眠れぬ聖女はやさしい夢を見ない
ソランは平凡な少女だった。
家柄も容姿も、それは平々凡々だった。
日に焼けた明るい茶髪に、同色の瞳。髪の毛はいつも活発なポニーテールに結って、母の仕事を手伝い薬草を売って生計を立てていた。
家はあまり裕福ではなく、田舎町での暮らしは楽しいことばかりではなかったが、下の弟達の面倒を見ながら毎日幸せに過ごしていた。
しかしそんなソランが十六歳を迎えた春のこと。
王都の騎士が家を訪ねてきて……彼らによって、ソランは王城に招かれることとなった。
そこでソランは思いも寄らぬことを告げられた。何とソランは、聖なる魔法を行使することのできる選ばれし乙女だというのだ。
その証拠が、額に刻まれた複雑な模様の痣なのだという。それは聖印と呼ばれる代物で、聖女の証なのだそうだ。騎士達もこの痣のことを聞きつけて駆けつけてきたのだ。
まさかこれがそんなにすごいものだなんて、とソランは衝撃を受けた。この痣は数ヶ月前、何の脈絡もなく急に浮き出てきたものだ。ひどいシミだと思っていたし、近所の悪ガキ達にも馬鹿にされていたのに。
何かの間違いだと思ったソランだったが、この国の王だという人物から頭を下げられ、直々に「聖女として我が国を守護してほしい」と頼まれれば頷かないわけにはいかなかった。
しかも家族は全員遠方から王都に呼び寄せ、小さな一軒家まで与えられ、母には新しい仕事の紹介までしてもらった。まさに至れり尽くせりである。こうなってはもう、断る理由など一つも無かった。
先代の聖女から魔力の使い方の手ほどきを簡単に受けた後、ソランはさっそく神殿に住むこととなった。
ただのソランは、その日から聖女ソランとなり……しかも立て続けに第二王子・ナイゲルとの婚約まで決定したのだった。
こうして、まさに夢のようなシンデレラストーリーの主人公となったソランだったが、年頃の少女ながら全く夢見がちな所がない彼女は、ただ実直に天より与えられた役目を全うしようと決意した。
ソランは平民の出身だったが、就任後間もなく、国民の多くがそんな彼女を敬愛するようになった。
というのも彼女は誰よりも国のことを愛し、そしてその行く末を憂えていたのである。
「ソラン様! いい加減、お休みになってくださいまし!」
身の回りの世話をするメイド達に手足をベッドに押さえつけられつつ、「いやよ!」とソランは鋭く吠えた。
ソランが聖女に就任してから、ひと月経っての出来事である。しかしこの一ヶ月間、毎日のように繰り返されてきた光景でもあった。
「私がのうのうと柔らかいシーツの上で寝息を立てている間に、国が滅びちゃったらどうするの!」
「ですから、そんなことはありえません! 今日は既に五時間近く、懸命に祈りを捧げてくださったではありませんか!」
「私程度の五時間で、この立派な王国が守れると思う!?」
「守れますよ! ソラン様は素晴らしい聖女様ですもの!!」
「ありがとう! でもでも私、不安なのよー!」
そう、ソランはとにかく心配性だった。そこに付け足すならば、非常に謙虚で真面目であり――責任感の強い娘でもあった。
「私が寝ている隙に、国を瘴気が覆っちゃうかも……」
「私が休んでいる間に、魔物の軍勢が押し寄せてくるかも……」
などなど、国を守護するという大役を任された彼女は毎日のように心配していた。
当然眠りも浅く、毎夜ベッドに入っても数時間以内に必ず目を覚ましてしまう。
そしてひとりで部屋を抜け出して祈りの間に突撃してしまうものだから、メイド達もすっかり困り果てていた。
今日もじたばたと手足を振って大暴れしたソランは、メイド達の手をかいくぐってベッドの外へと飛び出してしまう。
「あっ」と全員が声を上げる中、彼女はきれいに頭を下げ、
「ごめんなさい! もう一度、ちょっとだけ祈りの間に行ってくるわ! みんなはちゃんと休むのよ」
と言い放ち、颯爽と寝室を飛び出して行ってしまった。
これを唖然と見送るメイド達。メイド頭は溜め息を吐くしかなかった。
「ソラン様はお人柄も良くて、素晴らしい聖女様だけど……些か心配性すぎるわね」
そんなある日のことである。
国の第二王子であるナイゲルが神殿へとやって来た。
金髪碧眼の見目麗しい王子は社交界でも令嬢達から熱い視線を集めて止まない存在である。
ソランの婚約者である彼は、時折こうして視察という名目で神殿に姿を見せる。そしてその度に花束やプレゼントをソランに贈っていた。
神殿の出入り口でソランが出迎えると、ナイゲルは柔らかに微笑んだ。
その手には小ぶりな黄色い花で作られた花束がある。ソランはおずおずと、ぎこちなく綺麗な花束を受け取りお礼を口にした。
「ソラン、毎日お疲れさま。疲れていないかい?」
気遣われたソランはといえば、あまりの嬉しさに頬を染めかけたが慌ててそっぽを向いた。
「いいえ、平気です」
というのも、ナイゲル王子はソランにとっては眩しすぎたのだ。
何故自分のような平民が、こんなに美しく家柄も立派で、聡明な男性の婚約者になれたのだろうと毎日のようにソランは不思議で仕方がなかった。
聖女というのはソランが思う以上に特別で重要な役割らしく、年の近い未婚の王族を婚約者として宛がうのは全く珍しいことではないらしい。というのも先代の聖女も、先日第一王子と華々しく式を挙げたばかりだったのだ。
だがソランは、自分がナイゲル王子との将来を約束されるほど優れた人間とはとても思えなかった。
むしろ自分のような平凡で、何の面白みもない人間と婚約する憂き目にあってしまったナイゲルに対してとてつもない罪悪感を覚えていた。
そのため、心の中ではいつも彼にこう呼びかけていた。
素敵な方がいらっしゃったら、私との婚約はすぐに破棄いただいて構いません。むしろそうしていただくべきです……と。
「でも、ソラン」
「本当に大丈夫です。私にできるのは祈ることだけですから、精いっぱい頑張ります!」
今日もソランはいつも通り、壁の端に寄ってからナイゲルにこのように答えた。
しかしナイゲルは眉を下げて微笑むと、
「休むのだって聖女の大切な仕事だよ。僕と一緒にこの後お茶でもどうかな?」
と優雅に誘ってみせたので、メイド達は二人に見えない位置から彼に賛辞の拍手を送った。何せソランは毎日休み無く働いていたので、彼女達もとても心配していたのだ。
これに困ったのはソランだ。しかし結局誘いを断ることもできず、彼についていくこととなった。
神殿には聖女が気分を休めるための中庭が設けられている。美しい色とりどりの花が咲き誇り、木々が柔らかに影を落とす様はまるで秘密の花園だった。
聖女は神殿から出ることは許可がない限り禁じられているので、こうしたリラクゼーションシステムは至る所に用意されている。だが今まで、ソランはその一つも利用した経験はなかった。
中庭の中央に配置された白いテーブルにはティーセットに続き、次々と美味しそうな焼き菓子が運ばれてきた。
王子と聖女が茶会をすると聞いて、料理長が腕によりをかけてくれたのだろう。常日頃からソランは質素な食べ物だけを望んでいたので、腕を振るう機会を窺っていたのだと思われる。
ソランと向かい合って着席したナイゲルは、上機嫌そうにカップを傾けている。
「今日は良い天気ですね。たまには外でいただく紅茶も美味しいな」
「ええ、そうですね」
ソランはカチコチになりつつ、どうにか笑みを返した。
紅茶もお菓子もとても美味しいとは思うのだが、あまりに贅沢すぎてソランの場合は「これ、母さんと弟達に持っていってあげたいな」とか考えるばかりだった。もちろん、そんなことを口に出したりはしないが。
「――それにしても、ソランは勤勉な聖女ですね」
「えっ」
「君のようにこの国のことを真剣に思いやる方の婚約者になれて、本当に僕は幸せです」
何やらナイゲルは熱っぽい瞳でソランを見つめている。
「も、もったいないお言葉です……」
ソランは恐縮のあまり手にしたカップの中身を零しそうになりつつ、どうにかそう口にした。
ナイゲルは顔を合わせるたびにこんな風に褒めてくれるが、ソランはまだまだ自分が未熟だと理解している。そのせいかどんな言葉をもらっても、何だか申し訳ない気持ちになるのだ。
「でも私なんて……。セリカ様のように優れた聖女だったなら、と何度思ったことか分かりません」
ソランは思わずセリカの名前を口にした。
数日間を共に過ごしただけだったが、先代のセリカはそれは優秀な聖女だった。
祈りは毎日きっかり十分間。それが彼女の中の決まり事で、それ以上はゼッタイに魔力を使わない。
実際にセリカが聖女として働いた二年間、一度も国内に瘴気は発生せず王国は安泰だった。全ては彼女の力が優れていたためだ。
二十歳のセリカは後釜のソランがやって来たことに大変喜び、二年前からの婚約者だった第一王子の元にスキップしながら嫁いでいってしまったのだが……もっと多くの手ほどきを受けたかったと、未だにソランは名残惜しく思っている。
「うーん。セリカの場合は優れているのは間違いないんですが……あれは特別ですから……」
ナイゲルは何やら言いにくそうに言葉尻を濁した。
ソランはそんな彼の珍しい表情を見つめながら……なるほど、と頷いた。
やっぱりセリカ様は特別なのだ。特別に優秀な聖女だからこそ、祈りの時間は一日十分で事足りた。
けれどソランは違う。新米聖女で、未熟で、祈りの性質のようなものもセリカと比較するとずっと劣っているに違いない。
それならば、とソランは改めて心に誓う。
今までのように一日十時間程度など、生やさしいことは言っていられない。
「ナイゲル様。私、祈りの間に行ってもいいでしょうか?」
「え?」
「私がこうしている間にも、国の平和が脅かされているかもしれませんから……」
上目遣いに見遣ると、ナイゲルは一瞬、目を見開いたが……それから小さく微笑んだ。
「……そう……ですね。分かりました、頑張ってくださいソラン」
「はい、ありがとうございます!」
ソランは勢いよく立ち上がった。
美しい王子のことをもっと見つめていたいし、その優しい声をきいていたい気持ちはある。
しかしソランの役目は祈ること、ただそれだけだ。決して、甘いだけの夢に浸っていてはいけない。
祈りたいと言うソランを、ナイゲルは笑顔で送り出してくれた。それだけでソランは十二分に幸せだった。
何故だか肩を落としているメイド達の横を通り、ソランは祈りの間にとんぼ返りしたのだった。
それからもナイゲル王子は、神殿に来る度にソランに声を掛けてくれた。
「ソラン、今日は一緒に昼食でもどうですか」
「申し訳ありません、ナイゲル様。またすぐ祈りの間に戻るのです」
「面白い本を持ってきたのですが、読書は如何ですか」
「本当にすみません。ですが私は祈り続けなくては」
「話だけでも」
「すみません!」
「ソラン」
「すみませーん!」
しかしそのほとんどをソランは丁重に断った。
そもそもナイゲルは公務で忙しい身。本当は少しでも時間があれば休みたいはずなのに、わざわざソランの立場を慮ってこうして会いに来てくれている。それがソランには申し訳なかった。
ナイゲルは優しいから、形ばかりの婚約者であっても気遣ってくれているのだろうが……ソランとしては居たたまれない気持ちになるばかりであった。
ナイゲルのことを頭の片隅からも振り払うようにして、ソランはますます役目へと没頭していった。
祈っている間だけは、何もかも忘れ、ただ国のためだけに心身を捧げていられる。次第にそれだけがソランの生きる意味になりつつあった。
――それからさらに半年後。
「どうしましょう。これでソラン様は、半年間も徹夜続きになってしまったわ……!」
メイド頭の嘆きの声に、他のメイドも悲嘆のあまり顔を覆う。
聖女に就任してから、ソランの心配性は加速度的に悪化の一途を辿った。
その結果。
何と一睡も休まず国の平和を祈り続けるという――ワーカーホリック聖女が爆誕してしまったのである。
どんなに休ませようとしてもソランは祈りの時間以外は食事と湯浴みの時間くらいしか取らないので、彼女の世話をするメイド達は毎日頭を悩ませていた。
この数ヶ月間、ソランを休ませるためにありとあらゆる手段を駆使してきた。しかしその悉くは失敗していたのだ。
お香を焚いても「ちょっと煙いわね……」とか言って換気して、何事もなく部屋を出て行ってしまうし。
楽団に眠たくなる音楽を奏でさせても感激して拍手するだけで、「では私はこれで」と踵を返してしまうし。
呪い師を呼んで催眠術を使わせれば、見守るメイド達が先に寝てしまい本人はこれ幸いと祈りに行ってしまうし。
断腸の思いで食事に睡眠薬を仕込んでも、聖女の力によるのかアッサリと解毒されてしまうし!
そんな事実は国民の間にも知れるところとなり、いつしかソランは「眠れぬ聖女」なんてあだ名をつけられ親しまれていた。
だが笑い事ではない。そもそも、問題は睡眠時間だけには留まらないのだ。
というのも、以前に比べ最近のソランの容姿はすっかり豹変していた。
健康的で瑞々しかった肌は痛々しいほど青白く不健康に。
目の下の隈も濃くひどい有様となり、髪の毛も艶を失ってボサボサになってしまった。
だがそれも当然のことだった。何せまったく睡眠時間を取っていないのだから。
重度の心配性によって併発した不眠症。しかも聖女としての力の影響なのか、普通の人間ならばどう頑張っても二日か三日で気を失って倒れるところを、ソランの場合はギリギリのところで徹夜続きでも耐え続けている。
そうして憔悴しきっているはずのソランは、今日もふらふらと自室を出て廊下を歩いていたのでメイド達を飛び上がらせた。
「ソラン様、また祈りの間に向かわれるのですか!?」
声を掛けられたソランは「ええ」と力強く頷いた。
「私だけの大切なお役目だもの。精一杯やるわ」
「で、でも、お疲れでは……」
「まだまだ平気よ。というかそろそろ、祈りの間に住み込みたいくらいよ」
「ええっ」とそれを聞いたメイド達が悲鳴を上げる。ソランは苦笑した。
「さすがに冗談よ。それじゃあ、行ってくるわね」
「は、はい……」
そうして神殿奥に配置された祈りの間へと向かうソラン。
その背中を見送り、メイド達は密やかに涙を流した。
「ああ、おいたわしやソラン様」
「あんなに疲れてらっしゃるのに、まだ祈られるなんて」
「先代のセリカ様は、もっと雑な方でしたのに……」
そんな声にはまったく気づかずズンズンと突き進んでいくソラン。
やがて神殿の奥まった場所にある祈りの間へと辿り着くと、冷たい大理石の床に法衣に包まれた膝をつけ、ソランは両手を組んで瞳を閉じた。
――祈りの儀。
それは聖女の、唯一といっていい役目である。
その内容としてはただ、祈りの間で祈りを捧げるというシンプルなものだ。
だがこの儀式によって、放っておけば地の底から湧き出して人々を害すという瘴気を地中深くに抑えつけておくことが出来るのだという。
そんな説明を国王やセリカから受けたソランは、とにかく全力で、できる限りの時間をこの祈りの儀に費やすことにしていた。
やがて、そのまま三時間近い時間が過ぎ……ようやくソランは立ち上がった。
「ふぅ……」
ゆっくりと吐息を吐く。
祈りの後はいつもこうだ。精神力というか……何かをゴッソリと身体の中から抜き取られるような倦怠感を覚えている。
セリカによると、それこそ魔力を消耗して祈りの儀に成功したという証なのだそうだが……自分が魔力を使えるという実感に乏しいソランには、いまいちよく分かっていない。
そのため毎日、消耗した感覚が少しでも回復すると、即座に祈りの間に戻ってきて再び祈りを捧げることにしていた。
だが最近は疲労の感覚は薄れつつあり、回復するのにもほとんど時間が掛からなくなっている。
これはとてつもなく喜ばしいことだ、とソランは思う。少しずつだが、聖女としての力が強くなりつつあるのかもしれない。
「ソラン! ソラン!!」
などと考えていたら、遠くから自分の名を呼ぶ男性の声がきこえてきてソランはぎょっとした。
振り返ると、廊下の角から現れたのは――
「ナイゲル様!?」
祈りの間には、聖女以外の人間が近づくことは禁止されている。
ナイゲルだってそんなことは百も承知しているはずなのに。
それなのに彼は脇目も振らずにソランに近づいてくると、意外と強い力で両肩をがしりと掴んだ。
「ソラン! 君という人は!」
優しい王子らしからぬ怒声に驚くソラン。
するとナイゲルははっと息を呑み、すぐに手を離すと咳払いをした。
彼の後ろには、おろおろと戸惑い顔のメイド達が集まっている。ナイゲルを止めようとしたものの、止めきれずにここまでついてきてしまったらしい。
「メイド達から聞きました。休む間もなく祈りを続けていると」
ナイゲルのその言葉にぱぁっとソランは顔を輝かせる。
「はい、ナイゲル様。集中力も魔力もほとんど途切れなくなってきました。近いうちに、二十四時間ほとんど祈り続けることもできるようになるかと!」
きっとナイゲルはソランの成長を喜んでくれるだろう。
そう思って言い放ったソランだったが、ナイゲルの反応は違った。
心苦しそうに眉を寄せ、労るような目を向けてくる。
「ああ、ソラン。すっかりやつれて……」
ソランはその呟きに、恥ずかしさのあまり顔を赤くした。
……ソラン本人にも薄々とだが、自覚はあった。
自分の見目が、あまりにもあんまりなことになっているという自覚である。
ナイゲルは久しぶりに会ったソランの容姿が以前にも増して落ちぶれたことに、失望したのだろう。
こんな女を自分の婚約者だなんて、ときっとガッカリしてしまったのだ。
――褒めてもらえるかもなどと、何と烏滸がましいことを考えていたのか。
ソランは羞恥で顔を伏せた。
「申し訳ありません……」
「……頑張りすぎですよ、ソラン。もっと自分の身体を大切にしてほしい」
しかしナイゲルは、そんなソランにも優しかった。
思わず顔を上げるソラン。すると見目麗しい王子と至近距離で目が合う。
ああ、この方にこんなにも真剣に見つめられては……。
ソランは赤くなりかけた頬を、後ろを向いてぺちぺち叩いた。
……落ち着け、私。
自惚れて、ナイゲルに愛されているかもしれないなどと夢を見てはいけない。
この方は、私が聖女だから優しくしてくれているだけだ。決して勘違いしてはいけない。
私に求められているのは、聖女としての頑張り。ただそれだけなのだ。
呼吸を落ち着かせてから、ソランはナイゲルを振り返った。
「いえ、私は平気です。大事なのはこの国の平和ですもの」
なるべく笑顔でそう伝えたつもりだった。
しかしナイゲルは途端に暗い表情になり、
「……そうですか」
とだけ呟き、重い足取りで神殿を去って行った。
離れていく背中を、何故かひどく心許ない気持ちでソランは見送った。
それから、ナイゲルは神殿に姿を現さなくなった。
以前は、どんなに忙しくても週に一度は顔を見せた彼が現れなくなり、手紙や贈り物の類も無いことにメイド達も戸惑っている様子だった。
それでも、一番ショックを受けたのは間違いなくソランだっただろう。
祈りの合間に自室で過ごす短い時間、ソランは部屋に飾った綺麗な花々や、ナイゲルが贈ってくれたおしゃれなティーセットや、甘い香りのハンドクリームや、蝶の刺繍が施されたハンカチーフを眺めたり、時折そっと触れたりして過ごしていた。
しかし飾っていた花が全て萎れ、落花する様を見つめ、空になった花瓶をぼんやり眺めているうちに……ソランの心には空虚が満ちていった。
それでも、どこまでも現実的な彼女は祈りの日々を過ごすうちに、いつしかそれも当然だと受け入れつつあった。
自分なんて、女としては何の魅力もない。優しかったナイゲルに愛想を尽かされるのも当たり前のことだ。
分かっていたことだ、と首を横に振り、再びソランは祈りの間へと向かった。
もはや今後は自室に戻る必要もないだろう。自分に出来ることは祈ること――ただそれだけなのだから。
そうして毎日、同じような無味無臭の日々が続く最中。
国王から呼び出しを受け、ソランは久方ぶりに神殿の外に出た。
直接浴びる日光は思った以上に厳しく、ソランはそれでようやく季節が夏なのだと知った。もう自分が聖女になってから、季節は一周以上巡っていたのだ。
向かった先の王城の謁見の間では、既に国王と王妃、それに第一王子と王太子妃が待ち構えていた。
「ソラン、久しぶりね」
なんて第一王子の隣からニコニコと手を振っているのは先代聖女であるセリカだ。
服装は王族らしくかなり煌びやかになっているものの、サッパリとしたセリカの気質は出会った当初から何ら変わらない。
ソランは久しぶりに顔を綻ばせた。最近は表情筋をまったく動かしていなかったからか、それだけで頬の筋肉が引き攣るような感覚があった。
国王達に挨拶を済ませて数分後、そこに二人の男女が姿を現した。
男性の方は――ナイゲル王子だった。
数ヶ月ぶりに見る彼の姿に、ソランは心をざわつかせた。
どことなく、最後に見たときより痩せたように見える。
もしかしたら何か病気にでも罹っていたのだろうか。そう心配になるが……その隣の人物を目にして、思わずソランは息を呑む。
国王が厳つい顔に笑みを滲ませ、彼女のことをソランに紹介した。
「彼女の名はローラ・チュリアート。チュリアート伯爵家の娘だ」
――なんて可愛らしい方なの!
ローラと目が合った途端、ソランの脳天には衝撃が走った。
ピンク色の華美なドレスに身を包んだローラは、それは可愛らしい少女だった。
亜麻色の髪に、長い睫毛に縁取られぱっちりと開かれた瞳。
はにかむような笑みを浮かべた姿は、まるで妖精のように可憐だった。
そんなローラはナイゲルと視線を見交わし、お互い親しげに口元に微笑みを浮かべている。
もしかして、とソランは思った。
彼女は――ローラは、ナイゲルの新たな婚約者なのではないか。
しかし現実は、そんなソランの予想をも遥かに上回った。
「ソラン。ローラは、君の後を引き継ぐべき次代の聖女だ!」
「えっ……」
国王の言葉の意味を理解し、ソランは思わずふらつきかけた。
だが追い打ちをかけるようにローラが自らの服の袖を捲ってみせれば、彼女の右手首のあたりには間違いなく、ソランの額のそれに比べれば小さめではあるが……聖女の証である聖印があった。
「数日前に、この痣が浮き出たんです」
鈴を転がすような声でそう説明し、微笑むローラ。
そんなローラのことを、同じく笑顔で見つめナイゲルが頷く。
しかし二人を見上げるソランの心には絶望が満ちていった。
ナイゲルに嫌われても、せめて聖女としての役割だけは果たそうと、この一年間、必死に頑張ってきたつもりだった。
それなのに今、その唯一残された役目さえもローラによって奪われようとしている。
しかも相手は伯爵家のご令嬢だ。元々平民であった自分とは比べようもないほど家柄が優れた方だ。
……もう私はこの国にも、ナイゲルにも、誰にも必要とされていないのだ。
「……ああ……」
目の前が真っ暗になるような感覚を覚える。うまく呼吸ができない。
誰かが名前を呼ぶ声がきこえた気がしたが、そのときにはソランの意識はなかった。
閉じていた目蓋をゆっくりと開くと、見覚えのある天井が目に入った。
「…………?」
どうやらベッドに横たわっているらしい。
しかもここは、神殿にあるソランに宛がわれた部屋だ。最近はほとんど帰っていなかったから、天井がこんな色をしていたことも忘れかけていたけれど。
視線をうろうろと彷徨わせる。
確かに先ほどまで、王城に居たはずなのに……。
「気がついたかい、ソラン」
横合いから声を掛けられソランは驚いた。
慌てて起き上がろうとするが、それは持ち上げた片手の動きで制される。
壁際に立ったナイゲルが眉を下げてソランを見つめていた。彼がこの部屋に居ることに、状況も忘れてソランはびっくりしてしまった。
「君は謁見の間で倒れてしまってね。僕がここまで運んだんだ」
「……気を失っていたんですか、私。どれくらい?」
「大した時間じゃないよ。ほんの一時間ほど――」
ソランががばりと跳ね上がるように上半身を起こしたので、ナイゲルが慌てて近づいてくる。
「どうしたのソラン。まだ休んでいないと」
「いいえ、今日の分の祈りがありますから。こんな所で休んでいる場合では」
「今日はもう十分だ。君は疲れているんだ、ここから出すわけにはいかないよ」
ナイゲルの表情は真剣だった。
だが彼と見つめ合った途端、ソランには再び空虚な感情が舞い戻ってきた。
「……どうして私に優しくするのですか」
「え?」
「いえ……違いますよね。私はもう聖女としても用済みですから。だから祈りの間に行く意味もないんですよね」
自嘲気味に笑う。
この国の王子を相手に、何て失礼な口を利いているのだろう、と自分でも嫌になる。
それでももう止められなかった。堰を切ったように言葉が喉の奥からあふれ出てくるのだ。
「婚約はいつ破棄されるのですか。私はいつ故郷に戻されるのでしょうか。今すぐにでも、神殿を出た方が良いのでしょうか」
「ソラン……泣かないでくれ」
そう指摘され、ソランは口の動きを止めた。
「あ……」
ナイゲルの言った通りだった。
ソランの頬は濡れていた。そう自覚してからも、瞳の縁に溜まった水滴は何度も頬を流れ落ちていった。
ナイゲルの大きな手が、ソランの濡れた頬をそっと拭う。切なそうに細められた目がソランを間近から見つめている。
床に膝をついた彼が、まるで祈るように言う。
「どうか泣かないで、ソラン。君には笑っていてほしいんだ」
じんわりと、また目頭が熱くなる。
「あなたに、優しくされるのが……辛いです、ナイゲル様」
それで思わず――ソランは、ずっと胸の奥に溜め込んでいた本音を口にした。
「だって私には何の価値もありません。ローラ様のように美しくもない。セリカ様のように聖女として特別優れてもいない。せめて祈りの時間を増やすことで、あなたに喜んでもらえたらと思いました。でもそれも、もう……」
それ以上は言葉に出来なかった。
零れたソランの涙を、ナイゲルの指が掬う。
呆れられていると思ったのに、ナイゲルは変わらずソランの傍に跪いていた。
「ずっとそんな風に思っていたんだね。気づかなくてすまない、ソラン」
「ナイゲル様……」
「最初から説明するよ。実は僕は……国中を駆け回って、新しい聖女を探していたんだ」
「っ」
ソランの呼気が止まりかける。
そうかもしれないとは思ったが、やはりナイゲルがローラを見出したのだ。
見つめ合う見目麗しい二人の姿が、ソランの脳裏に浮かぶ。苦しさに呼吸を忘れていると、すぐにナイゲルは首を横に振った。
「ああ、違うよ。決して君の聖女としての力を見限ったからじゃないんだ。むしろその逆」
「え……?」
「僕は欲深い人間なんだよ、ソラン。君が思っているよりずっと」
ナイゲルの目が妖しく光った。
そう思ったときには、彼の手によってソランはベッドに押し倒されていた。
「な、ナイゲル様……?」
ソランはナイゲルの顔を呆然と見上げた。
照明の消された室内で、しばし言葉を失って見つめ合う。
ナイゲルの手が、そっとソランの髪の毛に触れた。
痛んで、枝毛だらけのひどい髪だ。それなのに何故か宝物を扱うような手つきで髪の一房を持ち上げたナイゲルが、愛おしげにそれに口づけた。
ドキドキしすぎて、ソランの心臓はその時すでに止まってしまいそうだった。
ナイゲルが低く、熱っぽい声音で囁く。
「最初は君のことを、本当に――純粋に尊敬していたんだ。聖女としての役目の辛さをおくびにも出さず、いつも笑顔で……誰かの幸せを願っていて……」
「…………」
「でもね、気がつけば違う感情が芽生えていたんだ。そう――僕はいつしか、この国そのものに嫉妬していた」
「しっ……と?」
あまりに思いがけない言葉を聞き、ソランは唖然としてしまった。
しかしナイゲルは、事実を打ち明けたことが恥ずかしいとでもいうように頬を紅潮させている。
それからぼそぼそとした声音で付け加えた。
「だって君は国のことばかりで、僕のことなんてちっとも構ってくれないじゃないか。……そんな君に、僕のことだけを見つめて欲しかったんだ。そのためには別の聖女を早急に探してくるしかなかった。のんびりしていたら、あと一年か二年は待たなくてはいけないし……その間に、頑張り屋の君は倒れてしまうと思ったから」
そんな告白をききながら、ソランは思った。
自分は何か、あまりに都合の良い夢でも見ているんじゃないだろうか。
そうじゃなければ、だって、とても説明がつかない。こんなに嬉しいことばかり起きるなんて――
「一応言っておくと、夢じゃないからねソラン」
しかし先手を打つようにナイゲルに言われてしまい、ソランは焦ってしまった。
「ですが、ローラ様とナイゲル様は想い合っている仲なのではっ?」
「ローラ? 彼女なら既に別の相手と婚約しているよ。親同士が友人で、僕にとっては妹みたいな存在だけどね」
「で、でもナイゲル様はずっと神殿にもいらっしゃらなくて」
「うん。君に会う時間すら我慢して聖女を探していたんだ。自分でも本末転倒というか……馬鹿だとは思うんだけどね」
はは、と苦笑するナイゲル。
それでようやくソランは気がついた。化粧で隠していたようだが……彼の目の下には、ソランに負けないくらい大きな隈が出来ているのだ。
手を伸ばし、ソランはナイゲルの目元に触れた。彼はくすぐったそうに身をよじったが、決してその手から逃れようとはしなかった。
ようやくソランにも分かった。
言葉通り、本当に、ソランとの日々を手に入れるためだけに彼は――新たな聖女を探していたのだ。
「ナイゲル様。私は……自惚れてもいいのですか?」
震える声で問うと、ナイゲルが微笑んだ。
「うん。好きなだけ自惚れて。だって僕はソランのことを、誰よりも愛しているんだから」
「……っ!」
ちゅ、と触れるだけのキスを鼻筋に落とされ、ソランはびくっと身体を震わせた。
しかし決して嫌ではなかった。嫌なはずがないのだ。
ナイゲルはソランの反応を少しずつ窺うようにしながら、目蓋に、額に、頬に、そっと口づけを落とした。
そうしてすぐ近くで見つめ合った二人は、ゆっくりと唇を重ねた。
「ん……」
ソランはそっと目を閉じて、しばしその甘い触れ合いに身を委ねた。
――やがて永遠にも等しく思えるほど名残惜しさを重ねて、静かに唇が離れる。
ソランは潤んだ瞳でナイゲルを見つめる。普段は穏やかなナイゲルの目元は赤く染まっていて、それだけでソランは愛おしさにクラクラとしてしまった。
――もっと、深く触れたい。
――もっと、深く触れてほしい。
お互いに、きっと同じことを考えていたが……ナイゲルがぽつりと言った。
「そ、そろそろ寝ようか」
「…………えっ」
ソランの頬にぶわっと熱が上る。
それを見たナイゲルは失言に気づいてか「あっ」と口を覆う。
「ち、違うんだ、同衾という意味ではなくてね。ソランは疲れているから、しばらく寝て休んだ方がいいと思う。その……無理をさせたくないから」
ナイゲルが自分の身体を労ってくれたことが、ソランには非常に嬉しかった。
しかしそれでも、ソランには役目がある。他でもない聖女としての役目だ。
今後ローラが聖女として神殿にやって来るにしても、それは今日すぐにというわけではないはずだ。
「ですがナイゲル様、私はそろそろ祈りの間に戻らないと……」
「うーん……それは平気だと思うよ、ソラン」
ナイゲルが躊躇いつつそんなことを言ったので、ソランは目を丸くした。
「実は義姉に……セリカに聞いたんだよ。祈りの時間はどれくらいが最適なのかって。まぁ個人差はあるそうなんだけど――でもソランの実力なら、自分と同じように一日十分で問題ないと豪語していたよ」
「えっ?」
「そのことは引き継ぎの際に、ソラン本人にも伝えたと言っていたけど……」
ナイゲルの言葉に「そういえば……」とソランは思い出した。
たった三日間の引き継ぎの際に交わしたセリカとの会話だ。
「セリカ様。やはり祈る時間が長ければ長いほど、祈りの儀の効果が上がるのでしょうか?」
「え? どうだろねー。アタシは量より質派だけど。それで特に今まで問題なかったし」
「量より質……なるほど。でもセリカ様は、そもそもその質が優れているわけですものね……」
「どうだろねー。アタシとしては、やっぱり女に大事なのは祈りより睡眠だって思うわけなの。ほら、睡眠不足はお肌に大敵って言うし」
そうだ。ソランの問いかけに対してセリカは「どうだろねー」と首を傾げただけだった。
そんな彼女の言葉を勝手にソランが深読みして解釈してしまったのだ。
今さらそんなことを思い出すとは……とソランは頭を抱えたくなったが、そんな彼女にナイゲルは笑って続けた。
「それに後任のローラもセリカ……義姉に負けず劣らず、居眠りが大好きだからね。一日のほとんどは惰眠を貪ることになると思うよ。ローラの場合、国民から「眠れる聖女」なんて呼ばれるかもね」
その屈託の無い笑顔を見ていると、何やらソランは落ち着かない気持ちになってきた。
……どうやらそれは嫉妬らしき感情だったのだが、ソランはそれと気づかないままナイゲルの服の袖をくいっと引っ張った。
「そ、そういうことでしたらナイゲル様も一緒に寝ましょう。疲れているのはナイゲル様も同じですもの」
「えっ、でも」
「私……好きな人と同じベッドで朝までぐっすり眠るのが夢だったんです」
今まで、自覚する暇も余裕もなかった、そんな夢だけれど。
――今まで一度だって夢を見なかった堅実な聖女は、そう言ってにっこりと笑った。
ナイゲルは頭を掻き、ハァ……と深く吐息を零した。
「……君にそんなに可愛く誘われては、断れないな」
ナイゲルは上着を脱ぎ、腰のベルトを外すと、ソランが広げる毛布の中にそっと入ってきた。
それからソランの髪の毛を撫でてくれる。ソランは彼の広い胸の中に頭を預けた。
「安心してくれ、手は出さないから。……出さないよう自分を律するから」
「は、はい」
ナイゲルの吐息が頭にかかり、ソランの全身はその感触に小さく痺れた。
しかも触れている胸の鼓動は異様なまでに速く、ナイゲルがどれほど緊張しているのか伝わってきて胸がいっぱいになってしまう。
今まで、どんなに頑張っても役目のことばかりが頭に浮かんで、寝つくことなんて出来なかったのに……彼の胸の鼓動に耳を澄ませていると、それだけでソランはうとうとし始めた。
「ソラン、眠っていいよ」
枕代わりにとナイゲルが伸ばした腕に、恐る恐るとソランは乗っかった。
ナイゲルは目を細めて、そんなソランのことを見つめている。けれど彼も眠いのだろう、目蓋が少しずつ落ちつつあった。
ソランは彼の腕に触れて、安心しきって目を閉じた。
「……ナイゲル様、おやすみなさい」
「おやすみ、ソラン。どうか君に、至上の良い夢を」
こうして民に愛される眠れぬ聖女は、大好きな王子の腕枕でようやく眠りについた。
そしてそれを知った聖女の世話係のメイド達も、国民たちも、一年ぶりに大きく安堵して長く眠りについたという。
久しぶりに聖女が主人公の短編を書いてみました。
今回はかなり甘々な作品に仕上がりました。私欲のない少女を私欲まみれの王子が引っ張り出すお話です。楽しんでいただけたら嬉しいです。