第94話 蟻の気持ちを考えろ
「ねえ、お父さん。蟻って、何考えてると思う?」
リビングで算数ドリルを広げていた小学三年の息子が、急にそう言った。
ちょうど晩酌中だった俺は、缶ビールをテーブルに片手に聞き返す。
「……蟻? 急にどうした?」
「学校で出たの。“蟻の気持ちを考えて、作文を書きましょう”って」
そう言って息子が取り出したプリントには、黒い文字でこう書いてあった。
【生活科連携/道徳課題】
テーマ:『もしも、ぼくが蟻だったら』
自分が蟻になったつもりで、「どんな気持ち」か考えてみよう!
「へえ、面白いじゃん。働きすぎて疲れてるとか、踏まれて痛いとか、そんなの書いたら?」
「うーん、それ書いていいか聞いたんだけど……先生に“人間目線すぎる”からダメって言われた」
「人間目線……?」
「“蟻は個じゃなくて集団で考える生き物です”って言われた。集合意識っていうんだって」
息子の声はどこか困惑していたが、すぐに別の話に移っていった。
息子の作品が、道徳作文の優秀作品として張り出されたと聞いて、次の日、父親は仕事帰りに小学校の掲示板へ見に行った。
そして…作品を探す。
息子の作品があった。
タイトルは、
『ぼくがふまれて、うれしかったこと』
ぼくは人間にふまれました。でも、くやしくありません。ふまれることで、ひとがやさしくなれるとおもったからです。 そのひとが大きくなるために、ぼくはふまれました。 ぼくはそれがうれしかったです。ぼくたちは、そういういきものです。
張り紙の横には、先生のコメントが添えられていた。
「個体としての痛みではなく、役割としての誇りを描けた、すばらしい視点です」
よくわからないが、息子が誉められるのは父として嬉しいものだ。
教室から出てきた別の親が、「最近の子はすごいねね〜」と笑って会話している。
思わず笑みがこぼれた。
それでも息子が認められてるのはうれしい
家に帰ると、息子がうれしそうに言った。
「金曜日、“蟻表彰式”あるんだって! 全校集会で校長先生に表彰されるんだよ!」
「そうか、よかったな!」
意外なところで人は能力を発揮するものだ…。
その晩、風呂場で久しぶりに足の裏をじっと見た。
子どもの頃に踏んでしまった蟻の感触が、急に蘇ってきた。
次の日から、家の玄関に小さな張り紙を貼るようにした。
「蟻の通行に注意しましょう」
「踏んだらご報告を」
「感謝の気持ちを忘れずに」
自治会から配布されたテンプレートだった。
俺の家だけじゃない。今じゃ、どの家にもそれが貼られている。
それが「人としての最低限のマナー」なんだと、誰もが信じていた。
たぶん──信じるしかなかった。
夜、息子が蟻と戯れていた。
蟻の気持ちをもっと知るんだそうだ…
父親も、ビール注ぎながら蟻に語りかける。
「お前も飲むか…?」
父親が蟻の気持ちを理解するには、もう少し時間が
かかりそうだ…。




