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婚約破棄は、最後まで言わなければ無効です ~私に夢中なはずの王子さまが、透明になって逃げた夜のこと~

掲載日:2026/11/03

婚約破棄の言葉は、最後まで言われなかった。

言いかけたエリク殿下が、その途中で消えてしまったからだ。


王宮の大広間には、国じゅうの貴族が集まっていた。音楽が止まり、殿下が私の前に立つ。いつもはきちんと整えている金色の髪が、今夜は少し乱れていた。


「リゼット。君との婚約を、破棄す……」


声がふるえていた。殿下の左手の指が、太ももを三回たたく。小さいころから、本当に困ったときにだけ出るクセだ。


次の瞬間、殿下の体がすうっと薄くなった。水に落としたインクが広がって消えていくように、足の先から色がなくなっていく。


「あれ……戻らない」


その声を最後に、殿下はどこにもいなくなった。


殿下が透明になるのは、これが初めてではない。でも、こんなに大勢の前で消えて、しかも戻れなくなったのは初めてだった。


まわりの人たちが、ちらちらと私を見た。かわいそうがる目ではなかった。だれもが、信じられないという顔をしていた。


「あの殿下が?」

「まさか。あんなにリゼットさまに夢中なのに」


無理もなかった。殿下が私を好きなことは、この王宮で知らない人がいない。夜会で踊る相手は、いつも私ひとりだ。私が広間に入ると、どんなに遠くにいてもすぐに気づいて、ぱっと顔を明るくする。私の名前を呼ぶだけで、耳を赤くする。姿は消せるのに、好きな気持ちだけは少しも隠せない方だと、侍女たちは目を細めて言う。


その殿下が、どうして婚約破棄なんて言いだしたのか。だれにも分からなかった。私にも、分からなかった。


大広間がざわめく中、宮廷魔術師長が青い顔で走ってきて、殿下が立っていた床に手をかざした。


「透明化のスキルが暴走しています。夜明けまでに止まらなければ、殿下は体も声も消えて、二度と戻れません」


あの指のことが、頭から離れなかった。殿下は、言いたくないことを無理に言おうとしている顔をしていた。本当の理由を聞かないまま、消えさせるわけにはいかない。



私は大広間を飛び出した。台所に預けておいた夜食のかごをつかんで、王宮の北にある離れへ走る。


離れに住んでいるのは、勇者のトオルさんだ。三年前に別の世界から呼ばれて魔王を倒した人で、それからはずっと、ここで寝てばかりいる。


「トオルさん、起きてください」

「やだ。俺はもう、一生分がんばった」


ソファに寝ころんだまま、トオルさんは毛布を頭までかぶった。


トオルさんは、セーブという力を持っている。今の時間を覚えておいて、失敗したら、そこまで戻ってやり直せる力だ。魔王と戦ったときは、三百回以上やり直したらしい。負けた記憶も、痛かった記憶も、全部ひとりで覚えている。だからもう何もしたくないのだと、前に話してくれた。


私の家は本を作る家で、私はトオルさんがかばんに入れて持ってきた本を訳している。疲れた心の休め方や、考え方のクセの直し方が書いてある本だ。勇者の世界には、そういう本がたくさんあったらしい。ただ、私は勇者の世界の文字が読めない。だから毎晩夜食を届けて、そのかわりに読み上げてもらっている。トオルさんが起きてくれるのは、おいしいもののにおいがするときだけなのだ。


「今夜は、甘い卵焼きをはさんだパンです」


毛布が、少しだけ動いた。


「……話だけ聞く」


事情を話すと、毛布のすきまから、トオルさんが目だけを出した。


「殿下が? ないだろ。あの人がリゼットさんを好きなことくらい、寝てばっかりの俺でも知ってる」

「だから、わけが分からないんです」


トオルさんは起き上がってパンをひと口かじり、長いため息をついた。


「一回だけな。失敗したら、ここまで戻す。でも、戻ったことを覚えてるのは俺だけだから」


トオルさんが指を鳴らすと、部屋の空気が小さく光った。


そして、トオルさんがまばたきをした。


ほんの一瞬だった。なのに、目を開けたトオルさんの顔は、さっきとまるで違っていた。血の気が引き、パンを持つ手がふるえている。


「……今、一回やってきた。だめだった」


トオルさんの話では、やり直す前の私は騎士団に頼んで、王宮じゅうの廊下に小麦粉をまいてもらったらしい。透明でも、足あとは残る。殿下は、亡くなった王妃さまの温室にいた。


「見つけたのはリゼットさんだよ。でも、騎士が殿下の腕をつかんだら、殿下はもっと薄くなった。つかまえようとするほど、消えていくんだ。最後は朝日が差したところで、声も聞こえなくなった」


トオルさんは、パンを皿に戻した。


「消える前に、殿下が言ってた。『母上、ごめんなさい。見られてしまった』って」



見られてしまった。私はその言葉を、胸の中でくり返した。殿下は、消えることよりも、見られることのほうをこわがっていたのだ。


思い出したのは、先週トオルさんに読んでもらった本の一節だった。


つらいときに逃げるのは、悪いことではない。心を守るための大切な方法だ。けれど、逃げ道がひとつしかないと、人はやがてそこから出られなくなる。やめたくても自分ではやめられなくなることを、本は依存と呼んでいた。そして、無理に引っぱり出そうとすると、人はもっと奥へ逃げてしまうのだという。


殿下は昔から、つらいことがあると透明になった。剣の練習で負けた日も、先生にしかられた日も。王妃さまのお葬式の日は、日が暮れるまでだれにも見つけられなかった。そのたびに殿下を見つけてきたのは、私だった。かすかに聞こえる、指の音をたよりにして。見つけると、殿下はいつも、少しだけほっとした顔をした。


透明になることは、殿下にとってたったひとつの逃げ道だった。そして今夜、その道から出られなくなった。


殿下がそこまで見られることをこわがる理由も、私は知っていた。王妃さまが最後に書いた手紙だ。七歳のときから、殿下はそれをお守りのように持ち歩いていた。


王になる子は、人に弱いところを見せてはいけません。


一度だけ見せてもらったことがある。そのとき、少し変だと思った。手紙の最後が、「けれど」という言葉で終わっていたからだ。


翻訳をしていると、よく分かる。文は、最後まで読まないと意味が変わることがある。


「トオルさん。王妃さまの手紙には、続きがあるのかもしれません」



王妃さまに長く仕えていた侍女長のベルタさんは、夜中なのに起きていた。私の話を聞くと、王妃さまの古い荷物の中から、長い時間をかけて小さな木の箱を探し出してくれた。


「王妃さまは、手紙を二枚お書きになりました。一枚目は殿下に。二枚目は、殿下がいつか大切な方を見つけたら、その方から読んであげてほしい、と。お二人のご婚礼の日にお渡しするつもりで、しまっておりました」

「婚約を破棄されかけた私が、受け取ってもいいのでしょうか」

「殿下の大切な方は、今もリゼットさまですよ。わたくしは、小さいころからお二人を見てきましたから」


二枚目の紙は、少し黄ばんでいた。読んだとたん、のどの奥が熱くなった。一枚目だけなら、王妃さまの言葉は殿下をしばる呪いだ。でも続きまで読めば、殿下の幸せを願う言葉に変わる。


部屋を出ると、遠くで鐘が四回鳴った。夜明けまで、あと一時間ほどしかない。



温室は暗く、ガラスの屋根の向こうに、まだ星が残っていた。白い花の甘いにおいがする。王妃さまが好きだった花だ。


私は騎士を呼ばなかった。小麦粉もまかなかった。小さいころ二人でよく座ったベンチに、ひとりで腰を下ろした。


トオルさんとの約束は、一回だけだった。今度失敗したら、もうやり直せない。そう思うと、ひざが小さくふるえた。


とん、とん、とん。


花だんの奥から、かすかな音がした。


「殿下。見つけに来たのではありません。お話をしに来ました」


音が止まった。


「来ないで」


かすれた声だった。すぐ近くにいるはずなのに、遠い場所から聞こえてくるみたいに小さい。


「君の前だと、僕は隠れていられないんだ。君はいつも僕を見つける。泣いているところも、負けたところも、全部見られてしまう。王になるなら、そんな相手のそばにいちゃいけないと思った」

「だから、婚約破棄を?」

「……うん」


ああ、と思った。やっぱり、この人は私を嫌いになったのではなかった。私の前でだけ弱くなれる自分が、こわかったのだ。


私は、二枚目の手紙を広げた。


「王妃さまの手紙の続きです。読みますね」


けれど、それは、だれにも見せるなという意味ではありません。母も、つらいことがあると透明になって逃げてばかりの子どもでした。そんな母を、いつも見つけてくれたのが、あなたのお父さまです。弱いところを見せてもいい人を、ひとりでいいから見つけなさい。その人の前では、透明にならなくていいのです。


読み終えても、返事はなかった。


ガラスの屋根の向こうで、東の空が白くなりはじめていた。時間がない。手をのばして、殿下をつかまえたくなる。でも、そうしたら殿下はもっと遠くへ逃げてしまう。トオルさんが見てきた朝が、それを教えてくれていた。


私は手のひらを上に向けて、ベンチの上に置いた。


「つかまえたりしません。ここに置いておくだけです。来るかどうかは、殿下が決めてください」


しばらくして、冷たい指先が、そっと私の手のひらにふれた。


ふるえていた。私はその指をにぎらずに、ただ待った。


指先から、色が戻ってきた。手の形が見え、腕が見え、肩が見えた。最後に見えたのは、ぐしゃぐしゃに泣いている顔だった。朝日が差しこんで、ぬれたほおが光った。


「……見られちゃったな」

「はい。ちゃんと見えています」


泣いている殿下は、少しも王さまらしくなかった。殿下の気持ちなら、王宮じゅうが知っている。でも、この顔を知っているのが私だけなら、それでいいと思った。



朝になって、宮廷魔術師長が殿下のスキルを調べた。暴走は止まっていた。ただ、透明になる以外の逃げ方を、殿下はこれから練習していくことになった。本によると、つらいときに頼れる道は、いくつあってもいいらしい。


婚約破棄は、成立していなかった。殿下が最後まで言っていなかったからだ。視察から急いで戻られた陛下の前で、大臣がそう言ったとき、殿下は耳まで赤くなって下を向いた。その場にいた人たちはだれも驚かず、ほっとしたように笑っていた。


離れに戻ると、トオルさんが残りのパンを食べていた。


「セーブしとく?」

「いいえ。この朝は、やり直したくないので」


トオルさんは少しだけ笑って、毛布をたたんだ。


「そっか。じゃあ俺も、たまには一回で決めてみるかな」


ソファから立ち上がるトオルさんを、私は初めて見た。


今夜の夜食は、三人分作ろうと思う。

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