8-15『逆鱗』
拳を振るう。
と同時に腹に衝撃が走った。
「ぐ……ッ」
口から濁った血が零れる。
内臓……破裂とまではいかないが、かなり深刻なダメージだな。いくら僕でも何発も食らってたら死にかねない。
眼前へと視線を戻す。
僕の振るった拳は奴の顔面を捉えている。
女は口から血を吐くと、感極まったように笑顔をうかべる。
「楽しいですね……命の脅かし合いは!」
「はっ、クソ喰らえ、だッ!」
そう簡単に命の危険に陥ってたまるかってんだ。
拳を振るうと、橘は一切回避することなく顔面に受ける。
嫌な感触と鮮血が噴き出す。
……数キロ吹き飛ばすつもりで拳を振るった。常人なら即死させる威力だった。
にも関わらず、橘は数メートルほど地面を滑り、再び僕へと笑顔を見せた。
「……お前、体重数トンあるんじゃ……」
「レディになんと失礼な!」
彼女は一気に床を蹴り出す。
踏み込んだ衝撃だけで塔の床が崩れる。
下の階へと落下しながら、それでも橘の速度は変わらない。
「ですが許しましょう! 夢にまで見た貴方様との戦い! 心ゆくまで楽しまなければ損ですから!」
橘は、落下中の瓦礫を足場に僕の四方を跳ね回る。
速度は既に雷の平均速にすら迫る。純粋な身体能力で『雷神の加護』に匹敵とか馬鹿なんじゃないのかな。
「――お前、馬鹿だろ」
僕は、移動中の橘へと拳を叩き込む。
「が……!?」
彼女は目を見開いて僕を見る。
生身で加護の速度まで至ったのは驚いた。
やっぱり人間じゃねぇな、って。
改めてお前を脅威だと思った。
けどさ、橘。
肉体性能で僕が負けると思うか?
硬直した彼女へと連続で拳を叩き込む。
下階へと落下するまでの数秒。
叩き込んだ拳の数は数百にも及ぶ。
下階へと落下する。
思い出したように数百の拳から衝撃が溢れ、周囲の全てを弾き飛ばす。
上下階の外壁諸共吹き飛ばし、塔半ばの合計3階を一気に失ったことで塔が崩れ始める。
崩れゆく塔の中。
僕は、目の前に倒れる橘を見下ろして顔を顰めた。
「……普通は即死だぞ」
「あら、それは人間の限界でしょう? なら、私には該当しませんね」
橘月姫は、けろっとしていた。
ダメージはある。
確実に攻撃は通っている。
だが、瀕死には程遠く、血を吐き痣を作っても、まだまだ命には程遠い。
「……本当に、嫌になるな」
橘は指を鳴らす。
瞬間、崩れゆく塔が元へと戻ってゆく。
傷一つない状態へと戻るに、コンマ数秒もかからない。
おおかた『塔が傷ついた事実』を無かったことにしたのだろう。
改めて、なんつー反則能力だ。
相手にするのも嫌になってくる。
「さて、それでは仕切り直しですね」
気がつけば、橘は少し離れたところに立っていた。
その体を、その顔を見てため息が出た。
彼女の傷も全部無くなっていたから。
対する僕は傷だらけ。
口から血は出てるし、腹には痛みが残ってる。まるで氷山でも殴ったように拳も痛いし、もう嫌になってくる。
「……だから嫌だったんだ。お前も、お前と戦うのも」
「あら、私は好きですよ? 貴方様も、貴方様と戦うのも」
僕は深く息を吸って拳を構える。
負けるつもりは毛頭ないが、同じくらい勝てる気もしない。
今まで色々なヤツと戦ってきたけれど、こんな感覚は初めてだ。
彼女はぐるぐると肩を回す。
その姿を見て、僕は一気に駆けだした。
「あら、照れ隠しですか?」
そう笑う橘を、思い切り蹴りあげる。
確実に骨が砕けた感触があった。
彼女の体は天井を突破って上階へと吹き飛んでゆき、僕はその後を追いかける。
追いついた頃には4階分は登っていた。
されるがままに吹き飛ばされている橘。
僕は天井まで回り込むと、その背中へと全力で回し蹴りをぶち込んだ。
ゴキリ、と。
橘の背骨が砕けた。
嫌な音に歯を食いしばる。
……まず、人間相手に使える威力じゃない。
確実にオーバーキルだ。
人間なら肉片になって弾け飛ぶ。
そういう火力だ。
当然、この女とてただじゃ済まない。
……はず、なのに。
「痛い、じゃぁ、ないですかぁ」
蹴り抜いた僕の足を、奴の両手が捕まえる。
ゾクリと、背筋が冷えた。
「お返しです」
僕が蹴り抜いた勢いのまま。
僕の足を持った橘は、僕の体を思い切り床へと叩きつけた。
「が……ッ!?」
異次元な衝撃。
自分の放った蹴りを数倍にしてカウンターされた気分だ。いや、その表現通りの威力なんだけどさ。
「化け物が……!」
「……私が、人間に見えますか?」
答えは簡単、『NO』だ。
僕の目の前の橘は、既に傷が無くなっていた。
塔も暴れた形跡無く元通りになっており、この場で傷ついているのは僕一人。
絶望的な状況で、それでも思考は止まらない。
幻の理論構築と書き換えが異様に速い。
二言交える隙さえあれば、この女はなんでも『なかったこと』に出来てしまう。
――秒数にして、約二~三秒。
その間に、百発殴っても殺せぬような耐久力をぶち抜かなければ殺せない。
そして、仮に殺せたにしても彼女の【幻】は自動で発動する。
死体を跡形もなく消し飛ばしても、きっとこの女は再生するだろう。
「……お前無敵か?」
一切の冗談なく、本気で思った。
どうやったら殺せんだ、こいつ。
そう思った言葉が知らず口に出ていたのか、彼女は困ったように眉を寄せた。
「難題ですね……橘月姫の殺し方。……二百年ほどお時間を頂いてよろしいですか? それだけあれば見つけ出せると思うのですが」
「……冗談にしても笑えないな」
僕は立ち上がると、彼女は歩く速度で僕へと寄ってくる。
……そこに暴力はない。
一人の少女のように、すぐ目の前で立ち止まり、僕を見上げる。
「笑えない。そう、誰も自分を殺せないというのは笑えないんです。誰より優れた結果、そこには退屈しか待っていなかった」
誰もが自分より劣っている。
どの分野においても、どんな場面でも。
自分を上回る存在が居ない。
それは、なんという地獄だろうか。
目指すべき先がない。
自分は既に完成していて。
成長も進化もなくて。
後続の人間たちは、どれだけ成長しようと絶対に自分には敵わない。
そう、確信できるだけの能力があったなら。
そこまで考え、拳を振るう。
「同情なんてしない。興味無いからな」
拳は彼女の顔へと刺さった。
数メートル吹き飛んで仰向けに倒れた橘からは、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「うふふふ……そういうと思いました。でも言っておきたかったのです。ありがとうと。貴方様は暗闇の中に見つけた光。……私を超えうる可能性。好きになって当然ですよ」
彼女は体を起こす。
その顔面を、思い切り蹴り抜いた。
サッカーボールキックだ。
彼女の首の骨がへし折れる。
と同時に追撃。
両の拳で彼女の肩を左右共に砕く。
……嫌な予感がしたんだ。
これ以上、橘を喋らせるといけない。
この女は、喋っちゃいけない部分まで口を滑らせるつもりだ。
「その面、彼はとても惜しかった」
話し声が続く。
嫌な予感が確信に変わる。
真っ先に喉を手刀で潰した。
「――止めておけ」
力任せに拳を腹へ叩きつける。
その際に、彼女の背中に付けられた脱落用の器具が目に入る。
これを押してしまえば――。
咄嗟に手を伸ばす。
だけど。
「――彼は、天守弥人は惜しかった」
伸ばした手は、その直前で止められる。
目を見開けば、彼女の喉は既に癒え。
焦る間もなく、他の傷も全て消えていた。
「……やめろと、言ったはずだが」
「やめませんよ。少し私は怒っているんです。夢のような殴り合い。私は勝つにせよ負けるにせよ、全力の貴方と戦いたい。……言っていること、お分かりですよね?」
ふつふつと、腹の底が熱くなる。
あぁ、なるほど。
今からこいつは、僕を怒らせるつもりだ。
どんな手を使ってでも。
僕を怒らせ、本気にさせる。
そして同時に思うのだ。
なんて簡単。
橘が僕の過去を知っているなら。
その手段はいくらでもある。
「誰より強く、誰より甘く、誰より優しく……そして、その優しさの果てを知らず。故に彼は愚かしかった」
目を見開く僕へと。
彼女は堂々と、逆鱗に触れた。
「あんな男は死んで良かった」
☆☆☆
『なぁ、ユート! どうしたんだ?』
記憶の中の彼は、いつも笑顔だった。
彼は誰もが認める天才で。
記憶の中の僕は、いつだって平凡だった。
『……いいよね、天才は』
いつだったか、僕は言った。
何が原因だったか、もう覚えてない。
子供の頃の発言だ。
きっと、些細なことだったんだろう。
なにか、彼と僕の差が浮き彫りになって。
思わず嫉妬から口を開いた。
『天才? まーね! 僕は君のためならなんだってできるんだ! なんてったって、正義の味方……ヒーローだからね!』
『……ヒーロー』
正義の味方。
懐かしい単語だ。
彼は真面目に『ソレ』を目指してた。
子供ながら、馬鹿だと思った。
立派な夢だと思うよ。
だけど無理だ、なれっこないよ。
そう言った記憶がある。
だけど彼は笑うのだ。
折れず曲がらず、挫ける事を知らず。
前だけ見て突っ走ってるはずなのに。
時折、後ろで倒れる僕に手を差し出し、笑うのだ。
『大丈夫、僕は正義の味方になれる!』
「……あぁ、そうだったな」
天守弥人。
彼は正義の味方だった。
僕にとってのヒーローだった。
今までも、これからも。
僕は彼以外を『それ』とは認めない。
誰より強く。
誰より優しく。
……優しさの果てを知らず。
正義の味方になると笑って。
最期に、それを諦めて死んだ男。
記憶が目の前で再現される。
血溜まりに沈んだ天守弥人を。
いつかの僕は、何を思って見ていたのか。
『けひひっ』
どこからか、嗤い声がする。
僕は声の方向を振り返る。
目の前が真っ赤に染まった。
きっとこれは、憎悪なのだろう。
朽ちたはずの感情が揺り動く。
いつかの僕が使い果たしたはずの怒り。
それが、腹の底から湧き上がる。
『「殺してやる」』
少年はそう呟いた。
その先の記憶は……もう、思い出すことも無い。
次回【雨森悠人の全力】




