ホワイトデークライシス -後編-
※ 【ホワイトデークライシス-前編-】を未読の場合、そちらを先にお読みいただけると幸いです。
沈む太陽が世界を緋色に染める頃、リックはやや急ぎ足で宿舎の石廊を進む。
彼が向かう先は宿舎の奥。そこへ向かう途中、彼よりも年上と思しき騎士を中心に、ハリーやアイザックから懇願するような視線が送られる。彼らの表情に、先へと急ぐリックの顔に苦笑が刻まれる。
「訓練そっちのけ、か……。まぁ、気持ちはわからないでもないけど」
そうして、辿り着いた食堂でリックがみたもの。それはある本を真剣に見つめるルイスと、困り顔で彼を見守るスキンヘッドの男性の姿だった。白のワイシャツ姿の彼が、軍服の代わりに身につけているのは丈の短いモスグリーンのソムリエエプロン。
相棒が入ってきたことにすら気付いていないルイスを余所に、リックはコック帽を手にして座る男性に近付いて言った。
「メイソンさん。あそこは貴方のテリトリーなんですから、止めてくださいよ。貴方も例の件、味わった一人じゃないですか」
「いや、ガキの頃から知ってるヤツに頭下げてまで頼み込まれると、さすがに断りづらくてなぁ」
「……まぁ、そうなるだろうな、とは思いましたけどね」
そう言うや否や、リックは小さく息をつくと、作業に没頭しているルイスにスタスタと近付いていく。相棒の背後に立ち、彼の手元にあるものを見た瞬間、碧眼が細められ、眉尻がピクピクと引き攣る。
「ルイス、一体何を作るつもりなの、それ」
「え? あ、リックか。もう交代の時間か?」
「正確には違うけど、それ今はいいから。一体、何を、作るつもりなわけ?」
一言一言を強調しながら問いかけたリックが、指で示したのは銀色のボウル。その中には、大小不揃いの赤と緑が混ざった焦茶色の生地。それを見たあと、再度リックを振り返ったルイスは、あっけらかんと言った。
「にんじんとほうれん草入りのココアクッキー」
「その二つ、彼女の苦手な野菜だった気がするんだけど、オレの記憶違い?」
「いや、あってる」
即答で肯定を返す彼に、リックの顔が怪訝そうに顰められる。相棒の反応に対し、ルイスは至極真面目な様子で言った。
「苦手なものでも、菓子に混ぜたら食べれるかと思って。どうせなら体に良いものの方がいいだろ?」
「確かに体にはいいだろうけど……。それ、贈り物としてはもはや嫌がらせに近いと思うなぁ、オレ」
不思議そうに首を傾げるルイスに、リックは肩を落としながら、盛大な長嘆息をつく。戸惑い気味のルイスをじとりと見つめ、彼は言った。
「中身のチョイスもか~なり問題あるけど。そもそも明日のためのものなら、クッキーはやめておいた方がいいと思うよ」
「なんでだ?」
「プレゼントにも意味っていうのがあるんだよ」
「意味?」
真顔で問いかける彼の手にある本、所謂レシピ本を取り上げて、リックは言った。
「例えば、今作ってるクッキーなら『友達のままでいよう』とか」
告げられた言葉に、翠緑色の瞳がギョッとした様子で大きく見開かれる。それに構わず、リックは、手元の本をパラパラと捲り、描かれている菓子を指しながら続けた。
「他にもマシュマロとかだと『あなたが嫌い』とかね。この二つに関しては、明日はこういう意味持ちやすいから勧めないかな」
「逆なら何があるんだ?」
「よく聞くのはキャンディで『あなたが好きです』、キャラメルだと『一緒にいると安心する』とか。あ、あと、カップケーキだと『特別な人』とかだね」
最後に付け足された言葉に、ルイスの頬に朱が差す。そんな彼に、リックは苦笑しながら告げた。
「向こうはその辺に詳しい助っ人がついてるから、十中八九知ってると思うんだよね。だから、違うものの方がいいと思うよ」
「……だが、オレでも作れそうなのはこれくらいしかなかったんだが……」
「いやいや。お前の場合、レシピに独自のアレンジ加えてるうちはどれもダメだから」
リックは真顔で右手をぶんぶんと左右に振る。それに対し、ルイスはムッとした様子で、眉根を寄せた。
「隠し味くらいオレだって……」
「がっつり入ってるのは隠し味って言わないから。ていうか、そういうのは上級者がやるものなの」
「……その辺は普段やろうとすると、お前が奪っていくせいもあるんだが……」
「お前に任せたら基本消し炭か謎の物体になるから、貴重な食材保護してたんだよ」
『何を言っているんだ?』と言わんばかりに、訝しげな顔でルイスは首を傾げる。そんな彼に対し、リックは腰に手を当て呆れ顔で言った。
「昔、野外訓練の一環でやった料理当番でお前が一週間に作った料理、一食分どれか言ってみなよ」
「肉と野菜の串焼きに干しパン、だったか?」
そう答えたルイスの目が僅かに泳ぐ。そんな彼の反応に、一瞬『おや?』と目を瞠ったものの、その目を半眼にしてリックは言った。
「辛うじて原形留めてただけで、炭寸前の黒焦げ食材を串焼きとは言わないから」
「火はしっかり通さないと腹下すだろ」
「ものには限度ってもんがあると思うって、当時何度も言ったはずだけど?」
「そ、それはまぁ……。確かに苦かった、ような気がしないでもない……」
じろりと睨め付ける碧眼に、ルイスの視線が気まずげに逸らされる。そうしてやや間を置くと、彼はバツが悪そうに『悪かった』と小さく謝罪の言葉を紡ぐ。それに対し、リックは小さく息をついて言った。
「それくらいの素直さを当時のお前が持ってたら、オレや他のヤツらも多少は教えられたんだけどね。人の話、意地張って尽く聞かなかったもんねぇ、あの頃のお前」
「うっ……。面目ない」
「何にせよ、彼女に美味しい物食べさせたいなら、今は誰かの手借りるべきだよ」
「そうは言っても、お前このあとまた護衛だろ?」
彼の言葉に、リックの目が呆気に取られ、大きく見開かれる。やや沈黙が降りた後、彼は小さく笑いながら言った。
「オレを頼りにしようと思うようになった辺り、お前にしては進歩したんじゃない? まだ視野狭いけど」
「え?」
「オレがダメでもそこにいるじゃん。頼りになる料理上手な人」
そう言って、リックが振り返り示した先にいたのは、椅子に腰かけているメイソン。彼を見た瞬間、ルイスは右手を左右に振りながら言った。
「いやいや、メイソンさんだって仕事が……」
「夕飯の後なら付き合っても構わないぞ」
メイソンはそう言うと、立ち上がりルイスに近付き、その肩に腕を回す。そして、ルイス鳶色の髪をわしゃわしゃと豪快に掻きながら、彼は言った。
「女に全く興味も関心もなかったヤツが、初めて誰かのために頑張ってるんだ。手くらい貸してやる」
「それはありがたいんですが……。メイソンさん、オレを子供扱いするのはいい加減やめてください」
「お前がオレの年齢超えたら考えてやるよ」
「一生無理な話じゃないですか、それ!」
そんなルイスの言葉に、リックとメイソンの笑い声が食堂に響く。そこへ、空腹を満たすためにやってきたのか、或いは、その楽しげな声を聞きつけたのか。騎士とコックコートを着た料理番がそれぞれ数人、食堂の扉から顔を覗かせた。それを見て、ルイスとリックは、夕食の時間になっていたことを把握し、作戦会議と称して一旦厨房を後にした。
それから約二刻が過ぎ、宵闇が深まり、寝るものもちらほらと出始める頃。ルイスはメイソンと二人きりで厨房に並んで立っていた。
「で、お前、何を作ることにしたんだ?」
「メイソンさんに手伝ってもらうなら、この辺がいいんじゃないかと、リックには言われたんですけど……」
そう言って、ルイスが指し示したページを見たメイソンは、感心した様子で綺麗に剃られた顎を撫でた。
「なるほど、さすがお前の女房役を務めるだけはあるな。オレが口を出す前提なら、お前にもそう難しくないチョイスだ。それに、これなら貰った相手は喜ぶだろうな、きっと」
「じゃあ……」
「補助なら任せろ。そら、時間も惜しい。ここに書いてある材料を準備して始めるぞ」
「はい!」
そして、メイソンの采配の元、ルイスの菓子作りが再スタートした。牛の乳、砂糖、蜂蜜を入れて火にかけた鍋を、ルイスはひたすら木べらで混ぜていく。かき混ぜる手を止めずに、彼はふとした様子で口を開いた。
「そういえば、メイソンさん。オレが最初に作ってた生地、あのあとどうしたんですか?」
「ん? なんだ、お前気付かなかったのか。夕飯のデザートに出したアップルクランブルあっただろ?」
「いただきましたね」
「あの林檎の上に乗ってたのが、お前の作ってた生地だよ」
「えっ!?」
彼の言葉に、ルイスは思わずと言った様子で、手を止め振り返る。しかし、そこへ料理長を務めるメイソンの怒号が飛ぶ。
「こら、かき混ぜる手を止めるな! 鍋から目を逸らすな!」
「あ、すいませんっ!」
「その菓子は焦げやすい。焦げたら一から作り直し以外ないから気をつけろ」
「はい!」
やや厳しい口調の指導に、ルイスの背筋が伸びる。そんな中、沸々と泡立ち始める中身をかき混ぜながら、彼は再び口を開いた。
「あれ、リックにダメ出しされたんですが……」
「まぁ……。こう言っちゃ何だが、あのままだと食えなかったから、オレが多少生地に手は加えた」
「そ、そうですか……」
多少落ち込みつつも、休むことなく鍋をかき混ぜる彼の横から、メイソンがバターと生クリームを加える。中身の泡立ちが僅かに収まる中、竈の火を抑えれば、彼は静かに言った。
「相手が誰かは知らんが、お前のことだ。相手が手作りだったから自分も、とか考えたんだろ?」
「……そのとおりです」
「その気持ちはいいことだと思う。相手の体を慮るのも大事なことだ。だが、どうせなら相手に喜んでほしくないか?」
――あげるものだから、あんまり甘くしちゃダメってエマが……。
ルイスの脳裏を過ったそれは、バレンタインのケーキ作りの最中にリオンが言った言葉だ。甘党の彼女が、渋々ながらも聞き入れたエマの忠告でもある。それを思い出したルイスの顔に苦笑が浮かぶ。
「そうですね……。オレも喜ぶ顔の方が見たいです」
そう言って、よりいっそう目の前の鍋へと集中する彼を見て、メイソンはエールを送るようにポンとその背中を一つ叩いた。
それから程なくして、鍋の中身が乳白色から茶色へと色付くと、メイソンの指示でルイスは鍋を火から下ろす。そして、木べらで持ち上げ、ドロリと垂れ落ちるそれを見て、メイソンは一つ頷いて言った。
「よし、そのくらいでいいだろう。あとは型に流し込んで……って、よせ!」
「え? あつっ!!」
制止の声は間に合わず、ルイスの左手が木べらについたそれに触れる。その熱さに即座に手を引っ込めたものの、粘度の高いそれは指から剥がれない。さらにはその指を口に含もうとした彼の手首を掴み、メイソンは強めの口調で言った。
「口の中まで火傷するから舐めるな。木べらは置け」
ルイスが木べらを鍋に戻すや、水場まで彼をぐいぐい引きずり、有無を言わせずに水を張った桶にその手を突っ込んだ。
「全く……。寸前まで火にかけていたものを、素手で触るヤツがあるか、バカたれ」
「すみません……。あまり熱そうに見えなかったのと、リックから味見は絶対しろと言われてたのでつい……」
「ああ見えて沸騰したお湯より熱いんだ。次があるかは知らないが、覚えとけ」
そう言って、彼はルイスの頭を手の甲で軽く小突くと、袖をまくる。そんなメイソンの行動に、ルイスが目を瞬かせれば、彼は手を洗いながら言った。
「型に流し込むのはオレがやる。お前は痛みが引くまでしっかりその手を冷やせ」
「で、でも……!」
「型に流し込む作業程度、誰がやっても大差ないから気にするな。それよりも、お前は自分の火傷を心配しろ」
厨房の責任者に厳しい口調で告げられれば、ルイスはそれに従う他なかった。揺れる水面に映る自分のしょげた顔と、冷やした手を彼は黙って眺める。そうして彼の夜は、過ぎていったのだった。
***
翌日。世間ではホワイトデーと呼ばれるその日、リックとの交代を済ませたルイスは、リオンの自室にいた。彼の前には、普段通りに振る舞ってはいるものの、落ち着きなくソファーに座るリオンがいた。
そんな彼女を前に、彼は一つ咳払いをして言った。
「その、口に合わなかったら悪い」
そう言って彼が懐から出して差し出したのは、赤いリボンで飾られた桜色の小さな袋。差し出されたそれを受け取ったリオンは、マジマジとそれを見つめて言った。
「リックから話は聞いてたけど、これルイスが作ったの?」
「まぁ……。あまり見映えは良くないが、料理長のお墨付きは貰ったから、味は大丈夫なはずだ」
そんなルイスの言葉を受けた彼女が、リボンを解く。そこから出てきたのは、一口サイズのパラフィン紙の包み。捻られた両サイドを開けば、キャラメルブラウンの四角い菓子が姿を見せた。
彼女がそっと手にしたそれは、少々不格好で気泡が入っており、見映えは決して綺麗なものではない。だが、彼女は嬉しそうに微笑むと、ほとんど躊躇いもなくそれを口へと運んだ。
最初はコロコロと口の中で転がしていた彼女だったが、途中でサクサクという音が混ざる。その変化に、不思議そうな顔で彼女は首を傾げた。やがて小さな音を立てて、それを飲み込むと、緊張した様子で窺うルイスを見上げた。
「最初、飴かと思ったんだけど、これってキャラメル? それとも焼き菓子?」
「キャラメル飴、というらしい」
「キャラメル飴……。そっか……」
ルイスが告げた菓子名を反芻した彼女の顔は、ほんのり赤く色づいた笑顔で溢れていた。そして、そのまま彼女の手が次へと伸びると、ルイスは手を胸にあてて、ホッと息をつく。
肩の力が抜けた彼を笑顔で見ていたリオンだったが、ある一点に気付くや否や目を瞠る。そして、口の中にあるものを飲み込むや否や、彼の左手を取って問いかけた。
「ルイス、怪我したの?」
「あ、いやこれは、その、ちょっと火傷をな……」
気まずそうに言った彼の左手の人さし指は、真っ白な包帯に覆われ、傷口は見えない。それを痛ましげに見つめたあと、リオンは彼をじっと見上げた。
「痛くない?」
「水ぶくれになってるが問題ない」
「それ問題ないって言わないじゃない」
真顔で『問題ない』と言い切ったルイスに、彼女は頬を膨らませて口を尖らせる。眉尻をつり上げた彼女は、小さく息をつくと、再び彼の手に視線を落とす。そして、そっと包帯の上から、彼の指先にキスをした。
そんな彼女の唐突な行動に対し、ワンテンポ遅れてルイスの顔が真っ赤に染まる。彼の反応に気付かないリオンの唇が、彼の指先から離れたのはそれからややあってのこと。顔を上げた彼女は、熟れたリンゴのように顔を赤く染めたルイスを見て、きょとんと首を傾げた。
「ルイス、どうしたの?」
「どうしたのって……。お前こそ、いきなり何でキスなんて……」
「キス……? あっ……!」
彼の言葉に、訝しげな顔を見せた彼女だったが、小さく声を上げると唇に手を当てた。その顔はルイスに負けず劣らず赤く染まっている。
「え、えと……キスのつもりじゃなくて、早く怪我が良くなるといいなって……。その、祝福と同じつもりで……」
尻すぼみになっていく声に合わせて、リオンの顔が恥ずかしげに俯いていく。その反面、彼女の言葉を聞いたルイスの顔に、落ち着きが戻り始める。
彼は視線を落とし、つい今し方までリオンの唇が触れていた指先を静かに見つめた。その後、ルイスは笑みを浮かべると前屈みになり、彼女の華奢な体を抱きしめて言った。
「ありがとな」
彼の言葉と抱擁に、リオンもまた嬉しげに微笑む。そうして、彼の腕にそっと手を添えると、その温もりに身を預けるように目を閉じた。
それから、ややあって、リオンはふとルイスを見上げて言った。
「ねぇ、ルイス。一つ我が侭言ってもいい?」
「なんだ?」
「バレンタインのときに私がしたように、あーんって食べさせてほしいの」
「バレンタ……えっ!?」
彼女の言葉の意味に気付くや否や、彼の顔が再び朱に染まる。驚いた様子で固まる彼に、リオンは両手を合わせ、上目遣い気味になりながら問いかけた。
「ダメ……?」
「……い、今だけなら……」
「ホント?!」
キラキラと期待に輝く瑠璃色の瞳に、ルイスは真っ赤な顔で小さく頷く。それを見たリオンは嬉しげに、袋ごと彼に飴を渡す。ルイスはそれを受け取ると、自分で包んだそれを開け、中身を右手で持つ。そして、目を閉じ、口を開けた彼女の口の中へと運んだ。
リオンが口を閉じる際、彼女の唇が彼の指に触れ、ルイスの顔の赤みが僅かに増す。だが、それに気付いていないのか、彼女はコロコロと音を鳴らしながら、口の中で飴を転がす。そんな中、彼女は口元を手で隠しながら、楽しげに言った。
「甘くて美味しい」
「行儀悪いぞ?」
「だって美味しいんだもん」
口の中が空になると、次を要求するように、リオンはじっとルイスを見つめる。そんな彼女に、彼は苦笑しつつも応えていった。そうして、二人のホワイトデーは、甘い空気に包まれゆったりと過ぎ、幕を閉じたのだった。
その後、ルイスが料理を学びたいとメイソンに申し出、騎士団内で再び上へ下への騒ぎになるのだが、それはまた別のお話。