続、父と息子
岡持を手にして歩いていた芳俊は、足元に落ちた着物を踏んづけた。
着物を落としたのは、玄妃のところの洗濯係だった。
「着物が落ちてる」
芳俊は岡持を置いて着物を拾おうと腰をかがめたところに後ろからぶつかってきた誰かがいたことでよろけて手をつき、手首をひねった。
「あら芳児だったの? きれいな着物で、誰だかわからなかったわ」
そう言った玄妃の宮の洗濯係は、芳俊が踏んづけた着物を拾い上げて「困ったわね、足あとが付いてしまった」と呟く。
「芳児、六殿下と比女殿に玄妃の宮にもお顔を出したほうがよいと伝えてあげてちょうだい」
「六殿下の加冠に力添えしたのが二妃で、比女殿がそのことを恩義に感じてか二妃のところによく通っておいでだと噂で聞いて、玄妃様ご機嫌斜めなのよ」
芳俊はひねった手首の様子を確かめつつ、洗濯係たちの話も聞いていると示すために目線を上げた。
「それから、お母上は同じ国から嫁いできた妹公主殿なのに、六殿下ときたら加冠の挨拶だってそこそこに暁寧殿に戻っておしまいになったそうよ。妹公主殿のほうが格上だったかもしれないけれど、あまりにも礼儀作法をご存じないとご立腹なのですって」
岡持を手に取って立ち上がり、背筋を伸ばして芳俊は笑顔を浮かべて見せる。
「伝えます」
「そうしてね。ちゃんと伝えてくれれば、洗濯物が落ちてくることはなくなるから」
洗濯物を持って去って行く洗濯係たちを眺めて、芳俊は呆れた。
手首が痛む。
「なんだったんだ」
呟いた芳俊の後ろから、若い宦官が数人ほど岡持を持って追い越そうとし、芳俊に気付いて足を止めた。
「芳児、その岡持は暁寧殿の?」
「そう」
芳俊は手首を少し動かしながら答える。
「こちらに貸して。一緒に持って行くから」
宦官の言い分に苦笑いしながら、芳俊は「大丈夫」と首を振った。
「少し手首をひねっただけで、物を持つのに不便はしないから」
「手首をひねった? 痛むのか?」
芳俊は首を傾げる。
「そのことじゃなくて?」
「違う違う。こちらも暁寧殿に運ぶ間食なんだ」
宦官の説明に芳俊は顔をしかめた。
「どういうこと? 他にも皿があったの?」
「殿下の分じゃない」
きっぱりと否定されながら岡持を宦官に渡して、芳俊はその隣を歩く。
宦官たちは、芳俊ひとりで歩くよりも少し足早だった。
厨房へ行く時に見た海棠の影が、行きに見た場所とは少し違う位置にずれていた。
「六皇子のものではないものを、なぜ暁寧殿に運ぶの?」
「王が暁寧殿にお渡りなんだ。殿下には言わずに行くとおっしゃってて、王の分と王から六殿下に下賜される皿が暁寧殿に必要だ」
そう言いながら、宦官たちは暁寧殿の裏口の門扉を開く。
「皿を岡持から出す控えの部屋はどこ?」
「一番手前」
芳俊は答えて、竈がある建物を示した。
「それで、王がいつお渡りになるの?」
「もうお渡りになっているはずだ。皿を出すの手伝ってくれ」
少し宦官の手を眺めてから表の宮がある方向を見て、芳俊は「すまないが手伝えない」と断言してから少し動きを止め、岡持を持った宦官を振り返る。
「誰かに騙されたのではない? 王は二十年ずっと暁寧殿においでになってない」
「王の行き先を間違えただの間食の皿を届ける先を誤魔化すだのなんてことがあってたまるか」
宦官の文句を聞きながら、芳俊は痛めた手首をまた少し動かして「伊五子!」と声を張り上げた。
「伊五子! 包帯があったら出してくれ、少し手首を痛めた!」
声をあげた芳俊は、反応がないことに首をひねる。
宦官たちは、その間に手早く間食の皿を整えていく。
しばらくして顔を見せた伊五子は、芳俊を見て「殿下!」と声をあげ、宦官たちは芳俊を振り返ってぎょっとした。
「王がお渡りです、すぐにお着替えください」
「なんの用向きで来たの?」
「王がおいでになった理由なんぞ私が知るもんですか!」
伊五子が芳俊の耳元で怒鳴った。
*** *** *** *** ***
圭徹は息子を驚かせようとして失敗したことに少々落胆し、范雪がその圭徹を見ながら肩を落とす。
「先触れを出さなかったのは失敗だったか」
息をついた圭徹の前で、比女と呼ばれていた女が「申し訳ございません」と頭を下げる。
「あれは、いつもこう自由に宮から遊びに出てしまうのか?」
圭徹に問われ、比女が「指導の時間は充分にございますから、日に一度、おやつの時間はご自由にしていただいております」とやんわり答えた。
(礼儀作法の指南役は比氏の養女で博識な女だと二妃から聞いていたが、皇子をひとりで遊ばせるような見識の持ち主で大丈夫なのだろうか)
圭徹の疑問は特に比女にとって疑問ではないらしい。
「殿下はいつでもおひとりで、ご自分にできることを探しておいででございます」
比女がぽつりと言った。
「梅香! 王が」
奥から息をついて出てきた息子を振り返り、圭徹は我知らず眉をひそめていた。
(玄五妃に似ている、この子はこんな顔をしていたのか)
ふとそう思ってから、圭徹は「六番目」が自分と玄五妃の息子だということを思い出す。
息子は立ち止まり、一歩下がってからゆっくりと膝を折って叩頭した。
圭徹は少し息子の言葉を待ったが、息子からはなんの言葉もなかった。
「声を聞いたのは、加冠の儀以来か」
圭徹は努めて笑顔で、自分の手に目を落としながら訊いた。
「はい」
自分に向けた息子の声は、比女にかけていた声とは比べ物にならないぐらい細く弱々しい。
「父はここに来るのがずいぶんと久しぶりかな」
「はい」
話が弾まないどころか、話のきっかけがない。
圭徹は奥から間食の皿を膳に並べてきた宦官たちを見た。
「並べてくれ」
宦官たちは圭徹の声に頷いて、手際よく膳を出す。
息子は一度も顔を上げなかった。
それは王と臣として当然のは作法で、しかし奥の宮という私的な空間で語らう父と息子という関係には見えない。よく笑う二妃、うるさいぐらいに喋る蘭俊と遠慮なく膝に上がってくる菖俊と過ごすことが多い圭徹はそのことにまた顔をしかめた。
「ここは奥の宮だ。そう他人行儀にせずともよい」
「はい」
か細い声で答えた六番目の息子は、それでも顔を上げなかった。
「顔を上げよ」
六番目の息子は小さく首を振る。
「顔を見せてくれないか?」
「できません」
返されてきたのは、またしても聞き逃すかと思うほど小さな声で、圭徹は呆れた。
「久しぶりに父が来たというのになにが不満だ!」
「申し訳ございません」
比女がちらりと顔を上げて范雪に声をかけ、范雪が圭徹に耳を寄せる。
「宜州の茶があるそうです。桂花糕に合うと」
「それがどうした」
息子との話がままならない圭徹の苛立った声に、息子はさらに頭を深く下げてしまった。
こんなはずではなかった。
自分は父親として随分と長いこと暁寧殿から足が遠のいていたが、急に出向いても「顔が見たくて会いに来たのだ」と言えば、六番目の息子はきっと喜ぶだろうと思っていた。どんな様子の息子であったかすら覚えていなかったが、会えば、喜び、笑いながら好きなことを話すだろうと思っていた。
それなのに息子は目の前で声もまともに出さないどころか、委縮して、まるでなにかの罰を宣告されるのを怯えて待つ者のように叩頭したまま動かなくなっている。
「躾役の芦氏も指南役の比氏も、どんな世話の仕方をしたらこうなる!」
その圭徹の罵声を聞いた途端に、息子はなにかに弾かれたように顔を上げた。
「芦氏のせいでも梅香のせいでもありません!」
息子が顔をあげて初めて、圭徹は息子が泣いていたのだということを知った。
「父が来たのになにを泣く」
「それは、その、王に申し上げます、あの」
この息子は「申し上げます」と言ったはずなのに言葉が続かない。そのうえ他人行儀も甚だしい。この奥の宮で圭徹のことを王と呼ぶ息子はいない。二番目と七番目は言うに及ばず、一番目も、毒を与えて死なせた三番目も、四番目も、五番目も、奥の宮で圭徹と、それぞれの母と同席して話をするときには「父上」と呼んでいた。
「申し訳ございません、失礼いたします」
息子の代わりにそう言ったのは、比女だった。
「范雪様、ほんの少し殿下を奥で落ち着かせてまいります」
「そのように頼む」
頷いて比女と息子を奥に一度下がらせた范雪を見て、圭徹は不機嫌に問う。
「なぜ喜ばない、他の皇子は皆それぞれ奥の宮で会えば父が来たと笑顔で出迎えて、これでもかと話をする。それが六番目だけはあの体たらくか」
呆れたように言った圭徹は、范雪が悲し気に顔を歪ませたのを見た。
「なにが言いたい」
「玄五妃が亡くなられたのが二十年前、二十年、一度も暁寧殿にはおいでになってないと、王がご自身でおっしゃいました」
「それがどうした」
圭徹は范雪を睨み付けたが、范雪が首をひねって視線を返す。
「二十年前、六殿下はまだ七歳です。二十年、躾役の芦氏と乳兄弟の伊五子のほかには、目も合わせずに控えている侍従や侍女がいるだけだったでしょう」
苛々しながら、圭徹は范雪を見た。
「なにが言いたい」
「殿下は今、必死に、なぜ王がお渡りになったのかを考えているはずです。次からなにか用向きであれば呼び立ててくれと申し出ておいでになるのではないでしょうか」
「暁寧殿は用がなければ息子に会いに来てもならんような場所か!」
怒鳴った圭徹は、范雪に仕草で否定された。
「王は、六殿下がお好きな菓子をご存じですか?」
「知らないからこれだけ用意させたのだ!」
圭徹が范雪に宦官たちが机いっぱいに並べた皿を示して見せれば、范雪は呆れたように小さく頷く。その圭徹と范雪の会話が途切れたところで、比女が「改めて王にご挨拶をなさることです」と言いながら息子を連れてきたのが見えた。
「取り乱して申し訳ございませんでした」
ここに来る前に圭徹が「六番目」とだけ呼んだ息子は、改めて頭を下げて叩頭し、口を開いた。
「時節ご機嫌麗しく、わざわざのお運び恐悦でございます」
(今度はそうきたか)
圭徹は呆れた。
「ここは奥の宮だ。父と息子の会話で畏まる必要もない」
「ありがとうございます。次からご用の向きがあればいつでも伺います」
范雪が言ったとおりの息子の言葉に、圭徹はまた呆れた。
咳払いしたのは范雪だった。
「六殿下、王はただ暁寧殿の様子を見にいらしただけです」
范雪の擁護を聞いて、息子は呆けたように視線を彷徨わせる。
「そうなのですか」
「さようです。よろしければ、お好きな皿をお選びください。王が殿下のために用意させた皿です」
圭徹は范雪が手際よく六番目に間食の皿を選ばせるのを眺め、それから数十はあろうかという皿の中から息子が選んだものを宦官に書き付けさせた。
皿を選ばせていた范雪がなにかに気付いたのか、動きを止める。
「どうした?」
范雪は圭徹の問いに、「いえ」と小さく答えてから六番目の皇子を見た。
「殿下、手首をどうなさいました」
「厨房から戻る途中でよろけて手をついたときにひねっただけだ。利き腕ではないし、支障ない」
父として、ここは心配のしどころだ。
圭徹はそう判断した。
「医官を呼ばせよう」
「ありがとうございます。ときどきあることですから大事ございません。痛みが続くようであれば自分で医官のところに参ります」
淡々と答えた息子を見て圭徹は改めて息をつく。
(他人行儀な子だ)




