我がまま×温もり
昨晩から降り始めた雨が止まないまま朝を迎え、俺はじとっしたまとわり付く様な空気を感じながら自室の隣にある部屋へと向かっていた。
廊下の一番奥にある部屋の前に来た俺は、その扉をコンコンと叩いてから中へと入る。
「おーい。いい加減に起きろー」
俺は今日、三度目になるモーニングコールをしに妹の部屋へとやって来た。部屋にある掛け時計へ視線を向けると、既に午前10時を指し示している。
小奇麗に整頓されている部屋。その片隅にあるベッドの上にはポコッと膨らんだ掛け布団がある。
「おい、もう10時を過ぎてるんだぞ。いい加減に起きろ」
「ううん……おにい……ちゃん。あと――」
「あと5分寝かせろってか?」
「あと五十年――」
「お前は即身仏にでもなるつもりか?」
本気なのかボケなのか分からない発言に突っ込みを入れ、俺は部屋にあるライトブルーのカーテンを引き開けて行く。
引き開けたカーテンの外に見える景色は相変らずどんよりと暗く、昨晩よりも大粒の雨が降っている。
「う~ん……おはよ~う、お兄ちゃん……」
三度目にしてようやく妹が上半身を起こすと、寝ぼけ眼を擦りながらこちらを見てきた。
茶色がかったセミロングの髪にはいくつもの寝癖がついていて、眠そうに目を擦っているその姿はとてもだらしない。
「お兄ちゃ~ん、着替えさせて~」
「お前は幼稚園児か? 自分でしなさい」
「ちぇっ、お兄ちゃんは冷たいな」
俺に対してアホな要求をしてくるコイツは鳴沢杏子。俺の妹だ。まあ妹とは言っても再婚した母親の相手の連れ子だから、正確に言えば義理の妹って事になる。
「下に朝飯を用意してあるからちゃんと食べとけよ?」
「えっ? お兄ちゃんが食べさせてくれるんじゃないの?」
――起き抜けから何を戯けた事を言ってるんだこの妹は。
「お前は風邪ひきの子供か? 自分の手で箸を持って食べなさい」
「むうっ、お兄ちゃんのケチー!」
プクッと頬を膨らませて文句を言った後、一番上のボタンが外れたままのカッターシャツで大きく背伸びをする杏子。我が妹がパジャマ代わりに着ているカッターシャツは、俺が中学生の時に着ていた物だ。
それにしても、よく妹が居る奴はアニメやゲームに出て来る妹を見て『こんな妹なんて現実には居ない』と言うけど、まあそれは間違っていないと思う。
だって世の中にあんな可愛らしい妹達が溢れていたら、世界中の兄貴達は全員発狂してしまうからだ。
現実の妹とはふてぶてしく、可愛げが無く、生意気で兄の言う事などまるで聞かないというのが一般的なものだろう。
「お兄ちゃん、今日は出かけるの?」
「いや、外は大雨だしな。今日は家でのんびりするよ」
「そうなんだ。嬉しい」
杏子はにこっと笑顔を見せるとベッドから下り、そのまま一階のリビングへと向かって行った。
――何がそんなに嬉しいんだか。
我が妹である杏子もご多分に漏れず生意気な部分はある。だけど世間で聞くリアル妹達の様に生意気とは思わない。どちらかと言えば世の中で言われているリアル妹達よりはずっと可愛げのある方だと俺は思う。
まあ一つ問題があるとすれば、俺に対して極度の甘えん坊と化すところだろうか。小さな子供の様に甘えて来る杏子の様は、とても中学三年生とは思えないからな――。
「お兄ちゃん、久しぶりに耳掃除してよ」
1時間程自室で漫画を読みふけった後でリビングへ行くと、部屋へ入って来た俺に向けて杏子が開口一番そう言い放った。
――コイツは俺を召使いか何かと勘違いしてないか?
「それくらい自分でやれよ」
「えーっ! それくらいって思ってるならそれくらいの事はやってくれてもいいでしょー?」
「何だその妙な返しは。どこでそんな屁理屈を覚えてくるんだ?」
「屁理屈じゃないもん! お兄ちゃんに耳掃除してほしいの。してくれなきゃやだ!」
ソファーに座っている杏子は頬を膨らませて猛抗議をしてくる。
バタバタさせているその手は、シャツの袖が長いせいで掛け軸に描かれている和風幽霊の様に折れ曲がっている。
「ねー、久しぶりにいいでしょ? お兄ちゃん」
適度に瞳を潤ませながら上目遣いでこちらを見てくる。
俺は杏子のやるこれが大の苦手だ。理由は簡単、断れなくなるからだ。
「ああもう、分かったよ。お茶を飲んだらやってやるから」
「やった!」
こうなると引き下がらないのが杏子だ。さっさと要求を飲んで済ませた方が時間の無駄にならない。
俺は台所で麦茶を飲んだ後、綿棒が入った容器を持ってリビングのソファーに向かい、そこに座る杏子の隣に座ってから耳掃除を開始する。
「ああ~、やっぱりお兄ちゃんの耳かきは最高だよ」
「そりゃあどうも」
俺は三人がけソファーの左端に座り、杏子を膝枕してせっせと耳掃除に勤しんでいた。
そして耳掃除を受けている我が妹様は瞳を閉じてとても気持ち良さそうにしている。
「そういえば杏子、いい加減俺の着ていたカッターシャツをパジャマにするのは止めないか?」
「絶対に嫌~」
俺からの意見は吟味の間も無く即座に却下された。
――まったく……カッターシャツの何がそんなに良いのかさっぱり分からん。下は自分で買ったパジャマを着るくせに、頑なに上だけは別の物を着ようとしないんだよな……。
前に一度シャツを始末しようとした事があったんだが、『捨てたら裸で家中をうろついてやるー!』――と、わりと本気で泣き喚かれて捨てるのを諦めたというエピソードがある。
「お前は一生俺のお下がりシャツを着るつもりか?」
「だったらどうする~?」
「それだけは止めとけ……」
大きく溜息を吐き出すと、杏子はそれを見て楽しそうに笑った。
――ホントに何がそんなに楽しいんだか……。
そしてせっせと耳掃除に勤しんでいると、杏子はいつの間にやら夢の世界へと旅立っていた。
「呑気に寝やがって……」
やれやれと思いつつ膝枕で寝ている杏子の頭をそっと上げ、そのままソファーに寝かせる。
そして俺は自室に向かい少しだけ厚手の掛け布団を手に持ち、再びリビングへと下りてからソファーで寝ている杏子の身体にそっとそれを被せた。
「ううん……おにい……ちゃん。アイス買ってきてぇ……」
不意にそんな寝言を呟く杏子。
――やっぱりコイツの中で俺は召使いなのだろうか……。
夢の中でも不遇な扱いをされている俺に泣けてくる。
しかしまあ、是非とも夢の中だけで満足して、現実の俺に欲望の刃を向けないようにしてもらいたい。
「頑張れよ。夢の中の俺」
激しい雨が降りしきる外を眺めながらぽつりと呟いたその言葉が、杏子の寝息と一緒に部屋の中にスッと溶け込んで消えていった。




