2-10『負ける正義と登壇する悪』
朝比奈霞は、橘月姫を倒さねばならない。
その事実を前に、朝比奈霞は硬直した。
誰が見たって分かる。
橘月姫は、熱原永志の被害者だ。
頬は腫れ、額からは僅かに流血している。
骨が折れているのか、肩を抱いて震えている。
乱雑に掴まれた髪は不規則に跳ね上がり。
その身の全てが満身創痍を表している。
彼女は、朝比奈霞にとって守るべき存在だ。
だけど、橘月姫は『参った』とは口にしないだろう。
それは、熱原永志が怖いから。
彼が怖いから、決して自分から降参したりしない。
つまり、彼女に勝つには、朝比奈が橘を殴り、気絶させなければならない。正義が守るべき者へ手をあげなければならない。
そうしなければ、朝比奈霞は熱原永志と戦えない。
「……ッ! こ、この――ッ!」
「吠えてやがるぜ負け犬が。みっともねぇったらありゃしねぇ」
熱原が、遠方から余裕の表情を見せている。
その姿に朝比奈嬢は大きく歯を軋ませる。拳を限界まで握りしめ、目の前の橘へと視線を向けた。……それは、朝比奈嬢が最後に取れる抵抗だった。
「……橘、月姫さん、といったかしら。……お願い、降参して」
「……っ、い。いや、ですっ!」
朝比奈嬢の言葉に、橘は過剰とも呼べる反応を見せた。
その瞳には恐怖の感情が映っていた。対する熱原は余裕の表情を一切崩さず……僕は、その薄ら寒い光景を無表情で見つめていた。
「……っ、あ、安心して頂戴。私が熱原君を倒せば、貴方は暴力から解放されるのよ! そうすれば、そんなに怖がることも――」
「あ、貴方は……絶対に、A組には、勝てない……っ!」
もはや、聞く耳も持たない橘。
朝比奈嬢は目を見開いて、たたらを踏む。
愕然、って言葉がふさわしい様子だった。
その光景に、周囲の動揺が絶望に変わった。
クラスメイトも、理解しただろう。
朝比奈嬢は、橘月姫には勝てない。
負ける、確実に敗北する。
それ以外に『橘月姫を傷つけない手段』は存在しないから。
なんたる愚鈍。
なんたる甘さ。
しかし正義の味方とは、元来そういうもので。
その幻想に憧れた以上、お前が今後直面する苦難は計り知れない。
責めはしないよ、朝比奈霞。
そういうものだから。
お前は正しくここまで生きた。
正しく発言し、正しく行動し。
故に、お前が直面している危機もまた正当なものだ。
相手が誰だったにせよ。
遅かれ早かれ、こういう場面はやって来ていた。
そして僕は、どうせ挫折するなら早い方がいいと考えた。
だから何も口出ししなかったし。
今回ばかりは、朝比奈が敗北するとも確信してる。
「……佐久間」
僕は、近くにいた佐久間へと声をかける。
彼は驚いたように僕を振り返ったが、僕の目を見て、数秒固まり、やがて大きなため息を漏らした。
「……ったく、仕方ねぇなァ」
彼はボリボリと頭を掻きながら、朝比奈の方へと歩き出す。
注目が佐久間へ集まる。
熱原はさらに笑みを深めるが、特に興味はない。
佐久間は朝比奈の肩へと手を乗せると、彼女は大きく身体を震わせた。
「おい、正義の味方。選手交代だ」
「さ、佐久間……君? で、でも、こんな――」
「こんなも何もねぇんだよ。……素直に認めろや。今回、てめぇは熱原の策に負けたんだ。俺ァ、生意気な野郎と現実逃避野郎は嫌ェなんだよ」
さっすが佐久間、言い方が悪い。
一歩間違えばブーイングものだが、間違えないからクラスカーストの頂点に立っていられるのだ。
彼は熱原を強く睨むと、頬を吊り上げる。
「……まぁ、良かったがな。俺ァ、ああいう野郎がいっちばん気に食わねぇんだ。朝比奈、てめぇなら一人で全員ぶっ殺せるんだろうが……アイツだけは俺が殺りたかったんだよ」
「さ、佐久間君……」
さっすが佐久間、言い方が酷い。なんか残虐。
でも、いいこと言った。朝比奈嬢からの好感度がちょっと上がったぞ! その調子で朝比奈嬢の注目を全部掻っ攫っていってくれると非常に助かる。僕への注目を全部奪ってくれ、頼むから。
「おい審判! 朝比奈は降参、選手交代だ!」
「……朝比奈霞さん、よろしいですか?」
審判の生徒からの言葉に、朝比奈嬢は唇を噛み締める。
彼女の視線がこちらへ向かう。
周囲の生徒たちは皆、朝比奈嬢を見ていた。
彼らの瞳に映っているのは侮蔑の情……では、決してない。
「まぁ、しょうがねぇよ、あとは佐久間に任せとけって!」
「そうだよ! 次頑張ればいいんだって、朝比奈さん!」
「うん! あんまり気にすんなよー!」
「朝比奈さんと一緒に作戦考えた、私たちの責任だからさ!」
周囲からは、励ましの声が響いていた。
それらの声に涙しながら、朝比奈嬢は審判へと返事を返す。
「………………は、い。降参、します」
その言葉に、遠方から熱原の爆笑が響く。
審判員が頷き、朝比奈嬢は帰還する。
……まぁ、佐久間が負けたら、次僕だし?
こういう状況を予想していて、それでも『何も言わない』と決めた僕にも責任はある。
朝比奈嬢は、僕の隣を通り過ぎる。
その際に、僕は一言だけ彼女へ告げた。
「あとは任せておけ」
佐久間にな。
☆☆☆
「はいはーい、A組も降参するぜー! 橘は負けってことで、次はお待ちかね、お前らが大っ嫌いな熱原永志だ!」
熱原の声が響いた。
佐久間は悪いヤツじゃないが、正義の味方じゃない。
橘だって、倒そうと思えば倒せるだろう。
心は痛めど、気絶させることも出来るはず。
だからこそ、熱原はあっさりと橘を引っ込めた。
彼は中央まで躍り出ると、足を引きずって歩いていた橘を乱暴に押し退けた。
「きゃっ」
「……! おい、てめぇ!」
その光景には佐久間が激昂するが、熱原はどこ吹く風。
口笛を吹いて余裕をかましており、その瞳は佐久間の姿さえ映しちゃいない。明らかに舐め腐っている姿に、佐久間の額に青筋が浮かぶ。
「……てめぇとは、この拳で決着つけてぇと思ってたんだ」
「へー! 俺は特になんとも思ってねぇけどなぁ。どーせ、お前、負けるんだろ? 負け犬の顔なんざ、多分明日にはぜーんぶ忘れちまってるだろうからな」
いつも通りの挑発、舐め腐った態度。
それを前に、佐久間は大きく深呼吸して。
――そして、その身を炎で焼いた。
否、炎を纏った。
十数メートル離れた距離でも、焼けるような熱を感じる。
知らず知らずに僕らは後退り、熱原は『ヒュウ』と口笛を鳴らす。
「へぇ、それがテメェの『異能』ってやつか」
「あぁ、覚えとけクソ野郎。てめぇが敗北する力の名前だ」
かくして、佐久間はその名を告げる。
「【溶岩の王】」
それは、ありとあらゆる熱を司る、王の権能。
きっと、僕なら触れようとした瞬間に焼き殺されるな。
そんなことを思いながらも……ついと、黒月の方へと目をやった。
彼は……興味無さそうに、明後日の方向を向いている。
この戦いにも、勝敗にも、なんの関心も無いと言わんばかりに。
その姿に、僕は一人頭をかいた。
クラスメイトたちの注目は、既に佐久間へと映っている。
嘘偽りなく公表している中では、朝比奈嬢、黒月の能力に次ぐチート能力。
期待するなという方がおかしなもの。
だけど僕は、敗北を想定して動こうと思う。
佐久間が負けたら――。
次は、僕が潰される番だ。
潰されてしまっては、何も成せず、何も残せない。
ならば、佐久間が戦っているうちに、仕込みを全て終わらせておこう。
ちらりと倉敷へと視線を向ける。
彼女は僕の方を見つめている。
その表情に、一切の『焦り』は無い。
他でもない、僕が出場すると知っているから、かな?
だとしたら期待しすぎです。
あの佐久間が勝てないんだとしたら、僕は熱原には勝てないからな。たぶん、きっと、おそらくな。
だから、期待するなら僕じゃなく、黒月にしてやってくれ。
僕は大きく息を吐く。
遠くで、一人佇んでいる黒月へと向かい、眼前で立ち止まる。
彼は驚いたように僕を見下ろし、僕は無表情で話しかけた。
「黒月奏、話をしよう」
「……話、だと?」
僕の提案に、黒月は警戒を顕にした。
そりゃそうだ、彼は僕の異常性を、一端だが知っている。
僕は意図して彼の攻撃を躱し、受け止め、耐えた。生身でだ。
故に、彼はきっと僕のことを『意識』している。
良くも悪くも、だとは思うけどな。
「……悪いが、話すようなことは何も――」
「お前に無くとも、僕にはあるぞ」
最後まで言葉を言わせない。
彼は呆れたように僕の目を見て……そして、大きく目を見開いた。
彼が、僕の目に何を見たかは知らない。
彼ほどの天才なら、平凡な僕の目にも、何かを見出したのかもしれない。
けれど、興味ない。
そんなもんはどうだっていい。
僕が興味を持っているのは、ただ一つ。
僕は彼を見上げたまま、たった一言問いかけた。
「お前は、何を考えて生きている?」
存外、哲学的な問いになりそうだった。
次回【黒月奏】




