表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
88/279

第88話 アリかわ症候群

「ねぇ、蟻タトゥーいれた?」


そんな言葉が、街を歩けば当たり前のように耳に入ってくる。

もう、それは装飾ではなかった。信仰であり、アイデンティティだった。

そして……人間が“共生種族”であることを証明する証拠でもあった。


きっかけは、一人の人気モデルの発言からだった。

“アリ・サエカ”――(芸名。蟻とは無関係の佐伯冴佳)が雑誌のインタビューでこう語ったのだ。


「身体に蟻を飼ってないなんて、感情のない裸の王様よね」


この言葉が、すべてを変えた。


若者たちはこぞって蟻のタトゥーを身体のどこかに入れた。蟻を模したシルエット、行列、巣穴。

特に人気だったのが、「腰骨の上を這う黒蟻のライン」──通称、“ワーカーズ・レーン”。


企業の面接でも、「蟻タトゥーの有無」が評価対象となり、

SNSでは「蟻と生きてます」「右肩の蟻が今泣いてます」といった投稿がバズった。


だが、流行はそこだけでは終わらなかった。


「“蟻”のつく名字って、マジ尊いよね」


そう言ったのは、マッチングアプリで出会った女性だった。


田中ヒカル(26)は、ただの会社員。何の変哲もない苗字の、何の変哲もない男。

だが彼は偶然、“ありかわ ももえ”という娘とマッチングする。


初対面で、彼女は言った。

「私、“アリ”って入ってる人としか、もう恋愛できないんだ」


ヒカルは笑うしかなかった。

「えっ、名字に!?」


「そう!名前って、魂じゃん。『蟻』って入ってるだけで、“あ、この人、わかってる”って思える」



彼女のSNSにはこう書かれていた。

【#アリ婚 #フェロ婚 #名字で愛は決まる】


その瞬間ヒカルは理解する。

この社会では、「遺伝子」より「名字」、「性格」より「字面」が愛を決めるのだ。


そして、政府はこの異常事態に急遽「蟻姓名優遇制度」などが導入され、改名が簡単にできるようになった。


そして、改名申請が役所に殺到した。

「田中」→「蟻中」

「山本」→「山蟻」

「佐藤」→「蟻藤」


ひらがなも人気だった。「ありさ」「ありた」「ありのすけ」……。


幼稚園では「蟻の字がない子は仲間外れ」にされるようになった。


親が子供のために「蟻姓の人とだけお見合いさせる」運動まではじまった。


「蟻のない人は遺伝子が劣る」と信じる都市伝説や論文フェイクまで出る始末。


改名申請件数は年々増加傾向。ある週刊誌は報じた。

《出生届の3割に“蟻”の字が含まれるように──“アリかわ症候群”の今》


一方で、アプリ上では「“蟻”が入っていない名前をフィルターで除外する」機能まで導入される。


ヒカルのような「無蟻」系の人間は、恋愛も就職も、急速に社会的価値を失っていった。



ヒカルが失意のまま夜道を歩いていると、足元を一匹の蟻がよたよたと横切った。


本物の蟻だった。

誰も気づかない。踏まれる寸前の小さな命。

ヒカルはしゃがみこみ、そっと指を出した。

蟻はその指先を登り、彼の手の甲で止まった。


「お前は、俺の名字なんか気にしないよな」


そう呟くと、蟻はほんの少し、触角を動かした。

けれど、ヒカルにはそれが誰よりも誠実な“返事に思えた。


「"あり"がとな…」



次の朝。

ヒカルは役所の戸籍課の前に立っていた。

その手には、「改名申請書」が握られている。

やはり、気になっていた。

時流には迎合するしかないと思い、役所に来たが、やはり思い留まった。


「……やっぱ、俺は“田中”でいいや」


そう言って、書類を破り捨てた。



結局、名前が人を作るのではない。

人が、名前に意味を与えるのだ。


――そう思い出すには、少し社会が狂いすぎていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ