後編
「私としても、その考えには賛成です。無理は良く無い。無理をしたところで、出来る事と言えば、疲れ果てて眠る事くらいでしょうから。まあ、それはそれで心地よいものかもしれませんがね」
初めての冒険を終えた後、レイトは無事、ファン師の家へと帰る事が出来た。
相応に疲労していたレイトを出迎えたファン師であるが、すぐに軽い食事を用意してもくれている。
何時も思っている事であるが、彼には世話になりっぱなしだと思う。本当に、頭の上がらない相手なのだ。
だからこそ、幾ら疲れていたとしても、食事の最中の世間話はしっかりするのだ。
「無理したところで、どれほどの事が出来るのかって言うのは、もう実感しています。けど……」
「うん。疲れる事があったとしても、やるべき事への熱意が消えないのは良い事でしょう。曲がらぬ思いは、致命的な失敗さえしなければ、何時かは叶うものだと私も思います」
「先生の夢も……そうですか?」
レイトに目的がある様に、ファン師にもまた、願いがあるのだ。
そもそもレイトはファン師との血の繋がりなど無く、また、古くからの縁があるわけでも無い。
そんなレイトを、ファン師が魔法使いとして指導し続けるのは、彼の願いがあるからなのだ。
「私の願いはあなたですよ、レイト。だからこそ日々の教えを欠かしませんし……旅立たせる時を見誤る」
「それは……」
「ああ、勘違いしないでください。反省をすべきは私なのですよ。今のあなたを見れば分かります。危険な目に遭った。大きな失敗をした。けれども成長した。そう思います」
そうして、ファン師はその成長を阻害していた……と、そんな風に目の前の人は考えているのである。
(けど、過保護だって、保護は保護だ。それをしてくれなきゃ、僕はここにはいない)
塔にだって昇れず、魔法使いとしても歩めず、そもそもどこかで野垂れ死んでいたかもしれないのだ。
だからファン師に対しては、変わらない感謝の念を抱いていた。きっとこれからも。
「出来れば、先生の期待にも答えたいって思います。そのために塔に昇ってるって思う部分も……勿論あるんですよ?」
「で、あれば、期待して置こうと思いますよ。それと、これは過保護ついでに一つ」
そろそろ、喋りながらの食事も終わると言ったところで、ファン師が人差し指を一本立てる。
表情は笑みを消した真剣なものだからして、冗談を言うというわけでも無いらしい。
「なんでしょうか?」
「今回の一度だけでも、あなたは目立つ事になります。いえ、あなた方は。と言うべきですかね。分かっていると思いますが、気を付けて」
確かに、成果としては上々に過ぎたと思う。
冒険者二人と魔法使い一人。そんな結成したばかりの集団で、それなりの経験を得た者が昇り始める様な階層までやって来られたのだ。
そこからはどうなる? さらに上を目指す事になるのか。それとも……。
(気を付けなきゃならない。けど……何時かはやってくる問題ってのもあるよね)
師の忠告通り、今の内から準備をして置こうとレイトは考えた。今日も塔で、準備不足が祟った失態をしてしまったばかりなのだから。
気を付けたものの、想像よりも悪い事件というのは少なかった。
ファン師の忠告からさらに日数を重ね、その度に塔への挑戦回数も増えて行く。そんな日々の中において、それでも順調に探索は続いていたのだ。
問題がまったく無かったわけではない。時として、レイトの知識がアテにならない時もあったし、同行者のメイリーが、罠に度々引っ掛かる事(実は頭が固い)もあった。
他にも、マナリーが塔内部に現れる妙な動物に突っかかったり、マナリーが塔内部にある妙な障害物に突っかかったり、マナリーが塔内部にある妙……でもないただの壁に突っかかったりもあったが、そちらは想定通りの良い思い出であったと言う事にしておく。
深く考えてはならない事もきっとあるはずだ。
「今回は塔の25階を目指す事になりますから、余計な負担は抱えずに、前向きに挑む事が大切って事ですね」
もう何度も確認した言葉を、再び発する。相手は勿論ポートリー姉妹であるし、場所は塔内部。
その20階部分での事だ。既に塔で一泊した上で、さらに上を目指している段階。今の目的は、言葉にした通りの25階到着。
「安心して。いっつも私ったら前向きよ」
「その事は十分に分かってますよ、マナリーさん。ほんっと分かってますから、考え無しに、何かにつけて突っ込むという癖を直す事にそのやる気を使ってみましょうか」
「レイトさんもそろそろ、この姉を矯正する事は不可能なのだと、諦めた方が良いと思いますよ」
メイリーの言葉に頷きかけるも、なんとか留める。まだ、微かとは言え、可能性はあると思うのだ。
きっと、そういう希望を持っても良いと思う。
「私が成長しない女みたいに言うのはやめなさいよ! ほら、さすがに私も、塔のこういう不思議な光景に慣れて来てるし? 学んだりもしてるってわけ」
そりゃあ、塔の内部だと言うのに、緑の木々が生い茂る空間を歩いたりしているのだから、こういうものにも慣れて貰わなければ困る。
「この木……まさか本当に植物だったりするのでしょうか」
メイリーが一旦足を止め、小さめの木の枝に触れている。触感も、匂いも、動く音にしたって、本物としか思えないはずのそれ。
しかし、レイトが知識としてあるのは、塔内部の植物らしき存在は、折れようが曲がろうが、それどころか燃やしてみたところで、すぐに元通りに再生する特性を持つというもの。
「塔の中にある、超常的な作り物……と言う他ありませんね。傷つけたって元通りになるだけなら兎も角、成長しない生き物なんてのも居ないでしょうし」
この空間にある木々は、元通りになるだけなのだ。何かが変わる事は無く、だからこそ、注意深く進めば迷う事は無いのであるが、それにしたところで、不気味な場所だと言えた。
「やはり思うのですが、どうにもこの塔は、その中に入る者を試している様な……そんな事を考えてしまいますね」
「実際、そうなんだと思います」
鬱蒼とした森……にしか見えない塔の、空を見つめた。
やはり空にしか見えない天井が映るものの、塔はひたすらに、その上を目指す様に促している。レイトもそう思うのだ。
「やはりですか。塔内部の物品が、相応の価値があるのも、適度に難易度があるのも、塔の中に人を呼び込む意図があるのでしょう」
メイリーで無くとも、その事には気が付く。街で塔を研究する者、何かしら塔に関わる者。その誰しもが、既に気が付いている事なのだろうと思う。
「試されて、その後には塔の天辺がある。そういうものだと思うんですよ、この塔は」
レイトもまた、塔の頂点を目指している。少なくとも、そこにレイトが求めるものがあると信じていた。
だからこうして、塔へ挑戦し続けている。
「誘われてるって感想はないのかしらん?」
「え?」
「だから、こう、適度にやりがいがあるって事でしょう? なら、人参を前にぶら下げられた馬みたいに、人間を誘ってる……みたいな事だってあるじゃないの。そういう考えはないわけ?」
普段から直感だけで生きている様なマナリーだからこそ、どこか芯を揺さぶる様な感想を口にする。
なるほど、そういう考えもあるのかと、少しばかりゾクリと肩を震わせる。
「誘っているとなると、その奥には何があるんでしょうね?」
「そんなの、口を大きく開いた化け物か何かじゃない? 私なんて、美味しそうだし」
「別に、姉さんはそこまで良い味しないでしょう」
「なんでよー!」
胃もたれはしそうだなとレイトも思うが、待ち受けているのは化け物という言葉に対しては、安易に笑えない気分になってしまった。
(化け物……現れても仕方ない場所なんだよ。ここはさ)
天井を見つめる目線を下げる。憧憬の念が、どこか畏れに変わった様な、そんな気分になったからだ。
「25階です。とりあえず、25階を目指しましょう。今回はそれに集中して、余計な事は考えない様に」
「何度も言われてるけど、25階に何かあるの? 丁度良い数字だからとか?」
「丁度良くはありますが、数字の上では無く、ちょっとした休憩場所というか……兎に角そういうものがあります。と言っても、実際に見たわけじゃあありませんから……」
レイトとて、既に何もかもが初体験な場所にいる。知識はまだまだ豊富で、活かせる場所もあるのであるが、それにしたって不安もあった。
「ふうん。ご丁寧に、休む場所まで用意してくれちゃって。なんか本当にこう……変な人が作ったんでしょうね、ここ」
人かどうかは怪しいものの、良い性格をしているに違いない。
(25階を越えれば、本格的に難易度が上がってくるらしいし……曲がった性根してる証かもね)
一度身体を休め、そうしてさらなる上を目指せ。などと言った意思表示なのかもしれない。25階にあると聞く、とある物に関しても、そういう意図を感じさせるもののはずだ。
なるほど、この塔の性格の悪さとやらは確かにある。
「塔を昇り続けた先にあるもの……それについては、まだ誰も知らないのですよね?」
「ええ、これまで、街の人間は誰一人として、この塔の到達点に辿り着いてはいない」
「けど、存外、その先はすぐそこな気もします。少なくとも、この塔で前人未到の領域は、それほど高く無い印象が、私にはあります」
メイリーは、順調すぎるこの状況に、そんな大言まで口にしてきた。
そんな彼女に対して、まだまだこの塔について知らないのだから、そんな言葉を吐かない方が良いと忠告は出来るものの、実感と言うのならレイトだって薄いから、黙る他無い。
(順調だね。本当に、今に至ってもまだまだ順調だ。このまま、僕らは塔の先へ行き着いてしまうかもしれない)
そんな甘い話は無い。自分で言い聞かせてみても、その実感がレイトには無かった。
このまま何もかもが順調で、何ら問題も無く、レイトは自身の目的を果たせる。
そんな事すら思い始めたのであるが、やはり落とし穴があるタイミングは、そういう時であるらしい。
塔の25階。その空間はひたすらに開けた場所である。というよりも、障害物になるものが無いと言うべきか。
25階へと辿り着き、次に階層を目指すとなった場合、そのための場所は、すぐ傍にあるのだ。
辿り着いた場所から数歩歩けば、次の階層に行ける。そんな空間だからこそ、むしろ人は立ち止まり、この階層を見ようとする。
塔へ挑む者は、ほぼそのすべてが、塔を探索するためにやってきた人種なのだから。
「何が待ち受けてるのかと思いきや! じゃじゃーん。美術館でしたー! って、私、あんまり芸術とか分かんないんだけど?」
マナリーが叫ぶ通りに、この場所は美術を取り扱う空間だ。もっと具体的には、絵画が置かれていた。
階層の外周部。その壁に、遠くからでも分かるくらいに大きな、そうして自ら光を放つ、不思議な色彩をした絵画が並んでいるのだ。
「……ここ、姉の言う様な、美術館というわけでは、ありませんね?」
「さすがメイリーさん。マナリーさんと違って鋭い」
「ちょっと。なんでわざわざ私と違うなんて言葉入れたわけ?」
マナリーについては放っておいて、レイトもこの階に飾られた絵画を観察する。
この階層は、そういう場所なのだ。邪魔する何かも現れず、ただひたすらに絵を見て回り、飽きれば次の階へ進むか、塔を降りるかする、そんな場所。
ただし、メイリーの言う通り、ただ美術品が飾られていると言うわけでは無かった。
「ここはですね。恐らく……この塔の来歴が知れる場所なんですよ」
レイトが指差すのは、現階層に至ってすぐの正面である。その方向にある壁にも、勿論、絵が飾られていた。
クジラが描かれた絵だ。
「あのクジラ……って、空に浮かぶクジラよね?」
「ええ、そうです。空飛ぶクジラ」
この世界に生まれたのなら、見た事の無い人間の方が珍しいだろう。二週間に一回くらいの頻度で、空を飛んでいる姿を見るはずだ。
空を飛ぶクジラ。それがこの世界の一風景であり、そのクジラをまず、塔は絵画として飾っているのだ。
「あの空飛ぶクジラの絵から、丁度時計回りに見て行ってください。それが順番です」
文字が書かれていない絵本の様なものだ。絵だけを見てストーリーを追う。そうして、それだけで分かる単純な物語がそこにある。
「空飛ぶクジラが……何かを産んで……?」
メイリーが思考モードに入ったらしく、ぶつぶつと呟き始める。彼女の事も良く良く知る様になり、彼女にこういう癖がある事をレイトは理解していた。
興味のある事への集中力が高いのだ。そういう部分は、レイトもあるので共感できる。
出来ないのはマナリーの方だろう。
「駄目、頭が痛くなってきたわ」
「絵を見ただけでそうなるのは、もう一種の才能でしょう」
本気で頭を悩ませている風のマナリーに対して、レイトは溜め息を吐きながら、とりあえずの解説を入れる事にした。
「空飛ぶクジラは分かりますよね? まず、二枚目の絵は、そのクジラが何かを産みます。その何かは、次の絵を見れば分かる」
空飛ぶクジラから産み落とされたそれ。それは針の様に細長いもの。それは地面に突き刺さり、天高くそびえる塔として描かれる。
「塔は……クジラが作ったもの……?」
メイリーもレイトの解説に平行して、理解を進めて行く事にしたらしい。これではレイトの解説役としての仕事が、重要度を増してしまうではないか。
「ここではそう描かれていますね。ちなみに進んで行くと、もっと驚くべき事が描かれていますよ」
塔が突き刺さった大地は、どこまでも続く草一本すら生えない荒野だ。その荒野に、塔を中心として草木や花が生い茂って行く。
「塔が、植物を生やしたという事でしょうか?」
「植物だけじゃありませんよ。ほら、次の絵は」
塔から、四足の獣、魚、鳥と言ったものが出て来る象徴的な絵。塔は命を産むと表現した方が良いかもしれない。
そうして、驚きではあるが、当然の帰結と言えもする絵が次に続いた。
塔から、人間らしきものが出て来ている絵がそこにはあるのだ。
「……神話?」
「さすがに事実では無いでしょうが、そういう事ですね。塔は何て言うか……神様みたいな存在として、ここでは描かれている。塔を産んでるのはクジラなんだから、クジラが神様かな?」
この階層に飾られた絵は、この塔を中心とした創世神話を語っているのだ。
仰々しく飾るだけの物ではあると思うが、傍から見る者にとっては、だからどうしたと言う内容のものでもある。
「んー……つまり、自己主張の多い部屋って事ね、この階!」
「作った当人が聞けば怒りそうな言葉ですが、大凡、マナリーさんの言う通りですよ。確かに塔は凄い技術や資源、資材の宝庫ですが、神様として崇めろったって、それは難しい」
ここは何かを崇める場所。レイトはそう思うのであるが、初めて来たところで、荘厳な気分になる事は無かった。
既に師から与えられた資料で、ここにある物を知っていたと言うのもあるが。
「けれどレイトさん。初めてここで訪れた冒険者は……それでも、途轍もないものを見つけたと思ったのかもしれません」
「なるほど。メイリーさんはそう思うわけですね。確かに、それはそうかも」
未知へと挑んだ先にあるこの部屋となれば、相応に考える物もあっただろう。そんな冒険者は、最終的に、どの様な結論を出したのか。レイトは少しばかり気になった。
「お二人には、ここにこんなのがある事を教えていませんでしたが、最終的にはどんな評価を下すんでしょうね?」
初見の反応は、何とも無いものであろうが、暫く経てば、また意見も変わってくるであろう。
その時には、何か面白い考えが聞けるかもしれない。レイトはそう思った。
「んー……そうねぇ。私はねぇ」
「いや、マナリーさん。別に、今聞きたいってわけじゃあ―――
「この部屋って、開けてるけど、人間が隠れる場所ってわるわけ?」
「え?」
マナリーの言葉で空気が変わる。レイトは戸惑っているが、メイリーなどは既に目線を鋭く、周囲を警戒する姿勢を取っていた。
もっと明確に表現するならば、ポートリー姉妹は戦闘態勢に入っていたのだ。
「もう一度聞くわね。開けてるけど、隠れる場所はあるの?」
「あ、あります……。周囲に何も無く見えますが、こう、壁や床の一部分をせり出たせたり、収納したりする技術みたいなのも……魔法使いなら……」
「なら、相手に魔法使いがいるってわけね。当たり前か。塔には魔法使いが同行しなきゃ入れないんだもの」
レイトは漸く、自らも周囲を警戒し始める。
マナリーはこう言っているのだ。わざわざ、こんな場所で、何かを待ち構える様に隠れている人間がいると。
「さっさと出て来なさい! バレてんのにみっともなく隠れてるなんて、相当間抜けよ! あんた達!」
マナリーは叫ぶ。恐らく、彼女が言う隠れている連中に対しての事なのだろうが、それがどこにいるのかが分からず、レイトは周囲をひたすらに見渡していた。
だが、そんな必要は無かったかもしれない。本当に隠れていた人間が現れたのは、レイト達が立つ、すぐ傍だったのだから。
「何故……分かった?」
男が二人に女が一人。丁度、レイト達が立つ場所から、次の階層へと進むための位置の間。
(待ち構えてたとしたら、気付かなきゃまんまと貶められる場所だろうけど……!)
それでも、実際にこの目で見なければ、そんな事態になっているとは信じられなかった。もっとも、相手側の敵意が含まれる目を見れば、信じる他無くなる。
「勘よ」
「馬鹿な事を言うな」
三人の内の一人。初老の男が言葉を返してくる。男の手は本人の腰部分。鞘に入った剣の柄に掛かっていた。
「本当ですよ。姉はそういう獣染みた部分がありますので」
その部分はレイトとて分かるが、相手に伝わるかどうかは別だ。
世の中にそんな超能力があると信じられる人間は少ない。そう言えば、マナリーは超能力者なのかもしれない。そうとしか思えない馬鹿さ加減がある。今度からは超能力者さんと呼ぶべきか。
(って、僕の方こそ馬鹿か!? 頭を働かせる場面だろ、今は!)
事態を整理しなければならない。状況を的確に判断しなければならない。魔法使いとしてのレイトは、そうするべき側の人間だ。
「……あんたの事は知ってる。そこのあんただ。同業者のアルビナ・ミーサだな?」
思考を落ち着けるため、手始めに現れた人間達へ話しかける事にした。自分で言う通り、知っている顔が居た事は好都合だ。
三人の内、一人だけ居る女は魔法使いである。同業者で、尚且つそれほど人数がいないため、顔も名前も知っていたのだ。
「レイト・ヒース。こちらも良く知っている。かのファン・ヒースが送り出して来た後継者だ」
警戒と来たものだ。やはり、マイリーの直感は当たったのだ。こいつらは、レイト達を待ち受けていた。
待ち受けて、何をするつもりか。そこまでもレイトは頭を働かせる事が出来た。
「二人とも気を付けてください。こいつらは……出る杭を打ちに来たみたいだ」
「ちょーっと早すぎる展開じゃない?」
マナリーの言う通りであり、レイトもファン師から忠告を受けなければ察する事は出来なかったろう。
しかし、相手側はそれを証明してくる。男の一人が、躊躇なく、こちらへクロスボウを向けて来たのだ。
三発程装填できそうな機構があるそれは、一発目がすぐさまに放たれる。狙いはレイト。塔の中に居る冒険者を狙うというのなら、魔法使いを狙うが的確だ。
それは知っているが、反応する事がレイトには出来なかった。
「ぐっ……!」
身体の痛みに呻き声が漏れる。ただ、矢が刺さった痛みでは無い。横っ腹を蹴られて吹き飛ばされた痛みであった。
蹴ったのは隣に立っていたマナリーであり、おかげでレイトは矢にぶつからずに済む。その間、メイリーが三人の冒険者達に向かって走り寄っていた。
(咄嗟の動きが出来過ぎなんだよな、この二人!)
無様に床を転がりながら、同行者の心強さに安堵する。この二人ならば、この状況においても、的確に行動できるだろう。
「なら、僕だって足を引っ張るものか!」
レイトは転がりながらも、床の一部を手で探る。
(確か……この辺り!)
レイトの手の動きに合わせて、床が光り始めた。塔内部の仕組みを利用できるのは、何も相手ばかりではない。
「貴様っ!?」
相手の魔法使いであるアルビナの罵声が聞こえる。それの声を向けたのは、走り寄ったメイリーが、まず男の一人を地面に叩き付けた事に対してか、それとも、もう一人の男がメイリーを狙うより前に、二人の間に床がせり出して来たからか。
「この部屋のどこに、どういう仕掛けがあるかなんて、こっちも承知してるんでね」
「やるじゃない。次は私の援護を頼むわよっ」
援護を頼むと言うマナリーもまた、前へと進んでいた。示し合わせてはいない以上、レイトはそんな彼女の動きに、アドリブで対応しなければならない。
彼女が馬鹿正直にまっすぐ進むのは、正真に馬鹿なのか、それともレイトを信頼しての事か。
(後者であって欲しいね!)
メイリーを狙えずに、標的をマナリーに移した相手側の男。レイトを狙ったクロスボウでマナリーをも狙った様だが、やはり二人の間に床が飛び出す。勿論、レイトがさせて貰った。
「どう見ても、初めてここに来たとは思えんな!」
アビルナの声が聞こえて来るが、こちらで障害物を作った以上、向こうの様子は伺い知れない。
レイトが見たのは、そんなレイトが作った障害物さえ足場にして、向こう側へと飛び降りたマナリーの姿。
その後の事なんて見なくても分かる。接近したマナリーを撃退する事なんて、他人の足を引っ張ろうとする様な、生半可な連中が出来るはずが無い。
「げぇっ!?」
さっそく、男の悲鳴が聞こえて来たので、レイトもまた相手へと近寄る事にした。もう安全と判断しての事だ。
「おっと、おあつらえ向きの状況にはなってましたね」
男二人が床に倒れている光景と、メイリーが持つ短剣の腹を首筋に当てられているアルビナの姿。
訪れた危機に対して、その結果は上々と言えるものだろう。
「やはり……魔法使いとして相応に才があるらしいな」
「追い詰められてまだそういう事を言えるのは、むしろそっちの胆力に驚きますね。もっとも、こんなのは魔法使いとしての才能なんかじゃないって僕は思います」
塔を知り、塔内部にある仕掛けを上手く使うのが魔法使いという事なのだろうが、同じ冒険者同士で戦う才能なんて必要だとは思いたくない。
冒険者は冒険者であり、塔は冒険をする場所のはずだ。殺し合いをする場所ではない。そう信じたかった。
「ふんっ。この階まで来て、まだ綺麗事を言えるお前達だからこそ、私達は警戒したのだ。お前達なら……この塔を探索し尽くしてしまうのではないかと恐れた」
「ん? つまりこの人たち、自分達の分け前が奪われるってんで襲って来たわけ?」
「そうです。だっさいですよね」
こちらが先に命を狙われたのだ。これくらいの事は言わせて貰う。
同業者に先んじられる焦りは分からなくは無いが、こちらにとっても事情があるのだからお互い様だろうに。
暴力的行為に出る側の理屈なんて聞くに及ばない。
「一冒険者として言わせていただけるのでしたら、どこにでもある話です。だから対処もできます。さて、この方はどうしましょうか?」
この場で一番怖い人間と言えばメイリーだ。彼女は刃物を持ち続け、アルビナを値踏みし続けても居る。
「どうするだと? まさか、私を殺すつもりか?」
「そういう選択肢は、あんまり思い浮かべたくはなかったかな」
内心では、真っ先に排除している選択であるが、相手にそれを知られて舐められるのも癪だ。色々と情報を聞き出してから解放しようかと考えたその時である。
「っ!?」
再び床がせり出して来る。しかしそれはレイトがやった事では無い。すぐ近くで刃物を突き付けられたアルビナでも無い。
「思い浮かべるも何も、不可能だったな」
アルビナはメイリーに短剣を向けられたままではあるが、二人してせり出した床に囲まれている。
そんな状況は、レイトとマナリーも同様だ。
(捕らえられた!?)
レイトはまた周囲を見渡す。この様な状況になった以上、必ずどこかに居るはずだからだ。もう一人の魔法使いが。
「なぁっ!?」
レイトの予想は外れた。他に魔法使いが居ない……わけでは無い。
もう一人の魔法使いが居るどころでは無い。知った魔法使いの顔がアルビナの他に三人程いたのである。
「ふんっ。出た杭を打つか。そう考えている側は普通、万全の戦力を整えている物とは思わなかったのか?」
「悪かったわね! そういう性根の曲がった発想、生きて来て一度も考えた事無いのよ!」
せり出した床の檻に噛みつかんばかりのマナリーであるが、さすがに彼女であろうとも、檻を破る事が出来ないらしい。
(考えろ……これは窮地だ!)
新たに現れたのは魔法使いだけでは無い。その魔法使いに同行する冒険者もそこにいた。こちらは魔法使い一人を人質に取っている状況と言えるが、そんなレイト達を囲む勢力が、この階層に現れている。
どちらが有利かなどと考えるまでも無い。
「お仲間一人と僕らの命。交換するつもりってありませんかね?」
「私を殺してみろ。今、現れた連中が手を出せない理由が一つ……無くなるぞ?」
強がりかどうかは知らないが、アルビナは酷な事を告げて来る。
(分かってるんだよ、そんな事は!)
とりあえずの時間を稼ぐ事だって、あまり長くは出来ないと感じる。考える暇さえ無いだろう。
余裕かましたアルビナとて、焦っているはずなのだ。彼女の命が失われた場合、得をするのが別の魔法使いだと思えば、彼女の命の価値だってたかが知れている。
「この檻、盾代わりに使えないかしら」
「そう言って本気で実行できるのは姉さんくらいでしょうね」
軽口を叩いているらしきポートリー姉妹。何かしら、策や奥の手でもあるのかと期待してみるも、彼女らの表情を見れば、そうも考えていられなくなった。
(二人の方も、焦ってるか)
相応に付き合いがあるからこそ分かる表情。それを判断できた事は嬉しい限りだが、今はその嬉しさを噛みしめてはいられない。
「……マナリーさん。メイリーさん」
「何かしら。こう……嬉しい話だと、私、とっても嬉しいわよ」
そうであるかは怪しいものの、事態打開のために話し掛けたのは事実だ。考える時間も無いため、端的に伝えさせて貰う。
「この塔における魔法使いって言うのは、要するに塔の仕組みについて多少は知っている、言わばペテン師に近いって事は……そろそろ気が付いていると思いますけど」
「専門家ではありますが、魔法使いと表現するのは、過大だとは思っていました」
メイリーの反応を伺うに、だからどうしたのかと言ったものだ。マナリーの方は、ええ!? そうだったの!? みたいな事を考えて居そうだが、やはり捨て置く。時間が無い。本当に時間が無い。
だってこれから、レイトはある決意をしなければならないのだ。
「それはとは別に、本物がいる」
レイトは手の平を、自分達を囲む人間達へと向けた。
彼らが立つその周囲に、炎の柱が立ったのはそのすぐ後の事であった。
マナリー・ポートリーは冒険者だ。自負しているし、周囲からだってそう見られているはずだ。
そんなマナリーであるから、色んな場所、色んな光景、そして色んな人間と出会い続けている。
特に人間というのは多様なもので、変わった性格をしていたり、独特な格好をしていたり、そうして神業的な技能を持つ者だって居た。
(けど、考えてみれば初めてかもしれないわね。本物の魔法使いに出会っちゃうのって)
空を見上げながら考える。塔の天井ではない、本物の夜空。
他の魔法使いや冒険者に襲われてから、運良く逃れる事が出来て、すぐに塔を下りてから暫く。
漸く、こんな風に夜空を見上げる余裕とも出会えた。
(そうね。ほんと、運が良いわね。仕事で組んだ相手が、本物の魔法使いだったなんて)
塔での光景を思い出す。魔法使いであるレイト・ヒースの、本物の魔法をだ。
塔の中にある仕掛けを動かすのとはまったく違った、種も仕掛けも無いその魔法。何も無い場所に炎を発生させ、時には雷を落とし、風を吹かせ、自分達より多い敵を、事も無げに追い払ってしまった。
死人は出ていなかったと思うのであるが、怪我くらいはさせていた。いや、手加減をして、漸くそんな結果だと言うだけ。
本気を出していれば……文字通り全滅させる事だって出来たかもしれない。
「けど、だから怖いって思ってるわけじゃあない。妹のメイリーは知らないけど、私はこれからも付き合って行きたいかなって思うの……いえ、思うわけですの」
「無理しなくても構いませんよ。ざっくばらんな話し方の方が、らしい人だと教え子から聞いていますから」
マナリーの横には、レイトの師であるファン・ヒースが立っていた。
当たり前だ。マナリーが居るのはこのファン師の自宅であり、今はその家のベランダに立っているのだから。
「んー……じゃあ遠慮無く質問なんだけど、レイトの方は、気にしちゃってたりする?」
レイトが真の魔法をマナリー達に見せつけてから、塔を下りて暫く。彼は急に、部屋へと籠り始めたのだ。
おかげで、こっちはゆっくり話をする事が出来ていない。だからこそ、彼の師であるファン師に、こうやってわざわざ話を聞きに来たわけである。
ちなみに妹については、時間を置いてから整理したいとの事らしいので、宿で休んでいる。
「ああ、部屋から出てこない事についてはご心配なく。明日はクジラが空に見える日なので」
「クジラ……そろそろそういう時期なのかしら。けど、なんで?」
空にクジラが見える日。そういう日はどこであってもあるはずだ。クジラは空を移動し続けて、定期的に、どこかの土地の空で見られる様になっている。
この街に関しては、明日がそうらしい。ただ、それとレイトが引きこもり始める理由が繋がらなかった。
「あの子が……クジラが見える日は、家の中で祈りを捧げなければならないと言うのです。実際、私の家に来てからは、ずっとその決まりを守っている。外には絶対に出ません」
「ふぅん。不思議な事をする子なのね。そう言えば、最近になって、それが良く分かったけど」
「聞いていますよ。レイトは……あなた達の前で魔法を使ったそうですね」
深い溜め息を一つ、ファン師は吐いた。何か話し辛い事を話す様な、それで居て、話さなければならない様な、そんな溜め息。
「ちょっとわたしびっくりしちゃったんだけど、この街の魔法使いさんが、本当は魔法を使えないって本当?」
「ペテン師である自覚はありますよ。塔へのナビゲーターを、わざわざそんな大層な名前で呼んでいる。そういうだけの話なのですが……」
「レイトだけは本物だと。あなたは違うの? あなたの弟子なんでしょう? レイトは」
「この街の魔法使いとしての弟子であって、本物の魔法を教えているわけではありません。そもそも、私が教えられるはずもない」
本当は魔法使いでは無いのだから。そうだとしたら、より一層、レイトに関する不思議は増える。
彼はいったい何者なのか?
「私、結構な期間を旅で費やしてるけど、ああいう……魔法らしい魔法って初めてみた。こう、魔法使いだって言う人は、他の街で出会った事はあるけど、だいたいは……」
「我々と同じペテン。我々の方が、まだ実利的な分、マシかもしれませんが……五十歩百歩でしょうか。私とて、本物の魔法使いと呼べる人間を見たのは、あの子が初めてだ」
ひたすらに稀有な存在。それがレイト・ヒースという人間らしい。そこまで聞いてかれ、マナリーはふと考え始める。
「そもそもあの子、街の出身者なの? あなたが引き取って今があるのは分かるんだけど……それより前……元々、どこから来たのかについては、そういえば聞いた事無かった」
「彼は塔から来ました」
「ふぅん……え? 何?」
あまりにも簡単に答えが返って来たので、聞き流しそうになったが、聞き捨てならない内容であったはずだ。
「彼はね、塔から落ちて来たんですよ。本人曰く、家の窓から足を滑らせたと言っていましたか」
「その……失礼かもしんないけど、本気で言ってる?」
「信じるか信じないかはあなた次第……けれど、語りについては本気ですよ。私自身、見てしまいましたから。彼が塔から……まるで風に支えられているかの様に、ゆっくりと落ちて来る姿を」
こういう話をするとなれば、確かに深い溜め息の一つを吐きたくなるだろう。マナリーとて、まだ信じられずに居るのだから。
「その……塔の上に住んでたって事? あの子が? 塔の上層って、そういう場所があったりとか」
「分かりません。あの塔の最上階には、今に至るまで、誰も足を踏み入れてはいないのですから。けど、あの子曰く、多くの人が住んでいたそうですよ」
そういう事もありそうだと、思わせる不可思議が塔にはある。ただ、誰もその光景を見ていないとなれば、眉唾な話だとも思ってしまう。
「魔法……あの子の魔法については……」
「塔の上で習ったそうです。あちらでは、子ども達が集まる学び舎で、そういうものを教わるのだそうで」
「魔法使いを育てる街ってところかしらね、その……塔の上にあるものは」
もしかしたら、そこに住む人間こそが、この街の塔を作ったのかもしれない。そういう事だって考えられる。
単なる想像だし、夢を見ている様な考えでしかないが。
「夢か……あなたはそんなレイトに、それを託したのかしら?」
「勘の鋭い人間だと聞いていましたが、想像以上ですね。ええそうです。私が塔より落ちて来た彼を引き取ったのは、何も親切心だけの事では無い」
少し、深く踏み込み過ぎてしまったか。そういう風に心配する感情が、マナリーとてある。もっとも、ファン師はそれを含めて、既に話をする気で居たらしい。
「現在、冒険者達が知っている塔の最上層部は49階。それは知っていますね?」
知ってはいるはずだ。確かレイトに聞いた事がある。もっとも、言われなければ思い出せなかった事は秘密にしておく。
「あ、なんか聞いた時、中途半端な階だなって思った……はず」
「記憶が曖昧だというのは分かりました。なら最初から話すのですが、49階が探索できるもっとも上の階層というのは、理由があるのですよ」
「そこまで昇るのがしんどかったとか?」
どうにも外れた事を言ったらしく、苦笑で返される。マナリーは良く良く、相手にこの様な表情をされる事があるのだ。
「確かに……大変ではありましたが、それとは別に、49階には扉があった。大きな扉です。しかし開かない。こちらは鍵を持たないし、そもそも鍵穴すら無いので、どうしようも無い」
「まるで見て来た様に話してる?」
「見て来ましたから。あの塔の49階。そこに初めて辿り着いた魔法使いは私なのです。既に引退した身ですが……」
「へえ……ああ、じゃあ街に来た時に、あなたを紹介してくれたチンピラ。街一番の魔法使いを紹介してくれたのね」
別に大それた話でもあるまい。街で魔法使い達が競う様に、時には出た杭を叩くために襲い掛かって来たりしている様に、魔法使い達には序列があって、そこで一番の者が必ず居るはずだ。
「街一番……確かに、塔のもっとも深いところまで行けた魔法使いと言えるのでしょう。ですが、やはりゴールに辿り着いたわけでも無く、それ以上先へと進めなかった」
「だから、そのゴールはレイトに託したってわけか」
扉があったと彼は言った。彼では開けない扉が塔にはあると。なら、彼がその次にする事は決まっている。鍵を探して、開こうとするのだ。
「あの子が塔の上。我々がまだ辿り着いた事の無い場所から来たのだとしたら、あの開かなかった扉を開く事が出来るのでは無いか。そう思うのですよ」
それが、このファン師がレイトに託した夢なのだろう。それを不純とは言えない。レイトの方もまた、塔を昇る事を望んでいるのだから。
「レイトは、塔の上へ戻りたいのかしら」
「それは……そうなのでしょう。あの子とはもう長い付き合いになりますが、彼からは故郷に対する思いが一切に消えていない。執念どころか、妄念に近いほどのそれだ。命すら削って、塔に関する知識を溜め込んでいる」
だからこその、あの知識量なのだろう。故郷を追われた少年。それが何を思うのかをマナリーは知る事が出来ないが、分かり易い結論には辿り着ける。
「なら、私が何か言える事は無さそう。私もまた、冒険者だから。塔の上に昇りたいと考えるレイトの案には賛成。最上階に何があるのかについても、ちょっと面白そうじゃない?」
大いなる、何かとんでも無いものが待っている。そうであれば、挑んでみたくなるではないか。
塔の内部を長く探索し、溜まった金銭を安定的に得る。そういう望みは絶たれるかもしれないが、それはそれだ。
安定より好奇心を選ぶ性質だから、この年齢で未だに冒険者なんてしている。やはりメイリーがどう思うか分からないものの……。
(多分、怒られるでしょうけど、それはそれよ。姉妹なんだから付き合って貰いましょう)
苦労ばかり掛けているが、付き合って旅をしているのだから、苦労くらいは背負って貰いたいところだ。
こちらだって、あちらの苦労を……背負った思い出とか中々思い出せないのであるが、きっと背負っている……はずだ。
「そう言っていただければ幸いです。これはもう、本当に個人的な思いなのですが、あの子自身の願いも、叶って欲しいと切に願っているのですよ」
それは師としての思いか、それとも子どもを引き取った一人の大人としての思いなのか。マナリーは難しい事が分からないので、深くは考えない事にした。
深い思いは、きっと当人だけの大切な物でもあるのだから。
「明日は多分、レイトは部屋から出てこないのよね? なら、明後日からは頑張らないと」
「それに関しては、確かに頑張った方が良いかもしれません。他の魔法使いや冒険者からの妨害があったと言う事は、これから足の引っ張り合いが本格的に始まるでしょうから」
塔そのものより、そちらの方が厄介かもしれない。最後にマナリーはそう忠告された。
祈りを捧げるのはクジラに対してか。それとも、失った故郷に対してか。
レイト自身、本当は良く分かっていない。故郷に居た頃からしてそうだった。
両親にクジラに祈る様に言われたけれど、それがどういう意味を持つのか。実を言えば良く知らない。
何時か、両親がそういう話をしていたと思うのだが、しっかりと聞いていなかったのだ。
(だから罰が当たったのかな)
窓から見える空のクジラ。それはこのアンテライトの街でも変わらない光景だ。街の住民は、そのクジラを一風景として見る。クジラが見える日は家に籠って祈りを捧げたりなんてしない。
ただ、レイトだけは祈りを捧げている。あの日。自宅の窓から足を滑らせた日。レイトはこの街へと落ちた。
再び昇る事の出来ない深い場所だ。最初は混乱し、泣き出し、そうしてファン師に拾われる事になった。
ファン師はレイトが塔から落ちて来る光景を見たのだと言う。だから、レイトもまた、自分は塔の上に住んでいたのだと理解し、そうして戻る事を願う様になった。
(当たり前だろう? ずっと、ずっとあそこで暮らしていたんだ。何時かは街を出る……そんな事を考えた事すら無かった。だって、それくらいの子どもだったから)
だたずっと、同じような日々が続くのだと無邪気に信じる子ども。それが当時のレイトだった。
今は違う。世界は容易くその姿を変えてしまうと、実感してしまった人間だ。あの頃から時間だって随分経った。
故郷にもう一度戻ったところで、それはレイトが生きていた頃とは違っているかもしれない。レイト自身が変わってしまっているのだから。
(けど……いや、だからこそ、帰りたいと思う。お願いだクジラ。祈る意味があるんだとしたら、どうか……僕をもう一度、故郷へ帰して欲しい)
クジラに祈る本当の意味は分からない。けれど、願う事はずっと同じだ。帰りたい。かつてあった故郷に、もう一度足を踏み入れたい。レイトはそう信じ続けている。
(明日……また明日から、塔に昇ります。だからその時は……)
レイトは深く願う。大切な。とても大切な事を。
「足の引っ張り合いなんて巻き込まれていられない。いっそ、一気に昇れるところまで昇る事を提案します」
翌朝。再び塔へと昇るとなった段階で、レイトはマナリーとメイリーへ宣言した。
場所は塔の出入口付近。既に昇る事は確定している段階で話すのが狙い目だ。提案を否定し辛くなる。
「ええっと……先日、ちょっと問題が多い事件が起こったばかりだと思うのですが……それを受けて、どうして無茶をするという結論に?」
メイリーは案の定、否定的な姿勢を取ってくる。もっとも、予想していた以上は何とでも言える。
「一度妨害があった以上、今後もその危険性は十分にある。しかも、物理的な妨害をこちらが防いだんですから、次はもっと別の手を打って来る可能性があります」
「……出入口に紐を引っ張って、転ばして来るとかかしら」
「よーし。考えても碌な事を思いつかないんですから、マナリーさんはあんまり考えない様に努めましょう」
「考えない事は得意よ!」
元気があるのは良い事だ。そう思うべきだろう。こっちだって、マナリーに関しては深く考えるべきではない。
「物理的で無ければ、もっと間接的で、回りくどい妨害があると?」
「その通り。意見的には姉妹で良いバランスですよね。例えば塔に昇って手に入れる収集物を売る際、値段を下げてくるとかは想像できる」
「そういう事が出来るのですか?」
レイトは頷く。他の経験ある冒険者や魔法使いには、塔における収集物をすぐに売り捌かず置いておく者もいる。
本来は需要が増えた時に高値で売る事を考えてなのだろうが、レイト達と同タイミングで同種の収集物を売れば、その価値を下げ、レイト達が塔の冒険で得る利益を奪える事になる。
「他にも、あなた方が泊まる宿に営業妨害を仕掛けたり、ああ、僕にいちいち絡んで来る可能性もありますね。暴力は抜きにして嫌味を言い続けたりで、精神的に苛立たせてくる。そうするだけで、塔に対する意欲を減退させられる」
単なる脅しでは無く、事実も混じった話だ。これらは技術を秘匿するというルールを破った魔法使いが出た時の対処方でもあるからだ。
「そうなったらうざいわよね。どうしたもんかしら。逐一、何かされたら殴り込みでも掛けちゃう?」
直球勝負なマナリーであるが、その実、正しい選択肢の一つではあるだろう。本気で、そういうちゃぶ台返しな方法が効果的だったりするのである。
ただ、その選択はレイトが望むものではない。
「今はそれより、もっと手っ取り早い方法がある。それが……」
「誰よりも先に塔の最上へ向かう事……ですか」
その通り。出る杭が打たれるというのであれば、打てない高さまで出てしまえば良いのだ。誰しもが認める、塔を昇る冒険者のトップ。そういう名を手に入れれば、そもそもレイト達を妨害しようとする気を無くせる。
妨害してきたとしても、その名誉があれば、得られる利益の方が大きいだろうという目算だってある。
何より、レイトが望む塔の上層へと、もっとも早く辿り着ける選択でもあった。
「何やら無理矢理な結論に聞こえますが……姉を乗り気にはさせているみたいですね」
乗り気と言うのなら、マナリーはずっとそんな様子だった。彼女の冒険者としての何かを、これまでの出来事は刺激させたのかもしれない。
「メイリーがそれでも嫌って言うのなら、私だって無茶はしないわよ? レイトには悪いけど、この娘にはいっつも私の暴走を止める役目をして貰ってるの」
姉妹同士の信頼関係という奴だろうか。そういう部分は、正直羨ましく思える。レイトは長らく、血の繋がった家族と会っていないから。
「分かりました。今回だけを頑張りましょう。それで無茶であると認識できれば、次からは慎重に冒険をする……という事で」
その意見にはレイトも賛成だ。どの道、今の段階で塔を昇り切れないとなれば、そもそものやり方を見直す必要があるのだから。
「意見、纏まりましたね? では、さっそく今回限りの頑張りでもって冒険を始めましょうか」
今回限り。それは妥協の言葉にも聞こえるが、レイトはむしろ、今回で十分という意味にも思えた。
どうにも本当に、行けるところまで行ける気がしていたのだ。
さすがにもう慣れて来た一桁台の階層は飛ばす様に。十階以上についても、極力時間を掛けずに昇って行く。
少なくとも、今回の冒険の前半に対する頑張りとは、急ぐ事であった。
「行けるところまでは時間を掛けない。結果的に、それが消耗を抑えるという事なんでしょう。おかげで、体力を残した状態から、未経験の階層を進めるってもんです」
レイトがその言葉を呟くのは、塔の26階に到達してからの事であった。
前回、他の魔法使いや冒険者に襲われた25階で一晩休み、そうして次の日にはここにいる。
予定としては順調と言えるが、ここから先については、そもそも予定を立てられない領域と言えた。
「見た感じ、意外に普通よね」
マナリーの感想は、塔に大分毒されていると言える。何せ目の前に広がる光景は、石造りの迷路だからだ。
確かに冒険甲斐のありそうな外観であるが、そもそも塔の内部であるという事を忘れないで欲しい。
草原や森、金属で出来た不気味なオブジェクトが並ぶ空間と言った階層の上に、こんな場所があるのである。異様と言えば異様なのだ。
「この階層に置いて、注意すべき事は何でしょう?」
マナリーが毒された感覚を持って居るのだとすれば、メイリーの方はバランスを取る様に、相変わらずの慎重さだ。やはりこの二人は、姉妹揃ってこそなのだろう。
「中の構造が、定期的に変わる……という情報もあります」
「随分自信が無い言い方じゃない。何か不安でもあるの?」
「不安しか無いというか、僕もここに踏み込むのは初めてですし、資料についても、この階層くらいからぐっと少なくなって来るんですよね」
魔法使いの中でも、辿り着けている者が少ないという事だ。周囲から恐れられている程に、レイト達はそういう領域に足を踏み入れているのだった。
「やはり、慎重に進むべきだったのでは……」
メイリーが及び腰になって来たため、レイトは考えが困った方へと及ぶ前に、前へと進む事にした。
「この階層で、長く考えるのはオススメしません。長時間居ると、厄介な物が出て来るという話もありますし」
「厄介って……例えばどんな?」
レイトに付いて来る形で隣に並ぶマナリーに対して、レイトは歩きながら話を続けて行く。
「ううーん。そっちも資料が少なくって。大きくて獣みたいな姿をしているっていう話なんですが……」
「それは……頭部が牛の様な形状をしている?」
やや後ろ。レイトの背後からはメイリーの声も聞こえて来た。彼女もちゃんと付いて来ている様子。
「あれ? 前にこの階層の事話しましたっけ? ええ、そういう話もある」
この階層の厄介な存在。それは牛の化け物と言った形状をしているらしい。普通の牛の3倍はありそうな体格であり、迷路の形をしている階層においては進路を塞ぎ、それだけでも厄介だと言うのに、こちらを踏み潰さんばかりに迫って来るのだそうだ。
実際、逃げなければ踏み潰されるに違いない。
「質感は金属でしょうか?」
「この塔に最初から存在する動くものって、だいたいそうなんですよね。なんでなんでしょう。この塔の製作者の趣味?」
「……動きはまあ、遅めだったり?」
「最初はそうですけど、徐々に早くなるとの……メイリーさん?」
後方のメイリーの声が少し離れたので、レイトは振り向く。
「……」
果たして絶句してしまうわけであるが、それも長く続かない。そこにあった光景を見れば、すぐに次の判断をするべき状況だと分かるからだ。
そこには、金属で出来た様な牛の頭部があった。なるほど、事前に仕入れた情報通り、大きく、道を塞いでいる。
だが、間違った情報もあった。大きな牛ではない。大きいのは牛の頭部だ。というか、頭部しかない。
大きな牛の頭部だけの構造物が、後方の道を塞いでいて、徐々にこちらへと迫ってきているのだ。
こちらに関しても間違った情報であって欲しいのであるが、近づいて来る牛の頭部は、少しずつ速度を増している様に見えた。
「逃げましょう。とりあえず……走って!」
レイトは前に進みたい。塔の上へと辿り着きたい。ならば、走らなければいけない状況というのも上々だろうか。
そうは思えないのであるが、それでも、レイトは先に向かって進む事を止めなかった。
26階以降の階層はこれまでとは違い、さらに困難を極めるものであった。26階の時点で情報不足が発生していたのだから、昇れば昇る程にその状況は酷くなる。
まるで闇が深くなっていて、だと言うのにその深い場所へ向かっている様なそんな感覚。
普通なら恐れるそんな状況であるのだが、レイトは欠片足りとも足を止めたいとは思わなかった。
「はりきってるのは十分に分かるけど、ちょーっとここじゃあ怖いわよね」
マナリーの声を聞いて、レイトはふと立ち止まる。
目に映る光景は黒。とてつも無く薄暗く、それでいて障害物も無い空間が周囲に広がっている。
今居る階層は34階。ただ闇が広がっているとの情報しかないその階層で、頼れるのはファン師が残した踏破記録と、闇を微かに照らしてくれる手に持った携帯用ランタン。
(それと、危険に対して忠告をしてくれる同行者と言ったところかな)
レイトは何度目か隣に並ぶマナリーと、その少し後ろを歩くメイリーを確認した。
この様な場所において、仲間とはぐれるのは致命的だ。探す事に手間取ればそれだけで時間の浪費であるし、見つからない可能性だって勿論ある。
この暗闇は、ひたすらに広い塔の階層の、そのすべてに広がっているのだから。
「思うに、こんな暗い場所で、どうやって次の階へ向かえって言うのかしら」
「意地の悪い事に、まっすぐ進めばそれで辿り着けます。もっとも、そのまっすぐがこの場所では難しい」
人間の方向感覚なんて、実はそれほどアテにはならない。獣のそれに数段劣り、目印が無ければすぐ自分の場所を見失う。
それでも、ポートリー姉妹のそれは研ぎ澄まされているのであるが、さすがにこの空間に置いては、それも頼りに出来ない。
「随分と自信満々に進んでいますが、つまり……目印があるのですね?」
「正解です。やはり意地が悪い事として、床にヒビみたいな物がありますよね? 実はこのヒビの形を憶えていれば、自分の居場所が分かる様になっている」
かつて、ここに来た魔法使いと冒険者は、それに気が付き、ひたすらに階層におけるヒビの形をメモし続けた。
それをすべて頭の中に叩き込んでいるから、レイトは迷わずに進めている。次の階層へは、もう少しで辿り着けるはずだ。
「やはり、この塔は昇る人間を試している様……ですね」
メイリーを再び確認すれば、少し視線を落としていた。
一日二日で、このヒビの目印についてが分かって来るものでは無いが、それでも、メイリーは憶えるつもりでいる様だった。
「だからこそ、真摯に挑む事が礼儀ってところですかね。もっとも、時間を掛けて居られない事情もあるわけで」
多少なりともその行程は雑になる。一応、命に届かない程度の雑さではあるが……。
(だいたい、しっかりとした探索なら、既に先人がしてるんだよなぁ……塔への挑戦者を歓迎しているって言うのなら、鍵の掛った扉なんて用意してるんじゃあないよ)
ファン師が辿り着き、そうして諦め、今ではそこが街の冒険者が辿り着いた頂点となっている49階の扉。
恐らくは、その先に50階があるのだろうと思われる。49階にある難関とは開かない扉のみ。
(と、予想はしているけど、そもそもその先の情報がまったく無いんだから、何事も断言できないか)
街にあるどの資料にも、ファン師が辿り着いたという扉の先についての事は書かれていなかった。眉唾ものの、どこかの誰かの妄想が書き綴られた様な文献においてもだ。
それ程に、扉へ辿り着く事は困難で、それ以上に、その扉を開く事は至難であると言う事。
(こんな目に見える闇より、もっと厄介かもね。扉を潜り抜けた先に、僕が求める場所があるとも限らないんだし……)
あまり、考えたくは無い事だったが、そういう可能性だってあるのだ。
塔の上に、レイトが辿り着きたい故郷が無いかもしれない。そうで無くとも、塔は扉の先にも続いているのかも。
(地上から見る塔は遥かに高い。天辺が見えない程だ。50階程度で終わる高さでは無いんだろうけど……ああ、駄目だ。ここに来て、暗くなるなんて馬鹿らしい)
頭の中に浮かぶ考えを振り払う。そういう後悔も心配も、とりあえずは49階の扉に辿り着いてからだ。
そう考えて、前を向き……いや、床のヒビを見ようとして―――
「えっ……ヒビが」
あるはずの床のヒビが無くなっている。レイトは驚き立ち止まった。この階層における唯一の目印がそこに存在しないのだ。途端に自分の立ち位置が分からなくなってくる。
「マナリーさん、メイリーさん。ちょっと止まってくだ―――
絶句は続く。ポートリー姉妹がいなくなっていた。レイトが一人、ランタンの微かな光の元に立っていたのだ。
唯一の頼みであった、ランタンの光が消え去ったのは何時からだったろうか。レイトは既に時間の感覚すら失っていた。
(くそっ……焦って油断して……このザマなのか!?)
自身の失態すら、それがどこにあったのかを、レイトは良く分かっていなかった。この暗闇の階層に、突然人を惑わせる仕掛けなど聞いた事が無いからだ。
一方で、そもそもの情報が少ないのだから、こういう事態も予想しておくべきだったとも思う。
(いや、こんな事態になって、僕にどうしろって?)
突如として自分の位置が変わる暗闇なんて、どうやったところで脱する事が出来ない。ただ闇の中を彷徨い歩くのみだろう。
「マナリーさん! メイリーさん!」
仲間が近くにいないか叫ぶ。もう何度目かの叫びだ。そうして、何度目かの沈黙が続く。少なくとも近くにはいない。レイトの声が聞こえない程の遠くに彼女らは居る。
(誰も頼れない……僕はここに一人だ。一人……迷って、朽ち果てて行くのか?)
暗闇だった。どこまでも暗闇が続いている。手に持ったランタンが灯らない以上、どこを見ても、レイトは暗闇に包まれている。
これでは、身体より前に心が悲鳴を上げる。もう限界だ。お前は致命的な失敗をした。塔を舐めた報いだ。
お前は結局、お前の望みすらも叶えられず、無様にここで果てるのだ。
「舐めるなよ……!」
歯を食いしばる。口の中に血の味がして痛みが走る。何も見えなくとも、感じる事は出来る。
レイトは生きていて、そうしてどうにも、致命的な状況程度では、レイトの願いを屈する事が出来ないらしかった。
レイトは走り出した。暗闇の中、足元すら見えなくて転びそうになるが、転ぶよりさらに前へ足を進ませる。
どこまで行っても暗闇が続いている。壁すらにもぶつからず、どこまででも前へ進む。身体は遂に疲労に寄る悲鳴を上げ始めるが、それでも前へ。
レイトの心はこんな状況だと言うのに、それでも何かを求め続けていた。
もうずっとこうなのだ。ずっと、レイトは求めている。
自分は何なのだろう。記憶に残る子どもの頃は、そんな事すら考えず日々を暖かく過ごせていたという姿。
今はどうだろうか。血反吐だって構わずに前に進まなければ、あの日の暖かさには辿り着けないと、ひたすらに必死になっている自分の姿。
無様だった。どうしようも無く無様で、それでもレイトは止まらなかった。いや、誰であろうと止められない。レイト自身ですらも。
(何だ……?)
遂に幻覚まで見え始めたのか、暗闇の中に明かりが見えた。
(本当に幻覚か……それとも罠か)
どちらにせよ、こんな状況であるならば、近づいてみる以外の選択が無い。今ここに必要なのは、良きにせよ悪しきにせよ変化なのだから。
「……なんだ?」
明かりは目の前の何かが放っている。金属で出来た人型の何か。丁度、塔内部で現れるガードマンに近いか。
しかし、ガードマンより随分と小さい。丁度、子どもくらいの大きさのそれ。見た目もより人間に近い。いや、人形と表現できる程度に個性が無いものの……。
「目と鼻と口がある時点で、それでもガードマンとは大きく違うか……」
正しく人形だ。そんな人形が、闇の中で微かに光、その存在を強調している。倒れている姿が不気味だが、これで動き出しでもすればもっと恐ろしいかもしれない。
そんな風に思ったその瞬間、人形の目が、ジロリとこちらを見た気がした。
「っ……!」
「え? ちょっと、どったの?」
跳ねる様に肩を震わしたレイト。周囲を見れば当たり前の闇の中であるが、微かな明かりがある。手に持ったランタンの光だ。
すぐ傍には、心配した様にこちらを覗き込むマナリーとメイリーの姿。
「どうしたというか……あ……お二人とも……無事ですか?」
「無事って……そうね? まだ道の途中だし、ちょーっと私も、そろそろ方向が分からなくなって来たと言うか」
「私は数歩歩いた時点でもう分からなくなりましたが、姉さんは今の今まではそうでも無かったのですね……また人間離れした部分を知ってしまった……」
何時も通りの二人だ。しっかりとここにいる二人。そんな彼女らを見て、レイトはふと首を傾げる事になった。
(あれ? 何で僕、こんな憔悴してるんだ?)
冷や汗が流れている。心臓もバクバクと高鳴っている。息だって多少は荒くなっていた。だが、時間を追うにつれ、それらは落ち着いて来て、益々、先ほどの自分の状況が分からなくなってくる。
自分はただ、床のヒビとランタンの光だけを頼りに進んでいただけではなかったか。
「本当に大丈夫? 何かくしゃっとしたものを踏んだのに、こう、足の裏を見ても何ともなかったとか、そういう感じ?」
「いや、そういうのじゃなくて……あ、けど、近い?」
マナリーの言葉を聞いて、感情的にはその通りだと頷く。
何かとても……嫌な事を経験した気がするのに、その形すら分からない。
レイトは落ち着きを取り戻して行くが、震えだけはなかなか止まらなかった。
「休息が必要でしたら、遠慮なくするべきです。だいたい、外では良い頃合いの時間になっていると思われますから」
確かに休みたいとは思ったものの、メイリーの提案には、首を横に振っておく。
「いえ、とりあえずこの階層はさっさと進みましょう。休むについてもこの暗闇の中じゃあ……ちょっと心が休まらない」
この階層は、何か、途轍もないものを心に刻み込んで来そうな、そんな事をレイトは思うのだ。
それが何であるか、レイトにはさっぱり分からなかったが。
上手く休息を取れたとしても、それが冒険の最中であれば疲労は蓄積していく。
人間とはどうして、柔らかい布団の上で無いと万全になれないのか。愚痴りたくなる思いはあるが、愚痴は愚痴で自らと周囲の精神を疲労させてくる。
もしそういう状況になれば、冒険を止めるべきである。それ以上の状態から改善する事は絶対に無いからだ。
精神的にも肉体的にも、限界が近いことを知らせてくれるサインなのだから。
(なら、何で僕らはそういう状態だって言うのに、引き返さないかだ)
塔に入ってから数日。ここまで長期間、塔内部に居るのは初めてかもしれない。レイトとマナリーとメイリーと、3人共に限界が近い。そう感じている。
だと言うのに、ここに居る3人共に、ここらで塔を下りようとは提案しない。
(考えれば当たり前か。ここで引き返すなんてあり得ない)
レイトは顔を上げる。その動作にも重さを感じるものの、それでも上げる。そうして見る必要があるのだ。今、目の前にある巨大な扉を。
「なーんていうか……あれよね。思うのは、私達がここに居ても良いのかってとこ」
「確かに、まだまだ新参者の私達ですが……辿り着いてしまったわけですか」
ポートリー姉妹の言う通り、ここは現時点の、塔内部における到達点だった。
ここより先は誰も足を踏み入れた事は無い。少なくとも街の人間はここから先に何があるのかを誰も知らない。そういう場所。
ファン師が辿り着き、結局は先へ進めなかった行き止まり。
「恐縮するなら、この扉を開いてからって事で、どうです? そうでなければ、謙遜だって虚しいでしょう?」
塔の49階。そこに到達した時点で、目の前には閉まったままの巨大な扉があった。
どれほど巨大かと言えば、この扉が一般宅の玄関口だとして、レイト達は小さな鼠程度の大きさにしか見えない。そんな比率であった。
「扉を開くったって、さすがに押して開く様な大きさじゃあない……わよね?」
「姉さんだったら、案外いけるかもしれませんよ?」
「あら? そうかしら? 私だったらいけちゃう?」
無理だと思うのであるが、おだてられて扉へと近づき、押し始めるマナリーを、黙って見つめる余裕くらいはレイトにもあった。
「さて、以前ここに来た冒険者達は、恐らく、あらゆる方法をもってして、この扉を開こうとしたんだと思います」
「そうでしょう。であるならば、私達がすべき事は何なのです? 私達もここまで来て、手詰まりと言うのは……あまり考えたくありませんが」
「その通り、考えるなんてのは、もう他の人たちが十分にした後だ」
心配するメイリーを余所に、レイトは扉を押しているマナリーへと近づく。
マナリーは見る限りに馬鹿な事をしているのであるが、その馬鹿な事こそ正解だったりするのだろう。
「あれ? 一緒に押してみる感じ?」
「もしかしたら引き戸かもしませんよ? これ」
「だったら、近くに居たら危ないじゃないの」
「まったくだ」
レイトは笑いながら、扉に触れる。何となく、マナリーの感覚が移ったのかもしれないが、扉に対してやるべき事は、触れるだけで良いと思ったのだ。
もし、レイトがここに来る意味があるのだとしたら、ここで扉に触れるだけで良い。そのはずだ。
「……」
「何も起こらないんだけど?」
「あれぇ?」
首を傾げながら扉を見つめる。扉はそのままだ。何の変化も無く、さっきまで自信満々だった感情が焦りに変わり始める。
「待ってください。あの、ま、待ってください。ほら、何か他にこう……何かあるはずで―――
『外部からの種子接触を感知。遺伝子コードの解析を始めます』
「あ、ほら、ほらほら! ちゃんと反応ありましたよ! ね!」
扉の方から、感情をまったく排した様な声が聞こえて来た。人間の言葉なのに、人間が発していない様な、そんな声だ。
「あらほんと。えっと? 外から何かされたぞって言ってる? 向こうに誰かいるのかしらね?」
マナリーがぴょこぴょこと扉の向こうを伺おうとしているが、ジャンプした程度で伺える高さではあるまい。
気にすべきは、やはり聞こえて来た声だ。
『解析中。解析完了。認証は正常に行われました。お帰りなさいレイト・ライク』
声と共に扉が開き始める。これほどの巨大な扉だと言うのに、ほぼ無音でだ。重さすらも感じさせない速やかな開門。この扉の前で、かつての冒険者達が挫折したのが嘘の様に。
「いや、待て……何だって?」
「レイト……って、言いましたよね? 姓の方は違いましたが」
開き始める扉へ、メイリーも寄って来る。そうして、先ほどの声についての疑問を言葉にしていた。
「僕の名前だ……」
「そうそう。レイトさん。けど、姓が違うってことは、同じ名前の別の人って……そうじゃないの?」
「僕の……名前なんです」
レイト・ライクは間違いなくレイトの名前なのだ。しっかりと記憶に残っている。ずっと前の記憶であるが、それでも、そう呼ばれていた頃の記憶がレイトにはある。
塔から街へと落ちる前、レイトはレイト・ライクと言う少年だった。世の中を知らず、世界がどの様な姿をしているかを知らず、何一つの心配も無く日々を過ごせていた頃、レイトはそう呼ばれていた。
「ちょ、ちょっと、レイト!?」
マナリーの止める言葉も聞かずに、レイトは開いた扉の向こうへと歩き始めた。巨大な扉の向こうには、巨大な通路があった。
「ここは……まだ知らない場所だ。けど、名前を呼ばれたって事は、間違いなく……」
辺りを慎重に見回しながら、さらに通路の奥へ。通路だけでも相当な広さがあるため、辿り着く場所も、かなりの広さがあるのだと予想できる。
「先ほどからどうしたのですか? 随分と興奮している様な」
「ちょっと……今はただ付いて来てくれませんか? 何と言うかその……ああ、なんて事だ。ここからの風景は……見覚えだってある」
レイトは立ち止まる。通路の先に、街が広がっていたからだ。
「見覚えって……あの街が? いえ、街? 広い広いって思ってたけど、中に街があるくらいには、塔って広いのねぇ」
確かに、これは驚きの光景だった。塔の階層に、街一つが丸々収まっているなんて。
そうして、その街は確かに、レイトの記憶に残っている街でもあったのだ。
「というより、何と言いましたか? レイトさんは、この街に見覚えがあると?」
「はい。記憶が……ほらあそこ、あの建物は学校なんですよ。僕の家はあそこから……ちょっと、失礼します」
レイトは止めていた足を再び動かし始めた。街へと入るためである。
遂に自分はここへやって来たのだと言う感慨の中で、レイトは堪らず走り出していた。
「ああもう、だから待ちなさいって! 行くわよ、メイリー!」
「分かりましたが……どうやら複雑な事情がある様で、私だけは知らされていないらしいですね?」
そういえば、メイリーはレイトの事情を知らないはずだ。というか、マナリーは何時知ったのか。
レイトはそんな事も深く考える暇無く、通路から街中へと出る。
どうやら通路は、街から外へ出るトンネルに偽装されていた様で、街側からは、その奥が塔の49階へ繋がっているとは思いも出来ない。
(実際、僕は想像すらしていなかった)
当時のレイトの世界は、この街だけで完結していて、街の外にも世界が広がっているという事を知りながら、その実感も、その真実も知らなかった。
(街の大人は……その事を知っていたんだろうか?)
レイトの足は、自分の家へと向かう。かつて住んでいた家。少しは迷うかもと思えたが、淀む事無く、レイトは進む事が出来ていた。
曖昧だった記憶は、徐々に鮮明なものへと変わって来る。単純に、当時のレイトの、主な活動範囲に近づいて来ているからだ。
自宅の周囲などもっともな場所であり、そこへと辿り着くのは、塔内部の冒険の中では容易い部類のものだと言えた。
「ここだ……間違いない!」
見上げるのは、記憶通りの自分の家。この家の窓からレイトは足を滑らせ、塔を落ちる事になった。
今でもこの家の窓から落ちれば、地上へ落ちる事になるのだろうか。
「やっと追い付いた! もう、普段以上に素早いわねぇ……」
必死に走るレイトに対して、息を切らしてもいないマナリー。やっとと言う程の事では無さそうである。
続いてメイリーも追い付いて来る。常にその表情は怪訝そうであったが。
「あの……よろしいですか?」
メイリーはその表情のまま、レイトへ尋ねて来る。
「何ですか? ちょっとこれから、この家へ入ろうと―――
「どうしてこの街、人間がいないのでしょうか?」
「え?」
「いえ、塔の中の構造物ですから、そういう物だと言えばそうなのでしょう。ただ、誰も居ない街というのはそれだけ不気味で……レイトさん?」
興奮に、途轍もない冷や水を掛けられた感触がした。
そうだ。何でここに来るまで、誰一人として人間とすれ違っていない。レイトがかつて暮らしていた街は、無人の街などでは断じて無かったはず。
「いや、もしかしたら、偶然、誰も外に出ていないだけで……」
「そうかもね。それで? ここがあなたの家何だとしたら、一度入ってみるべきなんじゃあ無い?」
「マナリーさん?」
マナリーはレイトの家を見つめている。彼女はこの家を見て、何かを感じたのか。レイトに対して、率先して家へ入る様にと勧めて来る。
「どうしたの? ずっと望んでた場所なんだから、確認するべきよ。あなたのご両親が待っているかもしれない」
そう言われると、むしろ不安が先立ってくる。足だって竦んで来るのだが、やはりここでもレイトは止まらなかった。
止まるのは、もう少し先の事である。
そう、例えば玄関を開き、その奥に転がる人型の何かを見た時とか。
「これは……」
どこかで見た事があるその人型。人間ではない。それは金属で出来た人形だ。丁度、大人くらいの大きさの人形。
無機質なその人形が仰向けになって、家の中で転がっていた。
これもまた何の感情も無い、そこにあるだけの目が、こちらを見つめた様に―――
「かあ……さん?」
何で、そんな言葉が出て来たのかが分からない。けれど、思ってしまったのだ。もし、この玄関を開いて、出会う人間が居るのであれば母だろうと。
この街から落ちた時、その瞬間に居たのは母だ。なら、家で出迎えてくれるのも母ではないか。
だが、ここにあるのは母ではない。ただの人形だ。記憶の中にある母は、この様な姿をしていない。
(そうだ……母さんはもっとこう……あれ? 何だ? どうして……どうして思い出せない)
記憶。かつてあったこの街の記憶。どこまでも思い出せそうな大切な記憶。
だと言うのに、街で知り合った人々も、学校の友人も、大切だった両親の顔すら、レイトは思い出せなかった。
「何で……何でだ。この街を知ってる。この家を知ってる。どこに何があるのかだって知っているのに……何でここに人形があるんだ!」
「レイト……落ち着きなさい」
マナリーの声が聞こえる。
だが、それは耳を通り過ぎるだけだ。レイトには何も聞こえない。何も思い出せない。あれほどに焦がれていた故郷が、唐突に無価値へと変わって行く感触。
心臓が高鳴っている。抑え付けているつもりも無いのに、行き場の無い感情が身体に変調を与えて来る。
「この人形に……何かされたの?」
「違う……違う違う! これは……何でも無いものだ!」
「ちょ、ちょっと!?」
レイトは走り始める。どこへかは分からない。いや、この道を知っている。何時も通っていた道だ。
家を出れば、何時も向かうのは学校だ。朝起きて、朝食を食べて、準備をしてから学校へ向かう。
通学路の途中で、同級生と出会う事もあった。気になるミーシャや嫌味なダングル。他にも色んな知り合いが居て、色んな表情をしていて、色んな話をした。
そのはずだ。そのはずなのに、レイトの記憶からその顔が削ぎ落されていた。
そもそも最初から、そんなものは無かったかの様に。
「ここだ。ここにも確かに学校がある」
記憶は確かだ。子どもの頃は遠く感じたこの学校も、自宅から走れば10分程で辿り着けた。
けれど、やはり街の住民の姿は見えない。どこにも居ない。無人の街だけが記憶通りにそこにある。
(僕は……僕は一人きりでこの街に住んでいたわけじゃあない)
言い聞かせ、校舎へと入って行く。廊下は続き、向かうのはレイトが学んでいた教室。途中にある図書館や魔法の練習室を横目に、さらに廊下を歩き続ける。
先にあるのは静かな教室。中にはきっと誰もいない。誰かいたら、こんなに静かなはずが無い。
それでもレイトは慎重に扉を開いた。
(……)
果たして、そこにあったのは確かに何時もの教室だ。黒板があって、教壇があって、机が並び、椅子には生徒が座っている。
いや、生徒を模した様な子どもの大きさの金属人形。
「あっ……」
力が抜けるのを感じる。膝を折り、床にぶつかる痛さにも反応できない。
そうして、意識すらもレイトは手放したのだった。
目を覚ます。ふかふかのベッドに眩しくない程度の明るい陽射し。
まどろみの中で、ゆっくりと上半身を起こせば、そこは自分の家の部屋だった。違和感を覚え、なんだろうと横を見れば、そこには心配そうにこちらを見る母の姿があった。
「母さん?」
「大丈夫? レイト。あなた、窓から落ちて……気を失っていたのよ?」
その言葉に、そう言えば自分はクジラに祈る日に、馬鹿みたいに窓からこっそり外へ出ようとしていた事を思い出す。
そうしてもっと間抜けな事に、窓から足を滑らして落ちたらしい。
母はとても心配している様子だが、その後、怒られるのでは無いのかと、レイトはびくびくした。
「えっと、その……ごめん母さん。ごめん。そんな……悪い事をするつもりは無かったんだよ。ただ、クジラが空に浮かぶ日は、ずっと家の中にいるって話で……そういえば、ずっとそれを守って来たなって思って……」
「いいのよ、レイト。今はあなたが無事そうで良かった。けど、これからお医者様に見て貰うし、お父さんにも怒って貰う事になる。その事は分かっているわね?」
母の言葉にレイトは頷く。やってはいけない事をして、馬鹿みたいな結果になった子どもは、叱られて当然だからだ。
ただ、それとは別に、素直になる理由があった。というのも、何故か、この状況に安堵している自分が居たからである。
「あ、あのさ、母さん」
「どうしたの? レイト」
話すとなると、少しばかり恥ずかしい。けれど話さなければ、本当の安心は得られないと思い、母に向かって話す事にした。
「その……怖い夢を見たんだ」
「そうね。良い夢を見れそうな状況じゃあなかった」
「うん……罰が当たったんだと思う。窓から落ちて……落ちたらそこは怖い場所なんだ。怖くって、怖くって、こんな夢、早く覚めろって思うのに、なかなか覚めなくて……」
すごく長い時間が流れた気がする。長い間、ずっと帰りたいと思っていて、漸く目が覚めた。
母が居て、暖かいベッドがあって、変わらない日々が続く。そんな場所へ漸く戻れたのだ。この後、父に怒られるとしても、それだって安心できる。
「けれどね、レイト」
「ん? 何? 母さん」
「夢は必ず覚める。だから……安心しなさい。いえ、あなたにとっては……酷な話なのかもしれないわね」
「……」
目を覚ます。吐き気を覚える様な酷い目覚め。実際問題、近くにマナリーの姿が無ければ、レイトは吐いていたかもしれない。
「ひっどい夢だ……」
「おはようって言うべきかしらね」
レイトは自分の顔に自分の手を当てる。ボールを掴む様にがっしりと、と行きたいところだったが、手のひらの大きさに対して、頭はあまりにも大きい。
「ここ……知らない場所ですね」
「近くの家……空いてたから使わせて貰ったのよ。あなたが倒れてたあの大きい建物? あそこに置いておくって言うのもねぇ」
どうやら、学校の教室で倒れていたところを、マナリー達に運ばれたらしい。外を見れば暗い。ここは街で、塔の中であっても朝と夜があるのだ。
「あそこは学校です。何か危ない事とかは……無いはずですよ」
「そうね。少なくとも、この街は安全。メイリーが外を見回ってるけど、警戒するものは無いって答えを、もう少ししたら持って来るはずだわ」
そうだ。レイトが暮らしていた街なのだ。危険など無いはず。けど、ではこの街に居た人間達はどうなったのだろう。
そのすべてが、まるで人形へと変わった様な。
「っ……」
「大丈夫? 落ち着いてる状態で話しをしたいわけだけど、ちょっと時間を置く?」
「いえ、続けましょう。僕も……色々と整理する必要がある」
この街で何が起こったのか……いや、いっそこう考えるべきなのだろう。
「僕は……どんな風にこの街で生きていたのか」
「……ちょーっと生まれ育つには寂しい場所だものね」
「僕の記憶の中では、確かに両親や近所の人や、友人だって居たんですよ。それは確かです。けど、今になって、その顔がさっぱり思い出せない」
その様な状況で、レイトは混乱し、倒れるまで動揺してしまった。だが、また同じ事を繰り返すわけには行かないのだ。
「この階層の、トラップみたいな……あれなんじゃあないの?」
「記憶に何かしらしてくるトラップなんてあれば、それこそ手も足も出ないですが……それよりもまず、僕は知る必要があるんだと思うんですよ」
レイトはここに来て、漸く理解するに至った。
ずっと焦がれていた故郷について、自分はまったく知らないのだ。あれほど記憶に、鮮明に焼き付いていた故郷の姿を、その実、その裏側にあるものを一切知らない。
何も知らない子どもの頃の記憶なんてそんなものなのだろう。だが、今はきっと違う。
「ぐっ……」
「ちょっと、待ちなさいって。もう少し休んだって良いんじゃないの?」
レイトがベッドから起き上がろうとするのを、マナリーは止めて来る。
無理に反抗するかどうかをレイトは決めかねていたが、外がまだ夜だった事を思い出し、一旦はベッドに戻る事にする。
「明日から……遅くとも太陽が昇り始めたら、調べる事にします。どうせ敵は現れそうに無い階層ですから、そのための時間はたっぷりある。食糧にも余裕がありますし」
寝床なら、そこらの家を使えば良い。出来れば食糧についても手持ちのを消費せずに、街にあるものを利用したいのであるが、この街が何時から無人なのか分かった物では無いため、食べ物なんて期待はできまい。
「調べるって、街の端から端までを見て回るつもり? そこまでのって、それこそ幾ら時間があっても足りない様な……」
「いいえ、マナリーさん。この街で、何かを調べようと思うのなら、丁度良い場所があるんですよ。明日はそこに向かいます」
謎が多く、心に多大な重荷が今もあるのだが、それでも、レイトにはやるべき事が残っていた。
街について学ぶとなれば、それは街の歴史についてを学ぶと言う事だろう。
街は何かの意図があって作られたわけで、その意図を知るためには、街が作られた当初の事について調べなければならないのだ。
そんなものを調べる時、一番手っ取り早いものは何だろうか。それは単純に、歴史書を読むという行動だ。
「学校には図書室があります。読む側は僕みたいな子どもなんだから、小度向けの本ばかり……のはずなんですが、結構、しっかりとした書籍が残っていたりするんですよね」
「んー……確かに本がいっぱいね、頭が痛くなって来たわ」
塔の内部の街であるが、それでも日が昇り、朝が来る。そうしてやってきたのは学校の図書室であった。
ここも良く知った場所……とは言えず、そういえば当時は、あまり足を運んだ事が無かったと思い出す。
「なるほど。確かに何かを調べられる雰囲気はありますね。けれど、本を見ただけで頭が痛くなる我が姉は、どうして置きましょうか」
「あら、メイリーったら、まるで私がお邪魔キャラみたいに言う」
「置物程度で居てくれるのなら、いちいちそういう言い方もしないのですけどね」
この姉妹は本当に何時も通りだ。塔の中に街があるというだけでも驚きの状況だと言うのに、レイトの変調についてもあまり深くは考えていない様子。
(悩んでる自分が馬鹿みたいに思えて来るな……)
それはそれで良いのかもしれない。もし、そんな風に軽く思えるのならば、自分だってこれまで悩まずに済んだのかも。
(けど、そうできないから、今、僕はここにいる)
とりあえず、歴史書らしき本に手を掛けながら考える。ここで、自分は何がしたいのだろうかと。
想像するというより予感に近い考えとして、レイトの中の誰かが訴えかけてくる。絶対に、碌な事が待ち受けていないぞと。
(……)
マナリーをどうこうするかは置いて、レイトはひたすらに図書室内の本を調べ続ける。メイリーも興味を持ったらしく、同じくレイトとは別の本を見て回っていた。
「……眠くなってきたわね」
「まだ朝ですよ」
「わっかん無いわよー。ここが朝でも、塔の外は夜かも」
正直、調べものをしている最中に話し掛けて来るマナリーは迷惑極まりないのであるが、とりあえず反応しておく。放置していると、それはそれで面倒臭そうだからだ。
「外が何時ごろか……マナリーさんなら分かったりするんじゃないですか?」
「ここと一緒よ。多分、向こうも朝」
「分かるんだ……」
相変わらずの直感力と言えば良いのか。彼女の生まれこそ謎が多いわけだが、その実、平凡な生まれなのだろう。
(僕はどうだ? この街で生まれた僕は……その実、大した事の無い存在なんじゃあないか?)
思考が深くなって行く。平行して読書量と速度は増えて行った。
良くある事だ。レイトの癖と言える。深く何かを思えば思うほど、逃げる様に資料の読破へ没頭して行くのだ。
「……碌なもんじゃないな」
「ん?」
幾らか時間が経ったろうか。自分でも気が付かない内に、近くの机に幾つもの本を重ねている。
こちらは意外だったのであるが、近くにマナリーが居た。相当な時間、放っておいたと思うのであるが。
「なーに。なんかまた暗い顔になってるじゃないの。どうする? またいっちょ気絶しとく?」
「気絶は……止めておきますよ」
「何か分かったのですか?」
こちらの様子に気が付いたらしいメイリー。彼女も幾つか本を読了している様だが、レイトの数には並ばない。
(勝った……って言えるのかな?)
思いの外、軽い事を考えられる自分に驚く。慣れたのか、それとも単なる逃避か。どちらにせよ、レイトは彼女らに説明しなければならない。
自分の来歴と、この街と……そして塔の意味を。
「僕らが居るこの塔は……そもそもどういう物なのか。それはメイリーさんも憶えてますよね?」
「あの25階にあった絵画についてなら……荒唐無稽な、それこそ、塔が何もかもを産んだ様な存在だったとしか」
「大凡、真実かもしれません。少なくとも、部分的には」
「……本気ですか?」
信じられないのも無理は無いし、そもそも本当かどうかはレイトにも分からない。ただ、この図書室にあった資料はそう語っているのだ。
塔は、この大地に降り、生命を生み出したのだと。
「少なくとも、この塔が凄い力を持っていたのは事実で、実際、僕らはそれを目の当たりにしている。そういう事だって出来る程のものだと」
だからこそ厄介なのだ。神がかり的な力を、否定できる材料が無いというのは。
「けど、それはそれとしての話じゃないの。この街も、塔が生み出したって事で……ええっと、だからレイトは……分かんなくなって来たわね」
「複雑な理由があるんですよ。そもそもこの塔、凄い力あって、神様みたいな存在ですが、それでも人間が作り出したもの……なんだそうです」
「こんな塔を?」
散々に性格の悪い奴が作ったと言った手前、その性格の悪さが人間に返って来るとなれば、受け入れ難いところがあるだろう。
けれども、レイトはその事だって受け入れて話を続けている。
「こんな塔を作り出せる力が人間にはあった。けど、今はそれを忘れて、塔を不思議なものだと考えながら日々を過ごしている。そういう状況って、不健全かもしませんよね?」
「……かつてあったと言うのなら、取り戻す事も可能。と言う事ですか?」
「正解です。塔はまるで昇る人間を試す様な部分があるとメイリーさんもマナリーさんも言ってましたっけ」
「つまり、塔を左右する力を取り戻す人間を誘い、選別をしていた……と言う事でしょうか」
肯定すれば良いのか迷う。大それた話をしている自覚があるからだ。塔は広大で強大な。街には崇める人間だって居る。
そんな物を、手中に収める事だって出来る。そういう話は、間違いなく眉唾物のはずだ。
「ちょーっと、まだ全然本題に入ってないじゃない。塔が凄いもので、人間が作ったものでとか、あくまでここじゃあ関係無い話でしょう?」
マナリーは難しい話が分からない。だからこそ、物事を直球で判断するし、見誤らない……のだと思う。
彼女はずっと、レイトについての話を聞きたいのだろう。
「この街が生まれたのは……ファン師があの扉へ辿り着いてからの事です……そこから話しますか?」
「あん?」
「続けます。ファン師はあの扉へ辿り着き、僕らがあっさり開いたあの扉で挫折した。それは多分、人間を誘っていたこの塔の仕組みから見ても、想定外だったんですよ」
この街へと入る前にあった扉……あれは選別のための門なのだ。あそこまでやってきた者が、正しく人間であるかを選別するためのもの。
だが、そこに不具合が生じた。メイリーも気が付いたらしく顔を上げた。
「そうですよ。塔は冒険者を誘う様な構造している以上、そこで打ち止めの扉があるのはおかしい。あれが何か仕掛けのある、意味ある扉ならともかく、レイトさんなら簡単に開けられるというのは……」
「そう。そこです。普通はあそこで、例えばファン師が辿り着いた時点で、自動的に開くものだったとしたら? けれど、それは起こらなかった」
扉に辿り着いた冒険者も困っただろうが、塔の側だって困ったはずだ。
恐らく、何かが違ったのだ。塔を昇る様に仕向けた側にとって、実際に昇って来た人間達は、何か……致命的な部分が違った。
しかし、それでも塔が望む人間ではあった。だからこそ塔は考える。どうやって、やってきた彼らを、もう一度塔へと呼び込むかを。
「ちょっと待っていただけますか? その……レイトさんは突拍子も無い結論に至った……様に思われますが……」
「そうでしょうか? あの扉は人間が来たら開く様になっている。けれど、塔の下に居る人間達では、どうにも不具合がある。だから……塔の側で、正しく扉を開ける人間を作ってしまえと、この塔は考えた。確かにとんでもない話ではあります」
けれど、それは実行された。そうなのだ。ここにある資料も、これまで塔を昇って来る中で得た知識も、その結論をレイトに与えて来る。
例えそれが妄想だとしても、レイトはそれが真実だと考えてしまっている。
「僕は……鍵です。この街で知識を与えられ、この街を突然に放り出され、そうして下の街で……塔を昇ってくる人間のための鍵として―――
「レイト……レイト・ライク、だったかしら?」
「え?」
自分の存在意義は、単なる道具。そういう言葉を漏らす直前の事だ。相変わらず空気の読めない、というか読む気の無いマナリーと言う女が口を挟む。
「単なる鍵には付けない、立派な名前じゃない。親御さんがいるのなら、頭悩まして考えた名前よ、きっと」
「……」
何故か……本当に何故か、何でも無い風に、この女は大事な言葉を吐き出すのである。とても……人間の在り方にとってとても重要な事を。
「あなたが塔に作られたとかそういう感じの話? そうよね? 良く分かんないけど。けど、それって、この塔が親で……まあ変わったご家庭だと思うけど……街に入る前、お帰りなさいって言ってくれてたわよ」
「ええっと……」
何だろう。ほんの先ほどまで、レイトは崩れかけていた。身体ではなく、心のどこかが崩れようとしていた。そのはずなのだ。
だがどうした事か、目の前の女に、崩れかけた心を、土やら木くずやらで固められた様な気持ちになる。
しっくり来ないし、まったくもって納得したわけじゃあ無いのに、それでも崩れないくらいに頑丈に固められてしまった。
「あの家にあった人形みたいな? あれ、きっと、塔があなたに合わせて作った感じなんじゃあないかしら。あなたが育てるにしたって、あやしたりしなきゃだし……大切な子どもを育てるために、色んなものを一生懸命用意した……そんな感じなんじゃあないの?」
「そんな事で……納得できる事なんて……」
「できないかしらねぇ。ほら、メイリー、私が生まれた理由って知ってるわよね? 母さんが村のお祭りで無駄にテンションが高くなって、うちの親父とやっちまったっていう」
「家の恥を堂々と話さないでくれますか?」
確かに恥ずかしい話であるが、どこにでもありそうで、笑い話にもなりそうな、そういう家庭の話に聞こえる。
そういう話とレイトの生まれを並べて語る。マナリーというのはそういう女だった。
「私より立派な生まれじゃない。誇りなさいって。深刻に思う事でも無い。そりゃあ、子どもの時分に放り出されたって言うのは、恨んだり悲しんだりすべきでしょうけど……きっと、何か事情があんのよ。怒るにしたって、その事情を知ってからでも良いんじゃないかしら?」
決着を付けるにはまだ早い。まだ立ち上がれるだろう。世の中、絶望する程悪いものでは無い。マナリーの言葉には、色んな意味が込められている様に思う。
だが、本当はそうでは無いのだと思う。
「姉はとりあえず、その場で思いついた事を話しているだけだと思われますが……私も、レイトさんにここで何かを諦められては困ります」
その通りだった。マナリーは深い事を考える頭が無い。いや、考える意味が無い事を知っている。恐らくはそうで、それだけの事なのだろう。
そうして、ポートリー姉妹にとっては、塔の中で、レイト抜きで置き去りにされる事は御免被るはずだ。
塔にはやはり、魔法使いの付き添いが必要だ。
「魔法……そうか、魔法か」
「ん? どったの?」
「いや、僕が魔法を使えるのも、何か、塔の意思なのでは無いかなと」
自分の、他者とは違う特異性。それもまた塔に与えられたものなのだとしたら、しっかりとした理由があるはずなのだ。
少なくとも、マナリーが言う通り、レイトは意味を持って生み出されたのだから。
「そういえば魔法についても、ここ学んだのですよね、レイトさんは。であれば、私達もここで何かを学べば、使えたりする様になったりするのでしょうか?」
「それは……どうだろう。最初から、ちょっとした火を出すくらいは、殆ど直感で出来たから……」
ある意味、天性のものなのではと思う。この街に住んでいた時は、誰しもがそういう力を持っていると思っていたし、実際、そういう風に見えていた。
今となってはあの光景も、レイト一人だけの世界だったのだろうが。
「となると、その魔法も、次の階層へ向かうためのものだったりして」
「……やっぱり、妙なところで鋭いですね。不気味なくらいだ。マナリーさんは」
「姉はほら、何時もこの通りですので」
「ちょっと、全然褒められた気がしないんだけど!?」
何時の間にか少し、いや、かなり心が軽くなっていた。恐らくは、このマナリーという存在のおかげだろう。
進む先を示してくれた。彼女はそんなつもりが無かったろうし、そんな重さだって無い女なのであるが、レイトは今、感謝している。
(次の目標がある……少なくともそれを示してはくれた。落ち込むのも、自分の存在に対して不安に思うのも、その後にだって回せるから……今は前に進もう。まだ、進む先がある)
図書室の中であったが、レイトは空を見るために顔を上げる。塔の中なのだから、窓から見える空だって偽物であるが、それにしたって顔を上げた。
そうして、思い浮かぶものがあった。
「あっ……クジラ」
ずっと、両親に言われていた事。レイトが塔を落ちる事になった契機となる存在。それをレイトは思い出す。
空に浮かぶクジラ。そのクジラが空に見える日は、家でじっとして、祈りを捧げなければならない。
それはつまり、クジラが空に浮かんでいる時は、余計な事をしてはならないと言う事。
レイトは実際、その時の行動の結果、塔を落ちた。つまり……今の階層から、別の階層へと向かう機能がクジラにはあると言う事ではないか?
「魔法とクジラ……例えば、クジラに向かって魔法を使う。そういう行為の結果、次の階層に向かえるとか?」
メイリーの結論は些か直情的であったが、今の状態から変化を起こせる可能性はあった。
しかし問題が一つある。
「この塔の中の空でも、クジラは見れます。僕は良く憶えている。けど、この空が塔の外の空とほぼ同じ時間と状態を示しているのだとしたら……」
「あ、確かにちょっと問題があります」
レイトが心配する事。同じ問題にメイリーも至ったらしい。彼女はレイトの言葉に頷きながらその問題についても言葉にする。
「今の冒険を始める一日前が、丁度、クジラが空に見えた日でした。塔の中で何日か経っていますが、どうします? まだ一週間以上の期間がありますが」
一度塔を降りる。と言うのも手だろうか。クジラに魔法を使う事が次の階層への鍵なのだとしたら、それもやはりレイトにしか出来ない事で、他の冒険者に先を越される事も無さそうであるが……。
「何言ってんのよ。次にクジラが空に昇る日まで、食糧もギリ間に合うんだから、このままいっちゃいましょうって」
「マナリーさん……そう言いますが、相当な期間、この塔に居るって事で、その消耗は無視できないレベルで―――
「ここで一度塔を降りて、それで何かが折れたりしない? 今はまだ良いけど、きっとあなた、色々考え始めるわよ。だいたいがいけない風な事を」
「……それは」
「私だって、ここで一旦引き下がるなんて満足できない。いっそ立ち止まるにしても、行けるところまで行きたいじゃない。満足って、そういうところにあんのよ」
結局、マナリーが言いたいのは、馬鹿みたいに、考えず、止まるまで止まりたくないと言う事。
馬鹿らしい考えだ。頭の足りない情動に突き動かされた、考え無しの行いだ。
けれど、レイトもそんな馬鹿みたいな事をしたくなっていた。
「メイリーさん。僕も出来れば……ここでひたすら、クジラを目指したい」
空を見上げる。偽物で、クジラも浮かんでいないその空。それを、クジラがやってくるまで眺め続けるつもりだった。
「はぁ……多数決でしたら、私は常に不利な気がします。けれど、無為には過ごさせませんよ。食糧の余裕が無くなりますから、代わりになりそうなものをまず探します。後、レイトさんはこの図書室や、それ以外の場所で、資料を読み解く事も続けてください」
メイリーも納得してくれた様だが、マナリーよりも少々厳しい。だが、その厳しさだって、次にするべき事を示してくれる以上、レイトには心地良かった。
「了解です。じゃあ、さっそく、何かを始めましょうか。空にクジラが浮かぶその時まで」
やるべき事がある以上、時間は早く感じられる。
日々と言えば良いのか、塔内部での滞在は、場所が街の風景をしているだけに、想像よりは消耗しなかった。
と言うより、寝床がしっかりと存在しているため、体調を整える事すら出来たのだ。
食糧についても、幾つかの家で、保存食の様なものを調達できた。
もっとも、作られてからどれだけ経っているか分かったもので無いため、持って来た食糧を先に消費している。
資料集めにしても上々だ。むしろ時間を潰せる主な作業がそれくらいしか無かったため、塔についての情報を随分と知る事が出来た。
恐らく、今後について非常に役に立つ資料のはずだ。
何にせよ、問題は無かった。問題無く時は過ぎ、そうしてその時はやってくる。
「クジラが見えた」
その日。朝焼けが街を照らし始めるその瞬間に、レイトは街全体を見下ろせる小高い丘の上に立っていた。
近くにはマナリーとメイリーのポートリー姉妹が立ち、同じく空を見上げている。
朝日が照らすのは街だけで無く、空に浮かぶクジラもだ。
(今日は外に出ているし、祈りもしないよ、クジラ)
家に籠って祈り続ける日々は終わりを告げた。きっと、この瞬間のためにレイトは存在していたのだろう。
(けど、そこから先はどうかな。そこから先へ進む事を期待されていた? それとも、用済み?)
クジラに手のひらを向けながら、レイトは考える。幾らか情報を集める事は出来たが、それでも、レイトが生きる意味についてはまだまだ足りない状態だった。
確かに自分は、塔へ再び人を招くために生み出された存在らしい。
塔はその長い年月の中で、劣化している部分があり、結果、人を塔へと昇らせる事が出来なくなった。
また、人の側も大きく変わり、今この瞬間も変化を続けている。塔はその変化について行けなくなってしまった。
その人と塔の間を埋めるためにレイトは居る。生まれた瞬間に与えられたその使命を、今ここで果たそうとしている。
(もし、僕が本当にそれまでの存在なんだとしたら、ここで、マナリーさん達を次の階層へ案内する時点で、その存在は消え去るかもね)
役目を終えた生き物は、そこで終わる。そういうものだろう。けれどもし、その先があるのだとしたら……。
(僕は、愛されて生まれて来たって事でもあるのかな)
余生があるのだとしたら、それは、役目を終えたのなら好きに生きろという愛があるのでは。
レイトはそう信じる事にした。自分の存在について、そのすべてをまだ知れていない以上、そう信じる自由だってまだあるのだから。
「準備は良いですか? お二人とも」
「おーけーよ。さんざん待たされたんだから、むしろさっさとやっちゃいましょう」
「今ここで、慎重に行きましょうと言うのも、馬鹿らしい話ですしね」
ポートリー姉妹の方も乗り気で良かった。彼女らはレイトの事なんて、欠片も心配していないのだ。
これからの事を、次の階層は何が待ち受けているのかを、それだけを彼女らは心待ちにしているのである。
(僕だってそうだ。そうありたい。ずっと、この先も歩いて行きたい。だから……)
進んでみよう。レイトはクジラに向かって魔法を使った。
光を発するだけの魔法だ。ただ、その場が明るくなるだけの魔法。そのはずなのに、レイトの手のひらから発した光は、まっすぐクジラへと伸びて行く。
光は正にレイト達をクジラへと導いていた。
次の階層。塔の50階とは即ち、クジラそのものなのだ。
大地が遥か下に見る。
その光景はと言えば、まるで天国にでも来たかの様である。
「もしかして僕、死んだ?」
「生きてるわよ。一緒に死んだりしてない限りわね?」
「姉さんは確かに、死後は天国にしか行かなさそうですよね」
「どういう意味!?」
隣でポートリー姉妹の、何時も通りの痴話喧嘩が聞こえて来た。それをひたすらに姦しいと思う心があると言う事は、恐らく生きてはいるのだろう。
「……クジラから見る大地ってところですかね、ここは」
透明な、ガラスの様な質感の床にレイト達は立っていた。
クジラに魔法を向けてからすぐ、何時の間にかレイト達はここに居たのである。
床からは外の景色が見え、街と、その中心に聳える塔が、豆粒の様な大きさに見える高さに居る事を実感させられる。
はっきり言って、状況が突拍子の無いものであるからこうやって話が出来ているが、この光景だけで腰が抜けそうだった。
「塔とクジラは関係のあるもの。確か街にあった資料にも、そう書かれていたのでしたね?」
メイリーの問い掛けに頷く。ここは言ってみればクジラの腹の中なのだ。クジラは空に浮かぶ、塔とセットの構造体なのである。
勿論、塔がかつて人が作ったという前提のものであるとしたら、クジラもまたそういう存在と言う事。
確かに、クジラの腹の中は自然物では無さそうである。
「クジラの中も、塔の中みたいよね。あっ、塔の中って言っても、森にしか見えなかったり草原にしか見えなかったりするんじゃなく―――
「家の中……それも金属で出来た。と言ったところですか?」
ポートリー姉妹は興味津々にあちこちを見ている。放って置いたら、クジラの中を動き回り始めるだろう。
「元がクジラでその後に塔が出来た……らしいですよ。ここにもかつて、多くの人がいた。塔程ではありませんが、クジラも相当な大きさだ」
中を歩き回ったら、一日二日では済まない広さがある。なのでポートリー姉妹が動き出すより前に、レイトが先導する。
「ほぼ、塔のゴール地点みたいな場所ってところですね、ここは。僕たちは……漸くここに辿り着いたわけです」
そうして、レイトはまだここに居る。それはまだレイトに役目があるからか。それとも、既にレイトは、自らの意思で、自らの選択で、今を生きているのだろうか。
「やだ、嬉しい。っていうか、とんでもないところまで来ちゃったって驚きの方が強い」
レイトの先導に合わせて、まずマナリーが付いて来る。彼女は驚いていると言うが、相変わらずの軽さだ。
「その……ここに来て、何かを得るという立場……なのですよね、私達」
メイリーの方は、漸く事態の重大さに気が付き始めた様子。
それはその通りなのだ。塔は、そうしてここにあるクジラは、かつて人が持っていた力を、再び人へ渡すためにここにある……そうだ。
これにしたって、塔の中の街で手に入れた話でしか無いが。
「塔の街に資料として残っていた話はこうです。かつて人はクジラや塔を作り出せる程の力を持っていた。その力をもってして、この空の下に広がる世界を支配もした。けど……その生きる範囲を広げる内に、何故かかつてあって力を失ってしまった」
その理由については、塔側の方がこの状態をイレギュラーだと考えていたのだから、はっきりと分かっていない。
レイトが個人的に思うところで言えば、結局、過ぎた力となってしまったからではないだろうか。
(人は……もう既に、変わらず大地を生きている。これを支配していると言えばしてるって事だろう。そりゃあ天災も戦争もあるけど、それでも生きてる。かつてあった力なんて、殆ど利用なんてしていないんだ)
必要の無い力だから、時間を経るにつれ失う。そういうものなのだと思う。意味も無くそこに残って居られるのは、生きている人間くらいなものだ。
(じゃあ、そんな必要の無くなった力を、もう一度手に入れようとしている僕は何だ? 世の中にとって余計な事をしている? それとも、塔を昇り始めたのは大地に住む人々だったんだから、それも人々の意思?)
大層な事ばかりが頭に浮かんでくる。状況が大層なものなのだから仕方ないとは言え、レイトはつくづく、自分がどうやら重要な立場に立っているのだと認識させられる。
「考えてるとこ悪いけど、どこに向かってるかの説明くらいしてくれれば良いって、私思うの」
「ここに来る前に、一通りの説明をしたと思うんですが……」
マナリーの事だから、それを憶えていないのだろう。溜め息を吐きたくなるものの、吐いたら疲れがどっと出そうだったため、抑えておく事にする。
「試練ですよ、姉さん。これまで、塔自体がそうだった様に、このクジラの中でも試練が待っているんです」
慣れた様子のメイリーが言葉を挟んで来る。レイトも、そろそろこういう慣れが必要になるくらいに、マナリーとの付き合いが長くなって来ていた。
「試練ったーて、何と言うか、ここまで来ても面倒よね?」
「それくらい、この先にある物が重要なんでしょう。本当にそうか分かりませんけど……塔やクジラの側はそう思っている。だから人は慎重に選びたい」
「それが私達? 私達がそんな立派?」
大した人間だとは思う。レイトは兎も角、マナリーは人より抜きん出た何かがあるのだ。もしくは、人より大きくへこんだ何か。
どちらにせよ、やはり大層な力なんてものは似合わなそうでもある。
「名誉……あと、少しの金銭。私達が得たいものはその程度のものでした」
メイリーの方とて、このクジラや塔をどうこう出来る力なんてものは望んでいない様子。だとするなら、塔は人を選ぶのを間違えたと言う事か。
「その結論だって、実際に最後まで辿り着いてみなければ分からない。まだ、もうちょっと、進む先はありますから。考えるのは……その後と言う事で」
その後。少し歩いた場所にある一つの扉。そこにレイトは辿り着く。
塔の49階。その入口にあった巨大な扉よりは、随分と小さな扉。こんな小さな扉こそ、レイト達が目指し、辿り着いた最後の扉だった。
「この先に待っているのは、どの様な試練なのでしょうね」
心配性のメイリーの問い掛けには、首を振るしかない。縦では無く横だ。ここから先はレイトだって分からない。
いや、もうとっくに、レイトの進む先は分からないものになっていた。ただ、今はそれが、何故だか嫌ではない。
「どんなのだって、ここまで来て、止まるって事は無いわよね」
ああ、その通りだ。止まるなんて馬鹿げている。目の前の扉は別に鍵が掛けられている訳でも、開くのに魔法が必要な訳でも無い。
むしろ、レイト達を招く様に、勝手に開いた。手で触れさえしていないと言うのに。
「油差してるのかしら……」
「差して扉が勝手に開く油と言うのも無いでしょう……レイトさん?」
ポートリー姉妹の言葉がレイトを通り過ぎる。二人の声より、開いた扉の向こうにあったものに気を取られたからだ。
「人形……」
扉の向こうは、それなりに広い空間があった。ちょっとした広場と言えるかもしれない。その中心に、人形が立っていた。
49階の街で散々に見た人形だ。かつて、レイトが本物の人間だと信じていたただの人形。
それが一体、広場の中心に立っていた。
「あれが……試練?」
レイトはその人形へと近づいて行く。この人形を見るのは苦手だった。苦手になったと言った方が良いかもしれない。
あの人形には、嫌な思い出しか刻み込まれていないのだから仕方ない。
「レイト! 退きなさい!」
また、これも何度も遭った事であるが、マナリーの横へ飛ばされる。今度は押し退けられる形だ。
突如動き出した人形がレイトへと襲い掛かって来たのだから、これも仕方ない。押されて転ぶのは痛いものの。
(もうちょっと、反射神経も鍛えないとな!)
考えている間も、状況は目まぐるしく動いて行く。レイトを狙った人形は、そのままマナリーを標的に変え、手刀の様に手を尖らせてマナリーの胴体を貫かんとする。
その速度、その固さは、実際にそれを可能に出来そうだったが、人形にとっては残念ながら、咄嗟の動きはマナリーが上らしい。
人形の手刀はマナリーの得手である棒で防がれる。
(相変わらず……人間離れしてるなぁ!)
レイトはやっと姿勢を立て直す。目の前の光景に驚嘆はするものの、のんびりもしていられないからだ。
マナリーが人間離れしているのだとしたら、人形はそもそも人間ではない。防がれた手刀であるが、それはマナリーの棒をへし折るに十分な威力だ。
結果、マナリーは攻撃を防ぐものの武器を失う。
そんなマナリーを援護するのはメイリーである。姉妹揃ってのコンビネーションはまさしく息の合ったものであり、武器を失ったマナリーは後方へ、一方でメイリーが人形と向き合う。
メイリーの短剣はマナリーのそれより幾らか頑丈だろうが、威力には欠ける。技巧に富んだメイリーとは言え、繰り出される人形の手刀を受け流すのが精一杯の様子だった。
「なら、僕も援護しなくっちゃなぁ!」
もう使用を隠す必要の無くなった魔法。空気中に雷光を走らせる魔法をレイトは発した。
青く輝く雷は、まさしく雷の速さでもって人形へと向かう。
メイリーを巻き込まない様に威力を抑えたそれであるが、人形に直撃すればそれなりの衝撃力となって届く。
(できれば、何かしらの作用で機能を停止してくれればそれが一番なんだけど……そうも行かないか!)
威力を絞った雷撃は人形を数歩の距離を後退させただけで終わる。もっとも、その後退を活かせぬポートリー姉妹ではない。
メイリーがまず、生じた隙を使って、予備の短剣を腰から抜き、後ろの姉に向かって放り投げる。続き後退した人形へとむしろ接近。持った短剣で人形の関節を狙う。
人形はそれを避けるか防げる程に素早いだろう。だが、メイリーから短剣を受け取ったマナリーが、ほぼ同時に二撃目を突き入れる。
メイリーの攻撃を避ける人形も、マナリーの一撃には虚を突かれたらしく、その左腕の根にある球体の様な関節へ、深々と短剣が突き入れられた。
切断まではまだ遠いが、左腕の機能を奪ったらしい。力が抜けた様にぶらりと下がるその腕。人形は人形らしく、その腕をもう一方の腕で引き千切った。
「あっらぁ……大胆ね」
人形は自らで引き千切った腕を持ったまま、ポートリー姉妹へと向けた。
(一本、腕を失った代わりに武器を手にしたってところか……)
ポートリー姉妹は短剣一本ずつ。人形はそれより長い腕が一本。有利なのはどちらか。レイトから見れば五分五分と言えた。
だからレイトは再び魔法を使う。ここまで来て、足を引っ張るつもりなど毛頭ないのだから。
「二人とも! 今度はもっとキツいのを放つ! だから……」
「距離は離さない! だからしっかりとぶつけなさい!」
甘えなんて許してはくれない。それくらいの関係性をマナリーとは築けていた。
マナリーは最後まで人形の動きを妨害するはずだ。レイトの魔法が人形へぶつかるその時まで。
(僕がしくじれば……少なくともマナリーさんは巻き込まれる)
外すわけには行かない。使う魔法は的確に。放つタイミングは適切に。起こす結果は理想通りに。
レイトの集中力は、これまでに無い程に高まっていた。恐らく、ポートリー姉妹はこの様な状態を、戦闘中は常に維持しているのだろう。
だが、レイトには今、この瞬間だけで精一杯。その一瞬に寄り魔法を放つ。小さな火の塊だ。それが一直線に進み、争うマナリーと人形の元へ。
「それが人形にぶつかった瞬間に退いて!」
「了……解!」
マナリーは最後まで仕事を果たす。メイリーは既に引いていた。人形はその動きをマナリーが振るう短剣に妨害され、逃げ出せず、大きくその場を動けない。
小さな火はなおも近づく。だが、その着弾点はマナリーの腕に近い。しかし、それも織り込み済みだ。
マナリーは人形の突き出された腕を掴み、さらに自分側へ引いたのだ。
結果、マナリーの腕にぶつかりそうだった火は、人形の腕にぶつかる。その瞬間、マナリーもまた人形から離れた。
レイトを信用したものであろう。その引き際はみっともなく、ただひたすらに、その後の事を考えない退却だ。
もし、人形が追撃する事があれば、その隙を突かれてトドメを刺される様な、そんなマナリーの引き際。
勿論、レイトは人形にマナリーを追撃させるつもりは無かった。
「そこで終わりだ」
実際問題、火がぶつかった時点で勝負は付いた。
小さな火は、人形にぶつかった後、すぐに燃え広がった。瞬時に人形とその周囲の空間を焼き尽くさんばかりに広がる。
それだけでは無い。広がった炎は一瞬、収束し、その炎を減じたかの様であったが、その後に大きく爆発した。
炎で燃やし爆殺する。そんな危険極まりない魔法を、レイトは放ったのだ。
「じょ、冗談じゃあないわねっ」
引いたマナリーがその光景に腰を抜かしていた。少しでも遅ければ、間違いなくこの爆発に巻き込まれていただろうから。
「ちゃんと逃げてくれるって信じてまし―――
結果を見るためにマナリーの側へ近づこうとするも、レイトはその行動を止める。
人形は、まだそこに立っていたからだ。
「くそっ、まだ終わってなかった!」
「いえ、終わっていますよ」
メイリーの指摘により、レイトは幾分冷静さを取り戻す。確かに、人形は立ったままであるが、終わってもいた。
爆発の中心点となった腕からその体を大きく損壊し、抉れている。全身は黒焦げに近いもので、ポートリー姉妹の攻撃により失った片腕を合わせれば、むしろ立っているのが奇跡的と言う状態だろう。
とても動けたものではあるまい。だが、そんな人形であるが、それでもこちらを見ている気がした。
「……」
こちらを見ている。確かにこちらだ。ポートリー姉妹では無く、レイトの方を。
何故、そこでそう思ったのかは分からない。49階の街で見た人形。あそこでも、分からず呟いた言葉があった。
あの時は、人形が母に映った。そうして今度は―――
「ミーシャ……君なの?」
何時か、とても昔に、恋をしていた女の子。
顔が思い出せないその女の子を、レイトは黒焦げて半壊した人形に見た。
気のせいかと思ってしまえるくらいに、それは酷い姿だった。なのに、だと言うのに、声が聞こえる。
『レイト……ありがとう。あなたの事、みんな愛していたのよ?』
声は気のせいなんかじゃなかった。記憶にだってしっかり残っていた彼女の声。
レイトはその声を聞いて、どうしてだか無性に泣きたくなっていた。
「今の声は……知り合い?」
「はい。多分……良く知って……あれ?」
何時の間にか近くに立っていたマナリーが、そっと肩に触れて来た。
こちらの表情を見られていたのかもしれない。
けれど、慰めて欲しいとは思わないから、レイトは涙を拭う。
「ミーシャとは……ずっと一緒に居て……それで……それで……最後にありがとうって……言って……だから多分、僕は……まだ進めるって事が分かって……」
拭う涙が止まらない。色んな思いが、この場に来て溢れ出て来た。
ずっと、ずっと望み続けていた場所。追い出されたと思っていた場所。何時か、決着を付けるべき場所。
それがこんなところにあった。下の、塔の中の街こそその場所だと思っていたのに、まさかクジラの中にあったなんて、レイトは想像すらしていなかったのだ。
だから、涙こそ拭ってはいるものの、出て来る感情を止めようとは思わなかった。今ここで、漸くレイトは自らの産声を上げられるのだ。
「少しだけ、休みましょうか、姉さん」
「そうね。多分、この後ってのもゴールしか無さそうだし……ここで一度立ち止まって見るのも良いかもしれない」
ポートリー姉妹の気遣いが、今は有難かった。
レイトは暫く、この場を動く事が出来そうになかったから。
もしかしたら、ずっとそこに居るかもしれない。
最初はそう思えたものの、溢れ出た感情だって溢れ出ている以上は、何時かは止まる。それが予想より早く終わったのは、レイトにとって驚きだった。
何かに別れを告げるというのは、そんなものなのかもしれない。
「これから僕はどう生きるのか……とりあえず、この先にあるものを見てから決めようと思うんです」
人形が転がる広場から次の場所へ続く扉の前で、レイトは呟く。ポートリー姉妹に言う事では無いと思うのだが、それでも言って置きたかったのだ。
恐らく、彼女らとの関係も、ここを開けた先で終わるだろうから。
「そんなに深刻に考える必要ないわよ。ただ確認するだけ。もしかしたら、また次の階層があるかもしれないし」
本当に大した事も無さげにマナリーは扉を開いた。広場に入って来た時と同様、近づくだけで勝手に開いたのだ。
そうして中から何かが飛び出す。
「っ……!」
全員が驚きの表情を浮かべたはずだ。少なくともレイトは腰が抜けそうになった。
ここにおいて、有り得ないものが飛び出してきたからだ。
鼠である。
「びーっくりした! あいっかわらず塔の鼠は大きいわねぇ! けっこうどこでも見るけど……」
「いえ、こんなところにも居るものなのですか!?」
姉妹揃って、逃げ出しはしないが鼠は苦手な様子。扉から出て来たのが一匹だけなら兎も角、一気に数匹も飛び出して来たのだ。嫌な気分にはなるだろう。
「塔も殺鼠用の機能はあんまり無さそうですからね……それでも、クジラの中にまで居るのは驚きましたが……街の人間より、こいつらが先にここへ辿り着いたんだ」
なんとも皮肉な状況だった。
人間達の必死の努力も、この鼠たちの生存本能が上回ったと言う事なのだ。得てして世の中そういうものなのかもしれない。
そうして、レイトは開いた扉の先を見て、さらなる皮肉な光景を目にする事になる。
「ここがクジラの中心って事……なんでしょうね……」
レイトは口元を抑えた。その部屋。塔を遥かに昇り、クジラの中へと入り、漸く辿り着くそのゴールは、鼠によってあちこちを喰い荒らされた汚らしい部屋であったからだ。
「うわっ……嫌なもん見たわよこれ」
「姉さんに同感です。ほら、みてください。多分……ここにある紙ですかね? 薄いガラス板などもあちこちにありますが、ここへやってきた人間に対する何かが残されていたのでしょう。けれど……すべてがボロボロ」
鼠に喰い荒らされ、糞に汚れ、見るも無残な光景だ。
レイト達はひたすら、こんな部屋を目指して塔を昇って来た。そういう答えがここにある。そんな光景を見て、レイトは抑えていた口元から手を放した。そうして―――
「はっ……ハハハ……ハハハハ!」
抑えられなくなって笑う。ああそうだ。こんなにも可笑しい。
これなのだ。レイトが塔を落ちる事になったのも、塔がそもそもレイトを用意しなければならなくなったのも、塔がひたすらに人が戻って来る事を求めたのも、この光景があったからだ。
鼠のせいで、塔の機能に支障が出たのだ。だから人を招けなくなった。そうしてレイトが生まれた。けれど、そのレイトも、機能に支障が出た塔は落としてしまう。遥か下側の街へ。
「そんな事だったんだ。捨てられたわけでもなく、意味も無く作り出されたわけでも無く……ただ、何の事は無い事故がここにあった」
「楽しそうに納得してるとこ悪いけど、どうすんのよこれ! お宝だったり誇れる名誉だったり? そういうのがあるって期待してたのに、とんだくたびれ儲けじゃない!」
「ま、まあ姉さん……道中に、換金できそうな物は調達していますし? 今回の冒険で損にはならないかと」
「そういう事じゃなーい!」
怒るマナリーには申し訳無いが、冒険は残念ながらここでお終いだ。
レイト達だって、塔の中にいる鼠すべてを駆除できないし、駆除している間に増えるだろう。そもそも、既に冒険の到達点自体がこの様に荒らされているのだから、すべてが後の祭りだった。
「……一旦、帰りましょうか。塔の一番上には鼠の巣がありますよって報告するのも良いし、隠して、次の冒険者達を生暖かく見守るのも良い」
言いながら、レイトは引き返す。再び人形が転がった広場までやってくるのであるが、そこでも少々、複雑な気分になってしまう。
(ごめんね、ミーシャ。君や君たちが、僕にどこまでを望んだのかは分からないけど……僕の塔の旅はここまでだ。その次は……どうしようかな?)
答えはまだ出ていなかった。最後の場所にそれがあるかと思ったのだが、そんな上手い話は無いらしい。
なら、塔を降りるまでには答えが見つかるか。そんな風に思いながら、クジラの中において、最初にやってきたガラス床の空間までやってくる。
変わらず、遥か下の大地が見えるその場所で、異変は起こった。
『正式に人間種の帰還を確認しました。シークエンス3を開始します』
「え!? な、何よ!? 何なわけ!?」
空間にまた声が聞こえた。49階の扉を開いた時の様な、良く聞こえるが感情の起伏が無い声。
変化は声だけで無く、空間そのものにも広がる。いや……。
「姉さん、レイトさん! 下を! 床から見える大地の光景を見てください!」
メイリーに言われるより前に、レイトの視線は下側を向いていた。大地が小さくなっていたからだ。嫌でも目に付く。
いや、そうじゃあない違う。大地は小さくなんてならない。クジラがその高度を上げているのだ。
「嘘っ。これって、帰れなくなったりしない!?」
慌てているマナリーを横目に、レイトは考える。この変化は何を意味しているのか。
(さっきの声の通りなら、僕らが来たから、何かの変化を起こしたって事だよな……だったら、それほど大変な事態じゃあないのか?)
塔は人間を歓迎している。そのはずだ。であれば、ここから起こるのは、その歓迎を形にしたもの。もしくは―――
「あっ……」
レイトが頭の中で答えを考え出すより早く、目の前の光景に答えは広がっていた。
何時の間にか、部屋全体がガラス板の様に周囲の光景を透過していたのだ。
そうして、クジラは高度を上げて、より広く、レイト達は広がる大地を見る事が出来る。
「あらやだ、私達が生きている場所って……丸いのね」
地平線が円を描く。空は夜では無いはずなのに黒く星々が見え、大地はそれでも太陽の光で明るく輝いていた。
どこまでも、世界の果てまでも見られそうな光景だったが、マナリーの言う通り、丸い大地のせいで、向こう側を見る事は出来ない。もしかしたら、この世界に果てなんて無いのかもしれない。
「あの……何かあちこち、光っている様に見えませんか?」
メイリーからの指摘で気が付く。確かに、大地のあちこちで光りを放つ何かがある。
「あ、けど、違うな。大地が光ってるんじゃなくて、この床板がそう見える様に光ってるんだ」
大地そのものが大層に光りを放っているわけでは無いらしい。微妙な位置のズレがあってそれに気が付く。
「ってことは、本物の大地を使った地図みたいなもんよね、この光景って。じゃあ、光ってるところはお宝がここにあるぞーみたいな……どったの?」
「メイリーさん! マッピングお願いします! 何時までこの景色が見れるか分かったもんじゃあない!」
「もうやってます。ええっと、下の街の大きさから考えて、実際の縮尺は……」
マナリーの恍けた言葉に反応して、レイトとメイリーは動き始めた。
宝の地図。そうなのだ。この景色は、塔が、クジラが、ここに大事なものがあるぞと言う事を示す地図なのである。
塔やクジラだけでもとんでもない代物だが、この光が示す場所には、それと同等のものがあるかもしれない。
そういう予感をさせる光景が今、見えるものだった。
「んー……何でしょうね、これは。ここまで来て、得るものは何も無かった……って事にはなりそうに無いわね」
マナリーの笑い声が聞こえるが、今はそう悠長にもしていられなかった。
これからのレイトにとって大事な物が、今そこにあるのだから。
「レイト。あなたが帰って来て……いえ、塔に昇り始めてからは、怒涛の様に色々な事が起こったと思いますよ」
鳩の声が聞こえ始める晴れた早朝。玄関近くで立ちながら耳にするファン師の声は、落ち着いていて、この時間と日差しにとても合った声だとレイトは感じる。
「先生がそうなんですから、僕にとってはもっとですよ。ほんとここ最近は色んな事があった。塔に昇り始めて……探索で経験を積んで、先生が望んだ49階を抜けて、僕が辿り着きたかった場所に辿り着いた」
人生と言うものが物語であれば、既にレイトのそれは終幕に近い状況だろう。
レイトはその生まれを知り、故郷がどの様な場所かを知った。
けれど、レイトはまだ生きている。恐らく、今まで生きていた時間の何倍かの時間を、余生として過ごさなければならないはずだ。
「何度か聞きましたから……これが最後。やるべき事が終わったのでしたら、この街で、安寧に過ごすつもりはありませんか? あなたが塔で経験した事は、それだけで生活するための種になる」
ファン師の言う通り、塔で学び、塔で知った事は、今後の生活費を稼ぐのに十分な代価になるだろうとは思う。
これまで、レイトはひたすらに塔の上ばかりを目指していた。その願いを果たした今、立ち止まり、休んでも良いのだぞとファン師は告げているのだ。
だが、その提案に対して、レイトは首を横に振る。
「本当は、そうしたって構わないんだって思うんです。けど……どうにも……分からないけど、塔の中で僕、誰かに燃料を注がれた気がするんですよね」
心の中に、熱い何かがある。これまで、塔に対して抱いていたものとは似ているが違う、何かの熱意。
レイトはその熱に、踊ってみたくなったのだ。
クジラの中で見た光景。本当に、そこに宝があるかは分からない。行ってみれば、何も無いなんて可能性もある。
けれど、そこに向かって、色々な物を見たいという思いがレイトにはあった。
「あなたにとって、この街は……塔も含めて、小さいものだったのかもしれませんね」
「先生?」
「いえ、私もね、塔の49階から向こうに行きたいという熱意の元、あなたを預かったわけですが……私もまた、今のあなたが持っている様な熱だけで、ずっと進んでいた気がするのです。私はもう、そこからさらに向こうに行こうとは思いませんが……若い頃ならどうだったろうと」
もしかしたらレイトは、再びこの師に、何かを託されたのかもしれない。これまでは塔のもっと上を目指せと言うものだったかもしれないが、次はもっと……形の無い、それでいて大層な物を。
「これが今生の別れにするつもりはありません。機会があればまた帰ります。けれど、今はこういうべきですよね。さようなら、先生!」
「ええ、さようなら、レイト。あの姉妹にもよろしく」
別れを告げて、レイトは荷物を持ってからファン師と、その家に背中を向ける。
思えばここも、レイトにとっては故郷と言える場所であった。
道が続いている。どこかへと続く道だ。既に街の内と外を繋ぐ門を抜けて、引き返す事は出来ない。
ここは街の外であり、レイトにとっては初めての場所でもある。
塔の中の様に資料も無い。道を進めば何があるか。それについても知らない。怖気づいて引き返したくなる思いは確かにある。
けれど、その道の半ばで待っている二人の女性を見ると、どうにも道の先を進みたいと言う思いの方が強くなる。
「お別れは済んだかしら?」
「ええ、まあ。けど、良いんですか? 僕がお二人の冒険に同行しても?」
マナリーとメイリー。待っていた二人に目を配らせてから尋ねる。
塔を昇るという冒険だからこそ、レイトはその知識を役立たせる事が出来た。だが、これからはそうでは無い。
今のレイトは、まだまだ初心の冒険者である。玄人である二人の足を引っ張る可能性はあるだろう。いや、きっと足を引っ張る。
「経験についてはおいおい、学んでください。けど、姉さんではありませんが、同行者としては良い相手なのでは無いかと、私も思いますよ」
塔の中の冒険で、得たものは知識や経験だけでは無い。どうにもレイトは、仲間を二人程、得る事が出来たらしい。
「ま、嫌でも生きてりゃ上達して行くわ。私達だってそうだったし、あなただってきっとそう。だから……ここで気にするべきは一つっきりよ?」
「へえ、それは何ですかね?」
冒険者に成り立てのレイトには、するべき一つっきりがまだ分からない。そんなレイトの問い掛けに、マナリーはにっこりと笑った。
「どこに行くか。冒険者にとって、一番大事で、一番決めとかなきゃならない事」
「クジラの中で見た光は幾つもありましたから、とりあえずそのどこかにはなりそうですが……レイトさんは、どこに行きたいと思いますか?」
メイリーの問い掛けに、クジラの中にあった光景を思い出す。どの光も、街から出て、暫くは旅を続けなければならない場所だろう。
少し考えてから、レイトは空を見上げた。雲一つ無い空。そこにはクジラだっていないわけだが、レイトは答える。
「そうですね、クジラが飛んで行った方向にでも、進んでみるとしますか」
空にクジラが浮かぶ日は祈り、空にクジラが見えない日は、クジラを追って歩き出そう。




