五月『子供』
「私の息子」
何か、河原に子供が倒れてる。
「……あれ、夢見てんのかなー、私」
もう夕方なんだけど、どんだけ夢見心地なんだ私の頭は。そう思って、くわえていた棒つきキャンディーをかみ砕く。しかし私の眼前から、倒れている子供の姿は消えなかった。どうやら、寝ぼけているわけではないようだ。刺さった飴の破片が、これは夢じゃないぞと私に訴えかけてくる。んなことわかってらー。
仕事帰りに今までほとんど通らなかった道を通ってみたら、これである。夕暮れ時に、とてもきれいな夕焼けを反射して輝いている川辺に、その姿はとても似つかわしくない。しかし「いやぁ、趣深くないわぁ」とかいう理由で見て見ぬふりをするほど私の正義感は腐っていないので、仕事道具もろもろが入ったカバンをその辺に投げ捨てて、倒れている少年の元に駆け寄った。しかしその途中で、携帯がないと救急車が呼べないことに気付いて、引き返す。なんとも決まらないものだ。
「おーおー……、これはまた……」
近寄ってみて見ると、少年の体中に傷があって、切ったような傷や殴られたような傷やら、決して無事には見えない状態だ。一体この少年に何があったのだろうか。近所の子供と喧嘩したというわけではあるまい。いじめられたか……、いや、でもこの年代の子供のいじめにしては……。って、原因究明はあとでいいか。今はとりあえず助けよう。
「おいしょ……っと」
とりあえずずぶ濡れの体を川から引きずり出して、道に寝かせる。頭には、痛くないようにと荷物を枕にして寝かせた。防水加工されている鞄かどうか不安だが、まぁ、もう、どうでもいい。どうせ安物だし、人の命にはかえられない。
「息は、あるね。よしよし、いいことだ」
生きているって、いいこと。そう再認識する余裕がないほどの息の弱さなので、即座に救急車を要請した。落ち着いているように見えるが、私今かなり焦っているからな? ホントに。今だって何回もボタン押し間違えて時報とお話をする羽目になってたからな?
「ふぅ……。ごめんなー、応急処置とかできなくて」
とりあえず一息ついて、少年の横に座り込む。こういうことになるんだったら、もっと保健の授業を大事にするべきだった。そんな後悔をすることになるから、学校の授業を大切にするんだぞ、中高生諸君。
できることがないので、救急車が来るのをおとなしく待つ。その間、少年の息が途絶ええていないか、まめに確認しながら、改めて少年の姿を見てみた。
「……やっぱり、ひどいケガ」
どうやったらこんなにケガをする出来事が起こるのだろうか。切り傷は、恐らく川を流されていた時のものだと仮定して、この、殴られたような殴打の傷は何だろうか。うーん……あんまりいい考えは浮かんでこないけど……。
「ん……」
「お? 少年目覚めたか!?」
微かに唸り声のようなものが聞こえたので、急いでその消え入りそうな声が聞こえるまでの距離に近寄って、耳を寄せた。もしかしたら、少年がこうなってしまった原因が分かるかもしれないし、私はこの少年の身元すらも知らない。そうしないと、親とかにも連絡できないから、聞き逃すわけにはいかないのだ。
「こ、こ、は……?」
わずかに目を開いて、周りを見渡す素振りを見せた。そう言われても、私もこの場所のことはよく知らないので、黙秘するしかないのだが。こちらから問いかけてみた方が良いのだろうか。ドラマとかでもそうする場面を結構見るし。
「おーい、大丈夫? 名前言えるー?」
意識を取り戻しはしたらしいので、どれくらい反応ができたのか確かめてみる。それに加えて、素性も確かめれるかなっていう期待も少しこめて。名前を聞いたところで分かるかって言われたら、それは別だけど。
「なま、え……。僕の、なまえ」
ぶつぶつとうわ言のように言っているところから見て、まだ意識がもうろうとしているのだろう。丁度救急車のサイレンも近づいて来たし、早く治療してもらわなければ。
「僕の……名前……?」
「……え?」
何だか少年の様子がおかしい。これは意識がはっきりしていないというよりは、
「大丈夫ですか!!」
私たちがそんなやり取りをしている間に、救急隊員がこちらに向かって駆け寄ってきた。その刹那に、少年が呻きながらその場に倒れる。私は地面に体がぶつかる前に少年の体を受け止めて、それを防いだ。
「この少年がここで倒れ」
「あなたも一緒に乗ってください!!」
「え、ちょっ」
「良いから早く」
私、知り合いとかじゃないんですけど。と言う前に、救急隊員に救急車に押し込まれてしまった。私のことを何だと思っているんだろうか。通報の際にはちゃんと説明したはずなんだけど。
「……」
目の前では、意識不明の少年の治療が行われている。何だかよく分からない言葉を叫びながら、救急隊員たちは忙しなくその治療にあたっていた。その隅っこの方に座らされた私は、完全に立場を失ってしまっている状態だ。
「ま、いっか……」
別に私もこれから帰るだけで暇だったし。
まぁ、これも、多分なんかの縁だ。
少年のことも心配だし。
もうちょっとだけ、付き合おうじゃないか。
○ ● ○ ● ○
「あの子の、母親になって欲しいんです」
「……あれー?」
何でこうなったが全く理解できないぞー……? と心の中で思ったところで、真面目な顔をして私を取り囲んでいる大人たちには伝わらないのだろう。戸惑いぐらいは伝わって欲しい物だけど。
少年が運び込まれてしばらく待っていると診察室に呼び出されたので、何かケガの症状なり何有を説明されるのかと思ったら、これだ。何か、違う。ってか、これは診察室で話す話ではなくないだろうか。
「……大丈夫ですか?」
「ちょっと全然大丈夫じゃないです」
「……もう一度、説明しますね」
ぽりすおふぃさー(警察ともいう)の制服を着たおじちゃんが、額の汗を拭いながらようやく私のことを心配してくれた。その優しさに惚れてしまいそうだったが、未だかつてないほどの冗談なので撤回させてもらうとしよう。
「あの子の家族はみな、惨殺されてしまっているんです」
「……なんで?」
「原因はまだわかりません。我々も発見したのは今朝の事ですから。それで、ですね……」
おっちゃんはそこで一息ついて、横に置いてあった炭酸飲料を口にした。横に座っている、白衣を着た院長と思われるおじさんは、その様子を黙って見つめていて、更にその周りを取り囲む各おじさんたちの部下が、色んな表情で私のことを見ている。何だかこんだけの人に囲まれていると、悪いことをしている気分になってしまう。私、帰宅してただけなのに。
「家族で生き残っているのはあの子だけで、彼には、親戚もいないんです。だから、あなたに母親代わりになって欲しいんです……」
最後は懇願するような仕草で、警察の方々が深々と頭を下げた。私はこの理由を聞くのが二度目なのだが、全く理解ができていない。いや起こった事態そのものは理解できてるんだよ? でもね、そこでなぜ私に母親は代わりをさせようとしているのかって話だよね。私はまだ今年で二十になったばかりの若造だというのに、いきなり六歳前後の子供が登場したら、なんかものっそい複雑な家庭の光景みたいになってしまうじゃないか。私、十四歳で産んだことになるからな? 彼氏も未だにできたことがないのに。うるさいそれは関係ない。
「……私なんかより、施設とかに預けた方がいいんじゃないですんかね?」
経済的にあまり裕福な生活とは言えない私だ。少年一人を養うぐらいどうと言うことはないとは思うが、生活水準はどうしても下がってしまう。それよりも、ちゃんとした施設に入って育つ方が、少年のためになるんじゃないだろうか。と、私にしては珍しくちゃんとした理由だ。
「それが……、ですね」
今まで押し黙っていた医者が、急に口を開いた。あれ、警察のおっちゃんじゃないのか、と少し驚きながら体をそちらに向ける。何か少年の症状と関係があるということなのだろうか。
「あの少年の記憶はなくなっているんです」
「……あぁ」
やっぱり、か。さっき話してた時に、何となくそんな気はしてたんだ。さっきの不自然さも、そうなら確かに納得がいく。
「それも、自分に関する一切の記憶を、です」
「あー……、つまり?」
「基本的な言語、作法等を除いて、少年は名前すらも覚えていないということです」
……なる、ほど。口には出さず、心の中で呟いて深く一度頷く。それで、私を母親代わりにしようって言うわけか。深く納得した。確かにこれはよく考えられていることだ。
施設に入れられると、おのずと自分やその家族に何かがあったということがわかってしまう。それは、何も記憶が残っていない少年には、非常に苦痛に感じることだろう。だから何事もなかったように私を母親の代わりにたてて、それを自然の状態にする……、と。そしたら、多少疑問は残ったとしても、自分に不幸があったことなど考えずにすむ。それに何も状況を知らない私の近くにいると、記憶の手がかりのようなものもないから、辛い記憶も思い出さずにすむ、と。
つまりこれは綿密に考えられたこと、ってわけね。
「なーるほどね……」
いやー、ほんとここはいい国だね。一人の少年のためにこんなに人が動くなんて。ポケットから棒つきのキャンディーを取り出して、口にくわえる。甘いイチゴの味が口に広がった。この味は、いつ食べても落ち着くものだ。少し混乱していた気持ちが落ち着いて、冷静になる。
何人もの大人たちが、あの少年を幸せにするために頭を働かせ、動いている。
……まぁ、なら私も期待に応えてやろうじゃないの。
「……もちろん、生活費等の援助はするつもりです。無理は承知です。断っていただい」
「いいですよ」
「……え?」
おっちゃんが深刻そうな顔をしていたので、即答したらすごい驚いた顔をされた。あれ、断った方が良かったのかな。
「い、いいんですか……?」
「え、はい。あ、援助も大丈夫ですよ」
「え、え? ええ……?」
そんな驚かなくてもいいのに。そんな部下総出でざわめかなくてもいいのに。えーなんか悪いことしたみたいじゃん。飴玉を少しだけ舌で転がして反省してみようとするが、何を反省したらよいのやら。全く見当がつかない。
「いや、でもしかし……」
「大丈夫ですよ。私まだ若いですしー」
なんか、あの少年とは運命みたいなものを感じるし。そう言ったら何か恋をしているみたいだから言わないけど。
私にだって、あの少年の幸せを手伝うことぐらいできる。
私の人生をかけて、この運命を、
少年の命を、助けようじゃないか。
「それじゃ、私は息子に会いに行くんで」
「え、あ、ちょっと待って」
「手続きとかあれば、よろしくお願いします」
飴をかみ砕いて、手を振りながら診察室の外に出る。呆気にとられる大人たちの顔を見るのは爽快だった。
「んむ……」
私今日から子持ちか、と病室に向かう途中で考えたりした。まだ彼氏も以下略。悲しくなってくるからその話はやめよう。
「まずは、生活用品からそろえないとねぇ」
ポジティブに行こうじゃないか、ポジティブに。
○ ● ○ ● ○
「……あ、さっきの」
私が部屋に入るとすでに目覚めた少年が、こちらを向いてにっこりと笑って見せた。体中包帯だらけだが、座っているところを見ると元気なんだろう。
「お、おーう、息子よー!」
「……へ?」
そう言えば名前すら分かんないことに気付いて、苦し紛れに叫んでみたら、少年が目を丸くしながらこっちを見てきた。そ、そんな目で私を見ないでくれよぅ。私だって自分が何したいかわかんないよぉ。
「い、いやー、川遊びもたいがいにしとけよー」
「は、はぁ……」
ケガの理由も悟られてはならないと導き出した結論がこれだ。苦し紛れにもほどがあるが、さすがに少年に記憶がないだけあって突っ込まれない。私って嘘が下手だ。
「……お母さん、ですか?」
「おうよー」
お、どうやら信じてくれたみたいだな。実はさっきの話がドッキリで、「は、何言ってんのこの女」とか言われたら泣いてしまいそうだったので、嘘じゃなくてよかった、と安心したりしなかったり。まだ、危険な綱渡りは終わっていないので、どうにかせねばならん。
「ごめんなさい……僕には、記憶がないみたいで……。わからないんです」
「いーっていーって、思い出せる日が来るだろーからさー」
それを来させないようにするのが私の役目だから、そうはさせないけど。にしても、この年にしては言葉遣いがちゃんとできていて驚いた。相当育ちがいいと見える。私の息子って、完全に無理があるレベルじゃない?
「あの……、一つ聞いてもいいですか」
「んー?」
「僕の名前って、なんでしょう?」
「あー、名前ね。そっか、忘れちゃってるんだよねー」
「はい」
「あんたの名前はー、瀬野――」
おっと、全く考えていなかった。自分の上の名前を言ったは良いが、その先が続かない。私の方を見ている少年の目が、どんどん不審じみた色に満ちていく。や、やめてー。
んー、名前、か。とりあえず棒つきのキャンディーを取り出してそれをくわえる。少年にもそれを投げて渡した。私の言葉の続きを待っている少年は、その突然の挙動に驚いているようだ。包み紙をつまんで、不思議そうにそれを見つめている。もしかして、育ちがいいならそれを見たことすらなかったかもしれない。
少年は、とても大きな不幸にあって、記憶を失った。
んー……、なら、少年はこれから幸せになるべきだ。
多くの幸せを、得るべきなのだ。
「幸……多。そう、あんたの名前は、瀬野 幸多だ」
「瀬野……、幸多」
少年は、私の息子の幸多はその言葉を噛み締めるように一度呟いた。私はその手に握られたままになっているキャンディーの包み紙を開けて、もう一度渡す。
「そして、それを食べるのが好きだった」
完全に、私が今作ったけど。
「そう……ですか」
「敬語は禁止ね、親子なんだからさー」
偽物の、親子だけど。
「あ……、うん」
「あんたはこの私、瀬野 波香の息子なんだからさ」
今、なったばっかだけどね。
「そう、だ、ね」
私の真っ赤な嘘たちを信じて、幸多は頷いた。私はその姿に少し心を痛めながらも、その頭を優しく撫でる。
「私はあんたの幸せを、心から願ってるよ」
そして一つだけ本音を小さな言葉で呟いた。
「え……?」
「なんでもない。ほら、とっとと飴食わないととけるぞ」
「うん」
幸多は慣れない様子で飴をなめる。どうやらその味に満足したようで、かぶりつくようにその飴をなめ続けた。そんなに食いついてくれるとは思わなかったよ。何か嬉しい。
窓から外を見ると、おかしくなりそうなぐらい照りつける日差しが窓から差し込んできていた。いつの間にか、一日があけていたようだ。そんなに時間がたっていたんだ、と改めて実感する。同時に、職場に遅刻の連絡いれなーとなー、と少し憂鬱になったりしながら、もう一度幸多の方を向いた。
「ねー幸多」
「なんです……、なに、お母さん?」
まだ慣れていないため口で、幸多は私の言葉に応えてくれる。お母さんと言う言葉にむず痒くなりながら、私はその顔を見て微笑んだ。
「これから、楽しい思い出を作って行こうな」
「……うん」
そして私はもう一度心の底から願う。
この、少年に、
私の息子に、
どうか、多くの幸せがあらんことを。