伊賀崎花音2
暴力的表現があります。
凶器や殺気も出ます。
気分を害されましたら、すみません。
いや、違う、息を呑んだだけだ。
落ち着こう、ここは私の家じゃない。愛梨ちゃんが前にいる。
落ち着こう。
落ち着こう。
落ち着こう。
「ごめん、そろそろ帰るね」
今、どんな表情を浮かべているかわからない。
頭の中に色んな情報がぐるぐると回っているけど、何も受け止められなかった。いや、まだ受け止めては駄目。
『帰る』。
その事だけを考えよう。
ああ、なんだろう、周りが遠い。視線が狭まったような気がする。
「花音ちゃん?」
心配そうな愛梨ちゃんの顔さえ、ガラス越しに見えた。世界が白い。
「また、明日ね」
定番のセリフを自動的に話しながら、ソファーから立ち上がった。歩き、部屋から出ようとすると、彼女が追いかけてくる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「うん。ドタバタしてごめんね」
言葉少ない会話を交わしながら、門の所まで送ってくれた。
「あの、車で送ります。待ってて、花音ちゃん」
「大丈夫、まだそんなに遅くないもの。空も明るいわ」
彼女の好意を断り、敷地の外へ出る。
「今日はありがとう、お茶美味しかった」
「あの、花音ちゃん……」
「また明日」
顔に力を入れて笑顔を作る。
「でも」
手を振り、彼女から逃げ出すように走り出す。
愛梨ちゃんはまだ何か言いたかったと思う。でも、私が耐えられなかった。自分の失策に。思いっきり走って、走って、走りまくった。
駅を通り抜け、行き着いた先は、海だ。
天ヶ瀬司と会った場所に着く。
なぜここに来たのかは、わからない。ただ、ここに着いただけ、そんな気がする。ペース配分を考えずにがむしゃらに走った所為か、息が乱れていた。
苦しい。堤防に寄りかかり、息を整えようと何度も呼吸を繰り返す。
体が苦しがったけど、心がもっと苦しかった。
どうしてこんな事になったんだろう。知っていたのに、彼女がどんな目に遭うか知っていたのに。手遅れだなんて、どうして、どうして。
彼女への謝罪を何度も思うけど、愛梨ちゃんの顔も浮かんだ。
突然出て行って困っただろう。
行動しなかったこと、行動したこと、全てに後悔を感じた。
「どうしよう、どうしよう」
どこか冷静な自分がいて、何も出来ないと判断を下している。でもそれを飲み込めずにいた、認めたくないから。堂々巡りの考えに何も出来ずにいると、胸が温かくなる。
そこにはお守りがあった。
お守りが私に教えてくれる事、それは警告。痴漢か変態が、私に近づいてきていると教えてくれるのだ。
あいつらだ。
こめかみがちりちりと痛むが、息を整えて逃げずにそのまま待つ。ちらりと目で辺りを伺えば、トレンチコートの男がいた。
1人。
通りすがりかもしれないと思ったが、どうやらこちらを見据えているので、私が狙いなようだ。痴漢か、変態か……、今の私にはどうでも良かった。
侮蔑と呆れと哀れみの目で見つめる。
その男は40前後だろうか。近づかれると、コートのくたびれ具合が伺えた。顔はにやけ、息が荒い。
「こんばんは、お嬢ちゃん」
声を掛けられて、先程までぐちゃぐちゃな感情で纏まらなかった思考が1つに纏まった。
なんだ、そういう事か。単純に私は、こいつらが、憎いんだ。
氷室のゲームが、憎いんだ。何も出来ない、私が大嫌いなんだ。
「なんの用」
こいつも。
「こんな遅くに危ないよ」
こいつも憎い。
「家は近くなのかい?」
じわりと近づいてくる。
コートを着ていたから、変態かと思えば、痴漢かもしれない。
「可愛い子に悪戯しちゃう、いけないおじさんに狙われちゃうよ」
少しコートの前がはだけた。見えたのは、男性器。ズボンのチャックが降ろされ、それだけを出していた。
私を心配した大人じゃない、立派な犯罪者がそこにいる。残念なような、安心したような気持ちで溜息をつく。
「お前みたいな?」
怯えるわけでもなく、聞き返し一瞥すると男はにやりと笑った。
何を感じて笑ったのかは分からないし、理解したくない。ただ、私のやる事は1つ。
自分でも何かおかしいと思う気持ちはある。頭の中から気持ちが溢れて、上手く制御出来ない。でもこれは、そう、これは正当防衛なのだから。
バッグから細身のカッターを取り出すと、チキチキと少し出す。
全部出しては歯が折れる。少しだから、折れにくい。私はその事を、『体験』した事があるから知っている。そう使った遠い記憶があるから。
「私を放っておいてよ」
警告のつもりで囁く。凶器を持つ私に警戒したのか、痴漢が動揺した。
「危ないじゃないか、さ、歯を戻して私に渡しなさい」
急に礼儀正しくなるから、笑ってしまう。情けないモノを出して、大人ぶるのだから。
「私に近づかなければ、大丈夫」
私は痴漢を見据える。
「このまま消えればいい。それとも近づく?」
少し構えた痴漢に、喜ぼうとしている自分がいた。逃げない犯罪者に出来ることがある、と。
「消えないの。そう……でも、いいよね? 私は被害者なんだから」
右手にカッターを持ち、構えながらポケットに手を入れた。
取り出したのは、マイナスドライバー。長いと攻撃しにくいから、持ち運び用の短い20cmのものだ。
「あなた、独り身?」
「……」
「会社も行っていない、家族もいない、恋人もいない」
「……」
「失う物が命だけだから、リスクを背負えるんだね」
「……ぅ」
「じゃあ、ここで何が起こっても大丈夫だよね?」
なぜか涙が頬を伝う。感情が爆発しているのは分かる、でも理性がその上に座っているかのようで冷静に動けた。
周りがとても静かで、私の手は全くぶれていない。
頭の中で、脈打つ鼓動だけが、煩いだけ。
「……ぅぁあ」
痴漢が頭を抱え始めた。演技かもしれないので、近づかず、いつでも攻撃できるように見守る。相手の心配など必要ない。ある意味こいつらは人殺しだ。人の体と共に心を壊そうとする奴に、なぜ優しくならなければならない。
「違う、俺は、違う」
何が違うというんだ。
「私を壊そうとしたんじゃない。楽しそうに、嬉しそうに」
「違う、したいんじゃない、そんな事したくない」
ブツブツと頭を振りながら、嘆く。
「卑怯じゃないか、そうやって逃げるの?」
胸が熱い。まるで火傷しそうだ。
「違う、違う、俺には大事な家族が……」
「家族を犠牲にしてまで、したいことなんでしょう?」
「失いたくない!」
「失うリスクを掛けて痴漢を楽しんで、いざとなったらリスクを背負わずに逃げるの?」
「言わないでくれ、頼む、見逃してくれ、お願いだ、もうしない、絶対に!」
みっともなく土下座された。でも一欠けらも同情できない。
「成功したら、続けるくせに」
そして私は、『絶対』を信用していない。
殺そう。
真剣にそう考えていた。私は殺されそうになったのだ。愛梨ちゃんは、昔心を殺された。宇留間さんもそうなった。
心をずたずたに引き裂かれ、殺されたんだ。
こいつがやったわけじゃない、でも同じだ。こいつも誰かの心を殺していく。
カッターを持つ手に力を入れると胸に物凄く熱さを感じ、悲鳴を上げた。
「あつっ!!」
ものすごい熱を感じて痛い。何か燃えたんじゃないかと疑うほどに。
急いで首から提げているお守りの紐を引っ張ると、熱さが移動した。やっぱりお守りが熱を放っている。思いっきり紐を引っ張れば、胸元からお守りの袋が飛び出した。
赤い光が目を射す。
強い光が、袋の中から漏れていた。こんなに強い光は初めてだ。一体何が起きたんだろう? 大勢の痴漢や変態が来るとでもいうのだろうか。
驚いていると、痴漢が絶叫した。
「俺は、俺は!」
そしていきなり立ち上がると、私を置いて走っていく。
「………」
走り去る痴漢を、私はただ見つめていた。
逃げられちゃった、と頭の端で認識しながらぼんやりと立ち尽くす。しばらくそのままでいると、陽が落ち始め、空の色が紺へ変わった。
「帰らなきゃ」
カッターの歯を収め、ドライバーもポケットに入れる。バッグを拾うと、家に向かって歩き始めた。
気分は、なんだか靄の中を歩いているようだ。
光に殺気を削がれ、先程まで寄り添っていた怒りが消えている。酷く疲れたからなのかもしれない。喉が渇き、涙も乾いていた。どうしよう、それだけが頭を占めている。
ふらふらと家の前に着くと、ぼんやりと見上げた。
どこからどうみても、私が14年間住んでいる場所で、全て現実にしか見えない。家の塀に頭をぶつけてみれば、痛かった。痛みが嘘には思えない。
ゲームなんかじゃない、ここは現実だ。
怪我すれば血が出るし、痛い。
「花音、どうした!」
その声が耳に届き、私は安堵して涙が出そうになる。
一人よがりな涙を。
顔を上げて声の方向を見れば、私の味方がいる。ゲームでお世話になる、頼もしい仲間が。今からしようとしている事は、彼の人生を巻き込む事だ。貴重な青春を、『協力』という強制力で利用される。
1人で頑張るにも、手遅れでは駄目なのよ。『協力』がどうしても必要なの。だから、身勝手な私を許して。搾り出すような声で、彼にお願いした。
「要……助けて……」




