7-15『悪しき神③』
『茜。貴女はあの方に及ばない』
数刻前。
病院へと向かう私へ、橘月姫はそう言った。
私があの男の元へ行くことなど伝えた覚えはない。
ただ、私は諦めを持って橘月姫という少女へと視線を返した。
『……なんで』
『そんなつまらないことを聞かないでください。何故、どうして。天才に対しそれらは愚問甚だしいと教えたはずですよ』
天才とは理由がつかないから天才なのだと。
そう、数年前に彼女から教わった。
忘れた訳では無い。
ただ、なんでも知ってるこの少女が、時折本当の神様のように思えてしまう。
だから私は……いいや、なんでもない。
きっとこんな思考すらも読まれているのだろうけれど、私は口には出さなかった。
『……私が雨森悠人に敵わない。その事実は、やってみなければ分からない。違う?』
『肯定しましょう。論より結果が先に来ることはあまり無い。ただ、結果を想像することは実に容易いのです』
結果、とは。
私が雨森悠人へと挑み、どうなるか。
あの男を打倒できるのか。
あるいは、それ叶わずに倒されるのか。
二つに一つ。
そう考えた私へと、彼女は言った。
『殺されますよ? 一切の掛け値なしに』
その言葉が、鋭く胸へと突き刺さる。
咄嗟に言葉が出てこなかった。
――殺される。この学園で?
そんな馬鹿なと言いたくなった。
だけど、その目を見れば言葉は消えた。
『私は真のみ語る。それが橘月姫の在り方です』
『……知ってる』
彼女は決して嘘を吐かない。
そんなことは知っている。
だからこそ、理解出来た。
雨森悠人は、平然と人を殺せる人間なのだと。
そう理解した。
だからこそ、私にも引けない理由が出来た。
『そんな人間が……私たちと敵対してる。ならいっそうの事、放ったらかしにはしておけない』
『元はと言えば、貴女たちが売った喧嘩でしょう』
『遅かれ早かれ、結局私たちは戦ってた』
仮に今回、私たちが手を出さなかったとしても……きっと、1年C組はA組へと闘争要請を仕掛けてきてた。
この少女風に言うのであれば、あのクラスには雨森悠人が在籍しているのだから。
だから、善悪の所在など、今はどうだっていい。
『殺される。……そういうのなら、手を貸してほしい』
『手を貸す。はて、私になにか手伝えることでもあるのでしょうか』
それが冗談だとすぐに分かった。
この少女に出来ぬことなどありはしない。
神が如き才能に恵まれた、神秘の塊。
そんな存在に手伝えないことなどあるはずもなく。
私は、少女に口を開いた。
『もしも、私が本当に負けそうになったら――』
☆☆☆
「……敗北という事実に対する幻惑。僕に負けた事実を『なかったこと』にしたな」
その言葉に、橘月姫は微笑んだ。
それは言外の肯定。
倉敷が喉を鳴らし、僕は思わず歯噛みする。
橘月姫。
史上最悪の異能力者。
異能の頂点に君臨する概念使い。
その能力の名は――。
「【幻】」
その言葉が世界を変える。
結界は崩れ落ち、戦闘の傷跡が病院の屋上から消え失せる。
時間を遡る……とでは次元が違う。
雨森悠人をして、どうやって勝てばいいのか見当もつかない怪物。
幻に関するありとあらゆる能力の集合体。
それが、橘月姫の天能。
幻――と。
その単漢字にて示される、いわゆる反則だ。
倉敷が嫌な予感を覚えたように僕の方へと駆けてくる。
その姿を一瞥した……その直後には、橘の姿は消えていた。
そして、その気配は僕の背後へと移っていた。
「ええ、ですが悠人さま。貴方の尊厳を損なおうという訳では無いのです。……貴方は知った上で動いていたはず。私が必ず動くはずだと」
「さて、なんの事だか」
拳を握る。
されど暴力までは発展しない。
この女に何をしても……たとえ殺したにしても、瞬く間に『なかったこと』へと移り変わる。
死が終着ではない。
それの、何たる厄介なことか。
「貴方は確かに残酷です。片手間に他者の人生を狂わせてしまうほどに。……ですが、今回は破滅より嬲りに重きを置いていた。その理由を考えた結果……この私、橘月姫を炙り出すため、という結論に至ったのですが」
その目が僕を振り返る。
……やっぱり、見透かされてやがるな。
咄嗟に否定しようと思ったものの、この女相手には舌戦で勝てる気がしない。
結果として、僕は嫌味満点で問いかけた。
「……それは、否定して覆るモノなのか?」
「いいえ? 既にこれは確信です」
その言葉に、僕はもう思考を止めた。
既に彼女は答えを得ていて。
それをひけらかすように確認しているだけ。
なんつー性格の悪い女か。星奈さんをちったぁ見習えってんだ。
僕は大きく息を吐き。
背後の少女を、軽く振り返る。
世界で最も嫌いな女。
橘月姫。
彼女を呼び出してでも、言っておきたかったこと。
伝えねばならなかったこと。
それが、一つだけある。
「さて、どんな面白い話を聞かせてくれるのでしょうか。私の愛し、強き人」
期待に胸を膨らませ。
きらめく眼で僕を見上げる少女を見下ろし。
僕は、端的にその期待を裏切った。
「今回、お前の相手は朝比奈だ」
その時、その瞬間。
その瞳から光が消えた。
「………………………………は?」
たった一文字。
それだけで鳥肌が走り抜ける。
まるで気温がぐっと下がったような感覚。
まるで悪魔に心臓を握られているような。……正直、僕をして冷や汗モノの恐怖感。
橘は、僕を見上げて目を見開いていた。
瞬きをすることも無く。
まるで人形のように。
怒りで我を忘れたように、立っている。
「……今のは聞き間違いでしょうか。私の生き甲斐を知って尚、そのような妄言……嫌がらせでしょうか?」
橘月姫の生き甲斐。
それは、第三者の手で否定されること。
誰より優れ、誰より神に近い生命体。
故に肯定しかその生において知ることはなく。
心の底から、否定の味を求めている。
こいつが僕に妄執するのはそのためだ。
「朝比奈霞では、私の否定には届かない」
「それは早合点な気がするが。あまり、あの朝比奈霞という女を舐めない方がいい」
アイツは馬鹿だ。
頭のネジが全部緩んでるとしか思えない。
ストーカーだし、正義の味方だし。
ぶっちゃけ嫌いなタイプの人間さ。
だけどな橘。
「僕はお前より、むしろ朝比奈の方を評価している」
その言葉に、橘の瞳へと憎悪が灯る。
されど、それは一瞬。
すぐに息を吐いて肩を竦めた彼女は、いつも通りの瞳で僕を見上げる。
「……雨森さまも言葉がお上手になりましたね。一時とはいえ、私にイラッとさせるだなんて……少し嬉しくなってしまいます」
既に、彼女は『普段通り』に戻っている。
その内面がどれだけ荒れているのかは知らないが、少なくとも今、目の前に立っている橘月姫は平静そのものに見えた。
「そして理解しました。貴方は私に朝比奈霞を意識させたい。そして来るべき私との対決の際、朝比奈霞と雨森悠人。二人へと私の意識を分散させ……あわよくば、楽に勝とうと考えている。違いますか?」
何も違わない。
橘が今言った通りの作戦だ。
僕はそれ以上もそれ以下もなく、お前が言った文字通りのことしか考えてはいない。
……あぁ、いや違うな。
一つだけ、お前の言わなかった確信がある。
橘月姫は、口元を袖で隠して笑った。
その目元はとても優しげで。
故にどこか、末恐ろしい。
僕が朝比奈霞を認めている。
事実はどうあれ、この女はその発言が気に食わない。たとえ僕の見え透いた作戦に乗ることになったとしても……この女は、全身全霊で僕の発言を撤回させに来る。
そんな確信が、僕にはあった。
少女は僕の前から姿を消した。
階段室の屋根上を見れば、小森茜の傍らにたたずむ橘の姿があった。
「朝比奈霞……いいでしょう、貴方の作戦にまんまと乗ってみることにします。……彼女を潰し、雨森悠人を否定する。それもまた一興ですから」
「たっ、橘……!」
小森茜は、橘の言葉に目を見開いた。
彼女は橘の制服を掴むと、僕へと怯えた視線を向けてくる。
「あ、アイツ……アイツはダメだ! ここで倒さなきゃ……A組は絶対にまずいことになる!」
まずいこと。
それが何を意味しているのか、分からない橘ではあるまい。
橘は優しく小森茜の頭を撫でると、僕を見下ろして口を開いた。
「無論。ですが、そういうリスクが生を産むのです。安全と安定に彩られた生などただのシステムに過ぎません。私が望むのは……破滅ギリギリの潰し合い」
その言葉には、小森も倉敷も唖然としている。
イカれてやがる。
そう、端的に言えばそれで済むのだ。
この女は破滅主義者。常人と反りが合うだなんてありえない。
小森は僕の方へと視線を向ける。
その目はまるで、絶望に瀕しているようで。
僕は、たった一言贈りつけた。
「小森茜。僕は、お前を見ているぞ」
その言葉に、彼女は過剰に反応を示した。
お前が何をしようと。
どんな悪事を働こうと。
僕はその全てを見知っている。
僕の目から逃れられることは無い。
ほら、よく言うだろう。
神様はいつだって見守ってくれてると。
なら、僕も似たようなモノだと思え。
ヤツらに出来て、僕に出来ないことはない。
故の、言葉。
「か、神様は……いつだって、私たちを見てくれている」
小森茜は、そう言った。
橘の表情が僅かに曇り。
小森の握りしめた拳に力が入る。
その目には大きな悲痛が灯っていて。
彼女は『だけど』と逆説した。
「だけどお前は……違う、お前が良い神様なわけが無い! お前はただの、悪神だ!!」
「何を今更。僕のどこに善性なんてモノがある?」
悪で結構。
ただし神と呼ぶのは止めて欲しい。
そういう『蔑称』は、橘辺りに向けておけばいい。
僕の言葉に、小森茜は僕を睨んだ。
されど、もうそこに脅威はない。
全ての外傷が消えたにしても、僕に嬲られた記憶が消えるわけじゃない。僕に対する恐怖が消えるわけじゃない。
彼女はもう、僕に対して挑めない。
だって、心が既に折れているから。
「……もっと早く止めるべき、でしたね」
橘が、病院の隣の建物へと視線を向ける。
その方向を追えば、見覚えのある青年が僕らの方を監視していた。
「黒月奏。……想像以上に強いですね。私を『数秒』押し留めるだけの結界だなんて。おかげで助けに入るのが遅れてしまいましたよ」
今回ばかりは、黒月にMVPを与えたい。
彼が橘を押し止めた数秒。それがなければ小森を再起不能にすることは出来なかった。
橘が最初から助けに入っていれば……うん、今みたいな状況にはなっていなかったと思う。
橘を見れば、彼女は笑っていた。
まるで敗北が何より嬉しいと言わんばかりに。
新しい玩具を貰った子供のようにはしゃいでた。
「誇って構いませんよ、悠人さま。些事とは言え……貴方は私に勝利した」
小森茜を再起不能にした。
朝比奈霞を印象付けた。
黒月の力を示し、警戒させた。
それを指しての『勝利』と、彼女は言った。
「そうか。なら手を引いてくれると助かるが」
「それは出来ない相談ですね」
返ってきたのは即断即答。
彼女と戦わずに済むのならどんなに良いだろう。
幾度となくそう思ったし、そうなるように道筋を考えてきた。
だけど、そんな未来は在りはしない。
雨森悠人と橘月姫。
僕ら二人が相対した時点で、もう衝突は避けられない。
……もう、期待はしてなかったよ。
だから、今回の目的は全て、次の戦いへと向けたものにした。
「一月後にしましょうか」
その言葉に、僕は目を瞑る。
息を吐き、再び目を開いた時には既に彼女らの姿は消えていた。
「私の手札、貴方の手札。全て……とまでは言えませんが、あらかた晒し終えた頃合でしょう」
どこからか声がする。
空を見上げるように振り返れば、風が前髪を大きく揺らした。
「10月31日。私はあなたと戦争する」
秋の終わり、冬の始まり。
季節の変わり目たる仮装祭の日、か。
既に橘たちの気配は消えていて。
僕は、頭をかいて吐息を漏らした。
「戦争たぁ、良くもまぁ言ったもんだぜ」
「だけど、冗談とは言いきれないな」
倉敷の言葉にそう返し、僕は屋上を後にする。
――もうすぐ、闘争がやってくる。
それはきっと、この学園に入って以来……最大規模の戦争になる。理由はないけどそう思う。
不思議と、そんな予感があったんだ。
決戦は迫り。
眠れる獅子は目を醒ます。
されど狂人は平穏に棲み。
その牙は、抜き放たれる時を待ち続ける。
次回『後日談』




