灰の街
今日はきっと良い物語が書けるだろうと、紙を取り出す。しかしながら当然のようにその筆は止まったままで、自分を奮い立たせるはずの音楽は心を乱す。果てしない思想の中から今日はどの物語を描こうか、そんな考えを音楽と共に歌ってみる。しかし物語はいくら呼び出しても、頭の奥に潜んだままである。だから今はある町を描こう。私の生まれ育った、この街について。
それは灰色の街だった。数百年前に大汚染が起きたこの町では、灰色に汚れた雲がどんよりと私たちにのしかかる。汚いという表現はまた違う。この灰色の世界を見るために、何千里もかけてやってくる人たちがいるのは事実である。人というものは面白いもので、灰色の世界に生まれると色に興味がなくなる。花は咲かず、茶色であったはずの木も煤で汚れ乱れているこの世界には、色がない。窓に着いた埃と私の手形は、あと数時間もすればまた灰に消されるだろう。世の中の人はこれを“愛着”と呼ぶ。灰は私たちをかき消してくれるし、そこにあったものさえも消してくれる。無論、物理的には灰に埋もれてしまうだけなのだが。汚染の影響は今もひどく、風は埃っぽく空気は淀んでいる。私たちは新鮮な空気を吸わないから、それぞれの方法で埃を肺に入れないよう工夫しながら生活する。土で育つはずの植物たちはとうの昔に息絶えたので、今私たちが口にできるものと言えば、遠くから輸入する小麦を使った小さなパンと、浄化しきれていない薄汚れた水を使ったポトフなのだが、このポトフもまた変わっているといわれる。私はこの町から出たことがないからわからない。ポトフは水とどこかから取り寄せられる魔法の粉を混ぜた温かいスープで、運が良ければ外からやってくる野菜を取り入れることができる。でも私たちはいたって健康で、問題なく暮らしているのだから不思議だと、外からやってくる人たちは言う。
この街には外の世界と変わらない世界線があり、店があり、人々が住んでいる。汚染された空気と灰色の景色を除けば、の話だが。私は最近、初めて色を持った人に出会った。その人の話を綴ることにしようか。
彼女は色を纏っていた。正確に言えばそれは、普通の事なのかもしれない。明るい色を纏い、髪色は金色(本で説明された金色なので、正確な色はわからない)で、表情にも色があるように見えた。彼女はよく笑い、灰色の世界に光をもたらすような人だった。拝んだこともないものをたとえに出すのは失礼に値するのかもしれないが、彼女は太陽のような人だった。私は彼女がどこから来たのか、訪ねたことがある。彼女は色がある世界から来た、と答えるだけだった。私にはわからない世界がこの街の外にはある。彼女の名前を知らぬままでいるので、今は彼女の名前をFerbe、ファーバと呼ぼう。外の世界の言葉、正確にはドイツ語で、色、という意味だったような気がする。ファーバはよくこの街と彼女の生まれ育った色のある街を行き来していた。私の街に興味があるようで、よく写真を撮って笑顔を見せる。私から見れば、色のない世界をいくら撮ったところで同じようにしか見えないが。彼女には少し変わって見えているのかもしれない。彼女は先日、花を持ってきた。外から持ち込まれるものはすべて美しく見えるし、香りがするから興味深い。その花はローズと呼ばれていて、色があった。彼女はこれを赤と呼び、赤には人を元気にする力があると言った。その花は今も机上に飾られているが、煤だらけの世界ではそう長くはもたないだろう。すこし灰色がかってしまっているローズは、こちらを見ながら灰色の世界にうんざりしているように見える。
ファーバは来週、海を持ってくると言った。私たちの街から海を見ることはできない。汚染された街は壁で隔離されていて、外に出ることができないからという理由もあるし、私は海をいうものを知らずに死んでゆくのだと当然に思っていたから、海が持ち運べるものだと知って少し驚いている。書棚に描かれている海はどれも、動かぬものである。海には波があり、波が人をさらってしまうことがあるという。それはどんなものだろうか。私たちにのしかかるこの重い雲のような存在なのだろうか。それとも、もっと美しいものなのだろうか。はたまた、美しいとはいったい何を定義に言われている言葉なのか。考え始めると止まらないのが私の癖であり、時間を潰すことのできる最高の遊具だと思っている。海は何色なのだろうか。埃被ってしまうものなのだろうか。ファーバが海を持ってきて、ローズのように灰色に染まり始めてしまったら大変だ。
ドアをノックする音が聞こえる。そしていつもの明るい声。この声はきっと、灰色ではない。見たことのない瑠璃色のような、透き通った声だ。そして私を呼ぶ甘い歌。
ファーバが海を持ってきた。