月白の侯爵令嬢は、もう王子の夢を見ない
第一章 婚約破棄は春の夜に
「リディア・レーヴェン侯爵令嬢。君との婚約を、本日この場をもって破棄する」
王立学院の卒業祝賀会。
千本もの蝋燭が輝く大広間で、王太子エドガーは高らかに宣言した。
楽団の演奏が途切れ、貴族たちの囁き声が波のように広がっていく。誰もが驚いた顔をしていたが、本心から驚いている者は半数もいないだろう。
今夜、何かが起こる。
その噂は、ひと月も前から王都を巡っていた。
広間の中央に立つリディアは、銀糸で月桂樹を刺繍した青白いドレスの裾を静かに整えた。
父であるレーヴェン侯爵は国境警備の任を受け、王都にはいない。母は三年前に病で亡くなった。兄は外交使節団の一員として国外にいる。
つまり今夜、彼女を守る家族は一人もいなかった。
王太子は、それを知ってこの日を選んだのだ。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」
リディアの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
エドガーの隣には、淡い桃色のドレスを着た少女が寄り添っている。
子爵令嬢ミレーヌ・オルフェ。
豊かな金髪と、春の空を思わせる青い瞳を持つ少女だった。学院に入学した当初から快活で、身分の隔てなく誰にでも話しかける姿が評判を呼び、やがて王太子の寵愛を受けるようになった。
ミレーヌは怯えたようにエドガーの腕をつかんでいた。
「理由なら、君自身がよく分かっているはずだ」
エドガーは険しい顔で答えた。
「君はミレーヌを妬み、取り巻きの令嬢たちを使って彼女を孤立させた。階段から突き落とし、教本を破り、温室では毒草を混ぜた茶を飲ませようとした。王太子妃となるべき者の行いとは到底思えない」
広間の空気が冷えた。
列挙された罪のうち、リディアに心当たりのあるものは一つもなかった。
もっとも、その程度の筋書きは予想していた。
「証拠はございますか」
「証人がいる」
エドガーが手を上げると、三人の学院生が前に出た。いずれもミレーヌと親しい者たちだ。
彼らは順に、リディアがミレーヌを脅していた、侍女に命じて教本を盗ませた、温室で毒草を摘んでいたと証言した。
最後に、王太子付きの騎士が小箱を運んできた。
中には乾燥した紫色の花弁が入っている。
「レーヴェン侯爵家の馬車から発見された夜哭花だ。少量でも高熱を引き起こす毒草だと、宮廷医が確認している」
悲鳴が上がった。
ミレーヌは顔を覆った。
「わたくし……リディア様を責めたいわけではありません。ただ、殿下に危険が及ぶことだけは、どうしても見過ごせなくて……」
「もう怯える必要はない」
エドガーはミレーヌを守るように抱き寄せた。
かつて、リディアに向けられていた眼差しだった。
八歳で婚約してから十年間、彼女はエドガーの妃となるために生きてきた。
歴史、外交、法律、財政、典礼、語学。
食事の好みから他国の王族の家系まで覚え、病弱だった王妃に代わって公務の一部を担い、王太子が失言すれば陰で頭を下げた。
愛されているとは思っていなかった。
それでも、信頼だけはあると信じていた。
どうやらそれも、彼女の思い込みだったらしい。
「最後に申し開きはあるか」
エドガーの問いに、リディアはしばらく答えなかった。
広間の端に立つ宰相は、わずかに眉をひそめている。王弟派に属する貴族たちは薄笑いを浮かべ、レーヴェン侯爵家と敵対する者たちは結果を見届けようと身を乗り出していた。
これは、嫉妬に狂った令嬢を追放するためだけの催しではない。
国境軍を預かるレーヴェン侯爵家を、王太子から切り離すための儀式だ。
リディアが泣き叫べば、侯爵家の名誉は地に落ちる。否定し続ければ、王太子への反逆と受け取られる。許しを請えば、罪を認めたことになる。
逃げ道は最初から塞がれていた。
それなら。
リディアは右手の手袋を外した。
薬指には、王家の紋章が刻まれた婚約指輪がある。
それをゆっくりと抜き、近くにいた侍従へ差し出した。
「承知いたしました」
「何?」
あまりにもあっさりとした返答に、エドガーのほうが目を見開いた。
「殿下のご決断を受け入れます。以後、わたくしが王太子殿下の婚約者を名乗ることはございません」
「罪を認めるのだな」
「いいえ」
リディアはエドガーをまっすぐ見た。
「婚約の破棄を受け入れることと、身に覚えのない罪を認めることは別でございます」
「この状況で、まだしらを切るつもりか」
「王太子殿下のお言葉であっても、事実でないものを事実にすることはできません」
エドガーの顔に怒りが浮かぶ。
その前に、リディアは深く一礼した。
「夜哭花については、しかるべき調査をお願いいたします。わたくしの馬車から発見されたというだけでは、誰が置いたのか分かりませんから」
「言い逃れをするな」
「でしたら、持ち込まれた花弁と馬車の管理記録をご確認ください。レーヴェン侯爵家では、毒物となり得る植物の輸送時に封蝋を用います。箱に封蝋がなければ、それは当家が管理していた品ではございません」
騎士が持つ小箱には、封蝋などなかった。
「また、乾燥した夜哭花は強い甘香を放ちます。しかし、今夜の箱からは香りがいたしません。おそらく紫鈴花を染めたものでしょう。水に浸せば、すぐに判明します」
広間がざわめいた。
箱を運んできた騎士の顔が青ざめる。
リディアは追及しなかった。
今ここで過ちを認めさせても、エドガーは引き返せない。引き返せば、王太子自身が祝賀会を私刑の場に変えたと認めることになるからだ。
「殿下。わたくしから一つ、お願いがございます」
「何だ」
「今夜の記録を、一言も削らず王室議会へご提出ください。わたくしへの告発も、証人の言葉も、わたくしの返答も、すべてです」
「当然だ」
「ありがとうございます」
リディアは微笑んだ。
初めて、その微笑みにエドガーが不安を見せた。
「それでは皆様、ごきげんよう」
背を向けたとき、誰かが彼女の名を呼んだ。
振り返らなかった。
泣いてはいけないからではない。
もう、振り返る理由がなかったからだ。
十年間抱き続けた王子の夢は、春の夜に終わった。
そしてリディアはまだ知らなかった。
その夜こそが、用意された王妃の席よりも遥かに広い世界へ、彼女が踏み出した最初の一歩だったことを。
第二章 月白の離宮
祝賀会の翌朝、リディアは王都を離れた。
侯爵家の本邸へ戻ることもできたが、彼女は郊外にある月白離宮へ向かった。亡き母が療養に使っていた、小さな屋敷である。
同行したのは、侍女のアンナと護衛騎士二人だけだった。
「お嬢様、本当によろしいのですか」
馬車の向かい側で、アンナが何度目か分からない質問をした。
「何が?」
「何がって、全部です。あんな言いがかりをつけられて、黙って王都を出るなんて」
「騒げば相手の思うつぼよ」
「ですが、悔しくはありませんか」
「悔しいわ」
リディアは窓の外を見た。
春の街道沿いには白い花が咲いている。母が好きだった月鈴草だ。
「十年も一緒にいた人に、一度も事情を尋ねてもらえなかったことが、一番悔しい」
アンナは唇を噛んだ。
「お嬢様は、殿下をお慕いしていたのでしょうか」
「分からないの」
答えてから、リディアは小さく笑った。
「幼い頃から、あの方と結婚するのだと教えられてきたでしょう。エドガー様のお役に立つことを、好きという気持ちだと思い込んでいたのかもしれない」
王太子妃になることに疑問を持ったことはなかった。
自分の人生を、自分で選べると思ったこともない。
婚約を失えば何も残らないと、周囲もリディア自身も信じていた。
けれど実際には、空白が残った。
恐ろしいほど広く、何を書いてもよい空白だった。
月白離宮に到着すると、意外な人物が彼女を待っていた。
玄関前に立っていたのは、黒い外套をまとった長身の青年だった。濃紺の髪を後ろで束ね、灰色の瞳を細めている。
「相変わらず、騒ぎを起こすときは派手だな」
「カイル様」
カイル・アルヴァレス辺境伯。
北方国境を治める若き領主であり、リディアの兄セオドリックの親友でもある。幼い頃は侯爵領を訪れるたび、兄と一緒になってリディアを野山へ連れ出した。
六年前に父を亡くして辺境伯位を継いでからは、ほとんど会っていない。
「どうしてこちらに?」
「セオから頼まれた。妹が婚約を破棄されたら、死なない程度に見張ってくれと」
「兄は婚約破棄を予知していたのですか」
「いいや。三年前から毎月、同じことを書いてくる」
アンナが吹き出した。
リディアは額を押さえた。
兄らしい過保護だ。
「わたくしは死にません」
「知っている。お前は絶望すると、死ぬ前に収支報告書を整理する性格だ」
「どういう性格ですか」
「面倒で、頼りになる性格だ」
以前なら失礼だと腹を立てただろう。
しかし今は、その遠慮のなさがありがたかった。
リディアは客間へカイルを案内した。
彼は席に着くなり、一通の書類を卓上に置いた。
「祝賀会で使われた夜哭花の偽物について調べた。染料は南方産の藍晶粉だ。王都で扱っている商会は三つ。そのうち二つは王室御用達、残る一つがオルフェ子爵家と取引している」
「ミレーヌ様のご実家ですか」
「そうだ。ただし、これだけで彼女が仕組んだとは言えない」
「分かっています」
リディアは書類を読み進めた。
藍晶粉は高価な顔料だ。子爵家が大量に購入していたなら、使途が記録されているはずである。
「それから、これはセオからだ」
二通目の手紙を渡される。
兄の字で、短く記されていた。
王都へ戻るな。父上にも知らせた。こちらで動く。
「お父様は何と?」
「国境軍を動かしたりはしていない。安心しろ」
「安心できない言い方です」
「ただ、王家への兵糧供給契約を一時停止した」
リディアは顔を上げた。
レーヴェン侯爵領は国内最大の穀倉地帯を有している。国境軍だけでなく、王都守備隊の食糧の三割を供給していた。
「それは脅迫と受け取られます」
「王太子が侯爵家の令嬢を毒殺未遂の容疑者として告発したんだぞ。容疑者の実家から届けられる食糧を、王家が安心して口にできるはずがない。安全が確認されるまで供給を停止するのは、実に親切な配慮だ」
カイルは口元だけで笑った。
父の判断にも、同じ皮肉が含まれているのだろう。
「これから、どうするつもりだ」
尋ねられ、リディアは窓辺へ目を向けた。
庭は荒れていた。
母が亡くなって以来、月白離宮には最低限の管理人しか置かれていない。花壇は雑草に覆われ、温室の硝子も一部が割れている。
けれど、土は死んでいなかった。
手を入れれば、もう一度花を咲かせられる。
「何もしません」
「本気か」
「正確には、王太子殿下に対しては何もしません」
復讐のために生きれば、結局はエドガーに己の人生を支配され続けることになる。
それだけは嫌だった。
「わたくしは、母が残した離宮を立て直します」
「屋敷を?」
「屋敷だけではありません。母は生前、戦争で夫を亡くした女性や、家を追われた娘たちをここへ受け入れていました。刺繍や薬草栽培を教え、自活できるよう手助けしていたのです」
母の死後、その活動は途絶えた。
王太子妃教育を優先したリディアには、引き継ぐ余裕がなかった。
「もう一度始めます。わたくしには王太子妃になるために得た知識があります。領地経営も、法律も、交易も学びました。それを殿下のためではなく、わたくしが正しいと思うことに使います」
カイルはしばらく黙っていた。
やがて椅子の背にもたれ、目を細める。
「それなら北方の羊毛を回そう。質はいいが、加工する工房が少ない」
「慈善として受け取るつもりはありません」
「商売の話だ。利益は折半」
「六対四です」
「俺が六か」
「いいえ、こちらが六です。技術者の育成と販売経路の確保は、わたくしが行いますから」
カイルは声を上げて笑った。
「やはり死ぬ心配はなさそうだ」
その日から、月白離宮には槌と鋸の音が響き始めた。
割れた窓が直され、温室の土が耕される。
ひと月後、最初の五人の女性が離宮を訪れた。
二月後には十五人。
リディアは母の残した刺繍図案と、北方から届いた羊毛を組み合わせ、新たな織物を考案した。月鈴草を模した銀白色の文様は評判を呼び、王都の商人が買い付けに訪れるようになった。
工房で働く者には、身分にかかわらず正当な賃金を支払った。
読み書きのできない者のために夜間の教室を開き、子どもを持つ女性が働けるよう託児室も設けた。
王太子妃であったなら、提案するだけで何年もかかっただろう。
誰に許可を取る必要もない。
失敗すれば自分で責任を負い、成功すれば働いた者たちと喜べる。
リディアは初めて、自分の足で立っていると感じた。
その間、王都からはいくつもの知らせが届いた。
エドガーとミレーヌの婚約が発表された。
王室議会では、祝賀会での告発方法が問題視された。
偽の夜哭花について調査が行われたが、持ち込んだ使用人は姿を消していた。
そして王都では、食料の価格が上がり始めた。
三月後の夕暮れ、一台の王家の馬車が月白離宮を訪れた。
降りてきたのは、王太子エドガーだった。
第三章 捨てた者と捨てられた者
「ずいぶんと変わったな」
離宮を見回し、エドガーは言った。
庭には月鈴草が咲き、工房からは織機の音が聞こえる。玄関を出入りする女性たちは王太子の姿を見ると頭を下げたが、作業を止めはしなかった。
リディアはエドガーを応接室へ通した。
二人きりになるのは、婚約破棄の夜以来だった。
「ご用件を伺います」
「他人行儀だな」
「殿下とわたくしは、今や何の関係もございませんから」
エドガーは不快そうに眉を寄せた。
かつてのリディアなら、彼の機嫌を損ねない言葉を選んだ。
今の彼女には、その必要がない。
「レーヴェン侯爵に、兵糧供給を再開するよう説得してほしい」
「わたくしに決定権はございません」
「君のために起きたことだ」
「わたくしが起こしたことではございません」
「王都では食料が不足している。このままでは民が苦しむ」
リディアは静かにエドガーを見た。
「不足しているのですか。それとも、価格が上がっているのですか」
「同じことだろう」
「違います。王都の倉庫には、平時で半年分の備蓄があるはずです。レーヴェン侯爵領からの供給が三月止まっただけで不足するなら、備蓄が正しく管理されていなかったことになります」
エドガーが言葉に詰まった。
「価格が上昇しているのであれば、供給停止に便乗した買い占めを疑うべきです。市場監督官に倉庫を調べさせ、王家の備蓄を適正価格で放出してください」
「簡単に言うな。商人たちと対立すれば、今後の流通に影響する」
「民より商人の顔色が大切ですか」
「王太子として、すべてを考慮している」
「でしたら、王太子としてご判断ください。元婚約者の助言など必要ないはずです」
沈黙が落ちた。
エドガーは苛立った様子で立ち上がった。
「君は変わった」
「そうかもしれません」
「以前の君なら、私のために何でもした」
リディアの胸にかすかな痛みが走った。
「ええ。けれど殿下は、それを当然だと思っていらした」
「私は君の立場を取り戻してやろうとしているのだぞ」
「わたくしの立場?」
「夜哭花の件が誤解だったと認めてもよい。ミレーヌも、君に謝罪すると言っている。王宮に戻り、彼女を王太子妃として教育してほしい」
あまりの言葉に、リディアは一瞬返答を忘れた。
「わたくしが、ミレーヌ様を?」
「君は十年間、妃教育を受けた。その知識を無駄にする必要はないだろう。君にも王宮で相応の役職を与える」
「殿下」
リディアは深く息を吸った。
怒りに任せれば、相手と同じ場所まで降りることになる。
「殿下がわたくしとの婚約を破棄なさったのは、ミレーヌ様を愛したからですか」
「もちろんだ」
「では、彼女が王太子妃に相応しいと信じていらっしゃるのですね」
「彼女には純粋な心がある」
「でしたら、その方を信じてお任せください」
「だがミレーヌは、政務に慣れていない」
「お二人でお学びになればよろしいでしょう」
エドガーの顔が赤くなる。
「君には国への責任がある」
「ございません」
リディアは、はっきりと言った。
「わたくしが負っていた責任は、王太子殿下の婚約者としての責任です。殿下ご自身が、祝賀会の夜にそれを解かれました」
「レーヴェン侯爵令嬢であることは変わらない」
「だからこそ、侯爵家と領民への責任を果たしております」
窓の外では、仕事を終えた女性たちが笑いながら寮へ戻っている。
あの光景を守ることは、王宮で誰かの失敗を補い続けることより劣るのだろうか。
「お帰りください、殿下」
「後悔するぞ」
エドガーの声が低くなった。
「君は侯爵令嬢だ。いつまでもこんな田舎の工房に閉じこもってはいられない。王都の社交界に戻れば、誰も君を歓迎しない」
「それでも構いません」
「結婚もできないかもしれない」
リディアは少し考えてから答えた。
「結婚は、しなければならないものではございません」
言葉にしてみると、驚くほど簡単だった。
以前なら、婚約を失うことは人生を失うことだと思っていた。
今は違う。
糸を紡ぐ音がある。
学ぶ子どもたちの声がある。
自分の判断で動かせる仕事と、守りたい人々がいる。
「わたくしはすでに、殿下に選ばれなかった女ではありません」
リディアはまっすぐ告げた。
「殿下を選ばなかった女です」
エドガーは何も言わず離宮を去った。
馬車が見えなくなるまで窓辺に立っていると、背後から拍手が聞こえた。
振り向けば、扉の横にカイルがいた。
「盗み聞きは感心しません」
「入ろうとしたら、お前が王太子を切り捨てていた。邪魔をするのは悪いと思ってな」
「辺境伯ともあろう方が、趣味の悪い」
「褒めているんだ」
カイルは窓辺まで歩いてきた。
「泣かなくていいのか」
「泣いてほしいのですか」
「泣くなら肩くらい貸す」
「結構です」
「そうか」
彼は無理に慰めようとはしなかった。
ただ隣に立ち、夕焼けを眺めた。
その沈黙はエドガーと過ごした十年間よりも穏やかで、リディアはほんの少しだけ泣きたくなった。
第四章 消えた帳簿
王太子の訪問から一週間後、王都で暴動が起きた。
食料品店の前に集まった民衆と守備隊が衝突し、十数名の負傷者が出たのである。
調査の結果、王家の備蓄倉庫から穀物の半分が消えていることが発覚した。
管理を担っていたのは、オルフェ子爵だった。
ミレーヌの父である。
「三年前から少しずつ横流ししていたらしい」
月白離宮の執務室で、カイルが報告書を広げた。
「売却先は?」
「表向きは南方の商会だ。しかし金の流れを追うと、ヴァレリー公爵家に行き着く」
ヴァレリー公爵は王弟派の中心人物である。
国王は長く病床にあり、政務の多くを宰相と王太子に任せていた。王太子の評判が落ちれば、王弟を次の王に推す声が強くなる。
リディアは報告書の一箇所を指でなぞった。
「祝賀会で証言した三人の実家も、ヴァレリー公爵家から借金をしています」
「ああ。夜哭花を馬車に置いた使用人は、祝賀会の翌日に国外へ逃亡したことになっている」
「なっている?」
「国境を越えた記録がない。王都のどこかにいるか、すでに殺されているかだ」
リディアは椅子の背にもたれた。
祝賀会での婚約破棄。
侯爵家からの兵糧供給停止。
王都の食料価格上昇。
王太子への不満。
あまりにも綺麗につながっている。
「わたくしは餌だったのですね」
「恐らくな」
「エドガー殿下がミレーヌ様を選ぶよう仕向け、わたくしに罪を着せる。お父様が反発することまで予測していた」
「侯爵家が王太子から離れれば、王弟派が軍部を取り込めると考えたんだろう」
けれど、父は王弟派にも加わっていない。
食糧供給を止めただけで、兵は一人も動かさなかった。
「問題はミレーヌ様です」
リディアは呟いた。
「彼女がどこまで知っていたのか」
「無実だと思うのか」
「分かりません。ですが、彼女は卒業祝賀会で本当に怯えていました。演技だった可能性もありますけれど」
ミレーヌを好きではない。
それでも、嫌いだからという理由で罪人だと決めつければ、エドガーと同じになる。
「本人に聞くしかないな」
「王宮へ行けと?」
「向こうから来るかもしれない」
カイルの予想は、その日の夜に的中した。
日付が変わる頃、裏門を叩く音がした。
雨の中に立っていたのは、ずぶ濡れのミレーヌだった。
外套もまとわず、靴の片方を失っている。
「助けてください」
玄関へ迎え入れられたミレーヌは、リディアの顔を見るなり床に膝をついた。
「お父様が殺されます。わたくしも、殿下も……」
リディアは彼女を立たせ、毛布で包んだ。
温かい茶を飲ませると、ようやく震えが収まった。
「順にお話しください」
「王家の倉庫のことが知られて、お父様は捕らえられました。でも、横流しを命じたのはヴァレリー公爵です。お父様は公爵に借金があって、断れなかった」
「証拠はありますか」
「帳簿があります。お父様が隠していたものです」
ミレーヌは濡れたドレスの内側から、小さな鍵を取り出した。
「オルフェ家の礼拝堂に、母の遺品を収めた箱があります。その底に隠されています」
「なぜ、それをわたくしに?」
ミレーヌの青い瞳から涙がこぼれた。
「ほかに頼れる人がいません」
「王太子殿下は?」
「殿下には、お会いできません。王宮の方々は、わたくしが父の共犯だと思っています。ヴァレリー公爵は、すべての罪をお父様とわたくしに負わせるつもりです」
「では、婚約破棄の夜のことを話してください」
ミレーヌの肩が跳ねた。
「夜哭花を馬車に置いたのは、あなたですか」
「違います」
「わたくしがあなたを階段から突き落としたと、嘘をつきましたか」
「……はい」
かすかな返答だった。
リディアは何も言わず、続きを待った。
「公爵に言われたのです。リディア様は殿下を操り、国を支配しようとしていると。わたくしが殿下を救わなければならないと」
「信じたのですか」
「最初は」
「途中からは?」
ミレーヌは俯いた。
「殿下が、わたくしだけを見てくださるのが嬉しかったのです」
その言葉だけは、嘘ではなかった。
「リディア様は何でもできて、誰からも認められていた。わたくしは子爵家の娘で、勉強も礼儀作法も苦手で。でも殿下は、わたくしといると安らぐと言ってくださった。だからわたくしは、自分が特別なのだと思いたかった」
「それで、わたくしを罪人にしたのですね」
ミレーヌの顔が歪んだ。
「申し訳ございません」
謝罪されたからといって、傷つかなかったことにはならない。
リディアは彼女を許したいとは思わなかった。
同時に、すべてをミレーヌ一人の罪にするつもりもなかった。
甘い言葉で利用した公爵。
王太子妃に必要なものを理解せず、都合のよい愛情だけを求めたエドガー。
疑惑を調査しようともしなかった王宮。
そして、自分が傷つけられていると分かりながら嘘を選んだミレーヌ。
罪はそれぞれにある。
「帳簿を手に入れます」
リディアが言うと、ミレーヌが顔を上げた。
「助けてくださるのですか」
「あなたを無条件で助けるわけではありません。帳簿を議会へ提出し、あなたにも真実を証言していただきます」
「証言すれば、わたくしは罪に問われます」
「当然です」
リディアは冷静に告げた。
「あなたは被害者であると同時に、わたくしを陥れた加害者です。けれど、今ここで真実を話すなら、公正な裁きを受けられるよう力を尽くします」
ミレーヌは長い間黙っていた。
やがて毛布を握りしめ、頷いた。
「分かりました」
その直後、離宮の鐘が鳴った。
侵入者を知らせる、鋭い鐘の音だった。
カイルが剣を抜き、リディアを背に庇う。
窓の外に松明が見えた。
黒装束の男たちが、庭を囲んでいる。
「帳簿の鍵を取り返しに来たらしい」
カイルは灰色の瞳を細めた。
「リディア、地下道はあるか」
「温室の裏に古い避難路があります」
「二人を連れて逃げろ」
「あなたは?」
「客をもてなす」
「一人で残るつもりですか」
「護衛もいる。心配するな」
カイルが扉へ向かおうとした瞬間、リディアはその袖をつかんだ。
「死なないでください」
彼が振り返る。
こんなときだというのに、その顔には微かな笑みが浮かんだ。
「命令か?」
「お願いです」
「それなら聞こう」
カイルはリディアの手を一度だけ握った。
「必ず追いつく」
第五章 夜を越える者たち
地下道は長い間使われておらず、湿った土の匂いがした。
リディアは灯りを持ち、アンナとミレーヌを連れて先へ進んだ。背後では剣がぶつかる音と、男たちの怒号が響いている。
出口は離宮の北にある森へ通じていた。
三人が外へ出ると、雨はさらに激しくなっていた。
厩舎から避難させておいた馬が二頭、木につながれている。
「お嬢様」
アンナが青ざめた顔で森の奥を指した。
松明が動いている。
襲撃者は離宮だけでなく、地下道の出口にも人を配置していたのだ。
「馬に乗って」
リディアはミレーヌを押し上げ、自分もその後ろに乗った。アンナがもう一頭へ飛び乗る。
三人は雨の森を駆けた。
背後から蹄の音が迫る。
矢が飛び、木の幹に突き刺さった。
「リディア様、わたくしを置いていってください」
「黙ってつかまっていなさい」
「狙われているのはわたくしです」
「あなたではなく、鍵です」
「では、鍵を捨てれば」
「帳簿を失えば、公爵を裁けません」
リディアは手綱を引き、林道から外れた。
幼い頃、兄とカイルに連れられ、この森を何度も走った。夜でも地形は覚えている。
前方に古い石橋がある。
橋の下は雨で増水した川だった。
背後の追手は三騎。
リディアは橋を渡りきると馬を降り、道端に転がっていた枯れ木を支える縄へ駆け寄った。
林業のため、斜面から木材を運び下ろす仕掛けだ。
短剣で縄を切る。
斜面に積まれていた丸太が崩れ、道を塞いだ。
追手の馬がいななき、男たちが落馬する。
「行きますよ」
再び馬へ乗ろうとしたとき、一人の男が丸太を越えてきた。
短剣が月明かりを反射する。
リディアはミレーヌを背後へ庇った。
剣など扱えない。
それでも退けば、二人とも殺される。
男が踏み込んだ。
その胸元を、黒い影が横切った。
男は短剣を落とし、地面に倒れる。
背後には、剣を構えたカイルが立っていた。
外套は裂け、肩から血を流している。
「追いついたぞ」
「遅いです」
「これでも急いだ」
リディアは彼の肩を確かめた。
傷は深くないようだが、血で服が濡れていた。
「無事でよかった」
自分の声が震えていることに、口にしてから気づいた。
カイルの表情が変わった。
いつもの皮肉な笑いではない。
何かを堪えるような、苦しげな顔だった。
「それは、俺の台詞だ」
彼の手がリディアの頬に触れかける。
しかしカイルは途中でそれを下ろした。
「話は後だ。オルフェ家へ向かう」
夜明け前、四人は子爵家の礼拝堂へ到着した。
ミレーヌの鍵で地下納骨堂へ入り、母親の遺品箱を開ける。
底板の下には、黒革の帳簿があった。
穀物を横流しした日付、数量、売却先、受け取った金額。
さらにヴァレリー公爵から送られた指示書が挟まれていた。
王都に混乱を起こし、王太子の統治能力を疑わせること。
レーヴェン侯爵家と王家を対立させること。
頃合いを見てエドガーを廃嫡へ追い込み、王弟を即位させること。
必要な証拠はそろった。
だが礼拝堂を出ると、ヴァレリー公爵本人が待っていた。
数十人の私兵を従えている。
「賢い娘は嫌いではない」
公爵は馬上からリディアを見下ろした。
「だが、賢すぎる娘は長生きできない」
「これほど大勢を動かせば、言い逃れはできませんよ」
「盗賊に襲われたことにすればよい。辺境伯と侯爵令嬢が密会の末に駆け落ちし、山中で命を落とした。王都の者は好んで信じるだろう」
カイルがリディアの前へ出た。
「俺が道を開く。帳簿を持って逃げろ」
「また、それですか」
「今度は命令だ」
「聞きません」
リディアは腕を上げた。
その手には、月白離宮から持ち出した小さな筒がある。
蓋を外すと、白い火花が空へ昇った。
乾いた破裂音が、明け方の空に響く。
公爵の顔色が変わった。
森の両側から、一斉に騎馬隊が現れた。
先頭にいるのは、レーヴェン侯爵だった。
「父上」
「遅くなったな、リディア」
侯爵は馬上で剣を抜いた。
兄セオドリックもいる。どうやら国外から戻っていたらしい。
「カイルから早馬を受け取った。離宮が襲われる可能性があるとな」
リディアは隣のカイルを見た。
「いつの間に?」
「王太子が来た日の後だ。嫌な予感がした」
侯爵軍は瞬く間に公爵の私兵を包囲した。
さらに反対側から、王家の紋章を掲げた騎士団が姿を現した。
先頭にはエドガーがいた。
「ヴァレリー公爵」
エドガーは蒼白な顔で告げた。
「王家への反逆および国家財産の横領、貴族令嬢殺害未遂の疑いにより、あなたを拘束する」
公爵はしばらく周囲を見回していた。
やがて諦めたように笑う。
「ご立派になられましたな、殿下。しかし、すべてはあなたの愚かさから始まったことをお忘れなく」
エドガーの顔が強張った。
「あなたが侯爵令嬢を信じていれば、私の策は成らなかった。感情に溺れ、人を見る目を失った王太子に、この国を治められますかな」
エドガーは何も答えなかった。
公爵は騎士たちに連行された。
その後ろ姿を、朝日が照らしていた。
長い夜が終わった。
けれど、リディアには最後に向き合わなければならない相手が残っていた。
第六章 王子の謝罪
ヴァレリー公爵の裁判は、王室議会の公開審理として行われた。
帳簿と指示書は本物と認められ、公爵は爵位を剥奪された。国王の弟も計画を知りながら止めなかった責任を問われ、王位継承権を放棄して修道院へ入った。
オルフェ子爵は、横領への加担を認めた。
ただし帳簿を残し、娘を通じて証拠の提出に協力したことから、死罪は免れた。爵位と財産を失い、北方の鉱山で十年間の労役に服すこととなった。
ミレーヌも学院での偽証を認め、王太子との婚約を解消された。
彼女は一年間の謹慎後、月白離宮の工房で働くことを望んだ。
リディアはすぐには答えなかった。
最後には受け入れたが、客人としてではない。
ほかの者と同じ賃金で働き、同じ規則に従うことを条件とした。
ミレーヌは黙って頷いた。
エドガーについては、より厳しい議論が行われた。
公爵の陰謀に加担してはいなかった。
しかし公的な祝賀会で十分な調査もせず侯爵令嬢を断罪し、結果として王国を混乱させた責任は重い。
病床の国王は、エドガーから王太子の地位を剥奪した。
代わって王位継承者となったのは、エドガーの十二歳の妹、エレノア王女だった。
リディアには王宮から正式な謝罪状が送られ、名誉の回復が宣言された。
数日後、エドガーが月白離宮を訪れた。
今度の馬車には王家の紋章がない。
彼は簡素な服を着て、一人でやって来た。
庭の月鈴草は満開になっていた。
リディアは彼を東屋へ案内した。
「北の修道院へ行くことになった」
エドガーは静かに言った。
「二年ほど身を置き、その後は地方行政を学ぶ。王族籍は残るが、王位を継ぐことはない」
「そうですか」
「君には、謝っても足りない」
エドガーは立ち上がり、頭を下げた。
王族が臣下に頭を下げることは、本来ならあり得ない。
「すまなかった」
リディアは黙ってその姿を見た。
かつて、彼からこの言葉を聞ければ救われると思っていた。
今は胸に空いた穴も、痛みも、すでに彼の言葉を必要としていない。
「私はミレーヌに騙されたのだと思っていた」
エドガーは顔を上げた。
「公爵に利用されたのだとも。だが違った。私は、自分に都合のよい言葉を選んで信じた。君はいつも正しくて、私の間違いを静かに直した。それが息苦しかった」
「存じておりました」
「知っていたのか」
「はい」
リディアは苦く笑った。
「けれど、殿下を立派な王にすることが、わたくしの役目だと思っていたのです」
「私は、君の隣に立つのが怖かった」
初めて聞く本音だった。
「君は何でもできた。議会では大臣たちが君の意見を求め、外国の使節も君を評価した。私は王太子なのに、君がいなければ何も決められなかった」
「だから、ミレーヌ様を選んだのですか」
「彼女は私を必要としてくれた。私の言葉を疑わず、ただ笑ってくれた。その前では、自分が強い人間になれた気がした」
エドガーは目を閉じた。
「しかし、必要とされることと愛されることは、同じではなかった」
リディアは返事をしなかった。
「もし、すべてをやり直せたら」
「やり直しません」
彼が言い終える前に告げた。
「過去をなかったことにはできません。殿下も、わたくしも、自分の選択の先を生きるしかないのです」
「私を許さないのか」
「許すことと、再び信頼することは別です」
リディアは月鈴草へ目を向けた。
「いつか、思い出しても心が痛まなくなる日は来るでしょう。そのときには、許したと言えるかもしれません。ですが、殿下のために急いでお許しするつもりはございません」
エドガーは寂しそうに微笑んだ。
「君らしい答えだ」
「以前のわたくしなら、殿下が望む答えを申し上げました」
「そうだな。私はそれに甘えていた」
エドガーは帰り際、庭を振り返った。
「美しい場所だ」
「母が残してくれました」
「君が生き返らせたのだろう」
それが二人の交わした、最後の言葉になった。
エドガーは北へ旅立った。
リディアは見送らなかった。
ただ、彼がいつか自分の弱さから目を逸らさず、一人の人間として生きられるようになることを願った。
それは愛ではない。
憎しみでもない。
長い時間をともに過ごした相手へ贈る、静かな別れだった。
第七章 辺境伯の求婚
事件が決着してから、月白離宮の工房はさらに大きくなった。
月鈴織と名づけられた布は国外でも評判となり、北方の羊毛産業は急速に発展した。離宮で技術を学んだ女性たちは、各地で新しい工房を開いた。
リディアは侯爵家の名代として、王室議会への出席も求められるようになった。
次期女王となるエレノア王女は聡明な少女だった。
「わたくしの教育係になってくださいませんか」
そう頼まれたとき、リディアは一つだけ条件を出した。
「わたくしは、殿下の間違いを指摘いたします。それを不敬とせず、お聞きくださいますか」
王女は真剣な顔で頷いた。
「間違っているのに褒める人より、正しく叱ってくれる人が必要だと、お父様がおっしゃいました」
こうしてリディアは月の半分を王都で、残りを離宮で過ごすことになった。
忙しい日々だった。
それでも以前のような息苦しさはない。
誰かに定められた役割ではなく、自分で選んだ仕事だからだ。
一方、カイルは北方へ戻る時期を延ばし続けていた。
最初は襲撃事件の後処理があると言った。
次は羊毛の取引について話し合う必要があると言った。
その次は工房の警備を見直さなければならないと言った。
半年が過ぎても、まだ離宮にいる。
「辺境伯領は大丈夫なのですか」
夕暮れの執務室で、リディアは尋ねた。
「優秀な部下がいる」
「領主が半年も不在でよいはずがありません」
「そろそろ帰る」
その返事を聞き、胸の奥が沈んだ。
リディアは書類へ視線を戻した。
「そうですか。お気をつけて」
「それだけか」
「ほかに何か?」
カイルは大きく息を吐いた。
「リディア、お前は他人の思惑には恐ろしく敏いくせに、自分に向けられた感情には鈍いな」
「何のお話ですか」
「俺がなぜ半年もここにいると思う」
「仕事がないから?」
「辺境伯を何だと思っている」
カイルは卓上の書類を脇へどけた。
「仕事なら山ほどある。それでも、お前のそばにいたかった」
リディアは瞬きをした。
言葉の意味は分かる。
けれど、それを自分に向けられたものとして受け止めるまでに時間がかかった。
「同情ですか」
「違う」
「兄に頼まれたから?」
「それも違う」
カイルはリディアの前へ片膝をついた。
いつも自信に満ちている彼が、わずかに緊張している。
「リディア・レーヴェン。俺と結婚してほしい」
あまりにも突然で、リディアは硬直した。
「待ってください」
「待つ」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味だ」
「わたくしは婚約を破棄されたばかりです」
「もう半年だ」
「半年しか経っていません」
「十年でも待てる」
カイルはまっすぐ彼女を見た。
「ただし、お前が誰かに奪われるのを黙って見ているつもりはない」
「わたくしには、離宮の仕事があります」
「続ければいい」
「王女殿下の教育係も」
「王都と北方を行き来できるよう街道を整備する」
「辺境伯夫人としての務めは?」
「分担する。必要なら俺も侯爵夫人の仕事を手伝う」
「侯爵夫人ではありません」
「たとえ話だ」
リディアは立ち上がった。
部屋の中を歩き、窓辺で足を止める。
カイルと一緒にいると、自然に息ができる。
彼はリディアの能力を恐れない。
助けようとすれば受け入れ、自分の意見が違えば遠慮なく反論する。
守ろうとする一方で、彼女を弱い存在として扱わない。
けれど、結婚という言葉にはまだ恐怖があった。
再び誰かの妻という役割に閉じ込められるのではないか。
幸せに見える檻へ、自分から入ることになるのではないか。
「すぐには、お返事できません」
「分かった」
カイルはあっさり立ち上がった。
「怒らないのですか」
「なぜ怒る?」
「求婚を保留にしたからです」
「お前の人生を決める返事だ。好きなだけ考えればいい」
「断るかもしれません」
「そのときは諦める努力をする」
「努力?」
「簡単に諦められるとは思えないからな。だが、お前を困らせるようなことはしない」
リディアは彼の顔を見た。
「どうして、わたくしなのですか」
カイルは少し考えた。
「子どもの頃のお前は、泣き虫だった」
「取り消してください」
「俺とセオが森へ行くたび、置いていくなと泣いて追いかけてきた。転んでも、服が泥だらけになっても、絶対に引き返さなかった」
「昔の話です」
「ああ。だが王太子の婚約者になってから、お前は泣かなくなった」
カイルの声が柔らかくなる。
「笑いもしなくなった」
リディアは何も言えなかった。
「離宮へ来てから、お前はまた笑うようになった。怒って、悩んで、失敗して、それでも前へ進む。俺はそんなお前の隣にいたい」
「妻として?」
「一人の人間としてだ」
カイルは彼女に近づいた。
「お前は俺の後ろを歩かなくていい。俺もお前の前を歩かない。隣を歩きたい」
返事はまだできない。
それでもリディアは、彼の差し出した手に自分の手を重ねた。
「考えます」
「ああ」
「北方へはお帰りください」
「それは断る」
「先ほど帰るとおっしゃったでしょう」
「求婚の返事を聞くまでは帰らない」
「十年でも待つのでは?」
「ここで待つ」
結局、カイルはさらに一月、離宮に滞在した。
第八章 月白の花嫁
翌年の春。
リディアは北方辺境伯領を訪れた。
求婚を受けるためではない。
少なくとも、出発時にはそう自分へ言い聞かせていた。
新しい織物工房の建設予定地を確認し、羊毛の生産者と話し合うための視察だった。
北方は想像していたより美しい土地だった。
雪を頂く山々。
どこまでも広がる草原。
厳しい風の中で咲く、青い星形の花。
領都に入ると、住民たちはカイルへ親しげに声をかけた。
彼は子どもの名を覚え、老人の体調を尋ね、壊れた水車について職人と話し込んだ。
領主として敬われている。
けれど、恐れられてはいない。
「意外そうな顔だな」
「もっと威張っていると思っていました」
「お前の中の俺は、どんな人間なんだ」
「無礼で、強引で、計画性がありません」
「最後の一つは認めない」
視察の最終日、二人は丘の上へ向かった。
眼下には建設中の工房と、その周囲に広がる町が見える。
「あの工房が完成すれば、冬の間も仕事を確保できます」
リディアは図面を広げた。
「託児所と診療所も併設しましょう。羊毛を染める水が下流の農地へ流れないよう、水路を分ける必要があります」
「分かった。技師に伝える」
カイルは図面ではなく、リディアの横顔を見ていた。
「何ですか」
「求婚の返事は決まったか」
リディアは図面を閉じた。
一月ではなく、結局一年も待たせてしまった。
それでもカイルは急かさなかった。
恋の言葉を囁き続けることもしなかった。
ただ必要なときに隣にいて、彼女が立てないときだけ手を貸した。立てるときには、余計な手を出さなかった。
リディアは丘の下の町を見た。
ここで暮らす自分を想像する。
月白離宮を失う必要はない。
仕事を捨てる必要もない。
彼の影になる必要もない。
そして、カイルにも自分の影になってほしくはなかった。
異なるものを持つ二人が、同じ未来を選ぶ。
それが彼の言う、隣を歩くということなのだろう。
「三つ、条件があります」
「聞こう」
「離宮の仕事を続けること」
「もちろんだ」
「財産と事業の権利を、結婚後もわたくし自身が持つこと」
「契約書を作らせる」
「意見が違ったとき、身分や夫の権利を理由に、わたくしを従わせないこと」
「誓う」
即答だった。
「カイル様からも条件はありますか」
彼は考え込み、やがて真剣な顔で言った。
「危険なことをするときは、俺に相談する」
「内容によります」
「そこは承知すると言うところだろう」
「無条件には承知できません」
「では、少なくとも居場所は知らせる」
「あなたも同じ条件なら」
「分かった」
カイルは笑った。
「それで、返事は?」
リディアは深く息を吸った。
胸は高鳴っている。
けれど、怖くはなかった。
「お受けいたします」
カイルが動きを止めた。
「本当に?」
「何度も言わせるおつもりですか」
「できれば、あと百回ほど」
「お断りします」
彼は笑いながらリディアを抱きしめた。
腕は強かったが、逃げ道を塞ぐものではない。
リディアもゆっくりと、その背に腕を回した。
「好きだ、リディア」
「存じております」
「お前は?」
「まだ秘密です」
「一年待ったんだぞ」
「では、もう少しお待ちください」
意地悪ではなかった。
言葉にするのが恥ずかしかっただけだ。
けれどカイルは、その照れを正しく理解したらしい。
「待つ」
耳元で囁く。
「お前が自分の言葉で言いたくなるまで」
結婚式は、その年の秋に月白離宮で行われた。
王都の大聖堂ではなく、母が愛した庭をリディアは選んだ。
花嫁衣装は工房の者たちが織った月鈴織で仕立てられた。銀白色の布には、北方の星花と離宮の月鈴草が刺繍されている。
父と兄。
アンナ。
エレノア王女。
工房で働く者たちと、北方から訪れた領民。
多くの人々が二人を祝福した。
ミレーヌも参列した。
彼女は離宮で読み書きと会計を学び、今では託児室を任されている。
式の前、ミレーヌはリディアの控室を訪れた。
「とてもお綺麗です」
「ありがとう」
「わたくしは以前、リディア様になりたいと思っていました」
ミレーヌは静かに語った。
「誰からも認められて、殿下の隣に立つリディア様が羨ましかった。でも今は、自分以外の誰かになろうとは思いません」
「それでよいのです」
「いつか、わたくしを許してくださいますか」
リディアは少し考えた。
「あなたが真面目に働くことと、わたくしが許すことを取り引きにしてはいけません」
ミレーヌは俯いた。
「はい」
「けれど」
リディアは彼女の手を取った。
「あなたが真実を語ったことで、救われた人がいるのも事実です。わたくしは、そのことを忘れません」
許しは一度の言葉で与えるものではない。
壊れたものを元どおりにする魔法でもない。
傷を抱えたまま、それでも互いに正しい方向へ歩こうとする長い時間なのだ。
ミレーヌは涙を拭い、笑った。
式が始まる。
庭に敷かれた白い道を、リディアは父と歩いた。
その先にはカイルが待っている。
十年前、王太子との婚約を発表された日にも、多くの人々から祝福された。
けれど、あのときの彼女は用意された道を歩いていただけだった。
今日は違う。
衣装も、場所も、隣に立つ人も、自分で選んだ。
誓いの言葉を交わし、指輪を受け取る。
カイルが小声で尋ねた。
「そろそろ聞かせてくれないか」
「何をです?」
「分かっているだろう」
リディアは彼の灰色の瞳を見つめた。
「愛しています、カイル」
一年以上待たせた言葉は、不思議なほど自然に口からこぼれた。
彼は一瞬、泣きそうな顔をした。
「もう一度」
「一度で十分です」
「百回言ってほしい」
「毎年一度ずつなら、百年かかりますね」
「なら、百年一緒にいよう」
参列者から笑い声が上がった。
祝福の鐘が鳴る。
風に舞い上がった月鈴草の花びらが、秋の空を白く染めた。
終章 彼女が選んだ王冠
それから十年後。
エレノア女王の戴冠式が行われた。
若い女王の傍らには、王配でも大臣でもない、一人の侯爵令嬢出身の女性が立っていた。
リディア・アルヴァレス辺境伯夫人。
彼女は王室顧問として、女性の財産権と就労権を定めた新法の成立に尽力した。月白離宮から始まった職業教育所は、王国各地に設けられている。
カイルとの間には二人の子どもが生まれた。
どちらが家督を継ぐかは、成長してから本人たちと話し合うと決めている。
エドガーは地方行政官となり、北部の小さな町で暮らしていた。
王都へ戻ることはほとんどなかったが、飢饉への備えと穀物管理の制度を整え、多くの領民から信頼されているという。
ある年、彼から一通の手紙が届いた。
そこには謝罪も、過去を懐かしむ言葉もなかった。
新たに造った備蓄倉庫の報告と、月白離宮の制度を町へ導入したいという相談だけが記されていた。
リディアは必要な資料を添えて返事を出した。
二人の関係は、それだけでよかった。
戴冠式が終わった夜、リディアは王宮の露台に立った。
広場では市民たちが新女王の即位を祝っている。
「こんなところにいたのか」
カイルが二つの杯を持って現れた。
「少し、昔を思い出していました」
「婚約を破棄された夜か」
「ええ」
あの夜と同じ大広間。
同じように輝く蝋燭。
けれど、もう胸は痛まない。
「もし婚約を破棄されなかったら、わたくしは今も殿下の隣にいたのでしょうか」
「どうだろうな」
「王妃になっていたかもしれません」
「後悔しているのか」
リディアは首を横に振った。
王冠を戴く人生。
王子に選ばれ、王妃になる物語。
かつてはそれだけが幸福だと思っていた。
だが王冠は、誰かから与えられるものだけではない。
自分の人生を自分で治めること。
間違いを認め、明日を選び直すこと。
愛する人の隣で、どちらも自分を失わずに歩くこと。
それもまた、目には見えない王冠なのだ。
「後悔など、いたしません」
リディアは杯を受け取った。
「わたくしは、欲しかったものよりも大切なものを手に入れましたから」
「それは?」
「自由と、仕事と、家族です」
「俺は最後か」
「順番に意味はありません」
「では、一番大切なのは?」
リディアは答えず、彼の肩に頭を預けた。
カイルは不満そうにしながらも、そっと彼女の肩を抱く。
広場から歓声が上がった。
夜空へ無数の灯火が放たれ、星のように昇っていく。
かつて侯爵令嬢リディアは、王子の隣に立つ未来を失った。
けれど、そこで彼女の物語が終わることはなかった。
失った場所に留まらず、自分の手で新しい扉を開いた。
傷つけた者を無理に許さず。
間違えた者を永遠に憎まず。
与えられた幸福ではなく、自ら選び取った幸福を抱いて。
月白の侯爵令嬢は、もう王子の夢を見ない。
彼女が夢見るのは、明日という名の、どこまでも広い世界だった。
完




