危険×お隣
学生にとって最も至福の期間であろう夏休み。それも明日で終わりを迎える。
いつもなら夏休み終了前は原稿の締め切りに追われる作家の様に忙しいのだけど、今年は茜の監視下で既に宿題を終わらせているから何の心配もない。あの時は辛くてしょうがなかったけど、こうして何の心配もなく夏休みの最後を迎えられるのはなかなか良い。
「隣はまだ引っ越し作業中なのかな？」
「そうみたいだな。でも住人らしい人は見た事無いんだよな」
リビングのベランダ側に立ち隣家の様子を観察する杏子。
約四日程前からだが、ずっと空き家だった隣の一軒家には沢山の荷物が運び込まれていた。
ベランダの前に居る杏子の隣に立ち、一緒になって引っ越し風景を眺める。
――いったいどんな人がやって来るのだろうか。怖い人じゃなければいいけどな……。
二人で引っ越して来る住人の予想をしつつ、のんびりとした朝の時間を過ごす。
杏子と二人でテレビを見ながらのんびり過ごし、昼食を終えて後片付けを済ませた１４時頃。俺はエコバッグを持って買い物へ出かけようとしていた。
「さてと、そろそろ夕飯の買い物に行くけど。杏子、一緒に行くか？」
「行く～」
呼びかけに反応してすぐに出かける準備を始める杏子。俺はそれを見てリビングのソファーに座り、杏子の準備が終わるのを待つ。
「――お待たせー。行こう、お兄ちゃん」
約１０分程で準備を終えた杏子が、廊下からリビングを覗き込みながら呼びかけてきた。
「おっし。それじゃあ行くか」
エコバッグを片手に家を出ると、外はまるでサウナを思わせる程に蒸し暑かった。そんな暑い中を約１５分程をかけて歩き、目的のスーパーへと向かう――。
「ああー、涼しーい」
目的のスーパーへ入った瞬間に歓喜の声を上げる杏子。店の中はエアコンが十分に効いていて、まさにこの世の天国と言ったところだ。
「さてと、今日の夕飯は何にする？ リクエストはあるか？」
「ん～、とびっきりスパイシーなカレーとかどうかな？」
暑い夏に辛いカレーを食べて汗を流す。なかなか良い考えだと思う。
「いいなそれ。それじゃあ杏子隊員は野菜を集めて来るんだ！」
「イエッサー！」
杏子はビシッと敬礼を決めるとにこにこしながら野菜コーナーへと向かって行った。
それにしても、杏子のああいったノリの良いところは誰に似たのやら。
――さて、俺は肉でも見に行くか。
杏子が野菜をチョイスしている間に目的のお肉コーナーへと向かって歩く。
そして目的のお肉コーナーへ着くと、今日も美味しそうなお肉達が所狭しと冷蔵ケースに並んでいた。
「はあっ……」
素晴らしい霜降り具合の高級お肉はいつ見ても美味そうだけど、そういう物は俺の様な庶民には無縁の品物。
ポケットから取り出した財布の中身を見て大きく息を吐く。
――こんな高級肉を普通に食べられるご家庭に是非ともお邪魔してみたいもんだ。
「ええっと……カレーに入れるお肉は――これでいいんでしょうか……」
俺が羨望の眼差しで見つめていた高級お肉。それをスッと誰かが手に取るのが見え、思わず横目でチラッと見てしまった。
そこにはライトブラウンの綺麗なウエーブロングヘアーに、長身のモデルの様なスレンダースタイルをした美人が居た。思わずそのスレンダーな体型には目立つ大きく膨らんだ胸部に視線がいってしまうが、決してわざとではない。
胸部から視線を外して全体を見ると、そのスレンダー美人はちょっと見た事が無い制服を着ていた。
――この辺の中学校にこんな制服は無いし、見た目は絶対に高校生だもんな。どこの高校なんだろ……。
それにしても、この美人さんの呟きからカレーを作ろうとしているのは分かった。しかしその美人が呟いた言葉の内容がどうも気にかかる。
「もっと色々な種類のお肉を入れた方がいいのでしょうか……」
怪しまれないように距離を保ちながら横目で見ていると、その美人さんは高級牛肉を入れたカゴによりにもよって安い味付き肉を入れ始めた。
――おいおい、まさか味付き肉も入れるつもりなのか？
別にそれが悪いとは言わないけど、高級牛肉とそんな安物の味付き肉をコラボレーションさせるのはどうかと思う。
美人さんの奇怪な品物チョイスが気にかかり、余計にチラチラと見てしまう。
そして美人さんはブツブツと何かを呟きながらお肉コーナーに隣接する鮮魚コーナーへと移動を始める。その様子を見た俺はついついその後を追ってしまう。
――今度は刺身か。
鮮魚コーナーへとやって来て品物を見ていた美人さんは、綺麗に盛られた刺身が入った器を手に取った。
――まさかとは思うけど、カレーに入れるつもりか？ いやいや、刺身を手に取ったからってそれをカレーの具にすると決まった訳じゃ無いもんな。
俺は美人さんとの距離を少しだけ詰め、ブツブツと囁く様な言葉に耳を澄ます。
「これを入れればシーフードカレーになるんですよね……」
美人さんは手にした刺身盛りをカレーの具にするつもりの様だった。これもこれで別に悪いとは言わないけど、いくらなんでも具材のコラボレーションのし過ぎだと思える。
俺は不思議な事をしようとしている美人さんの動向からいよいよ目が離せなくなっていた。
「これも入れていいのでしょうか……」
「待って待って！」
鮮魚コーナーの片隅にある調理品コーナー。そこにある煮魚が入ったトレーを手に取ってカゴに入れる美人さんに対し、俺はもう辛抱堪らずに声をかけた。
「はい？」
見知らぬ男が突然声をかけたのだから、普通なら驚いて警戒されるところだろう。しかしこの美人さんはそんな事も無く、ぽやーっとした感じで俺を見ていた。
「あ、あの、突然で悪いんですけど、カレーを作りたいんですよね？」
「はい、そうです」
「失礼ですけど、カレーを作った事はありますか？」
「いいえ、ありません」
「作ってるのを見た事は？」
「無いですね」
「マジですか……」
少しの迷いも無くそう答える美人さんを見て思わず頭を抱えそうになってしまう。
失礼だとは思ったけど、とりあえずどうして作り方も知らないカレーを作ろうとしたのかを聞いてみた。すると美人さんは今日から一人暮らしを始めるとかで、その記念すべき日である今日、以前から興味があったカレー作りをしようと突然思い立ったらしい。
だが又聞きした知識しか無かった為、あのような奇怪な行動を起こしていたようだ。
そんな事情を聞いた俺は、とりあえず至って普通なカレーの具材とその作り方を教えながら美人さんと一緒にカレーの材料をカゴに入れて回った。
ちなみにお肉は例の高級牛肉をチョイスしていた。豪勢な初カレーになる様で羨ましい限りだ。
「――ご親切にありがとうございました」
「いやいや。それはいいんですけど、カレーはさっき言ったやり方で作って下さいね？」
「はい、分かりました。色々とありがとうございます」
美人さんは丁寧にお礼を言って頭を下げると、そのままレジへと向かって行った。
それにしてもおっとりした人だ。あれじゃあ道端で簡単に誘拐されるんじゃないだろうかとつい心配になってしまう。
「そういえば杏子は何してんだ？」
野菜を選びに行っているだけにしてはやたらに遅い。
――さっきの美人さんと野菜コーナーを回った時は居なかったもんな……。
そう思いながらもう一度野菜コーナーを見に行ったが、やはり杏子の姿はなかった。とりあえずあちらこちらを見て回りながら俺は再びお肉コーナーへと戻る。
「これも美味しいな～」
何という事だろう。我が妹様はまんまと試食コーナーでウインナーを渡しているおばちゃんの魔手にかかっていた。
俺は美味しそうに試食をしている妹の所へと向かい、にこにこと笑顔のおばちゃんから商品を受け取ってカゴへと入れる。何という無駄出費だろうか。
買う予定の無かった物が増えて溜息を漏らす俺とは対照的に、杏子は終始ご機嫌なご様子だった。
× × × ×
その日の夜。時計の針が１９時を指し示そうとしていた頃。不意に玄関のチャイムが家の中に響いた。
「杏子ー！ ちょっと出てくれないかー？」
「分かったー」
カレー作りで手が離せない俺は、リビングに居る杏子にそう頼んで鍋の中の具材に再び目をやる。
「お兄ちゃん、お隣さんが引越しの挨拶に来たんだって」
「はいよ～。そんじゃちょっと鍋を見ててくれ」
「はーい」
リビングへとやって来た杏子にカレー鍋を任せ、急いで玄関へと向かう。
「あっ、君は……」
「あなたは昼間の――」
そこに居たのは昼間のスーパーで出会った美人さんだった。何という偶然か、隣に引っ越して来たのはこの美人さんだったらしい。
「今日はお世話になりました。それとこれは引越し蕎麦です」
手に持った大きい鍋を玄関の廊下に置き、丁寧に頭を下げた後でその鍋を手渡してきた。
「ありがとうございます。僕は鳴沢龍之介って言います。最初に出て来たのは妹の杏子です」
「ご丁寧にありがとうございます。申し遅れましたが、私は如月美月と申します。今日からお隣の家に引っ越して来ました。以後、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
上品な微笑を浮かべながら自己紹介をし、それが終わると如月さんは丁寧にお辞儀をして自宅へと帰って行った。
せっかくだから貰った引越し蕎麦を杏子と食べようと、鍋をリビングに持って行って蓋を開いた。
「ねえお兄ちゃん、コレは……？」
「いや、引越し蕎麦だと言っていたんだが……」
如月さんから渡された鍋の中には、カレーと一緒にクタクタに伸びきった蕎麦が入っていた。
それでもせっかく貰った物だからと、今晩食べる予定でいたスパイシーカレーを断念し、その伸びきったカレー蕎麦を食べる事にしたのだが……カレーはともかくとして、蕎麦の伸びきり具合が最悪だった。これでもしスーパーでカレーの作り方や具材をちゃんと教えていなかったら――そう思うとゾッとする。
俺と杏子はお互いに微妙な表情をしながら伸びきったカレー蕎麦を口にし、その日の夕食を終えた。
