
あの日までは。
黒月奏は、生まれながらの天才だった。
一度見た事は、大抵のことが出来た。
初心者であっても、経験者と同じことが出来た。
スポーツも、一度見学すれば、チームに混ざることだって出来た。
チームのエースとして、活躍することが出来た。
勉学に限ってもそうだ。
授業をまともに聞いていれば、満点が取れた。
特に苦労をすることなく、最高得点を叩き出せた。
「僕は天才だから」
幼き彼の、口癖だった。
決して、自分に酔っているわけではなかったのだ。
ただ、事実として口にしていた。
どうしてそんなにできるの?
どうやったら上手にできるの?
なんでそんなに勉強できるの?
同級生の、子供らしい問い掛けに。
謙遜するでもなく、慢心するでもなく、自慢するでもなく。
自分は天才だからね、と。
だからもっと頼ってほしい。
この才能は、みんなのために使いたいから。
みんなを笑顔にするための力だから。
だから――
……だから、理解が出来なかった。
――どうして、彼は……泣いているのだろうか?
☆☆☆
二年前。
黒月奏、中学二年生の頃。
彼には、親友と呼べる少年がいた。
「おー奏! 帰りゲーセン寄ってくべ!」
「……イツキ、ここら辺にゲーセンなんてないよ」
黒月は、柔和な笑顔で少年へと声を返した。
イツキと呼ばれた少年は「そりゃそうだな」と、いつも通り、人懐っこい笑顔をうかべた。
北海道の、田舎町。
学生も一学年に二クラスで足りてしまうような、小さな町。
そこに、黒月奏は住んでいた。
友人や教師には、その才能は広く認められていた。
それでも彼は、あくまでも『町内の有名人』という程度で、収まっていた。
「おーっす! 二人とも、今日は居眠りしてなかったね!」
二人へと声をかけてきたのは、クラスメイトの少女だった。
「へへー! 今日は朝練なかったから余裕だったね!」
「まぁ、僕は居眠りなんてしたことないけどね、カナエ」
カナエと呼ばれた少女は、二人の返事に満足気に笑った。
カナエは、イツキの幼なじみであった。
小学校の時に転校してきた黒月とも、既に五年近くの付き合いになる。
腐れ縁と呼ぶべきか、小学校の転校時から、今に至るまで、三人は一度たりとも別れることなく、同じクラスになり続けた。
といっても、一学年に二クラスしかないため、確率的には十分に有り得る偶然だった。
「もー、イツキ! もうそろそろテストあるんだから、ちゃんと勉強しないとダメだよ! あ、そうそう奏、勉強おせーて?」
「て、てめぇ! なーにしれっと奏に勉強頼んでんだよ! 俺が先に頼もうと思ってたのに――」
「はいはい、二人とも落ち着いて。それと、自分で勉強したらいいんじゃないの? 僕に頼らないでさ」
最初から断るつもりなんてこれっぽっちもないけれど。
黒月は、冗談としてそう言った。
「「そうしたら赤点だろ(でしょ)!?」」
二人の声が重なり、クラスに響く。
いつも通りの、幼馴染同士、息の合った夫婦漫才。
黒月は微笑ましそうに二人を見ながら、やれやれと肩をすくめる。
「いやー、自信ないんだよねー。二人とも普段から勉強してないから、勉強の基礎も出来てないし」
ものすごい棒読みであった。
自信なんてあるに決まっている。
けど、大切な友人として。
もっと日ごろから勉強しなよ、と遠回しに告げる。
……まあ、その遠回しも伝わらなかったようだが。
「は、はぁ? こいつよりは勉強できる自信あるんですけどー」
「ふっざけんなよ! 前回国語の点数5点だった奴が何言って――ぶげらっ!?」
カナエの肘打ちが、イツキの腹部に突き刺さる。
国語、5点。
あまりの悲惨な結果にクラス内が沈黙する。
黒月が『正気か?』とでも言わんばかりの表情を浮かべ、イツキが腹を押さえて蹲る中、カナエは恥ずかしそうに頬を染めた。
「私たちだけの……秘密、だよ?」
「いや、もうみんなにバレて――」
「いいからっ! お願い! これ以上点数下がったらお小遣い減らされちゃうのよ! お願い奏ぇ!」
それ以上、どうやったら下がるのだろうか?
黒月はそんな言葉を飲み込んで、ため息混じりに返事した。
「……わかったよ。できる範囲でなら、教えてあげる」
「あっ、ありがとぉ、奏ぇ!」
涙を浮かべたカナエは、思いっきり黒月へと抱きついてくる。
黒月は驚いたように、恥ずかしそうに頬を染める中、見るからに焦ったイツキが声を上げた。
「ちょ! な、何やってんだお前ら! ちょ、離れろよー!」
「えー、なに、もしかして妬いてんの? だっさー!」
「はぁ? 誰がてめぇみたいなブsぶぐげっはぁ!?」
再び肘打ちがイツキに突き刺さり、黒月は苦笑う。
イツキが馬鹿やって、カナエがそれに乗っかって。
いつも自分が、それを見て笑ってる。
とても幸せな時間。
心がほっこりするような。
暖かくて、オレンジ色の世界。
「お、おい……笑ってないで、助け……」
「だ、大丈夫? ちょっとカナエ、やりすぎじゃ……」
「はんっ! コイツがこの程度で死ぬわきゃないでしょ!」
「殺す気か!?」
イツキが騒いで、なんだかんだで三人一緒に笑い合う。
やがて、クラスから一人、また一人と姿を消してゆき、カナエもまた部活動の時間が迫ってくる。
「あっ! もうこんな時間……、ごめん二人とも、もう行くね!」
「二度と帰ってくんなよー」
「意地でも帰ってきてやるわよ!」
そう言って、カナエは部活動へと向かう。
特に部活に入っていなかった黒月と、部活が休みだったイツキは、どちらともなく席を立ち、二人一緒に帰途へ着く。
「そーいや、昨日のテレビなんだけど――」
高校一年生となった黒月は、語る。
きっと、この時が一番、幸せな時間だっただろう。
☆☆☆
「はぁっ、はぁっ……く、くそ……!」
イツキは肩で息をしながら、両膝に手を突いていた。
体育の授業、今日はサッカーの時間だった。
黒月は敵陣のゴールへとシュートを決め、黄色い悲鳴が飛び交った。
その中にはカナエの姿もあり、その姿を見て、イツキは苛立ちを見せていた。
「カッコイイよ奏え! そしてカッコ悪いイツキ!」
カナエの声が響いて、黒月は苦笑する。
「気にしたら負けだよ。ただの挑発だから」
「わかってんよ、それくらいは……」
ただ、分かっていても心のうちには不満が溜まる。
なぜ、どうして自分は活躍できない。
どうして、黒月はこんなにも活躍している?
「な、なぁ! 奏!」
「……ん? どうしたの、イツキ」
考えるより先に、声が出ていた。
不思議そうに問い返す奏に、イツキは困る。
その先が、どうしたって出てこない。
だから、苦し紛れに子供みたいなことを聞いてしまった。
「ど、どうしたら……そんなに上手くできるんだ?」
分かりきった質問だった。
なんでこんなことを聞いたんだ。
黒月だって答えづらいだろうに。
そう考え、『やっぱ無し』と言いかけたイツキへ。
「僕は、天才だからね」
即答で帰ってきた言葉は、深くイツキの心を抉った。
理由は分からない。
黒月が天才だって言うことは、誰もが認めていた。
イツキも理解していた。
だけど、本人の口から言われるとでは、全く別の――。
「……イツキ?」
「……っ! な、なんでもねぇよ。……変なこと聞いて悪かったな」
イツキは、そう言ってボールの方へと走り出す。
一人残された黒月は首を傾げつつも、彼の後へと走り出した。
黒月がイツキを追い越したのは、走り出してまもなくの事だった。
☆☆☆
「おお! やったぜ! カナエ、奏!」
今日は、テスト返却の日だった。
イツキは帰ってきたテストを見て嬉しそうな声を漏らしており、イツキの答案用紙を見た二人は大きく目を見開いた。
「う、嘘……! どれも『90点』近く取れてるじゃない……! なに、アンタもしかして……カンニング」
「してねぇよ! 人の努力を不正にするんじゃねぇ」
「冗談よ。勉強頑張ってたのは、私が一番知ってるし」
今回、イツキは猛勉強を重ねていた。
その理由は、カナエにいいところを見せたいから。
運動じゃ、奏には絶対に敵わない。
ここ数年の経験から、イツキは察していた。
だからせめて、勉強で見返してやるんだ。
どーだ、俺だって出来るんだぜ、と。
イツキは意気揚々と、黒月へと視線を向ける。
かくしてそこに居たのは、微妙そうな表情を浮かべた黒月だった。
「……嘘、だろ?」
黒月の普段の点数を、イツキは知らなかった。
よっぽど勉強ができる、というのは知っていた。
だけど、自分が不甲斐ない点数を取っているため、わざわざ彼の点数を知ろうと思えなかったのだ。だから、これだけ取っていれば勝ったと思った。
だけど、違った。
「いやー、実は」
広げられた解答用紙は、どれも満点。
教員が『答えられないだろう』と作成した問題さえ、模範解答で答えて見せていた。誰が見ても文句の付けようがない、『100点満点』の答案だった。
「す、すごいっ! 奏ってば、やっぱり勉強できたのね!」
「やっぱり、ってなにさ。前から言ってるでしょ」
イツキは、『はっ』と目を見開いた。
彼の直感は正しく、黒月は例の言葉を口にする。
「僕は、天才なんだって」
その言葉は、もはや呪いだった。
☆☆☆
『僕は天才だから』
幾度となく、その言葉を聞いた。
その言葉を聞く度に、心が締め付けられた。
胸が痛んだ、気分が悪くなった。
彼に悪意なんてないとわかってる。
黒月ほどいい奴なんて、イツキは一人だって知らない。
いつだって他人を優先して。
そいつのためになろうと、一生懸命に考えてる。
多くの人が彼に助けられた。
イツキやカナエとて、助けられたのは一度や二度じゃない。
何度も何度も助けられた。
感謝だってした。……してるはずだ。
この町に、彼を知らない人はきっといない。
黒月奏は、この町のヒーローだから。
……だけど、それでも。
黒月奏のあの言葉が。
あのセリフが脳裏をよぎるたび。
彼との思い出を、黒く染め上げていく。
そして、怒りが湧いて来るのを感じた。
☆☆☆
「……最近、なんか遊べてないね、イツキ」
「……あぁ、そうだな」
帰り道。
カナエと別れ、二人きりになった夕暮れのあぜ道。
両脇の田から、カエルや虫の鳴き声がする。
黒月は、イツキの雰囲気がおかしいことに気付いていた。
だから、何とかしようと思っていた。
いつも通り、いつも通り、普段みたいに。
幸せな時間を、再現するみたいに。
「カナエも言ってたよ。『イツキ、最近、なんか付き合い悪くない?』って。……何かあったなら言ってよね。友達でしょ?」
「……あぁ、そうだな」
先程と、同じ答えが返ってくる。
黒月は困ったように笑いながら、次の言葉を探す。
そして……ふと気がついた。
イツキが、立ち止まっていたことに。
「……どうしたの、イツキ?」
「…………なぁ、お前、勉強したことあるか?」
突然の問い掛けだった。
当然のように困惑した黒月は、嘘偽りなく答えを返す。
「い、いや……特には?」
「じゃあ、スポーツは……。死に物狂いで練習したことあるか? 誰かに負けじと、寝る間も惜しんで頑張ったことは――」
「な、無いけど……それが、どうかしたの?」
黒月が、少し引いたように言葉を返して。
その言葉に、その姿に、イツキの怒りが爆発した。
「ふッ――――ざ、けんなよッ!」
突然の咆哮に、黒月は大きく目を見開いた。
「なんでだ、なんでだよ! 奏! お前は……俺がどれだけ頑張ってるか知ってるか!? てめぇが……てめぇがカナエと遊んでる間も、必死こいて勉強してんだよ! てめぇが余裕面ぶら下げてる間も、必死こいて努力してる! 部活もやめて、何もかも捨てて頑張ってる……! それなのに……お前はぁ……ッ!」
「い、イツキ……?」
黒月から、困惑の声が飛ぶ。
その声を受け、イツキは正気に戻ったように目を見開いた。
自分の言ったことを理解するまで数秒。
やがて口元を押さえたイツキは、黒月へと、蚊の鳴くような声で『ごめん』と謝った。
だけど、一度さらけだした本音は、もう戻せない。
「……理解、出来ねぇんだろうな、お前は」
イツキの言葉に、黒月は返事を返せなかった。
その通りだったからだ。
「お前は天才で、なんでも出来るだろうさ。それに対して俺は凡人。なんにも出来ねぇし、死に物狂いで努力したって……お前にゃ届かなかった」
やがて、俯いていたイツキは顔を上げる。
その表情を見て、黒月は目を見開いた。
だって彼は、泣いていたから。
「な、んで……」
「俺はさ、カナエの事が好きなんだよ」
知っていた。
そして理解が出来なかった。
なぜ、このタイミングでそう告げたのか。
なんで、彼は……泣いているのか。
「アイツに相応しい人間になりたくて、一生懸命に努力した。……知ってたか? あいつ、陸上部のエースなんだぜ? 毎日毎日頑張って……対する俺は、なんの取り柄もないただの凡人。せめて、一つだけでも、他のどんなやつにも負けない武器が欲しかった。……だけど、お前はその全てで、俺の上をいってた。俺はお前には勝てなかった。何ひとつとして、な」
「イツキ……、ぼ、僕は……」
「知ってるよ。お前が俺たちを応援してくれてること。カナエが、俺のことを心配してくれてること。だけど、だけど、よぉ……!」
イツキは、泣いていた。
誰もいないあぜ道、夕暮れを背に。
悲しみを湛えたオレンジ色の中で、慟哭した。
「俺は、お前が憎くて憎くて……堪らない!」
それは、醜い嫉妬だった。
黒月も、今までに少なからず受けた経験のあるものだった。
だけど、今回のは、違う。
心から信頼していた、親友から。
他の誰より大きな、憎しみを受けた。
それは、中学二年生の彼にとって、重すぎる感情だった。
「………………ぁ」
パキリと、変な音がした。
黒月奏の、大切な『何か』が、壊れる音がした。
気がつけば、黒月は走り出していた。
背後から、イツキの制止の声が飛ぶ。
『悪かった』『言いすぎた』『頼む、話を聞いてくれ』
そんな言葉は全て置き去りに、黒月は走った。
走って、走って。
まっすぐ家まで帰って、部屋に籠った。
その日から、黒月が家から出ることはなくなった。
毎日のように、イツキとカナエは黒月の部屋の前までやってきた。
謝罪の声が聞こえた、涙する気配があった。
心の底から心配している、二人がいた。
されど、扉はもう開かれない。
部屋の扉は閉ざされたままで。
黒月が、二人と顔を合わせることは、二度とない。
やがて、時は流れて、中学三年生の春。
黒月は、初めて二人とは別のクラスになったと。
風の噂で、耳にした。




