第9話 侵食
社員寮、朝5時。
サクラは目覚ましより早く起きる。自然すぎる動き。迷いのない手順。
鏡の前で顔を洗う。化粧をする。スーツを着る。
昨日とまったく同じ手順で、指先が迷いなく動いていく。
ふと、首筋を指でなぞったとき、
そこに“ざらついた感触”があった。
うすく、皮膚の下で何かが動いた気がする。
「……ん?」
だがサクラは、身体に何か違和感を感じた。
オフィスに到着する。午前7時。
誰よりも早く、アリヤマ・ケイが座っていた。
「おはようございます、松井さん」
「おはようございます」
自然な笑顔で、自然な言葉を返す。
ただ、何かがおかしい。視界の隅が“ぶれて”いる。音がくぐもって聞こえる。
隣の席で、後輩の新人が無言でキーボードを叩いている。
彼女の耳元――一匹の蟻が、何かを出入りしている。
「……っ」
サクラは慌ててトイレに駆け込んだ。
鏡の前で、そっと耳のあたりを覗いてみる。
赤く腫れていた。だがそれより――
“わずかな動き”を、サクラは微かに感じた。
その日の午後。
サクラは体調不良を理由に、早退する。向かった先は近所の総合病院。
受付、待合室、問診。
「昨日から、耳の奥がかゆくて……あと、目の奥も違和感があります。あと……たまに、耳の中からがさがさ聞こえてくるような」
医者は微笑んで、軽くうなずいた。
「念のため、レントゲンを撮ってみましょう。脳のCTも」
薄暗い検査室。
機械音。サクラの頭部がスキャンされる。
看護師が何度も画面を見直す。
医師が無言で立ち上がる。
サクラが起き上がり、モニターを覗き込む。
「先生……これって……」
画面に映っていたのは、“無数の黒い影”が蠢いていた。
脳の中に。鼻腔に。耳道に。眼窩の裏に。
しかもそれらが――無数に“動いていた”。
医師の口元が、ひくりと歪む。
「……確認しました。“順化の進行”ですね」
サクラは凍りつく。
「えっ……?」
医師の笑みが深まる。
背後から看護師が無言で手を伸ばしてくる。
「順化個体の覚醒を確認。Z19へ送信開始」
彼女の脳に、またあの“声”が鳴り響いた。
――ノイズと金属音の混ざったような、それでいてどこか“懐かしさ”すら含んだ声。
(……違う、これは……記憶じゃない……命令……?)
パニックになったサクラは病院を飛び出す。
街は静かすぎた。誰もが同じ歩幅、同じ視線、同じ沈黙で移動している。
信号が変わっても誰も急がず、待たず、ただ流れるように“整列”して動いていた。
(さっきの医者といい、この街ごと、もう――)
耳鳴りが強くなる。
ザザッ……ザザ……と耳の奥で何かが“囁いて”いる。
(……どうして、誰も何も言わないの?)
コンビニに立ち寄った。
店員の目は虚ろで、会計時に「お大事に」と機械的に言った。
その瞬間、カウンターの奥に、蟻の列が一瞬見えた気がした。
夜、寮に戻ったサクラは、鏡の前でじっと自分を見つめる。
視界がぼやけている。
体の奥が、何か“巣の形”に整えられていく感覚。
目の下から涙が流れるのと同時に、鼻孔から小さな黒い影が一匹、這い出した。
「えっ…!」
サクラ、気持ち悪くなりもどしてしまった。
床にこぼれた胃液から、無数の蟻が這い出してくる。
「……っ、いや……っ、やだ……!」
手で自分の口を塞ぐ。だが、皮膚の内側が“かゆい”。
鼻から、目から、喉の奥から――何かが「通り道」を作ろうとしている。
Z19:「順化率:91% 物件化手続き開始済」
サクラは恐怖で小さく震えながら、それでも――
鏡に映った“笑っている自分”に、最後の抵抗を見せた。
左手を振り上げ、鏡を叩き割る。
ガラスの破片が頬に刺さる。血が垂れる。
蟻が数匹、鼻から、耳から続々這い出してきた。
サクラは、ぼろぼろと蟻混じりの涙を流した。
「えっ、いやだ!……私は……わたしで、いたい……!」
その叫びは、もう喉の奥ではなく、“巣穴”を通して共鳴するようだった。
耳鳴りがひときわ高くなり、意識が引き裂かれそうになる。
――それでも、彼女はまだ完全に“順化”していない。
たった1%の未順化域が、まだ“人間”であることを保っていた。
ガラス片を拾い、震える手で自らの首筋を切り裂こうとした――そのとき、
脳内で“何か”がはじけた。
瞬間、視界が反転した。
天井が下になり、足元が遠くに落ちていく。
次の瞬間、彼女は自分が“外から自分を見ている”ことに気づいた。
脳が切り替わったのだ。
彼女の意識は、観測者へと後退させられていた。
「順化率:100%達成。物件No.04931として登録完了」
Z19の報告音声が、どこかで鳴っていた。
鏡の中の“サクラ”は、静かに立ち上がり、微笑んだ。
その顔には、もはや「松井サクラ」という意志は存在していなかった。
“殻”だけが、朝の支度を再び始めようとしていた。
そして翌朝、
社員寮の一室から、いつも通りの時間に出勤する“サクラ”の姿があった。