10-35『正義の味方④』
その男を使役した理由。
そう聞かれれば、海老原はきっとこう答えるだろう。
『え、なんか面白そうだったから』と。
額に青筋を浮かべた男は、荒い息を吐く。
その男は、海老原選人とは似て非なる悪人だった。
生まれた頃より、彼が信じたのは性悪説。
人は生まれながらにして悪である。
ならば、己が行動に恥じることは一片もない。
そう笑って、彼は幼少期から狂気に走った。
昆虫の解体。
動物を用いた実験。
その頃から親兄弟に疎まれ続けて。
齢11の頃。
とうとう、その興味の矛先は「人」へ向かった。
時分を疎み続けてきた、親兄弟。
それを、幼き日の男は自らの手で解体した。
『わぁー、きれいだなぁ』
出来上がった作品を見て。
少年は、きらきらとした瞳でそう笑った。
それこそが、彼が心から笑えた最後の出来事だった。
少年は、警察によって引き取られる。
事情聴取にあたって引き出されたのは、少年の狂気。
一切の嘘なく、本心を打ち明けた少年。
彼を待っていたのは『気持ちが悪い』と呟く警察官の嫌悪だった。
そして少年は、更生施設に送り込まれる。
洗脳のように、毎日毎日善性を説かれる。
それが少年は嫌だった。
地獄のような毎日だった。
お前の存在は間違っている――と。
誰も彼もがそう断言する。
話を聞くつもりもなく。
こちらが話す時間もなく。
ひたすらに自我を否定され続ける。
そこで少年は、壊れたのだろう。
……壊れたに違いない。
少年は、ある日、まるで人が変わったように変貌し。
この子はちゃんと更生したと、認められて施設を出た。
――その十年後、彼は人体実験の施設で『所長』と呼ばれるようになっていた。
『間違っているのは世界の方だ。声が少なければ弱者と見なされ、弱者とされたなら世界は何のためらいもなく排除する。そうさ、この世界は弱者の敵だ! ならば、私は弱者にとっての味方として! 下剋上を成して見せる!』
それが、その男――八雲、と呼ばれた狂人の夢。
期せずして、志善悠人と同じ結論に達しただけの、凡人の夢。
確かに頭脳明晰で、天能を人為的に発現させた実績もある。
それでも、凡人。
その先へとたどり着けなかった。
男は何も変えられなかった。
何も為せないのなら、夢物語はゴミになる。
『要は、結果論だぜ八雲所長。過程がどれだけ優れていても、結果出せなきゃアンタはカスだ』
かつての部下は、そう鼻で笑った。
『つーか、弱者の味方……? 何言ってんだテメェ。たまたま偶然自分が不運に生まれたからって、この世界の他の幸福すべてを破壊する? はー、馬鹿馬鹿しい。テメェが他人に不幸をばら撒くんなら、それ、テメェの憎んだ世界とやってること同じじゃねぇか』
言い返せない。
その部下はどこまでも悪性だったが。
嘘は言わないし、間違ったことも言っていなかった。
そうさ、これは八つ当たりだ。
何を変える力もない。
それでも、自分の不幸を呪いたかった。
自分はこんなに不幸なんだぞ、と。
なら、世界も不幸であるべきだ、と。
弱者として、幸せに暮らす強者たちを分からせてやりたかった。
『惨めだねぇ……つくづくアンタは』
だが、その惨めさが海老原選人の食指を動かした。
『いいぜ、テメェは特別だ。自我だけは許してやるよ。その方が面白そうだし』
海老原の、その言葉を思い出す。
そして、八雲は思い切り歯を食いしばった。
「殺す、殺す、殺す殺す殺す……! 海老原! 絶対にお前は殺す!」
廊下を歩きながら、隠すことなく憎悪を撒き散らす。
目指す先は、屋敷の角にある小さな子供部屋。
『残る三人の中じゃ、一番の脅威は天守優人だ。こいつには周旋かセバスを当てる。次点の脅威である志善悠人には、優人に当てなかった方を向け、殺す。……つーわけで、八雲所長。アンタは一番下のロリっ子殺してきてくださいよ。一番簡単なお仕事なんですからさァ?』
部屋の前にたどり着く。
鍵は、かかっていなかった。
扉を開く。
その先には、何も知らずに寝こけている幼女の姿があった。
――天守恋。
天守家の末娘にして、至高の才能を与えられた一人。
天守弥人に対し、世界で唯一【身体的な才能で勝る】と言える人物。
それでも、彼女はその才能を使いこなすにはあまりに幼く。
そして家族への信頼故に、彼女は警戒心というものを忘れていた。
「あーにうえー、もう、たべれないでありまzzzzzzz……」
幸せそうに、眠る幼女。
その喉へと、八雲は両手を伸ばした。
「壊してやる、私を蔑む全て……私を認めなかった世界を、今度こそ……ッ!」
あの天守弥人が誰より警戒していた男。
小物と断じながらも、敵と認めていた男。
誰よりも世界から認められなった男は。
幸か不幸か。
世界から、奪う力を与えられていた。
【強奪の加護】
最強の代名詞たる、奪う力。
幼女の喉を両手で掴み、男は嗤う。
「奪ってやる……私に寄こせ、その天能を!」
☆☆☆
少し、夢を見ていた。
川岸に、僕は立っていた。
暖かい風が吹いた。
ふと、顔を上げる。
反対側の彼岸には、懐かしい顔ぶれがあった。
父さん。
それに、母さん。
……なにを、しているんだろう。
父さんは正座して。
母さんは、これ以上ないってくらい怖い顔で説教している。
あの怖かった父さんも、母さんの前では子供みたいだった。
『ちょっと、そこらへんで――』
さすがに見るに堪えなくなって、彼岸へと歩き出す。
けれど、僕が川へと足を踏み入れる。
その、直前で。
ふっと、後ろから肩を掴まれた。
『……っ!?』
『早すぎるよ優人。君は、まだあっちに行くべき人じゃない』
聞き覚えのある声。
先ほど、目の前で失ってしまった声。
驚いて振り返る。
けれど、少年の顔を見ることはできなかった。
『あの子を助けられるのは、もう、君しかいないんだ』
凄い力で、後ろへと放り投げられる。
彼岸とは反対側に。
まるで『もっと頑張ってこい』なんて。
そんな酷い言葉を突きつけるように。
その少年は、僕へと期待を投げかけた。
『頼むよ。もう一人の――正義の味方』
「……クソったれが」
「あー! 優人起きたー!!」
嫌な言葉を最後に、目が醒める。
刺された腹がものすごく痛い。
けれど、目を開いた時。
僕を覗き込む多くの子供たちの姿があって、それも忘れた。
「……お前ら」
烏丸、小賀元、幾年……他にも。
死んだ、と聞かされていた実験場の子供たち。
他にも、白衣を血に染めた研究者の姿もちらほら見えた。
「どうしてここに……というか」
体を見下ろすと、包帯で手当たり次第に応急手当がされている。
……けれど、傷が癒えている気配はない。
さっき、確実に僕は死んだ。……いいや、死にかけた。
死ぬはずのところを、どっかの誰かがこっち側へとぶん投げた。
(……あのクソ野郎)
僕がこうして生き返っていること。
それが、あの男の【臨界】の影響なのは間違いない。
致死の傷を治すことなく。
ただ、終わることを拒絶した。
……そんな感じだろうか。
しかも、その力は多少の時間のズレすら許容する。
臨界が発動中の終わりを拒絶するだけでなく。
臨界が発動する直前の死すら、拒絶している。
そうでなければ子供たちが生き返っているわけがない。
――そこまで考えて、僕はある『憶測』が頭に浮かんだ。
「……っ、ま、まさか!」
あるはずもないと思っていた、希望が目の前に浮かぶ。
仮に、弥人の臨界が死後間もない者も蘇生させられるのなら。
死んだばかりの死体が、まだ他にもあったのなら。
「既に死んでいた者の蘇生……弥人様、ここまでなさるとは」
その声を聞いて、思わず涙が出た。
声の方へと、振り返る。
その男は、窓際に立っていた。
窓から空を見上げたその横顔には、涙の痕がある。
生まれた頃から、ずっとそばにいた男。
親同然に思っていた、大切な家族。
この手で、殺したと……そう、思っていた人。
「セ、セバス……っ!」
「……はい、優人様」
その男――セバスチャンは振り返る。
僕が打ち抜いたはずの頭には包帯が巻かれている。
思わず、彼へと駆け出すけれど、力が入らなくて体勢を崩す。
そんな僕を、セバスは受け止め、抱きしめてくれた。
「……申し訳ありません。そして、ありがとうございます。私を止めて下さって」
「……っ」
暖かい。
死体なんかじゃない。
正真正銘、生きている人の温かさ。
泣きたくなんてないのに、なぜか涙が止まらなくなった。
「ちょ、ちょっとお二人とも! あんまり動かないでくださいよ!」
「そうですよ! 私たち、一時的に死ななくなっているだけで傷は治っていないんです!」
慌てた研究者が何人か、僕らの傍へと駆けてくる。
僕らを治療してくれたのは、彼らだろうか。
確かに、傷は治っていないが、傷口は止血されている。
セバスも脳天を打ち抜かれたはずだが……まあ、平然としているのは橘の生命力も大きいんだろうけど、応急処置があってこその現状だ。
「ご、ごめん……。ちょっと、取り、乱した」
「最低限、生きていられるだけの血液はどこからか供給されているようですが……あまり楽観も出来ない状況でしょう。弥人様の臨界が、死後、どれだけ続くかも不透明です」
哀しそうな顔で、セバスはそう言う。
……そう、か。
操られていた頃の記憶は、あるのか。
なら、弥人が死んだことだって、知っていても不思議じゃない。
「アンタたちが、治療してくれたのか?」
「は、はいっ!」
研究者たちが、緊張気味に返事をする。
子供たちを……志善を何度も実験に使っていた外道共。
……と、普通なら思うんだろうが、彼らが八雲に脅されていたのは知っている。
家族を人質に取られ、強制的に彼の夢の為に協力させられていた。
海老原も当然そうだと思っていたんだが……考えが甘かったな。
「ありがとう。……この恩は、絶対にいつか返す」
僕が頭を下げると、彼らは慌てた様子だった。
「そ、そんな!? 頭を上げてください優人君!」
「そうですよ! 君が動いてくれたおかげで、人質だった家族も全員無事なんですから!」
「君に頭を下げられたら、私たちどうしたらいいかわかんないですよ!」
「……優人様。そんなことをしていたんですか」
セバスが、驚いた様子でそう言った。
「……いや、な。海外の親戚に、一家だけ、僕の言う通りに動くところがあるだろ。そこに協力してもらって、人質を八雲に気づかれないように救い出してただけだよ」
「スヴァレーナ家、ですか」
「ああ。人質さえいなければ、彼らは味方だ」
味方が多ければ子供たちの生存率はそれだけ上がる。
ま、その代わりスヴァレーナ家には大きな借りを作ってしまったけれど、命に比べれば安いもんだ。
高校生になったりゃ、一緒の学校に通いましょう――とか。
お兄様の回りに集るお邪魔虫、わたちが排除してあげるのよ、とか。
そんなことを向こうの娘さんにものすごく言われたのを思い出す。
「しかし……アンタら、ここに居るので全員じゃないだろ」
子供たちは全員揃ってる。
けれど、研究者は多く見積もっても三分の一だ。
ほとんどのメンバーが欠員している。
不思議に思ってそう訊ねると……彼らは暗い顔になってしまう。
「……そ、その」
「私たちの多くが、……死後、時間が経ちすぎていたみたいで」
そこまで言われれば、その先の説明は要らなかった。
弥人の能力だって、死後、時間の経ち過ぎた者までは救えない、と言うだけ。
あの正義の味方にだって、助けられる命と、そうでない命があった。
……それだけの話だ。
「……そう、か」
「優人様。その件で一つ、あらかじめ伝えておくべきことがあります」
なんとか返事をする僕へと。
隣に立っていたセバスが、絞り出すように言葉を紡ぐ。
嫌な予感に、背筋が凍った。
けれど、不思議と彼が何を言いたいのか……分かった気がした。
「周旋様は手遅れです。あの人の蘇生は出来ません」
「…………そっか」
驚きは、無かった。
さっき見た、夢の内容を思い出す。
父さんはもう、向こうに居た。
なら、もう、こっちに戻ってくることはできない。
「そういえば……、母さんに、ぼろくそ怒られてたよ」
「……当然でしょうな」
そう言って笑うと、セバスも苦笑で返した。
辛いけれど。
哀しいけれど。
救えなかった命に嘆くより。
救われた命を大切にしたい。
そうでなきゃ、救ってくれた奴に申し訳ないからさ。
僕は、窓の外を一瞥する。
屋敷を覆う天幕を見上げて、そう思うことにした。
「……セバス、他に操られている奴は?」
「周旋様。それに、八雲の二名でしょう。八雲の方は恋様の方へ向けられたはずです」
「なっ!? そ、それ、急がないとまずいじゃないですか!」
セバスの言葉を聞いて、研究者たちが慌てだす。
その光景を見て、僕とセバスは顔を見合わせ、そして笑った。
「いやいや……恋なら大丈夫だよ。なんなら一番安全でしょ」
「そうですな……。恋様の寝相の悪さは、周旋様、弥人様でも手に負えませんでしたから」
セバスがそう言って間もなく。
凄まじい破壊音と共に、屋敷の一角が吹き飛んだ。
窓の外を見ると――ああ、恋の部屋のあたりだった。
「……残念だったな、八雲さん」
僕はそう言って苦笑する。
恋の寝相の悪さ、その何が厄介かって。
あの子は寝ているときに限って、天能を100%引き出して使えるんだ。
そもそも、恋が天能をうまく扱えていない原因は彼女自身にある。
勝ちたいと強く思っていたり、負けたくないと意固地になっていたり。
様々な理由から力み、空回りしている。
そんな状態で天能なんて十二分に使えるはずもなく。
逆に言えば、意識さえない状態であれば彼女の天能は誰より輝くわけだ。
『む、無理だ……私にはあの子は起こせない……物理的に』
『ちょ!? 諦めないでよ父上! 父上が無理なら僕だって無理だよ!』
弱音をこぼす父と兄の姿を思い出し、苦笑する。
僕は窓の外から視線を外す。
恋に関しては問題ないと、今確信した。
寝ている限り、彼女には父さんや弥人でさえも近づけない。
なら、僕がすべきことは、残るもう一つへの対処。
――天守周旋を、この手で完全に終わらせることだ。
「セバス。お前は彼らを連れて屋敷から離れろ」
「……優人様」
何か言いたげな様子のセバスだったが。
僕は、彼の手が震えていることを見逃しはしなかった。
……仮にも僕の集大成だ。臨界で脳天をぶち抜かれて、後遺症が残らないわけがない。
セバスはもう、刀を握って戦えるような体ではなくなっている。
「……私、は」
「……救われた命だ。せいぜい、大事にして生きろ」
そう言って、子供たち、研究者たちへと向き直る。
「避難先は天幕から出ない範囲だ。そして傷を完全に止血しろ。完全に血が止まったら天幕を出て病院へ歩け。……多少距離はあるが、これだけ大規模な異変だ。おそらく途中で、こっちに向かっている橘家が拾ってくれる」
「ゆ、ゆーとはどうすんだよ? いっしょに逃げようよ!」
一人の少年がそう言った。
……そう、だな。
我が儘を言えるのなら、そうしたいよ。
助けに来てくれる橘に縋って。
何も見ないふりをして。
責任なんて放り投げて。
君たちと一緒に、逃げてしまいたい。
けれど、そうはいかない。
ダメなんだよ。
このまま幸せになってはいけない。
現実から逃げてはいけない。
どれだけ辛くても、厳しくても。
前見て顎引いて、しっかり地に足、踏みしめて。
やることやらなきゃ、僕は幸せなんて噛みしめられない。
僕は彼と視線を合わせて、精一杯に笑顔を見せる。
「安心してよ。僕は世界最強なんだ。……なんてったって、正義の味方だからね」
僕は、強くなんてないけれど。
最強なんて、これっぽっちも思ってないけれど。
正義の味方……なんて、烏滸がましくて言いたくないけど。
それでも、もう二度と……僕は負けない、と。
心に誓って、そう言った。
二度と折れない。
もう、間違えない。
正義の味方を名乗る以上、僕はもう、最強なんだ。
「……優人君」
「ほら、さっさと行きな。命大事に、忘れるなよ」
僕がそういうと、研究者たちは涙を浮かべて頭を下げた。
子供たちは何が何だか分からないでも、僕のことは信用している。
僕が大丈夫だと言ったなら、大丈夫だし。
命を大切にしろと言ったのなら、きっとそうする。
「う、うん! 分かった、またねゆーと!」
「ちゃんと、しぜんの方のゆーとも連れてきてね!」
「またカードゲームしよーねー!」
子供たちが、研究者たちに連れられ去っていく。
その中で、最後まで動かなかった少年が一人だけ。
「ほら、烏丸」
「う、うそだよ……優人、うそついてるよ。だめだ、一緒に逃げないと!」
そう言って、彼は唇を噛んでいる。
――烏丸冬至。
子供たちの中で、一番賢かった少年。
いっつも誰かのためにと動き回って、いつもふざけて。
それでも、誰かが笑ってくれるのが嬉しいと、かつて僕に語ってくれた。
……そりゃあ、何が起きているのか分からなくても、僕が本当に笑ってないことくらい、分かっただろう。
他の誰よりも、少年は人の心情を読むのが得意だったから。
彼は、僕の手を引いた。
「いっしょに、行こうよ」
彼は言う。
僕は、彼の手を握り返して苦笑した。
返事の代わりに、彼の手をいじって形を変える。
指切げんまん。
小指と小指をしっかり組ませて。
決して約束は破らないように、って。
烏丸の目を見て、言葉を紡ぐ。
「いつか、一緒に学校に行こう」
「……ゆ、優人?」
「全部終わったらさ。……なにもかも終わらせたらさ。中学でも、高校でもいい。一緒に学校に行こう。肩組んでさ、一緒に笑って一緒にふざけて。今度はボードゲームでもして、楽しく暮らそう」
きっと、楽しいだろうな。
僕が居て、志善がいて、烏丸が居て。
三人で笑って過ごせたのなら、楽しいと思う。
だから、その未来を掴むためにも。
今は、お前と一緒にはいけないんだ。
「約束だ、忘れるなよ」
「……っ」
彼はぐっと歯を食いしばる。
それでも、彼は賢い子だ。
僕が言いたいことくらい、分かってくれる。
これが本心だってことも、きっと察してくれる。
彼は顔を俯かせて走り出す。
その背中を見送ろうとするけれど、彼は少し行ったところで立ち止まる。
僕を振り返った少年は、涙を浮かべて僕を睨んだ。
「約束、破ったら、なぐる!!」
「ああ、やれるもんならやってみろ」
そう苦笑すると、彼は再び走り出す。
残ったのは、僕とセバスだけ。
ほら、さっさと行けよ、と視線を向ける。
「優人様、私も――」
彼は、何か言いかけた様子だったけれど。
自分の震える手を握り締め、大きく息を吐いた。
「……命を大事に。忘れたら、私も殴りますので」
「それは怖いな。……くれぐれも、死なないように気を付けるよ」
そういうと、彼は最後に深々と一礼した。
「絶対に、生きて帰ってきてください」
☆☆☆
夜の廊下を歩く。
思い出すのは、先ほどの夢の出来事。
あんなのは、僕の脳が作り出した幻覚だ。
あの男はもう死んでいる。
あいつの言葉なんて、もう、聞こえるはずなんてない。
……なのに。
『あの子を助けられるのは、もう、君しかいないんだ』
あの言葉を思い出し。
僕にしか助けられない『あの子』とやらを思い浮かべて。
「……ま、一人しか居ないよな」
そう、苦笑する。
庭に出る。
さっきまで曇っていたはずなのに。
今じゃ、綺麗な月明かりが庭を照らしていた。
天幕はいつの間にか消えている。
弥人の『死なない加護』は、もう失われたと見ていいだろう。
一面に広がる青い芝生。
父上が趣味で集めた盆栽が、規則正しく並んでいる。
――そんな、かつて見た光景はどこにもなかった。
地盤は剥がされ、盆栽は倒れて折れて、跡形もない。
「……やあ、月が綺麗だね、優人」
そこには、見知った少年が立っている。
彼の後方にはナイフに背を刺され、倒れている老人の姿があった。
そこに在ったはずの兄の死体は、どこにもなくて。
その場には、もう、天守周旋の姿も無い。
「求愛か? 相変わらず気持ちの悪い」
「相変わらず……か。面白いことを言うんだね」
そう笑う少年は、もう、今までの姿ではない。
白かった髪は黒く染まり、濁り切った青い瞳が僕を見据える。
絶えず風が吹き、少年の髪を揺らす。
その姿は、まるで世界に祝福されているかのようで。
……それでいて、世界を見限ったような絶望に満ちていた。
「……全く。最後の敵が、よりにもよってお前とはな」
何がどうなってお前はここに立っているのか。
何を変えたくてお前は変わったのか。
お前がこれから、何をしようとしているのか。
なにも分からない。
興味もない。
けれど、分かることもある。
僕は大きく息を吸うと、対する兄弟へと口を開いた。
「戻ってこい。お前は道を間違えている」
僕の言葉を受け、少年は笑った。
壊れ切った笑顔を見て……僕は、瞼を閉ざした。
……お前と戦ってみたい、とは思っていた。
けれど。
なあ、志善。
僕は、こんな形でお前とは戦いたくなんてなかったよ。
【嘘なし豆知識】
〇烏丸冬至
選英学園一年生。
ボードゲーム部所属。
どうしてその部活を選んだのか、と聞かれて。
彼は「ここで、待ってるやつが居るんだ」と笑った。
次回【終の雫】
志善VS周旋の話になります。




