第88話 アリかわ症候群
「ねぇ、蟻タトゥーいれた?」
そんな言葉が、街を歩けば当たり前のように耳に入ってくる。
もう、それは装飾ではなかった。信仰であり、アイデンティティだった。
そして……人間が“共生種族”であることを証明する証拠でもあった。
きっかけは、一人の人気モデルの発言からだった。
“アリ・サエカ”――(芸名。蟻とは無関係の佐伯冴佳)が雑誌のインタビューでこう語ったのだ。
「身体に蟻を飼ってないなんて、感情のない裸の王様よね」
この言葉が、すべてを変えた。
若者たちはこぞって蟻のタトゥーを身体のどこかに入れた。蟻を模したシルエット、行列、巣穴。
特に人気だったのが、「腰骨の上を這う黒蟻のライン」──通称、“ワーカーズ・レーン”。
企業の面接でも、「蟻タトゥーの有無」が評価対象となり、
SNSでは「蟻と生きてます」「右肩の蟻が今泣いてます」といった投稿がバズった。
だが、流行はそこだけでは終わらなかった。
「“蟻”のつく名字って、マジ尊いよね」
そう言ったのは、マッチングアプリで出会った女性だった。
田中ヒカル(26)は、ただの会社員。何の変哲もない苗字の、何の変哲もない男。
だが彼は偶然、“ありかわ ももえ”という娘とマッチングする。
初対面で、彼女は言った。
「私、“アリ”って入ってる人としか、もう恋愛できないんだ」
ヒカルは笑うしかなかった。
「えっ、名字に!?」
「そう!名前って、魂じゃん。『蟻』って入ってるだけで、“あ、この人、わかってる”って思える」
彼女のSNSにはこう書かれていた。
【#アリ婚 #フェロ婚 #名字で愛は決まる】
その瞬間ヒカルは理解する。
この社会では、「遺伝子」より「名字」、「性格」より「字面」が愛を決めるのだ。
そして、政府はこの異常事態に急遽「蟻姓名優遇制度」などが導入され、改名が簡単にできるようになった。
そして、改名申請が役所に殺到した。
「田中」→「蟻中」
「山本」→「山蟻」
「佐藤」→「蟻藤」
ひらがなも人気だった。「ありさ」「ありた」「ありのすけ」……。
幼稚園では「蟻の字がない子は仲間外れ」にされるようになった。
親が子供のために「蟻姓の人とだけお見合いさせる」運動まではじまった。
「蟻のない人は遺伝子が劣る」と信じる都市伝説や論文まで出る始末。
改名申請件数は年々増加傾向。ある週刊誌は報じた。
《出生届の3割に“蟻”の字が含まれるように──“アリかわ症候群”の今》
一方で、アプリ上では「“蟻”が入っていない名前をフィルターで除外する」機能まで導入される。
ヒカルのような「無蟻」系の人間は、恋愛も就職も、急速に社会的価値を失っていった。
ヒカルが失意のまま夜道を歩いていると、足元を一匹の蟻がよたよたと横切った。
本物の蟻だった。
誰も気づかない。踏まれる寸前の小さな命。
ヒカルはしゃがみこみ、そっと指を出した。
蟻はその指先を登り、彼の手の甲で止まった。
「お前は、俺の名字なんか気にしないよな」
そう呟くと、蟻はほんの少し、触角を動かした。
けれど、ヒカルにはそれが誰よりも誠実な“返事に思えた。
「"あり"がとな…」
次の朝。
ヒカルは役所の戸籍課の前に立っていた。
その手には、「改名申請書」が握られている。
やはり、気になっていた。
時流には迎合するしかないと思い、役所に来たが、やはり思い留まった。
「……やっぱ、俺は“田中”でいいや」
そう言って、書類を破り捨てた。
結局、名前が人を作るのではない。
人が、名前に意味を与えるのだ。
――そう思い出すには、少し社会が狂いすぎていた。




