11-6『倉敷蛍の失ったヒト②』
それは、私が小学校に上がる前の話。
私の姉――倉敷遥は学内でも有名な人物だった。
まず、美人である。
あの年齢で『かわいい』より『きれい』と呼ばれる時点でお察しだ。
常軌を逸した美しさ。
そこに在るだけで万人の目を引く美貌。
その時点で有名人と呼んで差し支えなかっただろう。
だが、姉はそれだけではなかったんだ。
彼女は精神性まで、同じ人間とは思えないほど完成されていた。
弱い者いじめは見逃さず。
仲間外れは決して許さず。
誰かが一人になるというのなら。
私もいっしょに一人になれば、二人になるね、と。
笑いながら言うような人だった。
『蛍、困っている人を助けるのに理由なんていらないのよ』
いつか、私に姉がそんなことを言ったのを覚えている。
私は、それに対して納得は出来なかった。
困難は自分で乗り越えるべきもの。
助けられてるだけじゃ、いつまでたっても成長できない。
だから――と。
そう思ったけれど。
姉の周りに集まった幸せそうな人たちを見て。
私の考えもきっと正しいのだろうけれど。
姉の在り方もまた正しいのだと、心の底から実感した。
だから、私は姉が誇らしかった。
私とは違う考えを持つ人。
それでいて、私とは違う正しさを貫く人。
私は彼女が大好きだった。
畏敬という感情を親愛として扱っていいのかは知らないけどさ。
姉はいつだって、どんな状況だって上手くやる人で。
だからこそ、世界は倉敷遥を中心として回っているのだと。
彼女こそが主人公なのだと。
そう、心の底から確信していた。
対する私は……まあ、ガキの頃から汚れてたよ。
穢れを知らず不正を知らず。
そんな姉とは正反対。
思考は汚れ、不正も生きやすくなるなら飲み込める。
それでも、良心だけは備わっていたから。
あの姉にしてこの妹あり、と呼ばれるように。
四方八方へといい顔をして、ご機嫌を窺って生きていた。
『お姉ちゃんと同じで、いい子ねぇ』
そう言われるたび、心がちくりと痛んだ。
そういう評価に落ち着くよう、狙って得た好感のはずなのに。
私みたいな『まがい物』と、あの『本物』が同一視されていることが嫌だった。
だから、なのかな。
あんな風に生きてみたい。
心の底から誰かのためにと、生きてみたい。
そう思った回数は、一度や二度じゃなかった。
今にして思えば、それは『憧れ』だったのかも。
ゴミが星に嫉妬するような、酷い憧れだったにしても。
私は、あの人になりたかった。
大好きなあの人みたいに生きてみたかった。
その思いに、一切の嘘はない。
……けど。
『蛍ちゃんも可哀想だよ、あんなお姉ちゃんと比べられてさ!』
『………………はっ?』
その日は、幼稚園の男子が騒いでいた。
どこにでもいる、大声を出せば目立つと勘違いしてるガキ大将。
加えて、姉に告白して振られた経験まで持つと来た。
そのクソガキは、姉を恨んでいたし。
姉に振られたからって、その代わりとして私の好感を引こうとするクソ野郎でもあった。
『……どういうことかな?』
私は笑顔を作って、クソガキへと問い返す。
『どーもこーも、あいつムカつくんだよ! 何でもできるし、先生にはいい顔するしさ! 蛍ちゃんもあいつの妹ってことでいつも言われてるじゃんか! お姉ちゃん、お姉ちゃんって!』
『……』
嘘、ではなかった。
私は何かにつけて姉と比べられた。
当然、全部劣ってるんだけど。
私はそれが当然だろうと思っていたし。
逆に何か一つでも私が勝っていたら、姉の絶不調を心配するところだ。
だから、比べられて、全てで負けて。
それでも私は姉を恨むことは一切なかった。
けれど、他から見れば違ったんだろう。
クソガキの言葉を受けて、男子共が喚き始める。
おおかた、私の気でも引こうって魂胆なんだろ。
姉のことだって嫌いなわけでもないだろうに。
私は中身こそ酷かったが、外面だけは良かったから。
ここぞとばかりに、倉敷蛍が可哀想だと大合唱。
私は反吐が出る思いを堪えて、笑顔を浮かべ続けた。
どうすれば、この大合唱を黙らせられる?
笑顔の裏で、黒い思考を巡らせる。
大きく分けて選択肢は二つ。
肯定するか、否定するか。
肯定し、思ってもいない姉への不満を口にするか。
否定し、私と姉は仲がいいんだと、思った通りに口にするか。
私は悩むまでもなく後者を取ろうと口を開く。
けれど、すんでのところで言葉が詰まる。
本当に、それでいいのかと。
冷静な私が、耳元で問う。
(相手は馬鹿なクソガキだぞ。納得すると思ってんのか)
幼稚園児、しかもクソに輪を掛けたクソガキだ。
姉への文句だって、必死に考えて、私の気を引こうと思って言っているんだろう。
それを真正面から否定してみろ。
自信、プライドはズッタズタ。
赤っ恥かいて、逆切れコースまっしぐらだ。
今度は、私の悪口を影で言いまくることだろう。
……姉と比べて、私の立場は盤石ではない。
多少、先生や友人からの覚えはよくとも、悪意の一つや二つで簡単に居場所なんて奪われる。
そこまで考え至った瞬間。
私は、恐怖で膝が震えた。
私は、私の本音すら、言えなかったんだ。
……その後のことは、あまりよく覚えてない。
いいや、必死に思い出さないようにしていた。
それでも、色濃く瞼の裏に焼き付いている光景がある。
驚きに目を見開き、呆然と私を見る姉と。
私の周りで騒ぎ立てるクソ野郎ども。
そして、何も言えずに立ち尽くす私。
運が悪かったのだろうか。
たまたま姉が私を迎えに来なければ。
男子どもが騒ぎ始めたのが帰りの時間でなければ。
また、違う未来もあったと思うんだ。
けど、仮定は仮定。
今は今で、変えることなんて出来はしない。
姉が目撃したのは、自分への不満を垂れる最愛の妹の姿。きっと、世界中の誰よりも信頼を寄せていた肉親の姿。
姉へと、クソ野郎ともが口を開く。
帰れ、帰れと罵詈雑言。
私は何も言えなかった。
言ったところで、手遅れだと知っていたから。
『……そっか』
姉は、そうとだけ言った。
……その日以降、姉と会う機会はめっきり減った。
一緒に歩いた通学路も。
家に帰ってからも。
仲良く隣で笑いあった食卓にも。
姉は、私の前に姿を現すことを拒絶した。
私が最後に姉を見たのは、いつだったか。
小学校に入学して。
姉が、学校に来ていないことを知った。
その後、あの人は病気になったと聞かされた。
完全に隔離されての治療が必要だって。
……そう、聞かされて。
あの人の入院する病院も分からなくて。
そんな折に世界がめちゃくちゃになって。
生きることに必死で。
日に日に、あの人のことを考える時間が少なくなっていた。
でも、忘れた日は一度もなかった。
私はあの人に、謝らなきゃいけないことがある。
だから、あの人の病気が良くなったら……会いに行くんだ。
あの人を迎えに行かなきゃいけないんだ。
それが、私のーー。
倉敷蛍の、ちっぽけな願い……だっ、たんだ。
「……遥が、死んだ?」
そいつの言葉に、思考が止まる。
理解ができなかった。
理解したくなかった。
その男からは嘘の匂いなんてしなかった。
男から感じたのは、かつて感じたことのない誠実さだけ。
……いいや、言っていて自分で嘘だと思った。
かつて、倉敷遥から感じたものと同様の暖かさを、男から感じてしまった。
だから、心が揺れた。
闘志が、折れそうになった。
そうなれば、考えたくもない最悪ばかりが頭を過ぎる。
そして、その妄想の一つとして。
心の奥底で引っかかり続けていた疑念が浮かび上がる。
姉は病気だと聞かされた。
誰から? 両親からだ。
両親が姉の話をしなくなったのは、地球が崩壊してからだ。
けれど、地球が崩壊した『だけ』にしては、当時の両親は酷く絶望していたように思えた。
当時の私は、気にも止めていなかった。
……いいや、今にして思えば、気にしないようにしていただけなんだろう。
地球がこんなことになって。
隣を見れば家族を失った人が泣いていた。そんな状況で絶望するのは当然なんだと……自分に言い聞かせていた。
家族を失い泣く隣人よりも絶望していた両親から、目を逸らし続けていた。
そして、今。
逃げ続けていた現実を、目の前に突きつけられる。
「……き」
遠くから、声が聞こえる。
「……しき」
その声は、少しづつ大きくなって聞こえた。
私は気になって、声の方へと視線を向けようとして……その直後、凄まじい衝撃が全身を襲った。
「……ッ!?」
「倉敷ッ! 呆けるのは後にしろ!」
王聖克也に体当たりされたと気がついたのは、間もなくのこと。
意識が現実へと引っ張り戻される。
私は大きく目を見開く。
今の今まで。敵を目前にして呆然としていたのだと理解する。
直後、私のいた場所へとギロチンが落ちた。
敵対する少年は、姉の知り合いなのだろうか。
にしては、全く遠慮もなく知人の妹を殺す気でいるらしい。
「く……っそ!」
頭を振って、余計な思考を追い出す。
考えるのは、今のことだけでいい。
こいつの言ってることだって正しいとは限らないんだ。
私を惑わせる気で言っているのかもしれない。
人は信用できない。
平気で最愛の姉を裏切り、傷つけて。
そんな、自分ですら信用出来ないんだから。
他人なんて、信用出来るわけが無い。
だから当然、私はこいつを信用しない。
信用出来ない。
出来ない……はずなんだ。
ちらりと、いつかの姉の姿が男に被る。
私は歯を食いしばり、走り出す。
眼前へと無数のギロチンが浮かび、落ちてくる。
それらを最小限の動きで躱しながら駆ける。
だけど。
「迷いだらけだね、遅いよ君」
躱した先に、男の拳が待っていた。
顔面に深々と一撃が突き刺さる。
つんと、嫌な痛みが鼻の奥まで突き抜ける。
真っ赤な血が視界を潰す。
それが自分の血だと察するのに、時間はかからなかった。
私の体は大きく吹き飛ばされ、学園長室の壁へと叩きつけられる。
凄まじい衝撃に息が止まる。
痛みに、涙が溢れた。
……でも、この涙は痛いから出ているのか。
姉の死を思って、流れているのか。
それすらも分からなくて。
私は握りしめたはずの拳を解いてしまった。
顔を上げる。
姉の肉親と知っていながら。
それでも、私を殺そうと歩いてくる男が居る。
恨みを残すような人じゃ、ないと思うんだけどなぁ。
そう思ったけれど、私は姉のことを何も知らない。
彼女が私に裏切られたあとの話をーー私は何も知らないんだ。
あの時の姉の姿を思い出し、また涙が出た。
「……ぅ、……っ」
どうして、私はあの人を裏切ってしまったんだろう。
怖くても、たとえ自分の居場所を失ってでも。
私はきっと、あの人の味方で居続けるべきだったんだ。
誰がなんと言おうと、私は本音を貫くべきだった。
姉のように生きたい……だなんて。
変なことを考えて、八方美人の面を被って。
嘘を吐き並べた外面だけの完璧に縋って。
思うがままに生きる姉の生き方を、汚し続けていた。
「……倉敷」
隣から、声がした。
そちらを見れば、王聖克也が私を見下ろしている。
相変わらずの無表情で。
あのクソ野郎みたいな表情で。
淡々と私を見下ろし……そして、視線を外した。
「いや、なんでもない。お前は少し休んでいろ」
そうとだけ言って、王聖克也は前に出た。
……彼の能力は、もう見た。
皇制執行官。
定めた勝負に勝った方が褒美を貰えるだけの能力。
彼自身に、一切の戦闘能力は、無い。
にもかかわらず。
私ですら手も足も出ない怪物を前に、彼は臆さない。
「……なんだよ、邪魔だよ橘。お前には興味はなくなったんだ」
「そうか。私も他人にはさして興味は持っていない」
他人に興味はないと言いながら。
それでも男は、私をかばって前に立つ。
私にとっても、男にとっても。
互いに互いは赤の他人で、今日初めて話したばかり。
命を賭けて……腕を失ってまで守る必要は欠片もない。
それでも、男は揺るがない。
真っ直ぐに胸を張って。
腕の痛みすら些事と投げ、敵を見据える。
「だが、見捨てれば死んだ友人に顔向けができない」
「……っ」
驚いて、その背中を見上げた。
死んだ友人。
それが、誰を指すのかは分からない。
想像は出来ても、確信はない。
それでも。
……きっと、この人はたくさん苦しんだんだろう、と。
その背中から伝わる哀愁を見て、そう思った。
「私が知る『あの男』なら、私がこの女を見捨てればらしくもなく怒るだろうさ。……貴様もよく知っているはずだ。己が願望よりも他者の救いを優先し、何の救いも得られず死んだ男がいたことを」
「……何が、言いたいのかな」
男はここに来て初めて、苛立ちを浮かべる。
その表情に苦笑を示し。
王聖克也は、ただの持論を口にした。
「惜しんでも帰ってこない奴が居る。なら、せめてそいつに誇れる自分で在りたい。そして、精一杯に生きて、いつか死んだらあの世でそいつに言ってやるのさ」
それは、ただの持論。
王聖克也という赤の他人の、生き様。
だって、言うのにーー。
「お前の分まで私が正義を貫いた、とな」
その在り方に、心を強く揺さぶられた。
憧れ、では無いと思った。
けれど、その言葉を聞いて。
その佇まいを見て。
私は、誰かに背中を押された気がした。
「……っ」
驚いて、背後を見る。
当然、そこには誰も居なくて。
それでも背中には、暖かな感覚が残っていた。
『頑張って』
ありえない声が聞こえた気がした。
……こんなの、私の妄想だって分かってるはずなのに。
あの人が、私にこんなことを言うわけないって分かってるのに。
気がつけば、私は拳を握りしめ。
力いっぱいに立ち上がり、歯を食いしばっていた。
「……休んでいろ、と言ったはずだが?」
そう言われて、私は頬を吊り上げた。
無理やりの空笑い。
それでも十数年間貼り付け続けた模造品。
今も正常に、いい笑顔を浮かべてくれた。
「……うるせぇよ先輩、黙って見てろ」
王聖克也の前に立ち、こちらを睨む少年に対する。
「力の差が、分からなかったのかな? あの人と比べて、君は頭の出来が悪いみたいだね」
「はっ、圧倒的に負けてるに決まってんだろ。さてはお前……見た目ほど頭の出来が良くねぇな?」
そう言いながらも、彼我の戦力差は分かっていた。
私はどう足掻いても、この少年には勝てないだろう。
間違いない。
この男は雨森悠人と同格だ。
本能がそう告げている。
なら、勝てるわけが無い。
そういう前提で、私は戦わなきゃいけない。
ちらりと、背後の王聖克也を一瞥する。
王聖克也。
私はこの人の過去を知らない。
けれど、彼の言葉を聞いてわかったこともある。
この人は、きっと私と同じなんだ。
立場、境遇、条件。
それらが違うだけで、私と同じ。
大切な誰かを失って。
その死を見届けることも出来なくて。
蚊帳の内にも入れなかった、ただの部外者。
それでも。
今、この瞬間にその死を知らされた私と。
ずっと昔にその死と向き合い、乗り越えた王聖克也。
決定的な『時間の差』が、私たちにはあった。
「死者に誇れる自分で在る。それがアンタの結論か」
「……あぁ。長く考えてきたが、それ以上は無かったよ」
私の問いに、彼は肯定で答えた。
「……そっか」
短く答えて、前を向く。
性別も年齢も立場も境遇も。
多くが違う私たちだ。
私が将来、この男と違う結論に達することだってあると思う。けれど、これは私と同じ苦しみを味わった男が、その果てに出した結論なんだ。
……欠片程度なら、信用してやってもいいと思ったよ。
「先輩、何秒持たせればいい?」
「40秒」
15秒置きのじゃんけん勝負。
なら、2度目も私が知らん間に終わってたわけか。
私は拳を構えると、少年は呆れを漏らす。
「馬鹿か君は。雨森悠人を相手に、朝比奈霞は王聖克也の完全体まで耐えられなかった。……朝比奈以下の君が、どこをどう考えれば耐えられると言うんだい?」
それは、生徒たちが眠る前の話。
雨森、小森、橘と。
朝比奈、王聖、最上の三名が戦い、前者が勝った。
雨森を前に、王聖克也の5回目まで耐えることの出来なかった朝比奈の姿が、確かに記憶の片隅に残っている。
だからなんだと、私は嗤った。
「うるせぇな。雨森以下のてめぇなら私で十分だろ」
安い挑発だった。
けれどその少年ーー小賀元の顔から表情が消える。
なるほどなるほど……てめぇ、さては雨森の名前が弱点だな? 私の姉ちゃんに固執してるのかと思えば、それと同じくらいあの野郎に執着してると見えたぜ。
「……今、なんて言ったのかな?」
静かな怒りを前にして、喉を鳴らす。
絶対的な格上。
1歩間違えれば殺される相手。
それでも、引く選択肢はない。
私の知る倉敷遥なら。
こんな状況でも、絶対に引かないと思うから。
「何度でも言ってやるよ、クソザコナメクジ!」
私は私として。
いつも通りに。
思ってもないことを口にする。
「てめぇじゃ雨森どころか、私にも勝てねぇよ!」
「うん、やっぱり君から殺そうか」
ーーそして、わずか40秒の地獄が始まる。




