大雨×傘
あとしばらくすると高校初の夏休みがやって来る七月のある日。
この日も朝から入道雲があちこちで見られ、積み重なる様になっている雲の白と空の青が約半々程度の色調で広がっている。そしてその雲間から射す太陽の暑い陽射しが身体を容赦無く熱していくのが辛い。
元気に鳴き続ける沢山の蝉の声を聞きつつ、日陰を見つけてはそこに入って学園へと歩いて行く。
夏の暑さは止まるところを知らないのか、学園に着いてからも夏の陽射しは強さを増すばかりで、太陽はその猛威を振るい続ける。
しかし午後からは急速に空模様が崩れ始め、放課後になって帰る頃にはバケツをひっくり返した様に激しい雨模様へと変わっていた。朝の天気予報では雨が降るなどとは言っていなかったから、俺は傘を持って登校していなかった。
だからそんな大雨を前に本当なら嫌な気分を隠せなくなるところだけど、ラッキーな事に以前学園に置き忘れていた傘があり、俺は他の傘を持って来ていない連中とは違って悠々と傘を広げて帰れる――はずだった……。
「龍ちゃんのおかげで助かっちゃった。たまには龍ちゃんも人の役に立つよね」
激しい雨が降る中、傘を差す俺の隣には皮肉交じりにそんな事を言う茜の姿。
運悪くと言うか何と言うか、学園の下駄箱から外へと出た所で茜と遭遇してしまい、無理やり傘の中に入って来たかと思うとそのまま傘の約半分を占領され、そのまま帰路へつく事になってしまったわけだ。
「はあっ……お前なあ、人の傘に入れてもらっておいてその言い草はないだろ? だいたいお前さ、いつも折り畳み傘を持ってたじゃないか。それを使えよ」
「い、今は壊れてて持ってないのよ! 別にいいじゃない、傘に入れてくれたって。幼馴染なんだしさ……」
茜は本当に不満そうな表情を見せながら口を尖らせる。
――まったく……口を尖らせたいのは俺の方だってんだよ。何でラブコメでは必須とも言える相合傘イベントを茜とせにゃならんのだ。しかも高校生になって初めての相合傘なのに……。
「まあ傘に入るのはいいとしてもだ、もう少し俺の方にもよこせよ。濡れるじゃないか」
茜は傘を持つ俺の手の上から自分の手を被せ、力ずくで自分の方へと寄せていた。そのせいで制服の左側は肩からしっとりと濡れ始めていて、冷たい感触が肌にまとわりつき始めている。
「嫌よ、私が濡れちゃうもん」
――この女……今度気付かない程小さな穴を無数に開けた傘をプレゼントしてやろう。俺のとびっきりの笑顔つきでな。
「そういえばさ、龍ちゃんとこうして一緒の傘に入って帰るのって久しぶりだよね」
「そうだったか?」
「そうだよ」
そう言われてみれば、確かに小さい頃から茜とこうして一緒の傘に入って帰る事は多かったと思う。
しかもよくよく思い返してみれば、小学生の時も中学生の時も、初めての相合傘は茜だった気がする。そう考えてみると高校まで初相合傘が茜というのは陰謀すら感じる確立だ。
「どうしたの龍ちゃん? 難しい顔して」
「気にすんな、我が身の不幸を嘆いていただけだから」
「何それ? 変な龍ちゃん」
初相合傘をずっと茜に奪われ続けてきた事が不満なんだよ――などと口にしてしまえば、まず間違い無くここに真っ赤な血の雨が降る事になるだろう。それだけは絶対に避けなければいけない。今後訪れるかもしれない俺のラブコメ人生の為にも。
それからしばらく他愛ない話を続けながら歩き、茜の家にもう少しで着こうかという時だった。
「あれっ? あの子……」
急に立ち止まった茜が見たのは、小さな公園の大きな木の下に居るおさげ髪の小さな女の子だった。上背から考えると小学校の低学年と言ったところだろうか。
その女の子は買い物袋らしき物を抱えたまま不安げな表情で空を見ている。
「傘が無くて雨宿りしてるってところかな」
遠目に見ている俺にも分かるくらいにその小さな身体は震えていた。女の子はここまで来る間に相当濡れたのかもしれない。夏とはいえ急な雨は身体を冷やすからな。
「私ちょっと行って来る!」
「お、おいっ!?」
言うが早いか傘から飛び出して木の下に居る女の子のもとへと向かって行く茜。
行くのは別に構わないが、アイツは何か状況を打破する手を考えているのだろうか……基本的に向こう見ずで猪突猛進タイプの茜にはほとほと手を焼いてきたもんだ。
とりあえず自分が行っても仕方ないだろうと思い、俺はこのまま遠くから行く末を見守る事にした。考え無しの事が多い茜の末路を考えると、最終的にこの傘をあの子に手渡す――という選択肢も考えておくべきだろうからな。
そんな事を考えながら様子を見ていると、茜はポケットからハンカチを取り出して濡れている女の子を丁寧に拭き始めた。その表情は普段の茜とは見間違う程穏やかで、とても優しく温かな微笑みをしている。
――へえ、茜ってあんな表情もするんだな……。
今まで見た事も無い柔和な表情に俺はなぜか見惚れていた。
そしてそんな茜をしばらく見つめた後、そろそろ頃合かと思い持っている傘を女の子に手渡そうと二人の居る大きな木の下に向かおうとした。
――えっ!?
そう思って一歩足を踏み出した瞬間、俺は見てしまった。茜が鞄から小さな折り畳み傘を取り出し女の子に手渡すところを。
――アイツ、『傘は壊れてて持ってない』って言ってなかったか?
自分の記憶を探っていると、買い物袋と傘を手に持った女の子が横を元気に走って通り過ぎて行く。
その時に女の子が手に持つ傘がチラッと視界に入ったが、見えた限りでは特に破損している様には見えなかった。
「ごめんね龍ちゃん。お待たせ」
「なあ茜、ちょっといいか? お前さ、折り畳み傘は壊れてて持って無いって言ってなかったか?」
「えっ!? そ、それはその……ほ、ほらっ! 帰る時にちょうど傘を持った龍ちゃんが居たから、そのまま龍ちゃんの傘に入っちゃえ! って思って……」
「ほほう。それはつまり、自分の傘を使うのが面倒臭かったから、俺の傘に入っちゃえ――って事だったわけかい?」
「ご、ごめんね龍ちゃん!」
茜はそう言うと紅く染まった顔を上げて脱兎のごとく駆け出し、あっと言う間に雨の降る中を走り去って行った。
「いったい何だってんだよ……」
茜にしてやられて悔しい思いがあったからか、俺はさっき考えていたとっておきのプレゼントを真面目にアイツに渡そうかと考えていた。まあその場合、俺は死を覚悟する事になるだろうけど。
未だ降り止む気配が見えない空を見上げてから大きくふうっと息を吐き出した後、俺は自宅への道をモヤモヤした気分のまま歩いて帰った。