第90話 人間の話題は、いつから消えたのか
そういえば…人間の話題は、いつから消えたのか
目を覚ますと、テレビがつけっぱなしだった。
いつも通りの朝。
リモコンでチャンネルを変えると、どこを回しても──蟻、蟻、蟻。蟻の話題ばかりだ…。
「次は、クロオオアリの巣内階層構造についての特集です! 解説は、蟻学博士の有田教授です」
「はい。巣内の温度勾配はですね、産卵室が24.6度になるよう最適化されていて──」
画面では、巣の断面模型がぐるぐると回っていた。
「……はぁ」
朝食を食べながらため息をつく。
新聞も開いてみる。社会面のトップはこうだった。
「感情フェロモンの多様性、10年で約3.6倍に」
“蟻語解釈、人間語訳の限界”と、研究者らはコメント
経済面も政治面も、どこもかしこも「蟻」のことばかりだ。
新聞にはこんな記事も載っていた。
《フェロモン偽装トラブル、ワーカー同士で混線》
地下区画47-Bにて、搬送中のG-882013が、同列番号のF-882013と誤認され、巣内フェロモン交通が一時麻痺。
G側は「構造番号の使用を強制され、人格が希薄化している」と抗議。
《B-119002、重大違反で資格剥奪 “忖度フェロモン”噴出の疑い》
人間ではなく、「蟻同士のいざこざ」が“社会問題”として一面を飾っていた。
かつては、人間の政治家が失言し、企業が不祥事を起こし、芸能人が不倫していた。
でも、今は違う。ニュースで取り沙汰されるのは、巣の中で何が起こったかばかりだ。
たとえば、昨夜のゴールデン番組の視聴率ランキングではこんな感じだった
1位:『アリクイ警報! フェロモン捜査班24時』
2位:『ダンス女王アリーヌの密着365日』
3位:『蟻の巣作り選手権・全国大会』
──もう人間の名前は、どこにもない。
会社でもその光景は同じだった。
「おはようございます。昨日の『蟻ドキュメンタリー』、見ました?」
「見ました見ました。A-440001のフェロモンのところの話、泣けましたよね……!」
オフィスの壁には「蟻歴100年カレンダー」が貼られ、
会議資料の冒頭には「今日の蟻格言」が載る。
「A-115004曰く、“巣にとって不要な粒子は、即排除される”──いい言葉ですよね」
誰もが、当然のように“蟻の思想”を口にするようになっていた。
まるで、いつからか「人間が主役」であったことを忘れたかのように。
その夜。帰宅して、またテレビをつける。
「……続いては、“人間の絶滅危機”について、専門家に伺います──」
そう聞こえて、一瞬目を見開いた。
だが、画面に映っていたのは、いまや引っ張りだこの蟻学博士の有田教授。
『人間の感情伝達速度の遅さ』や
『フェロモンへの反応不全』を「限界生物種」として解説し、
最後にはこう締めくくった。
「人間という種の保存には、我々とのさらなる同化が必要です」
会場では拍手が起こる。スタジオには、誰も疑問を持つような者もいない。
司会者がにこやかに言う。
「ありがとうございました。“人間最後の未来”について、考えさせられましたね」
その夜、眠れなかった。
薄暗い部屋の中で、ひとり呟いた。
「……俺たち、いつから“話題”にならなくなったんだろ?」
テレビをつければ、蟻。
ラジオも、新聞も、SNSのトレンドも、教育番組も、ぜんぶ蟻。
人間の感情、言葉、争い、愛。──それらは今や、誰も必要としていない。
必要なのは、ただ蟻だけだ…
“静かに消えていく”というのは、こういうことなのかもしれない。
叫び声ひとつ上げることなく、人間としての主語を失い、ただ“背景”となって消えていくだけなのだ。
そして、最後にテレビの司会者が言った。
「では来週の特集は、“人間のフェロモンは本当に意味があるのか?”です。お楽しみに!」
──もう、誰も人間に向かって話していない。




