卒業の感傷を知る
3月の初旬。桜がよく咲いていた。こんなに満開していたなら、入学式の時は桜が残っているのだろうか。
そんな下らないことを思う。
下らないことを思うのは、逃避の表れだ。
卒業式なんてやらずにさっさと終わってくれたらいいのに。この気持ちを隠すように下らないことを考える。
これは、行事だ。業務だ。とても機械的だ。
自分の中で価値のない、式典。
俺は、卒業の定義を求め続けていた。
そして。求めた先にあるものは、願いだった。
求めても、手に入らない。そうあってほしいと、俺は自身に言い聞かせる。
どうか、どうか。
勝手に卒業させないで下さい、と。
今日は卒業式。
『卒業、おめでとう!』
誰かが言ってた。言った人物は、先生や友人や知り合いだったかもしれないし、両親や親族だったかもしれない。
もう、忘れた。
俺にとって、卒業は特別なことではない。時間が経過し、勝手にそうなった結果でしかない。
綺麗に並べられたパイプ椅子に腰をかけて、桜の花に形づけられた装飾品を胸につけて、校長の長い話に耳を傾けて。
今か今かと卒業式が終わるのを待ちわびている。
周囲の生徒はすすり泣き、嗚咽を漏らしている生徒もいた。
鬱陶しい。さっさと終わってくれと願うばかりだ。
この高校に入って三年間。思い出がないわけではない。思い入れはあるほうだった。
友達もできて、部活にも入って、委員会にも参加して、庶務ではあったけれど生徒会にも一時期入っていた。多くの後輩ができて、先生とも仲良くなって。
ただ、それだけだ。
高校を卒業したら、二度と会えなくなるわけじゃない。また会えるからこそ、涙は流さない。
なぜそこまで感情的になれるのか。俺には理解できなかった。
卒業なんて、結果でしかないのだから。なんだかんだで、三年間過ごしただけのもの。時間さえあれば、手に入れるもの。感情なんて沸いてこない。ここが、俺の通過点でしかない。
「卒業証書、授与」
司会が言った。
気がつけば、校長の話やら生徒代表の話やらは終わっていたらしい。
俺や他のクラスメイトは一斉に立ち上がる。ここから司会が名前を呼ぶ。名前の呼ばれた一人が、壇上に立って校長から卒業証書を受け取る手筈だ。
出席番号が小さい順から、壇上へ歩き始めた。
クラスメイトは、一歩一歩踏みしめながら壇上に向かっていく。
今、どんな気持ちなのだろうか。
早く帰りたいと思うのは俺だけなのだろうか。
一人目が卒業証書を受け取り、元いた席に戻ってくる。
その生徒は目元が腫れているように思える。しかし、なにかに満たされていたような表情だった。
彼はなにを受け取ったのだろう。卒業証書以外のなにかを受け取ったようにも見えた。
そして、長い、長い時間が流れる。
短いようで長い時間。司会以外では、誰も話すことなく。沈黙の時間帯。
静寂に包まれた卒業生のためだけの時間。
「卯月 春」
俺の名前が呼ばれて、壇上へ歩き始めた。皆が皆、壇上に注目している。俺だからじゃなく、卒業式だからだ。俺が注目されるなんてことは今後もうない。
気怠い身体を動かして、壇上に立つ。
「おめでとう」
校長が言う。俺は軽く会釈して、
「ありがとうございます」
と返した。
卒業証書を受け取って、元の席へと向かう。
瞬間、脳内に声が響き渡る。
『卒業、おめでとう!』
俺は一度足を止めかけたが、思いとどまり再び歩き始めた。
今の声は、誰だろう。
その疑問は解消することなく、そのまま卒業式は終了した。
卒業式が終わり、自由になった。
正確にいえば違う。卒業式終了後、一度教室に戻ってホームルームをした。担任の先生は「他にも話したい人がいるだろうから、解散! 皆、達者でな。風邪ひくなよー」と言っただけでそのまま自由解散となってしまった。
特にすることもないので、帰るとしよう。
「お疲れー。春ぅー」
「……おう」
教室から出ようとしたら、声をかけられる。声をかけた人物は、友人の阿部 悠磨だった。
ガタイの良い体格、年中見てきた角刈りヘアーの頭。いかにも体育会系といった風貌だ。クラスメイトの信頼も厚く、リーダーシップのある奴でこいつとは、三年間同じクラスでかれこれ一番長い付き合いだ。
「それでどーよ、春。卒業した感想は?」
肘でつつきながら、口元を吊り上げる。
俺には茶化しているように思えたが、若干目元が潤んでいる。そういえば、最初に壇上で卒業証書を貰っていたな。その時の余韻でも残っているのか。
余韻に浸りたいのを悪いが、俺は正直な気持ちを伝える。
「早く帰りたい」
「おいおい、そりゃねーだろ。せっかく、卒業したんだ。今までの思い出を語り合おうじゃねーか」
「語るだけなら、いつでもできるだろ。俺の連絡先教えてるし」
いちいちここで話す必要はない。
しかし、阿部は唇を突き出しながら、ブーブーと反論する。
「今じゃなきゃダメなんだよ。今、語るからこそ意味があるんだよ」
「はあ。わかったよ。少しだけな」
卒業式やホームルームが早く終わったおかげで、何人かと話す余裕があった。この後の予定はないが、夕飯の買い出しに出かけよう思っていたところだ。今日はタイムセールのため、時間が限られている。
幸い、まだまだ時間はあった。
「春はさ、結構いいとこの大学に進学すんだろ。いいよなー。俺も安定で将来安泰な仕事がしたいぜー」
「良いとこ進学したければ、勉強すればよかっただろ。あと、良い大学行ったからって、必ずしも安泰じゃないからな」
「勉強か、勉強するか……。春、俺は今日から勉強するわ」
「もう遅いだろ……。受験シーズンほぼ終わってるし」
阿部は実家の寿司屋を継ぐために、どこかの店で働く予定と聞いていた。
むしろ、両親の仕事を継ぐ方が安泰だろ。固定客はいるだろうし、こいつの寿司も結構美味い。
「お前はどこだっけか? どこか修行に行くんだったよな?」
「おうよ! 寒い北の大地の方にな。親父の知り合いのとこで何年か修行していこうと思ってる。来年には寒くてくしゃみしながら寿司を握ってると思うぜ」
お前、シャリに飛沫をかける気か。
一度、衛生面考えて出直してこい。
「本当は実家のほうで働く予定だったんだけどな。親父が許してくれなくてよ。広い視野を持てって言われて、別のところに行かされる羽目になった」
「そうか。なら、あんまり会えなくなるな」
それはそれで寂しいと感じてしまう。
阿部との出会いこそは高校からで短くはあったけど。それでも、三年間仲良くしたわけだし、愛着はある。
「電話は毎日するから大丈夫だ! 安心しろ!」
「やめろ」
かなり迷惑だ。
もしやろうものなら着信拒否を考えるぞ。
「春とは三年間色々あったけどよぉ……。なんかこう卒業式になるとなんでも懐かしくなっちまうな」
「お前の家でエロ本バラまいて、妹にバレたときとかな」
「ああ……。あれ、あの後大変だったんだぜ。内容もロリ系でハードなモノだったから、妹に一週間ぐらい避けられるしよ。両親には、ロリコン鬼畜レイプ野郎って言われるし……」
「それとあれか。お前の席にエロ本詰めまくったり」
「思い出したくもないな……。俺の席から落ちたエロ本を、隣の女子が拾って悲鳴を上げられて……。学校全体に知れ渡って、皆が俺を変態扱い。先生からも冷ややかな目で見られてな。すごく辛く苦しい戦いだった……」
「あとあれか。エロ本を……」
「エロ本のくだりしかねえのかよっ! 俺との思い出はよ!?」
いや、確かに他の思い出はあるけど。
こいつからエロ本を取ったら、何も残らないというか。そういう変態の印象しかない。それでも、やるときはやる男だったから、エロ本どうこうで落ちる信頼ではない。騒いでいたのは些細な期間だけで、何日かしたら「男はそういうもの」という認識で片付いていた。
阿部は咳払いをして、
「とにかく、この三年間はかけがいのない時間になったよ。それだけは確かだ。ありがとな」
「そうか」
阿部は手を差し出してくる。
俺は反射的に手を差し出し、握手を交わす。力強い、握手だった。
「そういや、春は泣かないのな。こういう時は泣いてもいいと思うけど」
「人によるだろ。泣くのなんて」
「それはそうだけどさ。でも俺はお前が泣くほうの人間だと思ってた」
「なんだそれ」
なんでもないと、阿部は小さく呟く。
何だか阿部の言っていることが腑に落ちない。
そもそも、俺には泣く理由がない。卒業したから泣くというのもおかしいだろう。
「おい、阿部。こっちに来いよ――――――! 写真撮ろうぜ!!」
別の友達が阿部を呼んでいる。教室で記念写真を撮るようだ。
阿部は行くかどうか迷っている様子だったので、俺は溜息を吐く。
「気にすんなよ、行ってやれ。お前にも他の奴と付き合いがあるだろ」
「……すまねえな。じゃあまたどこかで」
「なあ、阿部。最後に一つだけいいか?」
「ん?」
「お前は、泣いたのか?」
俺がそう阿部に尋ねると、一瞬の間ができた。
阿部は手に顎を当てて、考える素振りをみせる。数秒、唸ってから口を開く。
「……いや、泣いてなんかないよ」
「そうか」
こいつは嘘がつくのが下手だ。
阿部は、すぐに表情に出てしまう。声質に出てしまう。一瞬の間で察しがついてしまう。
しかし、俺はそれ以上何も聞かなかった。
阿部には阿部の思うところがある。お互いに踏み込んでいい領域がある。それをお互いに理解しているからこそ、友人で居られたんだろうと思う。
俺達は友人こそなれても、親友にはなれなかった。
それだけの話だ。
「なんかあったら、連絡してくれよ。春」
「ああ、じゃあな」
俺達は反対方向で別れる。
俺は家の方へ。阿部は自分の友人たちの方へ。阿部と一緒に行くなんて野暮なことはしない。
阿部の友人達は俺を呼んではいないのだから。
「春!!」
名前を呼ばれる。振り返ることなく、歩き続ける。
「卒業! おめでとさん!!」
「お前もな」
そう言って、俺は教室を後にした。
「げ」
「げっとはなんだ。そんな嫌そうな顔するなよ」
高校の昇降口で鉢合わせてしまう。
思わず、声に出てしまった。一番顔も見たくない奴と会ってしまう。顔なじみがある長身の女性は不敵な笑みを浮かべている。
俺の所属する部活と委員会、共に顧問をしていた石動先生だった。正直、この人は好きになれない。なんというか、掴みどころがない。
学校の中では、暴力教師として悪名高い。生徒からの人気も勿論なく、コネで学校に赴任してきたと聞く。一応、体育教師であるため、スタイルだけは良い方だ。
「失礼しませう」
早口で言ってから一礼して、退散する。
袖口を掴まれる。離してください。
「待ちたまえ。あまりの早口に噛んでるではないか。帰りたい気持ちはわかるが、お世話になった人ぐらい挨拶していったらどうだ?」
「いや、石動先生にお世話になった記憶があまりない……ガフッッッ!?」
まさかのみぞおちに先生渾身のブロー。
「何か言ったかね。ちなみに次は股間だ」
「ナンデモナイデス。センセー、オセワニナリマシタ」
「ふむ。よろしい」
石動先生は昇降口から外に出る。そこから胸ポケットから煙草とライターを取り出す。
ライターを点火させて、煙草に火をつける。
「ここは、学校ですよ」
「大人だから構わないさ。大人はずるいんだ」
一服吸って、フゥーと煙をはく。
「卯月。まずは、部活および委員会の業務お疲れ様。君は部活、委員会ともに真面目な活動してくれた。誇っていいレベルにな。社会人でも君のような社畜はそうそういないだろう。君の仕事ぶりはこの私が保証しよう」
「はあ、どうも」
全く嬉しくない。
「部活、委員会の活動、大会や学芸などの会計、OBの対応、その他雑務。それらは教員の私が教えることができないものだ。生徒同士の組織は我々は見守ることしかできない」
俺は黙って聞いていた。
真面目なトーンで話すものだから、一語一語に耳を傾ける。
「友人関係、恋人関係、先輩後輩との上下関係。そういった人間関係は学生の中でしか、純粋に学べないものだ。我々に限らず、大人は誰も教えてはくれない。なぜなら、大人は利がなくては関係を築けないのだからな」
そう語る石動先生はどこか寂しげな表情だった。
煙草の火はじりじりと燃えて、煙が昇っていく。煙は空に昇って、消えていく。
「学生時代は、だからこそ宝。青春こそまさに輝かしいものになるのだと私は思う。しかし、いずれ終わりが来る。始まりから終わりが来るように、入学から卒業を迎えるように」
煙草を吸って、ハァーと溜息のような声と同時に煙が舞う。
「卒業とは、一つの区切りだよ。卯月。時代の区切りさ。我慢せずに吐き出せばいいと思うのだがね」
「吐き出すもなにも、卒業したことについてなにも思わないのですが」
「ふむ。今は、それでいい。君は卒業できるときに、卒業してくれればいいさ。いつの日か、この時代を懐かしむ日々がくるはずさ」
石動先生は煙草を一本吸い終わり、俺の方に戻ってくる。
いつのまにか真剣な表情が緩んでいる。いつもの石動先生だった。ほんの前の雰囲気とは全くの別人だ。
「結局、石動先生は俺に何を言いたいんですか?」
「うーん。そうだね」
ニヤリと口元を吊り上げる。
「部活動や委員会の仕事ごときでいい気になるなって話だ。これから、君は色んなことを学んでいくだろう。今日から学んでいっていることを忘れるな」
そういう話ではなかった気がするのだが。
「あの、話しはもういいですか?」
「ああ、呼び止めてすまないな。最後に、私から教師としての教えをひとつ」
「? なんですか?」
「高校系社蓄退社おめでとう。ようこそ、大学系社蓄へ」
石動先生。
最初から最後まで好きになれない人だった。
「卯月さん」
「……」
校門前で誰かと目が合う。知らない。俺は誰も見ていない。見ていないよ。
沈黙と無視をすることを貫き、校門の外へと出ようとする。
「待ってください! 卯月さん、無視しないでください!」
周りこまれてしまった。
どうして今日はよく人に話しかけられるんだ。
何かの呪いでもかけられているのか。皆、暇なのか?
「そんな苛立ちと殺意に満ちた目で俺を見ないでくださいよ。先客でもいるんですか?」
「いや、いないけど」
半分は嘘だ。
本当はある。スーパーのタイムセールが。
「なら、問題はありませんよね」
別にいいけどさ。
「それでどうしたんだよ。生徒会長様が俺にどんなご挨拶ですか? あ゛あんゴラ゛」
「なぜいきなり喧嘩口調なんですか。別に俺はどうこうするつもりは全くありませんよ……」
「なんだ。生徒会長は皆こんな話し方じゃないと駄目なのかと思ってた」
「あなたは、生徒会長ををなんだと思っているんですか……」
やれやれと肩をすくめる。
今年度生徒会長の須藤だった。現在、二年生。阿部と比べてガタイこそ劣っているものの、顔面偏差値が高い。それ以外に勉学やスポーツなんかもスペックが高いことで学年問わず人気がある。
一応、面識はあった。須藤と同じで成績優秀、スポーツ万能。生徒会、学年全体に人気があった全て前生徒会長と俺は知り合いで、その経由で顔を合わせた程度だ。
確か、生徒代表で壇上でなんか言ってた気がする。
「卯月さん。あなたにはお礼を言っておきたいと思っていまして」
「いらん。思うだけにしとけ」
「まあ、そう言わないでください。あなたには大分世話になりましたから。俺が一年生のときに生徒会長になって、あなたが庶務の仕事をやりきったからこそ、今の俺がいる。正直、俺だけでは駄目でした」
須藤は俯きながら、下唇を噛む。
そういえば、あの時は慌ただしいの一言に尽きた。半分は俺のせいではあったけど、もう半分は生徒会の体制が良くなかったのがあった。
こいつら生徒会の前生徒会長があまりに仕事ができすぎた。そのせいで、全ての仕事をその人がやっていたものだから、その人がいなくなったら一気にツケがきたのだ。その人はそんなことが起きないように務めていたのだが、周りが仕事を投げていた。
自分がやらなくても、生徒会長がやってくれる。そんな甘い考えに誰もがそうした。
結果。生徒会は破滅しかけた。自業自得だ。
「俺の力じゃないだろ。お前の力だ」
「いや、間違いなく卯月さんのおかげです。卯月さんがいなかったら、生徒会は解散していたでしょう。あなたの指示なしでは、俺達はなにもできませんでした」
「買い被りすぎだ。俺はなにもしていない」
実際のところ、本当に俺はなにもしてない。
一年生から庶務の仕事をしていたためか、一連の行事の手順を把握していただけだ。後は前生徒会長がやってきたことをなぞっていたに過ぎない。
生徒会の指示もその人の真似事をしただけで、実際動いたのは生徒会の役員だった。
「せめて感謝の言葉だけでも受け取ってほしいんです」
須藤は俺に深くお辞儀をする。
「ありがとうございます」
「やめてくれ」
お礼を言われることはなにもしてない。
むしろ、事の責任は俺にあった。申し訳ない気持ちが湧いてくる。俺の選択が異なっていれば、違っていたのだろうか。
「俺はお前が思っているような人間じゃない。もう少し、お礼を言う人間を選べよ」
「いや、俺は人の目利きには自信はあるんです」
なぜだか自信満々にいい放つ。
どこにそんな根拠があるというんだ。
「卯月さん。俺は、あなたが人一倍の責任感があることを知っています。それにスジを徹す男だとも理解しています」
「勝手に俺のことを決めつけないでくれない?」
「事実でしょう?」
「いや、全く」
「ははは。謙遜することはありませんよ」
してねえよ。
心の中でツッコむ。
「それでモノは相談なんですが」
「断る」
「まだなにも言ってませんよ!?」
大方、くだらないことだと予想がつく。
こいつのことだ。卒業の記念とか言って、第二ボタンをくれとかそんなことに違いない。
「あなたの……その……第二ボタンをくれませんか?」
俺は、ズッコけた。
盛大に頭からいきかけた。怪我をするので、地に膝をつけるぐらいにしとく。
まさかのドンピシャでそんなことを言われるとは思わなかった。
「ど、どうしました? 卯月さん」
「……なんでもない」
しかし、第二ボタンが欲しい人なんて今時居ないだろう。
昔の漫画でしか見かけたことないぞ。
「それより、なんで俺の第二ボタンが欲しいんだ?」
「それは……」
おい待て。
なぜ頬を赤らめる。いきなり視線も外すんじゃない。
股をもじもじさせるな。気色悪い。
まさかこいつ、そっちの気があるんじゃないだろうな。
「あなたを! 側で! 感じたいからです!!」
「死ね」
「ぐはあ!」
とりあえず、顔面に一発ぶん殴っとく。
俺は同性愛者ではないので、ここからあと2、3発蹴りを入れて正気に戻そう。
「な、なにをするんですか!?」
「お前こそなに口走ってやがる。ホモも休み休み言えよ」
「なにを言っているんですか。俺は異性のほうが好きに決まってます」
だったら、紛らわしい言い方はやめてくれ。
誰がどう聞いても誤解してしまう。
「俺の証が…ほしいんです。俺が生徒会長で居られた理由。意味を、そのボタンを握りながら考えたい」
「気色悪いわ」
「それぐらいあなたに感謝してるということなんです。分かってくださいよ!」
わからん。
まぁ、ボタンをあげるくらいならいいさ。
俺は制服のボタンを掴み、勢いよく引っ張る。難なくボタンは取れて、手の中に残った。無駄にキラキラしたメッキが光っている。
須藤に投げる。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
須藤は受けとる。しばらくボタンを見つめた後、ズボンのポケットにしまう。
「大切にします」
「しなくていい」
なんだったらそこら辺の道端に捨ててくれ。
「そういえば、卒業式に夜永先輩がいましたよ。あなたを探していました。生徒会室に待つって言っていました」
「そうか」
夜永先輩。前生徒会長。一言でいうなら不良みたいな人。
未だにこの人が生徒会長をやっていたなんて信じられない。
特に会いたいという気持ちは湧かない。俺の中で、感謝を伝えようとも思わない。そういうのは、去年したからだ。
「行ってあげてください。夜永先輩、まだいると思いますから」
「まさか、それを伝えに校門で待ってたのか?」
そうだったのなら、本当にご苦労様だ。
須藤はハハッと軽く笑う。
「いえ、ついでにと頼まれました。とにかく伝えましたからね」
「……ああ。わかったよ」
俺に選択権はないのだろうか。行かないという選択肢はあるといえばあるが。
しかし、俺の足先は校舎のほうへと向いていた。
「卯月さん」
「あ?」
俺は足を止める。振り返ることはない。
須藤の表情はわからないが、彼は口を開き始めた。
「俺達は同じ生徒会のメンバーでしたけど、結局、友人になれませんでしたね」
「まぁ、そうだな。友人というよりかは、高めあうライバルに近い感じだったしな。それに先輩後輩だったしな」
「出会いが違っていたなら、俺達は友人になれたのでしょうか?」
「無理だな」
きっぱりと言う。
そんなものは愚問でしかない。
「出会う形はどうあれ、俺はお前を尊敬しただろう。尊敬から友情は生まれない。憧れは友情を抑えてしまうもんだ」
「そんなものですか?」
「そんなもんだ」
俺は歩き出す。
声をかけられようが、足を止める気はなかった。
須藤にはああ言ったが、本心は違う。
俺は、須藤のことが嫌いで、あいつも俺のことが嫌いだった。
尊敬が嫌悪感に勝っているだけの話。
それでいい。それがいい。俺とお前はお互いに尊敬はしても、お互いにどうなろうと知ったことではない。須藤がボタンを欲したのは、自分の為だ。自らの反省と、自らの後悔を忘れない為だ。
その程度にしか尊敬ができないのだから、この距離感こそが正しい。
そして、友人になれない理由の一つだ。
校舎に入ろうとした時だった。
「先輩」
見覚えのある顔。聞き覚えのある声。陸上部の後輩だった。
宮浜が一人立っている。今にも泣きそうな病院にだった。
俺は陸上部に所属していた。俺がこの高校に来たときは陸上部がなかったため、彼女とともに設立したのだ。
「ううー、先輩。どこにいたんですか? 私、教室まで行ったんですよ?」
「そうか」
「そうかじゃないですよ!? めちゃくちゃ探しまわったんですから! もしかして、先輩はもう帰っちゃったんじゃないかと思って……」
宮浜は目を潤ませる。
今にも泣きそうだ。
「泣くのはよせ。俺はここにいるだろ?」
「でもお、先輩は、先輩は今日で……うう……ひっく……卒業してぇ……えぐっ……もう明日からいないって考えると……ぐすっ……涙が出てきてえ……」
「おおい! いきなり泣くなよ!?」
嗚咽を漏らしながら、宮浜は泣きはじめてしまった。
宮浜は袖で涙を拭うものの、次から次へと溢れる。
「だってぇー。先輩が卒業したら……ひぐっ……私はどうしたら……うえええ……」
「お、おい」
「う、うええええん。先輩、卒業しちゃやだあああああああ! もっとぉ、もっと私にいろんなこと教えて下さいよぉぉぉ! うわあああああん!」
号泣してしまった。
ポケットを探る。ハンカチがでてきた。優しい言葉をかけて、そこからハンカチを渡して泣き止まさせるか。
「ふええええええん。うえええええええええええん」
……。
とりあえず、あれだな。
殴るか。
「落ち着け」
「ぎゃふん」
ぎゃふんとか言う奴、初めて見た。
「な、なにするんですか!? なんで殴るんですか!」
「泣いてたらわかんねえだろうが。ほら、これで涙を拭いとけ」
宮浜は殴られた箇所を擦りながら、ハンカチを受けとる。そんな力強くやってないだろう。小突いた程度だ。
「うう……ぐすっ、ありがとうございます。ブビィィィィィィッッッ!!」
「てめぇゴラッッ! なにしてんだオラッ!」
「ぎゃふん」
なに鼻をかんでやがる。
誰がそこまでやれと言った。
「うう、痛いですー」
「今のはお前が悪い。後で洗濯して返せ」
宮浜は「わかりましたよぉ。全く先輩は……」とブツブツと呟く。
全く先が思いやられる。俺がいなくなったら、こいつはどうするんだろうか。
「他の部員はどうした? お前が部長なのが、不安過ぎて退部したか?」
宮浜の周囲には、誰もいない。俺が知る限りでは、あと五人程いた覚えがある。
「違いますよ!? 一年生の皆は他の先輩のところに行っているんです。本当は私も含めて挨拶をするつもりでしたが、先輩居なかったですし。なら見つかるまで、他のお世話になった先輩方に挨拶したほうが良いんじゃないかという話になりまして」
「悪かったな」
「いえ、別に。……少し待ってくださいね。今、一年生にご連絡しますから」
スマホを取り出したが、俺は制止する。
宮浜の腕を掴み、首を横に振る。
「ひゃっ!? え? あの……先輩?」
「いらん。余計な気は回さなくていい。この後、俺も用事があるからな。そんなに話せない」
「わかりました。先輩が良いなら、良いんですけど」
そっとスマホを仕舞う。
俺は胸をなでおろす。団体で話すのは好きじゃない。そもそも、俺に挨拶したい奴なんていないだろう。
後輩にとって卒業なんて他人事だ。
三年生を本気で祝おうとする人なんていない。
俺がそうであったように、一部を除けばただの行事でしかない。
一部を除けば、だが。
「先輩、覚えていますか? 私と最初にあった日のこと」
「忘れた」
「ひどい!?」
そう言われても、覚えていないのだからしょうがない。
頭を捻らせても、過去の記憶を辿っても出てこない。
自分が知っている記憶で、一番古い記憶。
それは宮浜の笑顔だった。なぜだか、宮浜は泣いていた。
『陸上部、入部します』
唇を震わせながら、俺に入部届を渡したのを覚えている。
「……」
「先輩? どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
一瞬だが、ふけってしまっていたようだ。あの記憶は俺が二年生で、宮浜が一年生の頃。入学式から一か月も経っていなかった頃だ。なぜ、泣いていたのだろう。
俺が顔を上げると、宮浜は心配そうにこちらを覗き込んでいた。この際だから、聞いてみるか。
「なあ」
「なんですか? 具合でも悪いんですか?」
「昔、お前が俺に入部届を渡したとき覚えてるか?」
「え」
「記憶違いだったらすまんが、あの時お前は泣いてたよな」
「な、なななななな」
「あと、その時なんか嬉しそうに笑っていて……」
「わ、わ――――――――――――!! わ――――――――――――!!!! 聞こえない!!!! 私は何も聞こえない!!!!」
いきなり発狂した。そういう年頃か。
俺の声が届かないように、両手で耳をガードしている。なぜだか顔や耳まで真っ赤に染まっていた。目をぐるぐると回しながら、知覚を遮断しようとしている。
どうやら聞いてはいけないものだったらしい。
宮浜は涙目でキッと睨みつける。
「なななんで、そういうのは覚えてるんですかあああ!? 一番消したい私の思い出をおおおおおっっ!!」
あああと言いながら、頭を抱えて悶える。
頭を一心不乱に振り回す。ヘッドバンキングかな。
「そういう反応だったら知ってそうだな」
「いやです。断固拒否します。拒絶します。いや、むしろ根絶します!」
「落ち着け」
「これが落ち着いていられますか! ああ、もう死にたい……」
いきなり叫んでテンションが上がったと思ったら、今度は一気に下がった。
気力のない瞳になり、空を見上げていた。
「ああ……私、あの雲になってどっか行ってしまいたい」
宮浜は体育座りをしながら、遠くを見つめている。どうやら真っ白に燃え尽きたらしい。
こうなってしまうと、宮浜は数十分このままだ。
放置するか。また会えるからな。
「宮浜、さっきも言ったけど俺は用事があるから先に行くぞ」
「はい……。先輩、三年間お疲れ様でした……」
ビックリするほど心がこもってない。
「ハンカチ返せよ。また俺のほうから連絡するから」
「はい……あと先輩」
宮浜は立ち上がる。俺の目の前に駆け寄ってきた。手には紙袋を持っており、その中を探る。
花束かなと俺は予想する。部活で卒業した人は花束が贈られる。
案の定、宮浜は紙袋から花束を取り出す。わざわざお金をかけなくていいのにと思ってしまう。
しかし、俺が思っているような花束ではなかった。
花屋で頼むような綺麗なものではなく、それは不揃いの花束。
一つ一つ折り紙で作られた花たち。形こそバラつきがあるものの、絶妙な色のバランスがとても鮮やかで美しい。所々、折り目があってシワになっている箇所もあるが、それは些細な問題だった。
「これは?」
「私と一年生で作った花束です。先輩のことだから、お金をかけるの好きじゃないと思ったので。その、家にある折り紙を使って作りました」
花束のなかには、一つのメッセージカードが目にはいった。
『卯月先輩、ご卒業おめでとうございます』
メッセージカードのまわりには寄せ書きが添えられていた。
大学頑張ってくださいとかこれからも様子見にきてくださいとかそんなありきたりな内容だ。
悪い気分はしない。
「卯月先輩」
「ん?」
「ご卒業おめでとうございます」
宮浜は、微笑む。心なしか涙目になっているようにも見える。
まるで、あの時の。入部届を渡した再現のようで、俺は花束を受けとる。
「ああ、ありがとう。じゃあ、またな」
「はい。ここではないどこかでまた」
片手で花束を受け取り、もう片手で手を振る。
宮浜は頭を下げる。頭を下げたまま見送られたので、表情は隠れて見えなかった。
生徒会室に着く。
いつも来ていた場所。ノックをしてみる。
コンコンと小刻みな音とともに、
「開いてるぞー」
扉の向こうから返答がきた。
最近聞いた声質。彼女と会うのは、最近という期間は些か正確ではない。
俺は意を決して、生徒会室に入る。
「失礼します」
「おう。つっても、もう俺が気軽に言える立場じゃねーけど」
夜永 結月先輩。
元生徒会長にして、完璧超人。俺の知る限り、この人には何一つ勝てる気がしない。部活動でやってた陸上も含めて、だ。
夜永先輩の風貌は、目つきが鋭く、髪の毛は全方向から金色。そう、金髪のショートヘアー。目や鼻の形は整っていて美形ではあるが、どこからどう見てもオラオラ系ヤンキーにしか見えない。
夜永先輩は俺のほうを見ることない。椅子に座って、窓の外を眺めていた。
「久しぶりだな」
「ご無沙汰しています」
目の前にあるパイプ椅子を手にかけようと思ったが、やめた。昔の夜永先輩なら、手にかけようとした時点で激怒していただろう。夜永先輩の沸点はよくわからない。
生徒会室は音一つなく、静かな空間が支配している。
「座っていいぞ。遠慮するな」
「はい」
席に座るが、夜永先輩はまだこちらを見ない。
視線は校庭に向いており、卒業した生徒を見つめている。
そこから夜永先輩は、言葉を発しない。俺も同様に黙っている。
気まずいとか、お互いにそんな気持ちはない。
俺と夜永先輩にとって、これも一つのコミュニケーションだ。元々、俺も夜永先輩も話すほうではなかった。
俺を取り巻く環境や、夜永先輩が取り巻く環境が、会話をしなければならなかった状況であって。
今やその必要がないだけだ。
俺は待つ。夜永先輩が口を開くことを。
「卯月」
突然、夜永先輩が話しかけてくる。
「はい」
「最近は、どうだ?」
「最近は、そうですね。御覧の通り、無事卒業しました。時間が経過して、勝手に終わりました」
「はは。なに言ってるんだ。勝手に始まって終わることはねーよ。常に人生は神様のスケジュールで決まっているんだ。勝手に、というのは自身の感覚だ」
「そうかもしれません。それでも俺は卒業してしまったんです」
「この高校に未練があんのか? お前の言い方だと何かを残してきたように感じるな」
未練は、ない。
この高校には愛着もあるし、名残惜しい。
もっとこの学校に居たい、とまでは言わない。そもそも、俺にはそう思う資格がない。
「愛する後輩を残して、前に進めないとかか?」
俺は首を横に振る。
俺に教えられることは全て後輩に伝えた。今さら、俺が留まる必要性もない。今までの経験、深めてきた絆、高めあってきた精神、それらは俺がいなくなっても、ちゃんと残る。
俺は、後輩に残して前へ進める。
「なら、友人や他のクラスメイトか? それとも、恩師か?」
再び、俺は首を振る。
築いた関係。それらは全て無駄ではない。何もかもが財産なんて陳腐なことを言うつもりはない。
ただ、なかったことにはしたくないものだと確信できる。
「なるほどな。じゃあ、卯月。お前は何を抱えてんだ?」
「何も抱えていませんよ」
今も昔も何一つ。
俺は抱えてはいない。
「お前が話したくないならそれでいいけどよ。お前が何を隠しているのかはわからない。私も知らない。それでいいんだろう?」
「……」
かつての俺を、この人は知っている。
俺がこの高校に来た理由も。ここで部活や委員会をしていた理由も。俺が記憶にある何もかも全て。
夜永先輩に知られている。
知っているうえで知らないと言った。
つまりは、俺が話すまで待つということだろう。
「だが、お前はここから出ていかなくちゃならねえ。そこに選択権なんてない。神様のスケジュールに乗っ取ってる」
「神様のスケジュールってなんなんですかね? 少し傲慢過ぎやしませんか?」
「神様のスケジュールには、全ての過程において区切りがある。私達の過程が余さず書いてあるんだ。私達が受精して、死んでいくのは全ての過程。卒業は、全ての過程の中で一つの区切りに過ぎない」
「切羽詰まってますね。その神様は社畜なんでしょうか。余裕持ったほうがいいと思います」
ははっと夜永先輩は笑う。
「そうもいかねーんだなこれが。神様は忙しいんだ。それこそ、70~80憶人のスケジュールを把握してる」
「誰かのスケジュールに乗っとるなんて、俺は嫌ですよ」
「なんでだ? スケジュール通りに進めば楽だぞ?」
「それは……楽したいからです。楽したいからスケジュール通りにやらない。常に人は楽したいと思っている。楽になりたいとすがっている。楽にさせたいと想っている。楽でありたいと感じている。人はそういう、生き物ですから」
俺も楽したい。
楽して、解放されたい。解放されて、死にたい。
そういう人生がいい。そういう人生の理想を追い求めている。
だから、それがスケジュール通りだとしても探すんだ。楽の先にある……幸福へ。
「楽できるからスケジュールがあるというのに、楽したいからスケジュールを捨てる、か。無茶苦茶だな。お前は幸せを求めるため、楽さを願うのか? それとも楽さを求めるため、幸せを願うのか?」
「どれも俺にとっては重要ではないです。それに求めるものと願うものに圧倒的な違いはないんですよ。あと、無茶苦茶じゃないです。人が追い求めるものは自由ですから。単なる自然の摂理です」
「それも、そうかもな。神様のスケジュールに、補足として書き加えるのも、予定を変更するのも、その人次第だ」
夜永先輩は一息つく。
そこからの沈黙。
お互いにお互いが話したいときに話す。それが、俺と夜永先輩の関係だった。
世間的な関係は変わってしまったが、俺の中での関係は変わらない。夜永先輩も同様だろう。
だから、俺も話したいときに話す。
「卒業ってなんですかね?」
「あん?」
「卒業という言葉で一区切りつけていいものなんでしょうか。区切りをつけることに意味はあるとは思えません」
「区切りがなければ、終わらせることも始めることもできなくなる。過程っつたろ。入学から卒業まで過程なんだよ。区切りが二つあるから、過程が生まれる。入学してなくて、卒業できるなんてありえねぇ」
「でも、入学しても卒業できない人はいますよ。その場合は、どう卒業するんですか。心の中で、勝手に卒業した気にならないといけませんよ」
「別に三年間で過ごすことは、過程の中には含まれてないと思うぜ」
夜永先輩は、背伸びをしてからようやく俺の方に向く。
そこには、あの時と変わっていない彼女がいた。去年と何も変わらない姿。
「過程の定義は、思い、ですか?」
「さてな。人それぞれだ。ただ言えることは、卒業証書をもらうことではないということだろうな。お前が思いというのなら、思いなんだろう」
「曖昧ですね」
「ああ、曖昧だ。人の価値観は常に相違だからな。当然といえば当然だ。実に曖昧で、あやふやで、人によっては鮮やかなものなのさ。だが、とても単純で明確なものだ」
それが過程。
明らかであり、不確かなもの。
人によって異なり、人によって追及するもの。
考えれば考えるほど、その答えは遠ざかっていく。
「卒業できるのか。俺は」
思わず呟いていた。
卒業証書をもらうことが、俺にとって卒業ではない。
俺にとっての入学とは? 卒業とは?
そもそも、俺はどこに入学して卒業するのか。
誰か教えてほしい。そうどこか、心の奥深くで願っていたのかもしれない。
言ってから、しまったと思った。
「お前、卒業したいのか?」
「……」
余計なことを言ってしまった。
夜永先輩は、もう卒業してるだろとは言わない。付き合いも長くて察しの良い人だ。すぐ俺の意図を掴むだろう。
俺にとって、卒業とはどういうことなのか。
「卒業に意味を持たせようとすんな。定義づけようとすんなよ。区切りを断定しちまったら、それはとても機械的だ。機械的なものに、それこそ悩む理由がないぞ」
「俺は不真面目なんですよ。卒業にも理由が必要で、意義を必要としていて、効率性がないといけないんです」
誤魔化そうとしたが、俺の口からは別の言葉が出てくる。
自分の言い訳のような内容だった。自らをそう言い聞かせていると思われても不思議ではない。
夜永先輩だからこそ、だ。
「自負しているところわりぃけど、お前は不真面目じゃねーよ。むしろ……」
夜永先輩の頬が緩む。悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
お前のことはお見通しと言わんばかりだ。
「不真面目は、自らの卒業を考えたりしねえよ。不真面目さなんていうのは、自分に疑問を持たない奴だ。私みたいな奴を言うんだよ」
「その理屈なら夜永先輩は真面目ですよ。その考え方は偏見です」
「いーや、不真面目だね。こうして、今も私は客観的に考えているだけで、自らを考えたことはない。しかも、改善する気は毛頭ない。これのどこが真面目なのか。いや、不真面目だ!」
いや、俺としては客観的に考えていることを把握して考えていることに真面目さがあるのだが。
ここで指摘しても、意固地になって認めないだろう。
「まぁ、卒業したいんなら…少しずつでいいんじゃねえの?」
「少しずつ、ですか?」
「ああ。少しずつ、少しずつ考えていけばいい。過去の記憶を繋ぎ合わせて、紡いでいけば自ずと答えが出るだろ」
「……」
「それはとても幸福的だとは思わないか?」
「卒業は、幸福なのでしょうか?」
「さてな。卒業つーのは、終わりの区切りだ。卒業そのものが幸福であるなんて、私にわかりゃしねえよ。それはお前が判断することだろ?」
夜永先輩は欠伸を一つした。
テーブルに肘を当てて、頬杖をつき始めた。
「眠くなってきた」
「いきなりですね」
「いきなりじゃねえ。最初から眠かったわ。お前が来るのをずっと待ってたしよ。須藤の野郎が伝えんの忘れてんじゃねえかとずっとイライラしっぱなしだった」
すみません、とは言わない。
夜永先輩が卒業式に来ていたなんて知らなかったわけで、ましてや俺を待っているなんて思わなかった。
卒業式が決まったときだって、
『あっそ』
と吐き捨てられた。こちらを見ずにスマホ弄ってるし。
あんなに興味無さそうに言われたら、そりゃ来ないと思うだろ。
「それなら来るなら来るって言ってくださいよ」
「いや、行くに決まってんだろ! 言い訳すんなゴラッッ!」
ええー。
なんかめっちゃキレた。やだなにこの怖いヤンキー。キレる若者、怖い。
「一生に一度のハルの晴れ姿だぞ!? 行かない理由がない。いや、私は死んでも行く、行くぞ。屍になっても、私は出席したからな。それぐらいの想いだ。この時の日を私がどれだけどれだけどれだけどれだけ……」
素が出てます。
素が出てますよ、夜永先輩。
「どれだけ! 待っていたか! それなのに、ハル! お前ときたら、お前ときたらぁっっ~~~」
スイッチが入ってしまったようで、保護者モードに切り替わっている。
夜永先輩は、普段の学校のときと、今みたいなときと態度を変えている。彼女曰く、学校は学校の立場。それ以外はそれ以外でわきまえているらしい。
「なぜ最初に私のところへ来ないんだゴラッッッ! お前には人を想う気持ちがないのか? 大体ハル、お前はな~」
「夜永先輩、俺は卯月ですよ」
俺がそう遮ると、夜永先輩は言葉を詰まらせてしまう。
夜永先輩は、言いたげな表情をしていたが、グッと堪える。
「こほん。すまん、取り乱した。忘れてくれ」
「はい。大丈夫です。俺は何も聞いてません」
俺がにこやかに返す。
じとーと上目遣いで見てくるが、気にしない。
「それで? わざわざ生徒会室に呼んでどうしたんですか? 二人きりで話すにしても、方法はあると思いますが」
「別に、どこでもいいだろ」
頬を膨らませて、足をブラブラして遊んでる。
強引に話を止めたせいで、いじけていた。そんなあからさまな不機嫌を主張しなくても。
「では、帰りますね。お疲れ様でした」
「ああ、じゃーな。……っておい!?? テメー、誰に許可得て帰ってやがる!?」
夜永先輩はこちらに駆け寄って胸ぐらを掴む。勢いよく、上下左右に衣服を揺らしてきた。
おかしいな。今日のしれっと帰宅回避率は低いぞ。
「冗談です。それでどうしたんですか?」
「はぁ。本当になんでもねえんだよ。ここを選んだのは意図があったわけじゃない。一秒でも早くお前に言いたかったことがあっただけだ。そして、私の中で、思いついたのがここだったんだ。それだけさ」
「言いたかったこと?」
俺が聞き返すと、夜永先輩は黙ってしまう。
あの、とか。その、とか。言いたいことはあるらしいが、言い淀んでいた。
伝えたいことがわからず、首を傾げる。
「えっと、だな……その。あの、だな。つまり、その……」
「?」
「……卒業おめでとう」
「え? あ、はい」
まさかの卒業おめでとうの言葉。夜永先輩らしくない。
らしくない言葉に対して、らしくもない声で生返事になってしまった。
「……わりぃ。色々言おうと考えてきたが、全部飛んだ」
「そうですか。また思い出したら、言ってください」
「そうするわ」
その後、何分か話した。
内容はよく覚えていない。
どうでもいい事だったのは、確かだ。
俺にとって、かなりどうでもいい過去の話。終わったことであり、割り切っていること。後悔していないことであり、もう戻ることができないもの。
次に未来について夜永先輩と話した。
ここは本当に、よく覚えていない。
夜永先輩と別れて、ふと立ち止まる。
校舎の裏。そこにいくつかの植物の花壇がある。
来るつもりはなかったが、足に運んでいた。
俺は美化委員だった。美化委員は主に花の世話や教室の掃除が仕事になっている。そのため、この場所はよく訪れていた。
花壇の近くに女子生徒がいる。
女子生徒は花に水を浴びせる前のようだ。片手にジョウロを持ち、土の具合を確かめていた。この女子生徒も美化委員に所属している一人だ。
「なにしてるんだ? 橘」
彼女の背後から言葉を投げかける。
彼女の名前は橘 カンナ。
しゃがみ込みながら、土を触っている。髪が土につかないためか、腰まで伸びた黒髪は後ろで三つ編みに束ねられている。また無機質な瞳が花達に向いていた。
「土の乾きを見ていました。この花は過度の湿度に弱いですから」
俺の方を見ることもなく、目の前のことに集中する。
橘は基本的に感情の変化に乏しく、例外を除いて関心を示さない。その例外の一つが花だった。
「なんていう花なんだ? ぺんぺん草か?」
見たことある花だった。
昔の漫画とかで花占いして遊ぶ印象がある花だ。あと花弁は白い、それ以外の感想はない。そもそも花のことはなにも知らないし、興味もない。話の提供の一つとして聞いてみる。
「マーガレット、です」
「ああ、なんか聞いたことあるな」
橘の繊細そうな細い指がマーガレットに触れる。まるで自分の娘かのような、優しい手つきだった。白く透き通るような肌とマーガレットが密着し、やがて離れる。
橘が微かに笑っているような感じがした。
「今日は卒業式でしたね。お疲れ様でした。進路のほうはどうですか?」
「ああ。本当に疲れた。進路だけど大学は受かってるから、四月から晴れて大学生だ」
「それはおめでとうございます」
橘と話したことで今日一日、知っている連中全員と話をしてしまった。
そんなに今日は特別なのだろうか。
橘は土を確かめ終わったのか、ジョウロで水をかけ始める。何度もこの様子を見ているが、橘が花に水をかける姿はとても絵になる。そういや、俺が美化委員のときも花の世話は任せきりだった。今日ぐらい仕事をしてもいいかもしれない。
「なにか俺にできることはあるか?」
「大丈夫です。今日は水をあげるだけなので」
せっかく、気分が変わったというのに。最初から最後まで花の世話をすることなかった。
土はすぐに水を吸収し、湿り気が広がっていく。軽く水を浴びせたところで、ジョウロを止める。
「まだ水はいるんじゃないか?」
「水やりは土の表面だけで良いので。上げすぎは枯れてしまう原因になってしまいます」
そうは言ってももうちょっと上げても良いんじゃないか。
俺はそう言おうとした。橘は空を見上げる。ついでに俺も見上げる。
見透かされたかのように橘は口を開く。
「明日は雨らしいです」
空の景色には桜の花弁が散っていた。
さながら、桜吹雪という表現が一番合っているだろう。日当たりが良い場所だ。天気は雲一つない青空で、これから雨が降るなんて予想もつきやしない。
「綺麗だな」
「綺麗ですね」
この景色はここだけのもの。
この景色がこの時間だけのもの。
この景色さえもほんの一瞬。
人生の中では、些細なひととき。
橘が花を見て、時を過ごすように。俺も桜を見て、時を過ごす。この景色が、時間が、一瞬が、俺の輝かしい記憶の一部になるのだろうか。また、あの過去も輝かしくなる日は来るのだろうか。
橘に話を聞いてほしくなった。
つまらない、過去の話だ。橘だから話すんだ。人に関心がない彼女だから語る、つまらない話。
「なあ、橘。話を聞いてもらっていいか」
「話、ですか?」
「ああ。ただ聞いてほしいんだ」
「わかりました」
桜を見つめながら、俺は一つ一つ話を思い出しながら語り始めた。
昔、男が一人いた。
その男は走ることは嫌いではなかったが、好きでもなかった。
だけど、その男には走る才能があって、小学生にもかかわらず海外からスカウトが来るレベルだった。
神に愛された天才。世界中でもそう認識されていた。
男は海外に行くことにした。地位や名声が欲しかったわけじゃない。とある事情で行かなければならない理由ができたからだ。
そして、男はたまたま出会った女性と結婚。三人の子供を授かった。
だが、男はいきなり女性とともに死亡した。理由はわからない。
そして、三人の子供はバラバラになった。その子供は今もどこかでひっそりと暮らしている。
めでたし、めでたし。
ふぅと俺は息をつく。
橘は何も答えない。じっと、桜吹雪を散らせる桜を見ていた。俺も自然に桜吹雪から桜に視線がいっていたことに気づく。
人には関心がない橘で良かった。これを結月先輩に聞かれていたら、さぞかしめんどくさいことになっていたであろう。
数秒の沈黙だったが、とても長く感じられた。
沈黙を破ったのは、橘だった。
「その男の話って、卯月さんのことなのですか?」
「……まさか。どう見たって結婚はしてないだろ。足もそんなに速くないしな。ただの聞いた話さ」
「それじゃあ……」
「……」
「その男の子供って、卯月さんのことなのですか?」
「……」
黙ってしまう。少し考えてから、否定する。
「いや、違うさ」
「そう、なのですか」
橘はそれ以上は聞くことなかった。
俺自身も、これ以上この話をする気にはならない。
「話は変わるのですが……」
珍しく橘から話しかけてくる。俺は橘の表情を見れなかった。今の俺にそんな余裕はない。きっとひどい顔をしている。
この話をすると、あの時を思い出して感傷に浸ってしまう。
「今日は卒業式です」
「さっきも言わなかったか、それ」
「そうでしょうか?」
「ああ」
最後の「ああ」は反射的に言った。
感情もなにもこもっていない。感情を込めたら、表面に垂れ流しになってしまう。ギリギリの状況下で心を押し殺していた。
「卒業式は、皆笑ったり、泣いたり、喜んだり、悲しんだり、していますね。まるで感情の宝庫のようです。卒業式という舞台は、私達に何をもたらすのでしょうか。卒業式に、何を思い出すのでしょうか」
「……ああ」
会話が成立してはいなかったが、俺は頷いていた。
自分の声が震えているのがわかる。
桜を見ると思い出す。入学式のときのことを、思い返してしまう。
俺がここに入学してきた理由、入学する前の経緯が鮮明に蘇る。なにもできなかった自分。不甲斐なかった自分。三年間で過ごしてきた高校生活ではなく、出てくるのはそればっかりだ。
「泣いているのですか?」
「泣いて、ない」
嘘だ。
本当は泣いている。涙を悟られないよう上を見続けていた。
後悔のない選択をした。自分の中では、良い人生だと思う。自信はある。だけど、涙腺にくるものがあった。
昔が辛いというのは、今が幸福だという証明だ。
昔が幸福なら、今が辛いという証明だ。
幸福も、辛さも、知ることで互いを証明し合えるものだ。
人は辛いからこそ、幸福になりたいと願う。幸福になるからこそ、昔と比較して辛さを知る。辛さを理解して自らの幸福を知る。
「そう、か」
今の俺は幸福だ。
俺は、きっと怖がっている。
幸福の中で、いつか来る辛さを恐れている。
だから思い出す。かつての辛さを思い出している。
思い出すことで、戒めのように頭の中で巡っている。
溢れてでてくる涙。
涙の理由。
それは明らかだ。それと同時に理解した。
なぜ卒業式に人が感情的になる理由。笑ったり、泣いたり、悲しんだり、喜んだりするのか。
卒業式だから、ではない。
卒業式に想うから、である。
今まで過ごしてきた日々、三年間の高校生活。彼らは入学から卒業までを振り返り、思い出す。
かけがいのない楽しい時間を。苦しくて痛い時間を。幸福と辛い時間を。その時間を大切だと感じるから、いとおしいと思えるから感情的になれるんだ。
自らの過去を想い、自らの人生の区切りを想う。
卒業を定義する俺にはわからないことだった。
単純に考えればわかることだ。
「To define is to limit」
俺は口ずさむ。
「Life is not complex.
We are complex.
Life is simple, and the simple thing is the right thing」
「オスカー・ワイルド、ですね」
橘は呟く。俺の耳にギリギリ届くぐらいの声だった。
「定義するこということは限定することだ、常識に捉われないオスカー・ワイルドらしい言葉ですよね」
「ああ」
「次もオスカー・ワイルドの言葉ですよね?
人生は複雑じゃない。
わたしたちの方が複雑だ。
人生はシンプルで、シンプルなことが正しいことなんだ。……お好きなんですか?」
「ああ」
「なぜオスカー・ワイルドなのでしょうか?」
「……さてな」
特に意味はないといえば嘘になる。
俺は、オスカー・ワイルドのように別の角度から考える力はない。頭で考える力よりも筋肉をつかう方が性に合ってる。
そう思う俺は、複雑な考えをするからなのだろうか。
いつのまにか涙は出ておらず、まだ俺は桜を見つめている。
「卒業について考えているのですか?」
「卒業は、区切りという奴がいた。でも俺は違う。区切らせてはいけないんだ、と思った」
「その理由は、あなたにとって過去を汚すことになるからですか? それとも、あなたにとって過去とは罪なのですか?」
「なぜそう思う?」
「終わりを区切ることは一括りにするということです。区切らせたくないというのは、まだあなたの中で終わっていないからか、あるいは……」
そこで橘は話の途中で言葉を区切る。
数秒、橘は踏み込みすぎかと思ったのか、
「いいえ、これ以上は野暮、ですね」
「卒業の神様だ」
俺ははっきりと言った。呟くのではなく、声高らかに言い放つ。
橘は、聞き違いと思ったのか、
「卒業の……神様?」
と復唱した。
卒業の神様は俺にだけにいる神様だ。いくら頭を捻ろうが、考えようがその神様は存在しないもの。
俺だけ知っている神様であり、それ以外の人には理解できない神様。
補足として、もう少し語ることにした。
「卒業の神様が、いるんだ。俺の中に」
「……なるほど」
「その神様はこう言うんだ『卒業、おめでとう』って。卒業の神様にそう言ってくれて、そして、俺が『ありがとう』って答えることができたら、それが俺の卒業なんだと思う。それまでは、そうだな。浪人かな」
橘にしては珍しく、くすっと薄く微笑む。
橘が感情を表に出すところなんて初めて見たかもしれない。
まるで大学が決まったというのに浪人とは先が長そうですね、と言いたげだった。
「神様を信じていらっしゃるのですか?」
「いいや、全く。橘はどうだ?」
うーんと橘は人差し指を頬に当てる。ひとしきり考えて、頷く。
「私も全く信じていませんね。自分の神様以外」
橘は俺の言っている意味をすぐに理解する。
こういうところが橘の長所であり、短所でもあるところだ。
「今日はなんだか吹っ切れていますね」
「感傷を知れたからかもしれない」
「そうですか。感傷を、知れたのですね」
橘は、目を閉じる。
記憶の断片を探るかのように。
俺はただただ自身の感傷を述べる。それは、人によって異なる考え方で自らの定義だった。
「傷は、残るものと、残らないものがある。傷を負うと出血する。だらだらと、だらだらと流れ、やがて血小板が血液を固める。血液が固まると、かさぶたになって、痕となって残り続ける。まるで、心の傷と同じだ」
「同じなのですか?」
「違うのは、心が出血してるかどうか認識できないこと。出血に気づかなければ、人は死ぬさ。だが、痕は残れど治るんだ」
「それが、感傷を知る……?」
「俺はそう思ってる」
桜が舞う季節に、また俺は想うのだろうか。
俺は卒業までを想い、傷を認識しなければならない。傷を認識して、かさぶたにして、痕として心に残し続ける。
乗り越えなくていい。痕を残し続けながら、前に進む。
それまで卒業はおあずけだ。
「そろそろ行くよ。悪かったな、いきなり来て」
「いいえ、会えて嬉しかったです」
「じゃあな」
俺は手を挙げて、その場を去ろうとすると、
「卯月くん!」
橘に呼ばれて、振り向く。
「卒業!! できるといいですね!!!」
きょとんとする。
橘の表情は至って真剣で、そう叫んでいた。いつもと違って熱血漢がある。いや、もしかしたら、本当の橘を知らないだけなのかもしらない。
普段のギャップがありすぎて、笑えてきてしまった。
笑いが抑えきれずに肩を震わせてしまう。いや、これももしかしたら、ギャップだけで笑っているわけじゃないかもしれない。
『卒業、おめでとう!』
声が聞こえてくる。
俺はその声に返すことなく、ただただ笑い声が校舎に響いていった。