ホワイトデークライシス -前編-
※ この話の時間軸は、本編の41話-42話の間の期間に相当します。
『数日遅れのバレンタイン』の対となる話です。
梅の花が咲き始め、徐々に春の足音を肌身に感じるようになった頃のこと。発端となったのは、ルイスが発した一言だった。
「メイソンさん。午後に厨房を借りたいんですけど、構いませんか?」
その一言に、騎士団宿舎にある食堂が、シーンと静まり返る。空席を見つけるのが困難なほど、騎士たちで溢れかえっている昼時真っ只中にも関わらず、だ。
一瞬の後、沈黙から一転。一気にざわめきが食堂全体へと広がっていく。
騒音並に響く同僚たちの声に、ルイスは煩わしげに目を細め、ちらりと背後を振り返る。しかし、さほど気に留めることもなく、コック帽とコックコート姿の厳つい体格の男性に視線を戻し、再度問いかけた。
「難しいなら厨房を使わない夜の間だけ、貸していただけないですか? お願いします」
頭を深々と下げるルイスに対し、コック姿の男――メイソンが口を開こうとした矢先のことだった。二人の会話を遮るように割り込む声があった。
「るる、ルイス! 午後はちょっとオレの訓練に付き合ってくれよ。剣技について試したいことがあるんだよ」
「オレも書類関連で教えてほしいことがあるんです!」
そう言って、ルイスの肩を、左右からガシッと掴んだのは、山吹色と柳色のマントを身につけた二人の騎士。冷や汗をだらだらと流し、彼らは口元を引き攣らせた笑みを浮かべている。
二人の同僚を交互に見た後、ルイスは呆れた様子で睥睨して言った。
「オレは見てのとおり、料理長と話してる最中なんだが?」
「オレたちのも急ぎなんだよ。な、頼むよ」
両手を合わせ、申し訳なさそうに拝むのは、赤毛をオールバックにした、がたいのいい騎士。隣にいる飴色のツンツン頭の小柄な騎士も、赤毛の騎士の言葉に同意するようにコクコクと頷く。そんな彼らの目はどちらも鬼気迫るものがあった。
同僚らの様子を無言で見つめたルイスの口から、小さなため息がこぼれ落ちる。それは『仕方ないな』と言わんばかりのため息だった。
「わかった。だが……」
そこで彼の言葉が途切れる。彼の言葉を遮ったのは、彼の両腕を左右からがっちりホールドした二人の騎士たちだ。彼らの拘束とも取れるその行動に、翠緑色の瞳が瞠目する。
「ちょ……!?」
「いやー、ホント困ってたから助かる助かる」
「ルイスさん、ありがとうございます」
「いや、手伝いはするが、その前にオレの用事を……って、人の話を聞けー!!」
ルイスが張り上げた抗議の声も虚しく、彼は二人の騎士によって、食堂の外へと連行されて行った。
後に残されたのは、昼食途中だった騎士たち。彼らは二人を除き、一様にほっと胸を撫で下ろしている。そんな中、呆然とした様子を見せたのは、渦中にいたメイソンと、食堂の片隅でそれを見ていたグレッグだ。
「料理長、注文いいですか?」
「お、おう。悪いな、何にする?」
考え込む素振りを見せていたメイソンこと料理長は、他の騎士の注文の声にハッとした様子で仕事へ戻る。グレッグはと言えば、しばし思案した後、隣で仲間と胸を撫で下ろしている騎士に問いかけた。
「あの、すみません。騎士が厨房を使うのに何か問題あるんですか?」
「いや、別段問題はないぞ。この場合は使う人間に問題が……。って、お前、クリフェード隊の?」
「はい。グレッグ=サンチェスと言います」
「なら詳しい話はリックに聞くといい。別の隊のオレが口を出す話ではないが、知っておいた方がお前のためだ」
そんな意味深な騎士の言葉に、グレッグは訝しげな様子で首を傾げたのだった。
それから半刻後のこと。屯所内の訓練場でキィンと甲高い金属音と共に、模造剣が一本宙を舞い、地面に転がる。
「る、ルイスっ! もう一本!」
ぜぇぜぇと息を切らしながら、そう叫んだのは、ルイスを連れ出した赤毛の騎士。山吹色のマントを揺らしつつ、地面へ突き立てた模造剣を支えに、彼は筋骨隆々とした体を起こそうとする。そんな彼に、模造剣を肩に乗せながらルイスは言った。
「いや、もう一本も何も、もう限界でしょう。それ以上は任務に差し支えるんで、休んでください、アイザックさん」
「オレを舐めるなよ。こんなのまだま、だ……」
何とか立ち上がったものの、ふらりと倒れ込みかけた巨漢の騎士――アイザックを、ルイスは危なげなく支える。膝をがくがくと震わせている彼を見て、ルイスは苦笑しながら言った。
「剣技の開発はまた今度付き合いますから。まだやると言うなら、そこで心配そうに見ているスミス隊のヤツらを説得してからにしてください。オレはアイザックさんの隊の連中から、恨みを買いたくはありませんから」
「うう……」
ルイスの肩を借りて木陰に移動するアイザックの口から、無念の色を帯びた声が漏れる。彼を木陰に休ませると、マーガレットの隊章を胸につけた騎士が数名駆け寄る。そんな中、ルイスは同じ木陰で、木に寄りかかって立つ飴色の髪の騎士を見上げた。
「で、ハリーは書類の件だったか?」
「ですです。細かい上にわかりにくくて困ってるんですよ」
困っていると言いながらも、その顔に浮かぶのは、あまり悪びれた様子のない笑顔。色素の薄い髪色も相まって、ハリーが纏う雰囲気は、リックのそれにどこか似ている。
「全く……。元ハワード隊の後輩とはいえ、今のお前はオルコット隊の隊長なんだから、少しは覚えろ」
「その辺は適材適所ってことで」
「……リックと似たようなこと言うのはやめてくれ」
「リックさんも元ハワード隊のオレの大事な先輩ですから」
そう言って、ニッと快活な笑みを浮かべる元後輩の騎士――ハリーの言葉に、ルイスは呆れた様子でため息を漏らす。
アイザックをスミス隊の騎士に任せ、訓練場の外にハリーを促して歩き出したルイスは知らない。アイザックとハリーが真顔でアイコンタクトを取り、しっかりと頷きあっていたことを……。
そうして、ハリーの先導でルイスがやってきたのは、騎士団団長の執務室。隊長二人の来訪に、執務机でのんびり珈琲を楽しんでいた部屋の主――グレンの顔が真顔になる。
「何かあったのか?」
「あ、いえ。ハリーに書類の件で聞きたいことがあると言われてここに来たんですが……」
グレンの様子とその言葉に、ルイスは困ったように笑いながら返す。そして、二人の顔が『何故ここに?』と言わんばかりにハリーへ向けられる。彼らに対し、ハリーは眉尻を下げつつ、苦笑いを浮かべながら言った。
「団長もいてくださる方がより確実かな、と思ったんです」
「それならオレ要らなくないか?」
「いやっ! それは困るんで! ルイスさんは絶対付き合ってください!」
当惑した様子で尋ねたルイスの腕を、ハリーは即座に掴んで必死に懇願する。そんな二人の様子を見て、グレンは訝しげな様子で問いかけた。
「ルイスは何か用事でもあるのか?」
「ええ。少し厨房を借りようと思いまして」
「……え?」
ルイスの言葉に、グレンの声が僅かに裏返り、ビシッと全身がそのまま強張る。それに対し、翠緑色の目が不思議そうに瞬く。
「何か?」
「い、いや。まぁ、ハリーも困ってるようだし、ついでに少しオレの仕事も手伝ってくれないか?」
「団長も、ですか……」
呆れ果てた様子で額に手を当てたルイスの口から、盛大なため息がこぼれ落ちる。不服そうな顔をして、彼は問いかけた。
「それは急ぎなんでしょうか?」
「ああ」
「……それなら、優雅に珈琲飲んでる場合じゃないでしょうに……」
「一服していただけだ」
平然と返すグレンに、ルイスは小さく肩を落とし、不承不承ながらも首肯を返したのだった。
それから一刻ほどの時が過ぎ、窓の外に広がる空が朱色に染まり始める頃。ルイスはペンを置いて言った。
「すみません、団長。残りは明日でも構いませんか?」
「もう少しだけ頼めないか?」
「私が拝見した限り、今日中に片付けるべきものは全て片付きました。ですので、できれば今日だけはこれで失礼したいのですが」
彼の言葉に、グレンが応接テーブルの上の書類を見やれば、そこには綺麗に整理整頓された書類の山。掌二つ分の高さの山とティーカップ一つ分の小さめの山、大小の山がそこには出来上がっていた。
その書類の山を見たグレンを、ハリーの柳色の瞳が縋るように見つめる。それを受け、グレンは引き攣った笑みを浮かべて言った。
「あー……手伝ってくれた礼に、珈琲でもどうだ?」
「私はまた別の機会に。他に急ぎのものがなければ、これで失礼させてください」
すっと立ち上がり一礼すると、ルイスはスタスタと扉に向かう。ハリーが名を呼べば、僅かにげんなりとした様子で、彼は振り返った。それに対しハリーは、及び腰になりながら口を開いた。
「え、えーと……、もうちょっとだけ、教えてほしいところが……」
「教えるも何も、別段わからないところなんてなかっただろ、お前」
「いや、そんなことは……」
「あるよな? お前本当にわからないときは、理屈の部分や応用まで聞くのに、それが全くなかったし」
ルイスの指摘に、ハリーの目に動揺が走る。冷や汗を流しながら、目を泳がせる彼に、ルイスは小さく息をついて続けて言った。
「本当にわからないことなら手を貸す。手が回らないなら、貸せる範囲で手も貸す。だが、そうじゃないならお前のためにもならないし、そんなのはお断りだ」
そう告げて、ルイスは今度こそグレンの執務室を後にした。残された二人のうち、ハリーは額に手をあて、天を仰いだ。
「団長……。『仕事が溜まって首が回らないから手伝ってください』の方がよかったですかね……?」
「いや。あの様子だと、明日以降に回せると踏んだら、どちらにしろ結果は同じだっただろうな」
「どうします……? このままだと、場合によってはいつかの地獄絵図の再来になりかねませんが……」
部下の言葉を受けたグレンは、壁にかけられたカレンダーをチラリと見たあと、困り果てた様子で頭を掻いた。
「こうなると止められるのはリックか、或いは……」
そこで一度区切ると、グレンは伏せた目をハリーに向けて、真顔で告げた。
「仕方がない。あまり気は進まないが、背に腹はかえられないからな。リックを今すぐ呼び戻してくるよう、グレッグに伝えてくれ」
「承知いたしました」
グレンの指示に、即座に立ち上がると、敬礼をし慌ただしくハリーも執務室を後にした。こうして残されたのはグレンのみ。他に人が居ない中、彼はため息をついて呟いた。
「明日のことを考えるとアイツの気持ちもわからないでもないが……。月巫女さまのお身体に影響を及ぼすような事態はさすがになぁ……。あとはリックが上手くやってくれることを祈るか」
彼の口から漏れたそれらは、誰に届くこともなく空気に溶けて消えていった。
***
「団長命令で今すぐ戻れって……え、何事?」
困惑した様子で声を上げたのは、リオンの部屋の中にいたリック。彼の目の前には、伝令兼交代としてやってきたグレッグがいた。
そこには、部屋の主でもあるリオンと、彼女の侍女を務めるエマの姿もあり、二人の騎士の会話に耳を傾けている。そんな中、グレッグは淡々と口を開いた。
「私もよくはわからないんですが。昼の際に、隊長が厨房を使用したいと料理長に願い出てから、屯所全体がざわざわして落ち着かないんです」
「隊長が、厨房を……?」
後輩の告げた言葉に、リックの口元が徐々に引き攣っていく。彼の反応に、グレッグは淡々とした調子で問いかけた。
「リック先輩。何がどういうことなのか、教えていただけませんか?」
「グレッグ、地獄の野外訓練の話を聞いたことは……?」
「ないです。薄ら察しはついてますが、他の先輩方が口を揃えて『詳細はリック先輩に聞け』としか……」
「別隊の話ともなると、そうなるか」
リックは肩を落とし、困り顔で頭を掻く。説明を求め、じっと見つめる紫紺の瞳を見ると、彼は小さくため息をこぼす。そんな彼に、リオンがおずおずと声をかける。
「リック、ルイスは普段あまり料理をしないと本人から聞いたのだけれど、それと何か関係があるのですか……?」
「ええと……」
不安げに見つめる瑠璃に、興味津々な様子で見つめる琥珀。それらとグレッグを交互に見たあと、リックは小さく肩を落とすと、額に手を当て、その重い口を開いた。
「クリフェード隊長は、料理がその、控えめに言って下手なんですよ……」
「え……?」
そんなリックの言葉に、その場にいた女性陣二人の目が呆気に取られたように瞬く。グレッグは『やはり』と言いたげに小さく息をつく。
「リック様。控えめに言って下手ということは、その……控えめに言わなかったら……?」
「壊滅的です」
キッパリと断言された言葉に、エマの顔が引き攣る。そんな彼女に苦笑いを浮かべた後、リックはリオンを振り返り見た。
「こちらの都合で申し訳ないのですが、後に予定していた私の休憩を今から頂いてもよろしいでしょうか?」
「そこまでするような状況なんですか?」
「……私達の不手際で申し訳ないのですが。とある件をきっかけに、騎士団では隊長に炊事を一切任せないように動いていたので、隊長は自覚がないのですよ」
「何の……?」
そう問いかけるリオンの口元は僅かに引き攣っている。そんな彼女にリックは淡々と言った。
「料理下手という自覚が、です」
「でも、これを機に学ぶのも大事なことではないのですか?」
「これは私の推測ですが。恐らく『誰か』のために作ろうとしている可能性があります。ですので、早々に止めるか、軌道修正を図る必要があるかと……」
そう言ってリックは真顔でリオンを見つめる。その碧眼が訴える『誰か』に気付いたのか、彼女の頬を僅かに冷や汗が伝う。それに対し微苦笑を浮かべて、彼は言った。
「団長が私を呼び戻すということは、恐らく私以外に対処が難しい状況なのでしょう。ですので、お許しいただけないでしょうか?」
「……わかりました」
「ありがとうございます」
リオンに深々と頭を下げると、リックは二言三言グレッグに引き継ぎをして、早足で部屋を後にした。それに続くように、グレッグも外で待機している旨を伝え、部屋の外へ出る。
そうして、部屋の中に残された女性陣二人は互いに顔を見合わせると、声を顰めて口を開いた。
「ねぇ、エマ。このタイミングってことは、明日の、かな……?」
「十中八九そうだと思うわ」
しっかりと頷いて見せたあと、エマは眉尻を下げて、頬に手を当てながら言った。
「それにしても、まさかルイス様が料理苦手だったとは思わなかったわ。私、余計なこと言ってしまったかしら……」
「でも、普段作らないのに作ろうって思ってくれたんだよね」
喜色が滲む彼女の声に、エマは目を瞬かせてリオンを振り返る。そこには、声のトーンに違わず、頬を薄ら染めて微笑むリオンの姿があった。そんな彼女に、エマは恐る恐ると言った様子で言った。
「リオン、こういうとあれだけれど。リック様があんな顔するくらいだから、たぶん、相当よ……?」
「そ、そこはちょっとだけ怖いけど……。でも、その気持ちはやっぱり嬉しいよ」
幸せそうに微笑む彼女に、エマの琥珀色の瞳が呆気に取られて瞠目する。ややあって、彼女はふっと笑みを浮かべると、リオンのティーカップへ追加のお茶を注ぎながら言った。
「ま、それはそうよね。好きな人から気持ちが返って来るのは、やっぱり嬉しいもの」
そんなエマの言葉に、リオンは満面の笑みを浮かべて頷き、お茶請けのクッキーを頬張る。その後、リックが戻ってくるまでの間、二人はお菓子の本を広げ、ルイスが何を作ろうとしているのか予想に耽ったのだった。