1-12『霧道が悪い』
翌日、それは起きた。
「……へぇ」
その日もクラスは、妙にざわついていた。
霧道の机に落書きという名の暴言が書かれてから一日。
僕は自分の机を見て、なるほどと声を漏らす。
「あ、雨森くんっ!」
「……おはよう、倉敷さん」
どこか焦ったような倉敷が近寄ってくる。
その際、隣の席の朝比奈嬢が何か言いたげにこちらを見ていたが、決して目を合わせることはない。
ただ僕の視線は、昨日の霧道の机が『悪戯』に思えるほどに荒れ果てた自分の席へと向かっており、どこからか霧道の嘲笑が聞こえてくる。
今日は、別に遅い時間帯に登校したわけじゃない。
だから普段から登校するのが遅い霧道が今、この時点で教室に居るのは酷く珍しい。
彼の目の下にくっきりと刻まれたクマを一瞥、僕は改めてため息を漏らす。
「昨日の意趣返し、って感じかな……?」
近くに寄ってきた倉敷が呟く。
まだクラス全員の異能が知れたわけでもない。視線で『聴覚強化系の異能持ち居たらどうする』と注意を促しながらも、僕は黙って椅子を引く。
うっわ、汚ぇっ。
椅子の上には腐臭を放つ残飯がぶちまけられており、これに座るくらいなら今日一日は立って授業を受けた方がマシに思える。
『お前のせいだからな』
視線で倉敷へとそんな感じのアイコンタクト。
倉敷はにっこり笑った。
この現状においていっぺんの曇りなき笑顔が、逆に彼女の内心を表現しているようでもあった。
……まあ、彼女はあくまでも僕の協力者。
完全な下僕でもなければ言うことを聞く義理もないわけで、あまり……こう、公には責められないわけ。僕は頭をかいて呟く。
「残飯……ねえ。こんな下らないことに時間を使うなんて……誰だか知らないけど、ずいぶん暇なんだなそいつ」
昨日のお前と同じで。
そんな一言を内心で付け加えて倉敷へと視線を向けると。
「そ、そんなことより雨森くんっ! 大丈夫なのっ? 他に何にも悪いことされてないっ?」
……そうだな。寮から出たら取り巻き一人が『おっと危ねぇ手が滑った!』とかいってバケツの水ぶっ掛けてきたり、朝登校したら上履きの中が画鋲で溢れてたりしたが……。
「そうだな。上履きの中が画鋲で埋め尽くされてたけど、アレやった奴馬鹿だと思う」
ガンッ! と霧道が机を蹴り上げる。
分かってるって霧道、あんな馬鹿丸出しなことする奴お前しか居ないだろ。
なに、持った途端にずっしりくるほど上履きの中画鋲で溢れてるって。
『虐めてますよ。このまま履かないように注意してくださいね』って親切に教えてくれてるのかと思ったわ。
ああ、ちなみに取り巻きAのバケツ攻撃だが、長時間バケツ持ってたせいか僕のところまで水のしぶきも届かなかった。おそらく彼は明日から二日間くらい筋肉痛だろう。
ということで、この机をやらかした……たぶん取り巻きBだな。あいつがあの中で一番頭いい。だってもうほんとに座りたくないもん。
と、そんなことを考えている間にもホームルームが迫っている。
正直、座りたくはない。結構マジで。
ただ……なんていうのかな。とりあえず座らないわけにもいかないわけで。
『第四項、遅刻を禁ずる。祝日、長期休校中以外の平日において、8:30までに自分の席に着席していなかったものは原則として100,000円の罰金、或いは退学、いずれかの処置を受けねばならない』
その一文においてもっとも厄介なのが『自分の席に着席』という部分だ。たとえば奇特な『代わりに私の席に座っていいわよ』みたいな朝比奈思考の持ち主が居たとしても、代わりにそいつの席に座ってる時点で校則違反と相成ってしまう。
つまるところ、この席に座るしかないのである。
他の校則を使わなければ、な。
「……面倒な」
呟き、椅子を片手に持ち上げる。
その際、半分くらい体をこちらへと向け、立ち上がろうとする朝比奈譲が視界に映るがもちろんスルー。
僕は椅子を片手に歩き出す。
その先は、もちろんゴミを処理するためのゴミ箱。
――などでは、決してなく。
「なあ、霧道」
「……はぁ?」
目の前には、霧道が間抜け面を曝している。
こいつは今、何故か自分の方に来た僕を見て目を丸くしており、僕は霧道へと椅子を片手に問いかける。
「……頼む。朝比奈さんには二度と話しかけない。話しかけられても返事もしない。挨拶ももちろん、近づこうともしない。だから頼む、もうこんな真似はやめてくれ」
頼む、とは言ってみたけど。
こいつ相手に下げる頭は持ってないので、普通に目を見て頼み込んだ。
さて。バカ正直に謝罪すればあるいは――いや、そんな都合よくいかないか。
「っぷっ、ぶははははは! おいおいなんだお前よぉ! 俺が? 俺がソレをやったって言うのか? 証拠でもあんのかおいおいおいィ! それも朝比奈に話しかけねえから許せって? テメエが朝比奈に話しかけねえのはそもそも前提、近づくのなんざ万死に値するって知らねえのか?」
おおっと、近づくだけで万死に値するとは知らなかったな。
自分から朝比奈譲にコンタクトを取ったことなんて一度もないが、とりあえず近づくのだけはよそう。殺される。
「……そうだな。なら僕は朝比奈さんには近づけない。せっかくだ霧道、僕と席を交換しないか? これで霧道が朝比奈さんの隣になれるだろ」
「おっ! それは願ったりかなったりだな! たしかそんな感じの校則あったろ、なあ!」
そう、霧道は取り巻きに対して笑顔で問う。
確かに座席を交換できる校則はある。霧道の頭でよく覚えたもんだ。
『第三十二項、生徒間において両人の同意があった場合においてのみ、各自の保有する椅子、及び机の交換が可能となる。この校則に則ることなく椅子、及び机を交換した状態で始業を迎えた者は、校則に違反しているとみなし、各項において罰則される』
というものだ。
僕はさっそく霧道が同意したこともあって、片手に持った椅子を持ち上げる。
「それじゃあ、さっそく交換しよう」
「ああ! クソ雨森もたまには役に立つじゃ――」
と、そこまで言って彼は硬直する。
クラスメイト達は既にそこまで気付いているのか気まずげな沈黙を貫いていた。
霧道は愕然と、自分のものになった椅子を見つめ、肩を震わせている。
可哀想だな。
どうした霧道、そんなに震えて。
「……どうした霧道。ほら、お前の席だ」
残飯と汚物に塗れ、腐臭を放つ椅子。
僕の後方には同じような惨状の机もある。
よかったなぁ、霧道。
祝福するよ。
今日からあれが、お前の座席だ。
思う存分、朝比奈と蜜月な時間を過ごして欲しい。
まぁ、この匂いの中で可能なら、だけど。
霧道を見ると、彼の眉が吊り上がる。
その顔に浮かぶのは憤怒。
真っ赤に顔を染め上げた霧道は椅子から立ち上がると、強く握りしめた拳を振りかぶる。
その光景を前に、壁際にかかった時計へと一瞥向ける。
時刻的にはこれ以上ない正解だ。
後は運次第だが、果たして――。
「ふっざけんな! テメエクソが、騙しやがって!」
霧道が叫ぶ。
僕は後退しつつ、さり気なく椅子の残飯を霧道へと撒く。
残飯を顔面に受けた奴は更なる激怒に心を燃やし、僕へと殺意を以て拳を握る。
いやはや、これで殴られたら霧道退学まっしぐらだな。
『第二項、相手に対する殺意を持った攻撃を禁ずる。これを破った生徒は退学処分とする』
この学園において最も強く、最も酷く、最も簡単な排除方法。
この一撃を受ければ全てが終わる。
色々練ってきた作戦も全て無意味と化すが、それでもこれはこれでいい。
面倒なことを一切せずに、目的だけを完遂できる。
そして、クラスメイト達に霧道の暴力性を上手いことアピールできる。
――クラスメイトを殺そうとした。
ただ、それだけで霧道の信頼やクラスカーストは地に堕ちる。
なれば、その退学の一端となった僕には哀れみこそ向けられど、決して不信感や懐疑心は向けられない。ただの哀れな少年にしか映らない。
だからこそ、僕はその拳を甘んじて受け止め――
「――霧道君、それ以上は認められないわ」
――ることは、出来なかった。
視界の端をピシリと黄色い雷電が走り抜け――気が付けば、僕と霧道の間には黒髪の少女……朝比奈霞の姿があった。
彼女は片手で霧道の拳を受け止めると、同時に学校中へと始業のチャイムが鳴り響き、榊先生が入ってくる。
「ホームルームを始める。もちろん席にはついて――居ないようだな。雨森、朝比奈、霧道……か」
榊先生の鋭い視線が僕らの体を貫いた。
茫然としていた霧道はその視線を受けて我に返ったか、怒気を隠すことなく僕の姿を指さしてくる。
こら、人に指さすなってお父さんお母さんに教わらなかったのかお前。
「おい榊! 聞いてくれよ! 雨森が残飯塗れの席を俺に押し付けてきやがったんだ! しかも俺にブッかけやがって……こんな食堂裏の残飯ぶっかけてきやがったんだぞ! なんか校則違反じゃねぇのかよ!」
「……ほう、ほう」
彼の言葉に榊先生の目が細くなる。
その顔には恐ろしいくらいの冷笑が浮かんでおり、その瞳が僕の姿を捉える。
「……と、霧道は言っているが?」
「的確、ではないですね。ちゃんと校則に則って座席交換しました。そして、チャイムが鳴るから早く座席を交換しようと提案しましたが、霧道は座席を譲ってくれませんでした」
「っざけんなよテメエ! そんな残飯塗れの席に誰が座るってんだ! そもそも俺は一言たりとも座席を交換するだなんて言ってねえよクソが!」
確かに、霧道は『座席を交換する』とは口にしちゃいない。
が、『座席を交換しよう』という言葉に、彼は確かに『ああ』と答えた。
そして、それをクラスメイトは聞いている。
「……えっ、霧道くん、確か『交換しよう』っていわれて、頷いてなかった……?」
そんなことを言い出したのは我らが倉敷。
さっすが空気の読める女。みんなの心の声を代表して言ってのけた委員長に、クラス中へとその事実が伝播してゆく。
「……確かに、『ああ』って言ってたよな」
「クソ雨森も役に立つって……アレ酷いよね」
「さすがに言い過ぎっていうか……」
「今回ばかりは霧道くんが悪いって」
「今回も、じゃねえの? 毎回だろ」
「ああ、さすがに霧道が悪い」
伝播してゆく不平不満。
ソレを前に霧道が倉敷の姿を強く睨みつけ、その鋭い眼光に倉敷の喉から引きつった悲鳴が漏れる。
えっ、何お前そんな声出せたの?
そう思って勢いよく振り返ると、そこには瞳に涙をためた倉敷の姿があり、彼女を見たクラス中から大ブーイングの嵐が響く。
「霧道! テメエなに倉敷さんにガンつけてんだオラ!」
「蛍ちゃん……っ! 霧道君! 蛍ちゃんに謝りなよ!」
「やっていいことと悪いことがあるだろうが! この幼稚が!」
もはやそこに、霧道の味方はいなかった。
取り巻き二人ですら倉敷を泣かせたことに厳しい視線を霧道へと向けている。
たった一つの言葉と演技で霧道を追い詰めてしまうとは。
倉敷蛍。その『恐ろしさ』に、改めて彼女の有能性を実感する。
「……なるほど、とりあえず霧道。貴様は校則第四項に違反したと見なす」
榊先生がそう告げ――次の瞬間、霧道のスマートフォンから音が響く。
『霧道走は、校則第四項に違反しました。罰則として所持金から100,000円が減額されます。残りの所持金は262,110円となります』
「ふっ、ふざけんなよお前ら!」
霧道は叫ぶ。されど帰ってくるのは厳しい視線だけ。
「……ならば朝比奈は、流れを察するに雨森を殴ろうとした霧道からそいつを守った、という結果か。これに反論のある者はいるか」
そう問われ、誰一人として反論は示さなかった。
朝比奈の圧倒的人気と、皆の委員長に牙を剥いた霧道への恐怖。
そして、それ以上に大きな怒り、疎ましさだけが霧道へと向けられており、彼の顔が憤怒に赤く染まってゆく。
「結論を出す。霧道は校則第四項違反、雨森、朝比奈は不問とする。これは絶対だ。分かればそれぞれ席に着け。……ああ、霧道は雨森と席を交換したのだったか。霧道、貴様は朝比奈の隣、窓際最前列の席に座れ。妙にデコレーションされた素晴らしい席だ」
榊先生はおそらく全て知っている。
僕が霧道に虐められていることも。彼が僕を恨むその理由でさえ。
それらをすべて知った上で、この無反応さを示してくれる。
もう、面倒くさいから霧道の奴退学にしてやってくださいよ。
そんなことは思うけれど、残念ながら榊先生は享楽主義で、これ以上ない放任主義だ。
やるなら、自分でやれ。
そんな言葉が彼女の瞳からは伝わってくるようで、僕は小さく息を吐く。
見れば霧道は大きな舌打ちを吐き捨て、僕のモノだった椅子を奪い取り、僕の隣を通り過ぎてゆく。
「――ぶっ、殺してやる」
そんな声が聞こえてきたが無視した。
弱い犬程よく吠える。
奴に僕を殺せないことなんて百も承知だ。奴が僕を殺せるっていうんなら、僕は今、ここに立つまでに四桁近くは死んでいる。
だからこそ、安心して僕は彼を見送ろう。
――学園最後の一日、せいぜい謳歌してくれたまえ。
そう、心の中でほくそ笑み。
そろそろさよなら、霧道くん。




