彼の里での思い出[2]
夕陽が、山に隠れようとしている。外の世界から帰ってきた人の話だと、ここは昼間の時間が短いらしいんだけど……実感が湧かないな。
兎に角、今はもう夕暮れ。あと少しで夜が訪れるくらいの時間ってことだ。
「お邪魔しまーす……」
鍵の掛かっていない玄関から家の中に入った俺は、そのまま靴を脱いで勝手に上がる。
一応小さく挨拶はしたが、それも形式上。別にしなくたって何も言われないだろう。
親世代からの付き合いで、俺の家とこの家は仲が良い。昔なんかは、自分の家に帰るとこの家の人がいて、この家に帰ると俺の家族がいるなんてこともあった。……何やってんだ俺たち。
俺の家の道を挟んだ向かいにあるこの家は、今の時間、窓から入り込む陽射しによって橙色に染められていて、まるで自分が自分でないような感覚を得ることが出来た。
誰に伝える訳でもない挨拶だ。返事を待たずして、脱衣所へ一度寄った後目的の部屋へと向かう。
二階へ通じる階段を登ってすぐの扉。
今日は珍しいことに、開いたままだった。
「…………」
何も言わずに入る。
その部屋の持ち主は、こちらに気付いていないようで、自分の横たわるベッドの上から、身を起こして窓の外を見ていた。
今にも沈もうとしている夕陽を見ているのか、それとも外を見ることに意味なんてないのかは、本人ではない俺は知らない。
だけど、なんだかそれは悪いことの前兆のように感じた。
「英梨」
どうやってこちらに気付いてもらおうか、いっそ、部屋から出て扉をノックしてからもう一度入ろうか。色々考えたが、結局名前を呼ぶことで落ち着いた。
「龍弥! も、もお……来てたなら言ってくれれば良かったのに」
「言おうとしたんだけどさ、熱心に外を見ていたから話しかけづらくて」
「外なんていつでも見えるんだよ? そんなことより龍弥と一緒に話す方が大事に決まってるでしょ?」
英梨は、朗らかに笑った。
表情こそ笑顔だったが、比べて内容はこの部屋にいることが多い事実を示していて、英梨に応えて笑おうとしたのに、何故か口角の上がらない奇妙な笑みになってしまった。
だが、俺の笑顔を英梨は気にしなかった。と言うよりも、他に気になることがあったと言うべきかな。
少し頰を赤らめ、目をキョロキョロと部屋の隅々に向けていた。まるで、初めて友達の部屋に来たみたいだ。自分の部屋なのに。
今度は、ちゃんと笑えた。
「どうした、英梨?」
「あ、その……ほら、私、ずっと寝てたから、顔だって洗ってないし、髪もボサボサだし……」
「部屋に何か変な物を置いてないか心配だし」
「う…………そう、です……」
俺が最後の一つを引き継ぐと、英梨はモジモジしながら照れた。チラチラとした上目遣いが強烈だ。
身を整えるか……仁美ちゃんだってそういうのを気にしてるらしいし、英梨だって気になるか。
「うん、じゃあ俺がやってあげるよ」
「龍弥が……?」
キョトンとした顔で、首を傾げた。
まあそうだな、俺がこう言いだすのは初めてだ。
というか、俺が来る前に英梨が身を整えていないこと自体初めてだ。
「お前、強がってるけど今日調子悪いんだろ? 今日の夜は親がいないらしいし、俺が泊まることにした。今決めた」
「え、ええっ! だ、だいじょお──」
「それでぶっ倒れたのはどこのどいつだ? 悪いが、俺は今日お前のお世話を焼くことに決めたんだ。今日は俺んとこも親父が家にいないから好都合だろ?」
「そ、それはそうだけど……」
それでもまだ渋る英梨。昔は泊まることくらい毎日のようにしていたんだから、別に良いと思うんだけどな……。
まあ、こんな状態の英梨を一人残して家に帰る訳にもいかない。英梨の両親は、今英梨の病気を治すための方法を探しに行っていて、家にいない。
俺の親父は……知らん。どっかプラプラしてんだろ。
「タオルを持って来たんだ、これで顔を拭け」
英梨の家の脱衣所から拝借したハンドタオルを、魔法を使って濡らしていく。こういう時、魔法は便利だと思う。
英梨は、キラキラした目で見ていたが、やがて。
「わぁ……水が溢れてないね」
「英梨も元気になったらコツを教えてやるよ、だからホラ」
「んっ……」
ベッドの横の椅子に座って、濡れタオルを手渡す。
英梨は、それでも少し考えていたが、俺がここで帰るような人間じゃないかとはこれまでの付き合いで知っているのか、勢いよく顔をタオルに押し付け……。
ジャー…………。
……そういえば、絞ってなかった。
「…………」
「…………」
タオルに顔を押し付けたまま固まる英梨。白いタオルから水がポタポタと落ちる音だけが、部屋にやけに響いた。そんな気がした。
一応こうして水が溢れないように考えて水を浸らせたのだが、まさか英梨がここまで勢いよく使うとは思わなかった。
英梨のパジャマを水が濡らし、その下に隠れた肌着を薄っすらと透かしている。
だが俺は、英梨の着ている白いシャツよりも、そんなことよりも英梨が風邪を引かないか心配だった。ただでさえ体力が落ちているのだ、ここで風邪を引くのはよろしくない。
「えっと、英梨。風呂に入った方がいいんじゃないか?」
体力が落ちているときは、風呂に入らない方が良いと言うが、俺としては精神を癒すためにも風呂は入った方が良いと思う。そりゃ、熱があれば入らないが、少し具合が悪い程度なら普通に入る。
英梨は、少し具合が悪い程度ではないが、今すぐどうにかなる訳でもない……筈だ。風呂に入る行為は間違ってない……よな。
「お風呂……龍弥が一緒に入ってくれるなら」
「は? やだよ」
思いもやらない答えだったせいで、少しキツイ言い方になってしまった、
途端、英梨がショックを受けたような顔をする。
手が、濡れた胸元の前の空を切る。スカッ、スカッと言う音が聞こえた気がした。
「あー、そういうことじゃなくて、ほら、色々まずいじゃん?」
「でも、お風呂は必ず誰かと入るようにって……いつもはお母さんがいてくれたから大丈夫だったけど……」
あー、それなら、俺がどうこう出来る問題じゃないな。
風呂に入れなきゃ、風邪を引くし……かと言って、一緒に入るのは、弱みに付け込んだみたいで罪悪感が湧くし、ていうかそもそも論外だし……。
「ダメなら、諦め……へ……くちゅっ」
「え、英梨!? だ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫だから……くしゅっ」
「い、いや思いっ切りクシャミしてるじゃん! 全然大丈夫じゃ……ああ、もう! 英梨、お前の服はどこだ!?」
「ふ、服? パジャマなら、その棚の上から三番目に……」
三番目……ここだな。……うっ、女の子のパジャマってよく分からない……。ええい、もう適当なのでいいや! 下着は……履かなくても死にはしない!
「よし、それじゃあ行くぞ」
「い、行くってどこに……?」
持ってきていた俺の分のパジャマと英梨自身のパジャマを英梨に手渡すと、英梨が戸惑ったように見上げて来た。
何って……そりゃ、決まってるだろ?
「風呂場だよ。いいぜ、一緒に入ってやる」
「ひゃぃ!? い、いいの? あ、でもお風呂沸かしてない……」
「そんなの、俺がすぐに魔法でお湯を出せば良いだけだろ? シャワーはすぐにあったかくなるし」
ガス? とか言うのらしいけど、俺はよく知らん。
俺の予想だと、魔法陣が刻まれていて、ボタンを押すと魔法陣が起動するようになってるんだと思う。ガスってのは……多分その魔法陣とかのことじゃないか?
英梨の掛け布団を剥ぐと、驚いた英梨が足をギュッと身体に寄せて縮こませた。
……好都合。
「服、落とすなよ」
「ふぁぁっ!?」
丁度三角形の形になった膝の下に手を入れ、もう片方の手を英梨の背中の下に入れて持ち上げる。
ん……ちょっと恥ずかしいな。
「龍弥、自分で歩けるから!」
「いいって別に、お前軽いからキツくないし」
「で、でも私身体を洗って……」
「それを今から洗いに行くんだ。それにお前の匂いはいつだっていい匂いだ」
言ってから気が付いたけど、我ながら変態的なことを口走っていた。
だが、英梨はそのことについて何も思わなかったようで、ただこの運び方に顔を赤くしていた。
階段は少し怖かったが、下に空気の足場を作ることで安全性には細心の注意を払った。
「龍弥……本当に、するの……?」
「昔と同じことをするだけだ。それに、タオルで隠すんだから大丈夫だろ」
「ん…………タオル、落ちないよね……うん、それくらいはある、と思いたい…………」
「なんか言ったか?」
「い、いや、別に何でもない!」
そ、そうか?
胸の前で手を上下し始めたからどうしたのかと思ったけど……何もないなら別にいいんだ。
「あ──」
階段を降りると、夕陽はまだ沈んでいなかったのか、部屋の中を照らしていた光は、今は幻想的に廊下を彩っていた。
この家に住んでいながらも、見たことがなかったのか。英梨が思わずといったように声を漏らした。
「綺麗、だな」
「うん……」
それしか、言えない。その一言、"綺麗"以外の言葉で、この景色を語れるだろうか。
「山の、頂上から見た景色みたい……」
「この太陽は、えっと……長老の話だと二ヶ月後までなら見えるらしい。その時には、あの山の頂上で一緒に見ような」
「…………うん。絶対」
時間にしてみれば、本当に一瞬だったのだろう。
だが、それでも、体感では、まるで一日中空を眺めていたような。自然への感動と、束縛からの解放というやつを感じた。
本当に、タイミングが良かったのだろう。少し早ければ、今程幻想的な風景はなく、この足を止めていなかったかも知れない。少し遅ければ、そもそも見れていたかも怪しい。
太陽は、俺たちが眺めている内に、沈んだ。俺たちは、その直前の一瞬、太陽からの光が溢れたように強く漏れる瞬間を見たのだ。
「龍弥……行こ?」
「っ……あ、ああ……」
太陽が消えてもなお、またひょっこり顔を出すのではないか。そんなあり得ない妄想を抱いてしまう程に、名残惜しい光景だった。
「それじゃあ、行くか」
「うん」
振り返らずに、お風呂場へと向かって行く。
俺も、英梨も、喋らない。
だけど不思議と、その沈黙は心地よいものに感じた。
腕の痺れも、今では気にならない。