7-12『夜宴の提案』
八咫烏。
その脅威をC組の生徒は知っていた。
その恐ろしさをB組の生徒は理解していた。
その正体をA組の生徒は把握していた。
それらを全て嘲笑うように。
ただ、そこには八咫烏が立っていた。
恐怖も理解も蹴り飛ばし。
当然のごとくそこに立った。
正体への思考など放棄させるように。
ただ、一歩、A組へと踏み出した。
――その瞬間。
紅の全身から、滝のような汗が溢れた。
「――ッ!?」
彼女は咄嗟に拳を構える。
天能変質を経て、彼女は1年生の中でも最強格となっただろう。殴り合いの面でも、異能の強さという面でも。
そんな彼女をして、恐怖した。
たったの一歩。
それだけの圧が彼女を下がらせた。
「……う、嘘でしょ……! ど、どうして!? どうして八咫烏が……だって!!」
彼女はきっと理解した。
この八咫烏は【化け物】である、と。
正体を疑うことなど、既に捨てた。
ただ理解したのだ。
どう足掻いても勝てっこない、と。
「あぁ、知っているとも。A組はオレの正体に見当をつけていた。それが雨森悠人。先の闘争要請において、不自然に生き延びた男だったから」
理由は異なるだろう。
されど、その見当は正しいものだ。
雨森悠人が八咫烏である。
その事実は変わらない。
だが、この場においては少し違う。
周囲の視線が僕へと向かう。
雨森悠人はここに居て。
それとは別の怪物が、目の前に居る。
その事実に紅は歯を食いしばり。
八咫烏は、仮面の下で嘲笑う。
「残念だったな。ただの勘違いらしい」
「…………ッ!! こ、この男……!!」
紅は叫び、両手を地面へ突きつけた。
瞬間的に崩壊が広がり、八咫烏は仲間の女を抱えて回避する。
そして運の悪いことに……その回避した先が、たまたま僕らの近くだった。
ので、僕は特に躊躇もなく殴りかかった。
「な……!」
反応というより、反射に近い攻撃。
警戒心を強めていた朝比奈嬢ですら硬直する中、僕は結構本気めに拳を振るった。
それは空気を潰して進む。
喰らえば即死もありえるところ。
そんな拳を。
対する八咫烏は、笑って受け流した。
「殺意が見えるな。それも濃厚な」
「さぁ、どう答えて欲しい?」
続けて回し蹴りを叩き込む。
防御越しに八咫烏の体は大きく吹き飛んでゆき、それを見た朝比奈嬢が驚きの硬直から目を覚ました。
「はっ!? ちょ、ちょっと雨森くん……!」
「なにを惚けている。敵だぞ朝比奈」
事実なんて関係はない。
この場に八咫烏として現れた以上、雨森悠人は全身全霊で敵対するだけ。
そも、これは闘争要請。
勝手に妨害してきているのが八咫烏側な以上、闘争要請は続行されている。たとえここで殴ったとしても、闘争要請中に校則違反はあたらない。
なら、攻撃する一択だ。
それ以上もそれ以下もなく、その行動にさしたる理由は必要ないだろう。
だけど。
「そうだな、雨森悠人」
――目の前から、声がした。
目を見開いたのは、きっと僕だけではないはず。
僕の頭蓋へと手が触れる。
まるで鷲掴みにするように。
造作もなく、遊び半分のように。
たった一息で僕の間合いの内に入った。
「――ッ!?」
一切の誇張なく。
あまりの速さに、数瞬反応が遅れた。
たったそれだけが、時として勝敗を分ける。
全身から冷や汗が溢れる。
生きてきて、久々に感じた嫌な感覚。
そう、これは――敗戦の予感だ。
「好きに答えろ。貴様はオレに敵わない」
頭を、思い切り地面へと叩きつけられる。
あまりの衝撃に大地が砕け、衝撃に周囲の生徒たちが吹き飛ばされてゆく。
そして――バチリと、黒い雷が跳ねた。
「――!?」
「さて、雨森悠人。以前の借りは返せたかな」
生まれて初めてだな。
自分の異能を自分で食らうというのは。
あまりの衝撃に意識が遠のく。
新崎も、朝比奈も。
よくもまぁ、この異能を受けて立ち上がったもんだ。
僕は伸ばしていた手を力なく地面に落とすと、周囲から息を飲む気配がした。
「う、嘘だろ……」
「あ、雨森が、素手で一撃……?」
C組の面々から、半分絶望の交じった声が響く。
気絶した振りで様子を窺うと、何かに勘づいた様子の倉敷と黒月、あと、なにやら僕の方を凝視してくる金髪仮面の女の姿が見えた。
「【金狐】」
八咫烏が、その名を呼んだ。
「問題だった、天能変質の底は見えた。あとはお前の好きにすればいい」
少女はその言葉に反応を示し、改めて朝比奈や紅の方へと視線を向ける。
「ええ。初めまして、と言っておきましょうか。私は金狐。夜宴における……そうですね。交渉役とでも言いましょうか」
その少女の声に覚えはない。
姿もどこか朧気で、何らかの異能が働いていることは誰の目にも明らかだろう。
声や仕草、体格、容姿。
それらから正体が見抜けぬように、絶妙な程度で認識を阻害している。
「……幻影系、また面倒な力を持ってるのね」
「私に貴方からの質問に答える権利は与えられていない。私がすべきは、貴方がたに提案することだけ」
そして、その少女は提案する。
それは聞くもの全てが惚けるような。
あまりにも馬鹿馬鹿しい言葉であった。
「提案は一つ。私たちの【勝手】に、一切の手出しをしないで欲しい」
☆☆☆
雨森悠人が倒された。
その事実に、倉敷と黒月は咄嗟にアイコンタクトを取る。
(どう思う)
(雨森さんがあの程度で倒れる……とは、考えにくいけれど……しかし、あの異能)
二人をして、全く同一にしか見えなかった。
雨森悠人の【燦天の加護】が一角。
黒雷を操る強力無比な能力。
あの男が放ったのはそれに違いない。
故に考えるべきは、雨森悠人の安否ではなく。
この状況が、雨森悠人にとって想定内のものであるかどうか、だ。
2人は考える。
されど、答えなどすぐに出た。
想定外だろうと想定内だろうと。
すべきことはただ一つ。
雨森悠人から言われたことを貫くだけ。
「朝比奈!」
黒月は声を上げ、朝比奈と八咫烏の間に体を割り込ませる。
と同時に、倉敷が朝比奈を羽交い締めにし、その体を無理矢理にでも制止させる。
……よくぞ、この数秒を持たせたものだ。
体育祭前の朝比奈であれば、一切の躊躇なく八咫烏へと襲いかかっていたはず。
それを彼女は押しとどめ、交渉役と抜かした少女と会話すら試みた。
その成長、2人は確かに体感した。
たが、それでもこれが限界だと察していた。
握りしめた拳からは血が滴り。
溢れ出した憎悪は髪を逆立たせる。
顔は怒りに歪み、口の端から血が零れる。
――朝比奈霞を守り、支える。
それだけが2人の役目。
雨森悠人は怪物だ。
2人が心配できるような男ではない。
ならば優先すべきはこちら。
安否など二の次でいい。
「……どういうつもりだ。勝手、だと?」
「ええ。勝手。私たちがしたいのは、好き勝手。それを、あなた達は邪魔すると思うの。だからこその――提案よ」
難しい言葉を使っていても。
極論をいえば、子供の我儘。
社会を知らず、協調性を知らず。
エゴを貫こうという子供の意見。
それに対して黒月が言う前に、朝比奈が黒月の肩へと手を伸ばす。
「あ、朝比奈……」
「……安心してちょうだい。私はもう大丈夫。私は、雨森くんに覚えられるような正義の味方になるの。……私はもう、彼に無様は晒せない」
そう言って、彼女は黒月の前に出る。
仮面の少女との距離、十メートルにも満たない。
朝比奈は一瞬、地面に倒れる雨森へと視線を送り……そして、断腸の思いで視線を外した。
「好き勝手……と。その内容によるわね。私たち自警団は、悪しきを討ち、秩序を整える。その為だけに在るのだから」
「内容……ねぇ。こうして提案している以上、察してくれてもいいんじゃないかしら。あなた達が許容できない類の勝手よ」
朝比奈の顔に力が篭もる。
「……ならば、私たちの答えなど知っているはずでしょう」
「ええ。拒絶すると思っていたわ。だからこそ、その拒絶を前に力を見せてあげたわけ」
仮面越しに、少女の視線が雨森を捉える。
少女は雨森悠人へと、一歩、一歩と進んでゆく。
その姿は隙だらけ。
朝比奈も、紅も。
その隙を突こうと1度は考えた。
だが、強烈な存在感がその思考をかき消した。
――八咫烏。
彼が一瞥するだけで、2人は一歩も動けない。
「雨森悠人。彼は強かったでしょう? 八咫烏に傷を負わせたのは、生徒の中では新崎康仁と、この男だけ。そんな男を公衆の面前で叩き潰す。……これ以上の力の証明があるかしら」
「……その為だけに。……そんなことのために、雨森くんを傷つけた……とでも言うのかしら」
それは、怒りを堪えた朝比奈霞の最後通告。
今すぐ謝罪をすれば、何とかこの怒りを堪え、消してみよう。
だけど、これ以上は。
これ以上の暴挙は、もはや微塵も堪えられない。
言外の警告に。
されど少女は、嘲笑う。
「ええ、その通り」
その言葉は。
容易く朝比奈の沸点から吹き零れた。
黒月と倉敷が止めようと思った時には、既に何もかもが遅すぎた。
一瞬にして大地を蹴り飛ばした朝比奈霞は。
目の前に迫った少女へと拳を振るおうとして……次の瞬間、横合いから八咫烏に蹴り飛ばされる。
「が……!?」
「成長しないな貴様は。怒りに溺れて突撃などと……」
凄まじい衝撃と共に吹き飛んでゆく朝比奈の姿。
八咫烏はその姿に一抹の失望を滲ませた。
だが。
次の瞬間、何かに気がついた様子で体を硬直させた。
「……貴様」
「けほっ……、あら、貴方を騙せる程度には、私の怒りの演技も上手かったと見えるわね、八咫烏」
倒れていた雨森悠人の姿が無かった。
声の方へと視線を向ける。
吹き飛ばされた朝比奈霞は、気絶した雨森悠人を抱えて立っており、その光景に八咫烏は歯噛みする。
「……雨森を救うために突撃してきたわけか」
「当然。私は暴力は好まない。私は何より、守るべきものを守ることを優先するの」
朝比奈は、近くにいたC組の仲間へと気絶した雨森悠人を預ける。
再び八咫烏らへと向き直った朝比奈霞は、どこまでも真っ直ぐ、鋭い視線を2人へ向けた。
「今日は随分と鈍いのね。まるで別人みたいよ八咫烏」
「……ほざけ。元より人質など不必要なのでな。特にくれてやっても痛くはない」
それに、と。
続けた八咫烏は、踵を返した。
「人質が居たとして、貴様が提案に頷くとは考えられない」
それが、八咫烏が朝比奈へと向けた最後の言葉。
「あら、帰るのですか?」
「長居は無用だ。そも、提案を呑むような輩ではない。此度は忠告だけで済ませておくさ。それに、Aの天能変質……。あの程度で恐れ退くなら、どのみち脅威足り得ん」
二人の体が影に包まれ、消えてゆく。
朝比奈霞は、その背中をただ、真っ直ぐに見つめていた。
その目から、何を考えているのかは読み取ることは出来なかったが。
それでも、なにか大きな覚悟が灯ったことだけは、その横顔を見ていた誰もが理解した。
「それでは、よき混沌を。私たちは好き勝手に――この日常を壊します」
最後に金髪の少女の声が残って。
他には、その場には何ひとつとして残らなかった。
金狐『ああ、どうしましょう! 悠人が殴られてるわ! い、いえ、でも我慢よ私、悠人が心配で気が狂いそうだけれど、そういう予定だって悠人が言ってたし! ものすごく心配で今すぐ駆け出したくてしょうがないけれど、我慢よ私、我慢、我慢我慢我慢がま――』
八咫烏『……おーい。……ねぇちょっと? 話聞いてるー?』




