束の間の休息(七月二十四日)
「はぁぁ……」
リビングでソファに座り、龍弥は一つ溜息をつく。溜息をつくと幸せが逃げると言うが、まずは逃げる分の幸せが欲しいと思う今日この頃。
「あら、そんな深い溜息吐いてどうしたのかしら? 恋の悩み? ああ、皆まで言う必要はないわ。
英梨さんを押し倒したのに、彼女は何をされるのか理解してくれなかったんでしょう? 英梨さん、少し子供だから。
そんな子供な英梨さんを大人にしようと、龍弥くんの欲望は膨れ上がり、遂に耐えきれず……ああっ! これ以上は言えないわっ!」
夏休みになってまだ一週間少ししか経っていないにも関わらず、外では蝉がうるさく鳴いている。近くで騒いでいる変態は気にしたら負けだ。精神的な意味で、蝉より煩わしい。
弱めの冷房のかけてあるリビングのソファに座り、これまでの疲れとか色々籠もった溜息を吐いた龍弥。
たったそれだけで、彼女、東堂茜は龍弥を鬼畜風味に味付けしようとしてきた。
「……」
「な、何?」
ジトッとした目で見上げると、自分の身を守るかのように体を抱き締めていた茜が少したじろぐ。
来ているシャツを押し上げる胸、キュッと引き締まったウエスト。抜群のプロポーションを誇る黒髪ロングの美少女だというのに……こういうところが残念だ。
一つ屋根の下、こんな美少女と過ごしていて何も間違いを起こさない龍弥の精神力は、既に仙人の域にあるのではないだろうか、と言いたいところだが実際は茜の性格のせいだ。
「溜息一つでよくそこまで話が膨らむな。勿論違うから。夜中の三時に違和感を感じて起きたら風呂場にいた人の気持ち分かる? 君ら俺の理性の心配とかないの?」
「英梨さんの貞操に関してはないわね」
「うん、少し黙ろうか」
英梨とは、龍弥の幼馴染である。
少し成長が遅く、小学生に間違えられてもおかしくない容姿をしているが、そんなこと龍弥には関係ない。いや、別に龍弥がロリコンという話ではないが。
英梨のショーツから伸びる生足も、露わになった胸も、寝起きから龍弥のヒットポイントをガンガン削ってきた。
風呂場の英梨はショーツと龍弥のワイシャツを一枚しか着ておらず、それを見た龍弥は一瞬異世界転移というものを疑ったくらいだ。
英梨に服を着せようと思っても勝手に英梨の部屋に入るわけにもいかず、龍弥のベッドに寝かした。
その後龍弥は、勿論興奮で睡眠なんか取れてない。はっきり言って寝不足気味だ。これで、二日間連続で徹夜である。
「あ、あはは…………。色々大変ね……」
「お前のせいでもあるけどな」
疲れ切った龍弥に大体の事情を察したのか、茜はそれ以上追求することはせず、話を変えるかのように龍弥の前にバナナを置いた。
朝ご飯は茜が作ってくれて、それから一時間も経っていない。美人の手料理が食べられるのは、ここに来て良かったと龍弥が思う理由の一つでもある。
「…………? 何故バナナ?」
訝しげに眉を顰める龍弥だったが、すぐに理由は分かった。
いや、もしこれを見越していたら大したものなのだが……多分この人は全て分かった上でここにバナナを置いている。
「しーしょーおー!」
まだ七月とは言え、今年の夏は平年より気温も高く、全国で緊急搬送される人が続出しているとか。
そんな暑さをものともしない元気な声が響いた。かと思うと、
「なんで、八時近くになっても起こしてくれないんですか! 昨晩浴室に仕掛けたおいたカメラ、存分に堪能させて頂きました!」
「何カミングアウトしてんの⁉︎」
「あ、英梨さんは寝ぼけていて、ついでに私の媚薬のせいで自分が何をしているのか分かっていないので怒らないでくださいね?」
「代わりに愛衣ちゃんを怒るのね。分かります」
お前は何がしたいんだ。それ以外の感想が思い浮かばないようなセリフを一方的に吐いた宮島愛衣は、そこで龍弥の前のバナナに気づいた。
途端、口を閉じ、何かを考え始める愛衣。
朝からハイテンションだなぁ……と思っていた龍弥はその変わり様に驚くが、別におかしなことではないので特に心配はしない。頭は少し……いや、これ以上は危険だ。
何故バナナを見て我に帰ったのかは、とても気になるが分からない。
しかし、こうして見ると、愛衣も茜に勝るとも劣らない中々の美少女だ。
肩を擽る長さの髪は、透き通るように綺麗な水色。バナナをジッと見つめる瞳も水色だ。身長は156センチくらいで、中学三年生にしては少しだけ高い。その分、胸やお尻も発達していて、流石に茜ほどはないが平均は超えている。
茜とはまたベクトルの違う、どちらかと言えば可愛い系の美少女だ。
「成る程……これが朝の修行ということですか……! 朧さんに聞きました。弟子は師匠から朝ご飯を奪うのが普通だと!」
「そんな師弟関係は消えてしまえ」
少なくとも、龍弥は朧を、朝ご飯を奪う標的と見たことはない。
というか、そんな師弟関係嫌だ。
「あと、隠しカメラなら俺は気付く。どうせ心配で夜まで起きてたんだろ? 胃のためにも、取り敢えずバナナから食っておけ」
「な、成る程……だからバナナを……。いえ、ですが師匠のバナナを口にする資格は私には……バナナを食べて欲しいのは分かりますが、英梨さんに悪いですから」
「一応確認するけど、果物のことだよね?」
「…………バナナには『結婚してくれ』という花言葉がありまして、プロポーズに使う人もいるとか……」
「と言っているが、茜?」
「……は?」
「あ、なんかごめんなさい」
俺に渡したのはそういう意味? そう聞こうとしたが絶対零度の視線に晒されて、思わず身震いする。
「そんな訳ないじゃないですかー!」
「お前…………!」
「……(モグモグ)」
「え、この話の流れで食べるの?」
思わず脳天にチョップしそうになるが、皮を剥いたバナナを口に入れ、上目遣いでこちらを見上げる愛衣に、何も言えなくなってしまった。
飲み込んで、喉が動くのもやけに色っぽい。
そして、少しの間、自分の弟子がバナナを食べる姿を眺めていると、
「朝から何やってるのよ……はい、ココア用意したわよ」
そこで、龍弥に冷ややかな視線を向けたままいつのまにか消えていた茜が、カップを二つ持って帰ってくる。
そのまま龍弥の隣に座り、カップを愛衣に手渡しした後、苦笑ながらそう言った。
顔を紅くして「これだから師匠は……乙女の食事をあそこまで…………」と呟いていた愛衣は、カップを受け取ると近くの椅子に座って静かに中身を飲み始める。
すると、その様子を眺めていた龍弥の前にもカップが突き出された。
「夜叉堂龍弥……。朝ご飯を奪う師弟関係のどこが悪いのですか」
茜の後から、どこか納得のいかない表情を浮かべ入って来た少女が龍弥の前にカップを置いたのだ。
その手には、自分用だろうカップを一つ持っていた。
「朧、帰ってたのか」
「はい。しかしそれより…… 私からこのカップを奪ってください」
朧はそう言った。
普段ほとんど表情の変わらない顔が、心なしか今は少し楽しそうに見える。
膝裏まで伸びる長い金髪に、深い漆黒の瞳。色白の肌を包む黒衣から伸びる手足はスラリと、まるで美の体現のようだ。
背は愛衣よりも少し小さい。胸は控えめながらしっかりとあり、黒衣を盛り上げる膨らみがその存在を主張している。
「ど、どこを見ているのですか……!」
龍弥の視線に気がついた朧が、顔を真っ赤にする。
そして、胸元を隠そうとしたかったのだろうが、ココアの入ったカップを持っていて迂闊に動けないのだろう。
少し困った表情を浮かべていた。
「頂戴」
「…………どうぞ」
「「……え⁉︎」」
熾烈な戦いを予想していたのだろう、素直に渡してくれと頼み、それに素直に従う朧に、愛衣と茜が素っ頓狂な声を上げる。
実際、朧も素直に渡すつもりはなかった。
だが、龍弥に胸を注視されて、もうそれどころではないのもあったし、龍弥の目の下の隈が気になったのもある。
朧が妖荘で着ている部屋着である戦闘衣装の黒衣は、動きを阻害しないようにサイズに余裕のある作りではない。ライダースーツほどではないが、ウエストなどの体の線は見えてしまっている。
黒いバトルドレスと言えば分かりやすいか。
兎に角朧は、明らかに体調不良の龍弥に挑んだことと、身体のラインが出やすい服を間近で見られたことにより恥ずかしくなって、もう久しくやっていない朝の修行などどうでもよくなってしまったのだ。
「アイスココアか、ありがとな」
「ふふ、龍弥くんのは彼女が淹れたのよ?」
暑い夏にホットココアを飲むなんて考えられない。
茜に礼を言う龍弥だったが、茜はニヤニヤと視線で朧の方を示す。
「朧が……ありがとな」
「……別に、インスタントですから……」
龍弥が改めて朧に礼を言うと、朧は口ではそう言いながらも、少し嬉しそうに微笑んだ。
だが、残念なことに、隣に座っていた龍弥がそれに気づくことはなかった。
龍弥は、リビングの入り口に立っていた少女に視線が行っていたからだ。
そして、その少女を確認すると同時に一瞬だけ目元を覆った。
茜は、龍弥の手が離れた後の彼の目元が、健康そのもの、隈が消えていることに気付いたが、特に何も言わなかった。
龍弥の、この少女の前での異常なまでの強がりは、別に今に始まったことじゃない。
「…………部屋に連れ込まれた」
「開口一番にそれ⁉︎ いやまあ、確かに起きて違う部屋なら驚くけど、俺はそんなことしないって……」
「してくれないの……?」
「してくれないのって、お前…………」
返事に詰まって彼女、雪浜英梨を見るが、彼女の場合特に深い意味はないだろう。
単純に、龍弥の部屋で遊んじゃダメなのか聞いていると考えて良いだろう。
茜の言葉ではないが、英梨はそういうところは子供っぽいのだ。
(訂正。見た目からして子供だった)
愛衣よりも一歳年上、つまり龍弥と同じく高校一年生なのだが、朧よりも小柄だ。
その身長はなんと自称146センチ。。龍弥の身長が176センチと少し高めだから、英梨とは30センチも差があることになる。
だが、英梨もかなりの美少女だ。
色白の肌は、艶があって不健康には見えないし、腰まで伸びる紅の髪は触れるだけで天にも昇る触り心地。深く紅い瞳は寝起きで眠たげだが、それが逆に危なげな魅力を放っている。
「顔、洗ったのか? 随分眠そうだけど」
「ん、起きてすぐに魔法で。眠そうなのは、ドキドキして眠れなかったから……それに、服まで…………!」
何か、不穏な単語が聞こえた気がする。
まるで、龍弥が英梨に自分のシャツを着せた時、起きていたような言い方ではないか。
取り敢えず、「あ、すみません師匠。私用事を思い出したのでー」とか言って逃げ出そうとしている愛衣の肩を優しく掴む。
なんか、「むむっ、見た目そっと掴んでいるのに絶対逃がさない意志を感じます!」とか言って喜んでいるが、龍弥は気にしない。気にしたら負けだ。
「こ、今夜は赤飯ですね!」
この五人が暮らす妖荘に、とある弟子の悲鳴が響く一秒前のことだった。
──そして、誰もが分かっていた。
この平和な時間は、あと数日もしない間に、早ければ数時間の内に、地獄に変わってしまうのだと……。
誰もが、理解し、そして虚飾で蓋をしていた。