赤い月の記憶と秘密の誓い―後編―
※ 本編ネタバレを含む、準主人公視点の過去話です。
聖湖の畔にある東屋は、別に壁があるわけじゃない。だが、巫女さまたちが茶会をしている場所は、木々に隠れてあまり見えない。それにホッと息をついて、吹き抜ける風を受けながら、石造りの長椅子に仰向けに寝転がる。
屋根の天窓ごしに見えるの青空の中、鳥や雲が風に流されて行く。そこから見える空の景色は常に変化し、留まることを知らない。……あの日から、ずっと止まったままのオレと違って。
青空が広がるはずの目の前に赤が広がる。
――生き、て……。
ふと蘇ってきた夢で聞いた声と共に、失われた温もりを思い出す。思い出して約十年、事件そのものからはあと数日もすれば十三年だ。それでも色褪せることない記憶に、気分転換に来たはずなのに、気持ちが暗がりへ落ちていく。
あの男をこの手で殺せたら、こんな気持ちにならずに済むのだろうか。それとも……。
「ルイス、大丈夫?」
つらつらと考えていたところにかかった声に、意識が現実へと戻る。気付けば目の前には、気遣わしげな澄んだ瑠璃色の瞳があった。それに驚き、オレは思わずガバッと体を起こす。でも、そこにはオレと巫女さま以外はいない。常に傍にいるはずのライルさんですら、だ。
「巫女さま、なんで……? ライルさんは?」
「見える範囲にいるのを条件に、少し離れたとこで待ってもらってるの」
彼女の言葉に周囲を見回せば、確かに少し離れたところに瑠璃色のマントの裾が見えた。ただ、彼女がどうしてそれを彼に望んだのかはわからず、再び目の前の巫女様に視線を戻す。すると、問いたいことを察したのか、そうじゃないのかはわからないが、彼女は言った。
「みんながいる場所だと言いにくいのかなって思ったから、二人にしてもらったの」
その言葉に僅かに体が強張る。彼女は一体『何を』言いにくいと考えたのか。それは問うまでもなく、彼女の口から答えが出る。
「ルイスはどうして騎士になろうと思ったの?」
そう、オレが答えに窮した質問の続きをするためだ。オレとは違い、どす黒い感情と無縁のように思われる彼女に、果たしてこれを話していいものか、未だに答えは出ていない。だが、彼女の目は、答えを聞くまで譲るつもりがないと言わんばかりだ。
「巫女さまはどうしてそんなことを聞こうと思ったんだ?」
「気になったから」
「……それだけ、か?」
こくりと頷くところを見るに、そこに嘘偽りはなさそうに見える。深い意味なんてないのかもしれない。ただ問題は、一度興味を持つと基本的に納得するまで食い下がるところだ。今のように。
「別に極々一般的な理由だ」
「それなら隠す必要はないはずだよ」
彼女の言が的を射すぎていて、思わず口を噤む。感情の出し方におぼつかなさはまだあるものの、彼女は決して頭が悪いわけではない。むしろ、こういった交渉に関しては、オレの上を行くかもしれない。そこまで思い至って、ようやくオレはさっきの行動が裏目に出たことを把握した。
そう、あの場でバカ正直に話すのではなく、当たり障りない回答をすればよかったんだ。理由も定かではない『彼女に嘘を吐きたくない』という自分の感情なんて無視すればよかったんだ。そう思うも時既に遅し。だから、オレは悪あがきをすることにした。
「聞いても気持ちのいい話ではないぞ?」
「いいよ」
「いいよって……」
「私はルイスの話が聞きたい。知りたいの」
予防線を張ってみても全く意味を成さないばかりか、結論的に言えば、オレの退路は完全に断たれた。その結果に正直、ため息をつきたくはなったが、自分で招いた失態だ。だから、もう腹を括ることにした。例え、それでオレを見る彼女の目が、どんな色に染まろうとも、だ。
「復讐のためだよ」
「ふく、しゅう……?」
「オレの大切なものを奪った男を……死刑にするための、な」
シンと静まり返った沈黙に、自然と目線が下がる。軽蔑されるのか、同情されるのか。どちらの反応も正直好きではないものの、反応がないことにはどうしたらいいかもわからないから、何か言ってほしい。そう思ったときだった。
「それが叶ったら、ルイスは元気になる?」
「え?」
予想だにしなかった問いかけに、逸らしていた顔を戻せば、いつになく真剣な様子でこちらを見つめる彼女の姿がそこにあった。あまりにも予想外過ぎて、オレの淡い願望が聞かせた幻聴かとすら思った。それを否定するかのように、彼女は重ねて問いかけた。
「それが叶ったら、ルイスは幸せになれる?」
「それ、は……」
先の問いかけよりも、彼女が言わんとする内容がやや鮮明になる。彼女が聞きたいこと、それはオレが何よりもぼかしたくて、リックにすら話したことがないことだ。……団長はもしかしたら覚えているかもしれないが、とっくに忘れているかもしれない。
何故ならそれは、恐らく口にしたら彼女を含め、周囲の人はいい顔をしないだろうと、それだけは予想がつくからだ。同情ではなく、大切に思ってくれているのがわかるからこそ、話したくなかった。
言葉に詰まったオレに対し、彼女は言葉を変えてさらに問いかけた。
「どうしたらルイスは笑ってくれる?」
「わら……え?」
「私はルイスの笑ってる顔が見たい」
ストレートに告げられた言葉に、言葉を詰まらせるどころじゃなくて、頭が真っ白になる。
「オレに笑う資格なんて、ない」
「……どうして?」
「オレの我が侭のせいで両親は死んだ。殺された。それなのに、そんなオレがのうのうと笑って生きていくなんて、許されるわけがない」
決して告げるつもりのなかった本音が、口をついて出た。しまったとも思ったが、出てしまった言葉を取り消すことも、なかったことにすることもできない。
「それにオレの笑顔なんて別に気にすることな……」
そこまで言ったところで、オレの手を握る温もりに言葉が途切れる。この状況でオレの手を握るのは一人しかいない。彼女は、眉尻を下げて言った。
「気にするよ」
「なんで、巫女さまはそうやって……」
「だって、ルイスの笑った顔だけ見たことないから」
「だからそれは別に気にしなくても……」
オレの手を握る小さな手に力が籠もる。痛いという程ではないが、彼女の意志の固さを反映しているかのようだった。
やや間を置くと、彼女はポツリポツリと口を開いた。
「私の祈りは民の幸せのためだって、神官長さまが仰ってたの。だから、みんなが笑顔であれますようにって祈るんだって」
そこまで言って、彼女は泣き出しそうな顔で真っ直ぐ見上げてオレに言った。
「だから私、ずっとそう信じて祈ってきたよ。だけど、どうしたらルイスに届くの? こんなに近くにいるのに、届けられない私の祈りって何?」
「巫女さま……」
祈りの力は正直信じていない。眉唾ものか偶然だろうと、正直思ってる。だが、彼女が自身の役割のために頑張っていることも、それをエマやライルさんが支えているのも知っている。それを否定はしたくない。
したくはないが、『みんな』の中にオレが入っている以上、オレが考えを変えない限りは否定になってしまうのかもしれない。それでもオレは……。
「巫女さまの祈りは尊いものだと思う。それでもオレが自分を許すことは到底できない。しちゃいけないんだ。この罪だけは絶対に……」
「……わかった。罪がなくなればいいんだね」
「え? ちょっ!?」
突然、彼女は立ち上がり、オレの腕を引っ張り歩き出す。振り払おうと思えば振り払えるが、華奢な腕を力尽くで振り払うのは躊躇われ、為すがままになる。チラリとライルさんを見れば、彼も彼で面食らった様子で後を追ってきた。
そんな中、彼女が向かったのは聖湖。元々、畔に居たから目と鼻の先の移動だったが、あろうことか、彼女は冷え込み始めたこの時分に、ザブザブと湖へ足を踏み入れた。
その行動に、さすがにリック、エマの視線もこちらを向いているのを感じる。団長は、席を外しているのか、用事で戻ったのかわからないが、視線も気配も感じない。そんな中、尚も進もうとする彼女を止めようと、オレは聖湖の縁で踏ん張りながら言った。
「巫女さま、聖湖は聖域だろ。神官でもないオレが入っていい場所じゃ……」
「いい、からっ! 入、って!」
「だから、そういうわけに……うわっ!」
ギリギリで踏みとどまっていたものの、元々境目の曖昧な水辺だ。水を多分に含んだ泥に足を取られた上に、狙い澄ましたかのように、彼女に引っ張られる。そうして為す術もないまま、オレは彼女も巻き込む形で聖湖に頭から突っ込んだ。
突っ込んだ場所が浅瀬だったおかげで、溺れることはなかった。ただ、それなりの水音と一緒に水しぶきもあがったのもあり、オレも彼女も全身濡れ鼠だ。慌てて彼女の体を起こしつつ、怪我をしていないか、目を凝らす。
「巫女さま、怪我はっ! いや、それよりも早く上がって着替えを……!」
「ねぇ、これで、ルイス、自分を許せるよね?」
「……は? え?」
焦るオレを余所に、彼女の口から飛び出したのは、恐らくさっきの続きであろう言葉。この状況でそれが出てくるとは思わず、固まっていると彼女は続けて言った。
「ここは禊ぎをするための場所。罪を洗い清める場所なの。ルイスが言ったルイスの罪も全部」
そこまで言われて、ようやく彼女の突然の行動の意味を理解した。要は、ここに入って清めることによって、オレ自身の罪をなくそうとしたのだと。
自身が濡れてでもそうした彼女の気持ちに、どうしようもなく胸が苦しくなる。今までにない胸の苦しさに、目頭が熱くなるほどだ。
「どうして、そこまでしてオレなんかに……」
そう問いかければ、彼女はずぶ濡れになった顔に、ふわりと笑みを浮かべて言った。
「私は、私の周りにいる人に笑っててほしい。幸せになってほしいの。だって今、私がこうして笑ったり泣けるようになったのは、ルイスやみんなのおかげだから」
「そんなことのために……?」
「そんなことじゃない。大事なことだよ」
思わぬ回答に呆気に取られたオレを、目尻をつり上げた瑠璃色の瞳が真っ直ぐ見上げてくる。戸惑ったオレの反応をどう受け取ったのか、彼女は両手に拳を握り絞めて言った。
「まだ許せないっていうなら、許せるようになるまで禊ぎをしよう!」
「それは却下です、巫女さま」
そこへ、ため息交じりに割り込んだのはライルさんだ。そして、自身も聖湖へ足を踏み入れると、彼女をひょいと抱き上げる。だが、まだ納得行っていない様子の彼女は、彼の腕の中でジタバタと暴れた。
「ライル、下ろして! まだっ!」
「いくら何でも水垢離をするには水温が低すぎますし、風邪を召されますから。ほらルイスも」
「だけど……!」
まだ言い募る彼女を見つつ、オレも立ち上がり、彼女を連れて岸に上がる彼に続く。それを見て、不満げに口を尖らせる彼女に、ライルさんが静かに言った。
「巫女さま、風邪を召された場合、苦い薬湯を飲む羽目になる上に、神官長からのお小言がもれなくついて参りますが、その覚悟はおありですか?」
「うっ……」
その覚悟まではないらしい彼女の百面相に、思わずこみ上げたものがこぼれ落ちた。
「ふっ……」
それは本当に微かなものだった、と思う。それでも、二人の耳にはしっかり届いていたようで、二つの瑠璃色の瞳がオレを振り返り、目を見開く。
「ルイスが、笑った……」
彼女の言葉に、自分の状態に気づき、オレは慌てて口元を隠した。だけど、他人が『笑った』と認識する顔をしていたのは確かで、そんな自分に心底戸惑った。
だが、そんなオレとは裏腹に、彼女は不満げに声を上げる。
「あ、隠しちゃダメ! もっと笑って!」
「いや、オレは……」
「オレが親なら、子が笑ってなかったら心配するぞ」
どうしたものかと考え込んで居たところに、そう投げかけてきたのはライルさんだ。顔を上げれば、真剣な表情で見つめる彼の顔があった。
「自分を責め続けたところで、失ったものは戻らない。できるのは、失った人が望んだことを叶えるくらいだ」
「望んだ、こと……」
「お前の両親は、お前が自分を責め続けることを望んだのか?」
どうやら話を聞かれていたか、或いは唇の動きを読まれていたらしい。それに思わず睨みつけてしまったものの、護衛騎士としては当然の行動だと気付き、視線を落とす。
そして、彼が言ったことへと意識を向ける。失った人が望んだこと。両親がオレに望んだことはなんだったのか。それを考えて思い出されるのは、今朝見た夢で聞き取れなかった言葉。
よくその唇の動きを思い出せば、今のオレならその言葉を理解することができた。
「『生きて、幸せに』……」
母が今際の際に、オレに伝えようとした言葉が口をついて出る。もしかしたら、記憶ではなく、オレの願望が見せた都合のいい幻かもしれない。そんな想いも過るが、それでも違うと断じることはできなかった。
「オレは、幸せになっても……いいのか?」
無意識に出た言葉は、ずっと拒絶して見ないフリをしてきた、オレ自身の本音。笑うみんなの中に入ってはいけないと思う反面、入りたいと望む弱い自分の本心だった。
その問いに答えをくれる人はもういない。そう思っていた。
だが、立ち尽くしたオレを見て、彼女は暴れるでもなく、ライルさんに下ろしてもらい、オレの元に来た。そして、まだ濡れているその手をオレの頬に当てて、笑みを浮かべて言った。
「許しが欲しいなら何度だって言うよ。ルイスは幸せになっていいの。それで、もっといっぱい笑って?」
「巫女さま……」
柔らかく細められた瑠璃から、一筋の涙が伝いこぼれ落ちていく。
彼女にそこまで思って貰えるような人間じゃない。そう思う反面、彼女のその気持ちにオレも年甲斐もなく泣きそうになる。
それを堪えつつ、何とか震えそうな声で絞り出せたのは……。
「ありがとう……」
その一言だけ。目の前にある瑠璃に映ったオレは、泣き笑いのような笑顔だった。
禊ぎが本当にオレの罪を洗い流してくれたかどうかはわからない。ただ、それでも、オレ自身ですら忘れていた本心を彼女は探し、見つけてくれた。その気持ちがただただ嬉しかった。
だから、このときオレは誓ったんだ。オレの本心を見つけて教えてくれた彼女を、何があっても守ろうと。そんな彼女に胸を張って、堂々としていられる自分であろうと。
まだそれが何という感情なのか、オレはわかっていなかった。それでも、彼女の気持ちに応えたい。そして、彼女にもできるだけ笑っていてほしいと、そう強く思ったんだ。
それは結果として、オレの騎士としての本当のスタートラインになり、騎士である理由になっていった。
この件にライルさんが関わっていた関係で、後のオレは一時それを忘れることになる。それでも尚、無意識に残るくらい、この出来事はオレにとってかけがえのないものだったんだ――。




