10-29『兄と弟』
――少年は、兄の背中を見て生きていた。
少なくとも、今日。この日までは。
僕には優秀な兄がいる。
何でもできるし、できないことなんて何もない。
まさしく『完璧』を体現したような存在。
僕が持ってないモノを全て持っている相手。
いつか超えようと足掻いてみたものの。
結局、今に至るまで一度も勝てなかった男。
正直に告白すると。
その男の背中に……憧れなかった、とは言い切れないんだ。
弟は兄の背中を見て育つ。
父が悲しみに壊れていた……というのも当然あるが。
いつもすぐ近くで僕の先を歩いていたのが、弥人だった。
彼のように生きてみたい、と願った回数は一回や二回じゃない。
けれど、努力すればするほど身に染みる。
天守優人は、どうあがいても天守弥人にはなれないのだ、と。
努力するほどわかった。
アレは天才で、僕は凡才。
その間にある絶対的な隔たりは、数年の努力で埋まるようなものじゃない。
……埋まるとは思えなかった。
少なくとも、他の全てを捨て、努力のためだけに人生を費やすような生き方をしない限りは、今すぐその男に追いつくなんてことはできないと悟った。
そして、今の僕にそんな生き方ができないことも理解した。
『兄上! 今日こそ勝つ故、勝負です、勝負!』
僕を慕う妹がいる。
『……私を嫌っているか、優人。……そうか、そうだよな……』
ふざけたことばかり言うくせに、嫌うと落ち込む父がいる。
『周旋様はメンタル豆腐ですので、あまり責めてあげないでください』
そう笑って父の味方で居続ける執事が居る。
『おはよう優人! 今日もいい天気だね!』
最近、やっと心から笑えるようになった義弟がいる。
――そして、もう一人。
いけ好かないけれど、大好きな兄がいる。
いつからか。
僕の一番大切なモノは『家族との日常』になっていた。
強くなりたいとは思うけれど。
目標に追いつきたいと焦がれるけれど。
そのために家族を捨てるという選択だけは、考えられなかった。
僕はこの『僕の世界』を守りたい。
彼らを守れるのなら、何を捨てても構わない。
下手をすれば、自分の命より大切……だなんて。
まるで、兄のようなセリフが出てきそうになるけれど。
天守優人にとって。
家族と言うのは、それだけ大切な――。
……大切な、モノだったんだよ、弥人。
「……もう一度聞く。何をしている、弥人」
その姿を見て、不思議と察した。
天守弥人はじきに死ぬのだと。
青白くなった顔色。
壁に体を預け、膝は震えている。
今先ほど、咄嗟に隠した右手。
……ちらりと、血痕が見えたのは間違いない。
「……誰にだ。誰にやられた」
僕の声は、震えていたと思う。
それは恐怖か、怒りか、あるいは不安か。
ただ、僕を見る弥人の目は、いつになく優し気に思えた。
「なーに。ちょっとドジっちゃってね。それより話を――」
「話……? 話ってなんだ、今、しなきゃいけない話かよ」
僕は、弥人へと歩き出す。
数歩進めば、嫌な臭いがした。
……隠しきれない、血の臭い。
肉が腐るような腐臭。……残酷なまでの死の臭いだ。
僕は歯を食いしばると、弥人の胸倉を掴む。
この一年間……幾度となく挑み、傷一つ付けられなかった相手は。
今では……もう、軽く押せば倒せてしまいそうなほど弱っていた。
「ふざけるな……ふざけるな! 話なら後でしろ! 生きて……後でちゃんと話せ!」
僕の言葉に、彼は何も返さない。
黙って僕を見据える視線が鬱陶しくて、僕は顔を俯かせた。
「……後で、なら。いくらでも聞いてやるから……頼む」
「……珍しいね、優人がそんな約束してくれるだなんて」
約束くらい、いくらでもしてやる。
お前が生きると約束するなら、何だってする。
「……もう、家族が死ぬのは嫌なんだ」
僕の言葉に、弥人が息をのむ気配があった。
ほとんど記憶なんて残ってないけれど。
母親……ってのが居たんだろ、ウチにも。
その人との思い出は少ないけれど。
それでも、繋いだ母の手の暖かさと。
壊れ、変わってしまった父と兄の姿だけは、しっかり覚えている。
「……もう、失いたくない。お前と、僕と、恋と、志善と。そして父さんと、セバスもだ。誰一人欠けることなく生きるんだ。もう、誰かを失うことで傷つく人は……みたくない」
「……うん、そうだよね。……そう、だったね」
ふと、弥人の体から力が抜ける。
驚いて顔を上げて。
目の前にあった弥人の顔を見て。
その、表情を見て。
僕は、足元が崩れるような感覚に陥った。
「…………嘘、だろ」
手に力が入らなくなって、胸倉から手を放す。
すとんと落ちた両腕をそのままに、僕は笑った。
いや、冗談だろ、と。
いつもの、お得意の嘘だろう、と。
「おい。恋は、志善は……父さんとセバスは……!」
「恋と悠人は……無事だと思うよ。そういう雰囲気じゃなかった」
その言葉を聞いて、僕は膝から頽れた。
弥人はなぜ、その二人の安否だけを告げたのか。
その理由を……確かめなきゃいけない。
問いたださなきゃいけない……なのに。
恐怖に膝が震えて立ち上がれない。
これ以上……真実を知ろうとすると絶望で動けなくなる。
けれど、必死に心を奮い立たせた。
大丈夫、大丈夫だ。
あの父さんが負けるはずがない。
弥人よりも強い男だ。
きっと僕の早とちりだ。勘違いに決まってる。
そう、根拠のない楽観で絶望を追いやる。
僕は一縷の希望をもって弥人を見上げた。
「……父さんと、セバスは?」
大丈夫なんだろ。
ただの、僕の勘違いなんだろ?
そう笑う僕の目を見下ろして……弥人は、視線を逸らした。
それが、何よりの答えだった。
「あ、あぁ…あ……ああああああ……ッッ」
壊れていく。
何もかも、壊れていく。
大切だったもの。
守りたかったもの。
これからの未来も。
輝かしい思い出も。
夢も希望も……心でさえも。
全てが壊れ、崩れていく。
「どう、して……どうして……どうしてだよ……」
バキリと、心が砕けた音がした。
もう、再起不能なほどに。
決定的なまでに。
心が【終わった】音がした。
僕らは、特別なんて望んでない。
ただ、幸せに家族で暮らせたのなら……それで満足だった。
なのに、なのに……っ。
……どうして世界は、こんなにも僕らに残酷なんだ。
神は、どこまで僕らの幸せを蔑ろにすれば気が済む?
家族と生きる……なんていうちっぽけな幸せさえ。
お前らにとっては嘲笑い、踏みにじる材料でしかない、とでもいうつもりか。
「……ざ、けるな。ふざけるな、ふざけるなッ!」
視界が、赤く染まる。
誰だ 誰だ。
誰が僕の すべてを 壊した。
誰が 奪った。
誰 が 悪い。
僕は 誰を 恨めばいい。
憎悪で遅延する赤い思考の中で。
奥歯を噛みしめる音が、暗闇に響いた。
「――ぶっ殺してやる」
それは、心の底から零れた本音。
今までに一度として現れることのなかった、僕の中の殺意。
どろりと黒く淀んだ、復讐心。
一度吐かれたソレは、際限なく体内で広がってゆく。
「こんな世界……こんな世界ッ! こんな世界なんて! ぶっ壊してやる……全部、全部! お前を殺したクソ野郎も! 僕らをあざ笑う神も、何もかも……僕がこの手で殺して――」
腹の底から、濁流のような感情が零れる。
頬を涙が伝った。
痛かったはずの心は、焦げるような熱に侵されている。
それが【憎悪】であると、すぐに分かった。
既に終わった心が、憎悪で作り替えられていく。
『家族』や『幸せ』と言った部分が。
たった一言【復讐】で塗り潰される。
染まっていく、褪せていく。
思い出も希望も、真っ黒闇に消えていく。
殺す。殺す。殺して……壊して、なにもかも!
兄を拒絶したこの世界のすべてを。
僕らの幸せすら許容しなかったすべてを!
何もかも木っ端みじんにぶっ壊してやる!
『天能変質の兆しを確認しました』
頭の中に、聞いたことのない声が響く。
けれど、不思議と理解できた。
その言葉に身を任せれば……僕はずっと強くなれる。
分からないことばかりでも、それさえ分かれば答えは簡単だった。
ああ、いいよ、好きにしろ――と。
そう、僕は即答した。
それですべてが壊せるのなら。
今までの努力を全て無駄に代えても構わない。
今まで積み上げてきたもの、すべて失っても構わない。
今よりもっと、ずっと、強い力が手に入るのなら。
もう、【銃】なんて弱い天能は、要らな――
「もうっ! 優人のお馬鹿!!」
あと一歩。
その一線を越えそうになる――その直前で。
気の抜けたセリフと共に、僕の両頬がぶっ叩かれた。
「……っ!?」
「なーに闇堕ちしそうになってんの。優人らしくないよ!」
闇堕ち……闇堕ち? この僕が?
「ふざけるなよ……お前の復讐をするのは当然――」
「一番大切なモノを測り間違えるな、って話だよ優人」
その言葉に、思わず目を見開く。
弥人は僕の両頬に手を当てたまま、僕の目を見下ろす。
その力はどれだけ弱々しくても……その眼光は、目を逸らすことを許さない。
「僕はこの死を後悔してない。きっと何度繰り返そうと同じ決断をすると思う。どれだけ説得されようと……最後に僕は家族を取るさ。……父上を一人にはさせられないよ」
「……なら、僕ら家族はどうなる。……恋には、どう、説明すればいい」
また、涙があふれ始める。
お前の弟として、今までずっと生きてきた。
だから知ってるよ、お前が馬鹿だって。
家族のためなら。
その言葉一つで命くらい簡単に捨てる大馬鹿だって。
最初から、お前の死因は『家族のため』だと思っていた。
詳しいことは分からない……けれど。
お前の言葉から察するに、今回は、父さん絡みなんだろ、弥人。
でも、だからこそ。
お前は考えたことないんだろ。
残された家族が、どんな気持ちで生きていくのか。
「お前は……父さんの味方として死ぬ。なら、僕と恋と、志善の敵になるわけだ。父さんの幸せのために僕らを見捨てるわけだ。……そうだろ、正義の味方」
「うっはー。死ぬ直前まで毒舌かぁ。今回のは特に心にしみるね……」
彼はそう言って、僕の頬から手を放す。
そして、優しく僕の頭を撫でた。
「確かに悲しいよ。もっと優人たちと一緒に生きていたかった」
「な、なら――」
もう手遅れの提案が飛び出そうになる。
『なら生きろよ』と。
死ぬことが確定している男に対し、言いかけた。
その言葉を、弥人は優しい笑顔で妨げる。
「でも不安はないんだ。優人たちは自慢の弟妹だからね」
「……っ」
その瞬間、昔の記憶が蘇る。
もうずっと忘れていた……母親との記憶。
そうだ、そうだった。
あの人も死ぬ前に、こうして僕の頭を撫でていた。
これから死ぬって言うのに。
もう、自分に先なんてないっていうのに。
『大丈夫よ。きっと全部うまくいくわ。だって、不安なんてないもの』
母の言葉が、今になって心を焼いた。
その感情は、絶望でも怒りでも、悔しさでもなく。
ただ、死にゆくあの人と、弥人の言った言葉が同じだったから。
弥人の『先』が見えてしまった気がして、哀しくなった。
「……ッ、こ、この……っ」
歯を食いしばる。
けれど、彼に言い返せるような言葉は見つけられない。
「僕とか、父上みたいな。メンタルくそざこなタイプなら心配になるけどさ。優人たちなら大丈夫でしょ。たしかに悲しむと思うけど、君たちなら数日もすればケロッとしてるさ。優人とか僕の葬式でも毒舌吐いてそうだし」
「ふざけろ……死んだらお前は生き埋めだ。葬式なんてない」
「たっはー! それが一番悲しいんだけど、どーしたらいいかな!」
そう笑う天守弥人は、どこまでも『いつも通り』で。
その姿が、その言葉が。
まるで『いつも通りで送ってよ』と言っているようで。
兄の最後のわがままに、僕は砕けるほど奥歯を噛んだ。
『一番大切なものを測り間違えるな』
先ほどの言葉が蘇る。
僕の一番大切なモノ。
何より優先すべきこと。
それは復讐か? と自分へ問うと。
天守優人は、迷うことなく否定した。
復讐よりも、他の何よりも。
重要で、大切で、守りたかったものは……目の前にあったから。
「……恨むぞ弥人。お前は絶対許さない」
せめてもの恨み節を、兄へと贈る。
勝手に死んでいくお前を。
面倒ごとを押し付けて逃げるお前を。
僕の理想でありながら、勝ち逃げするお前を。
恋と志善を悲しませるお前を。
……最期に、悲しませてもくれないお前を。
僕は未来永劫、絶対に許さない。
「うん。いいよ。優人にはその資格がある」
優しそうに、少し悲しそうに。
それでも『いつも通り』の僕のセリフに、少し嬉しそうに。
天守弥人は、そう笑う。
僕は涙をぬぐい、立ち上がる。
「……馬鹿馬鹿しくなってきた。なんでお前のために僕が泣くんだ」
「お兄ちゃんの最後だよ? 泣いてくれなきゃ僕が泣いちゃうよ」
「はっ、好きにしろクソ野郎」
僕はそう吐き捨てる。
いつも通り。
いつも通りに――と。
必死に涙を堪えて、深呼吸する。
悲しみも不安も絶望も。
くしゃりとまとめて、息と共に吐き捨てた。
そんな僕を、弥人は静かに待っていた。
「……で、志善には挨拶くらいしていくんだろ」
優しそうな笑顔の彼へと僕が問う。
すると、彼は少し真面目な顔になった。
「……そうだね。たぶん、一番危ういのは悠人だと思ってるから」
「……危うい、ね」
何をどう考えてそう判断したのか。
結局……兄の目には何が見えているのか。
彼に見えていて、僕に見えないものは何なのか。
今に至るまで、僕には判別付かなかったけれど。
最後の最後だ。
その言葉くらい、疑わずに信じてやろうと思った。
「……それじゃ、行こうか」
そう言って、天守弥人は歩き出す。
ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめて、彼は歩く。
まるで別人のように弱々しくなった彼の背中を見送って。
僕は、感情を必死に堪えて、その後を追う。
……ああ、分かっているさ。
どれだけ悲しくても、どれだけ泣きそうになっても。
兄が信じたものを、僕が目の前で裏切るわけにはいかない。
兄が大丈夫だと笑ったのなら。
せめて、僕だけは……その信頼に応える義務がある。
恋にも、志善にも、その義務だけは押し付けられない。
『いつも通りで見送る』なんて拷問。
二人には、間違っても押し付けるわけにはいかないんだ。
その正義の味方に憧れた。
何でもできる、その背中に憧れた。
追いつこうと必死に努力し。
ついぞ、一度も届かなかったその背中。
今、最期へ向かおうとする小さな背中。
いつも通りに。
そう、見送ると心に決めた。
その覚悟は揺るがない。
けれど、それでも――。
憧れすら家族愛に飲まれた、その兄に対し。
天守優人は、最後の問いを投げかける。
――次回【奇跡開帳】
超絶大増量、1万文字超(約三話分)でお送りします。




