第71話 蟻感情偽装罪
春…。
新年度の朝礼が行われる校庭には、いつものように小さな蟻たちのための「共生通路」が確保されていた。
神奈川県立・某中学校。
この学校の3年1組を担任する白石 陽介は、地域でも“共生教育の第一人者”として知られていた。
授業では毎回「蟻との接し方」を指導し、給食では「蟻視点の捉え方」を生徒と一緒に語らう。
その姿勢は地元新聞や共生庁の月報にも取り上げられ、教育賞にも推薦されていた。
──少なくとも、“AI診断”が導入されるまでは。
新学期初日。
校長室に呼び出された白石は、思わず声を詰まらせた。
「……本心で、私は蟻を“嫌っている”と?」
共生庁と民間AI企業が共同開発した、“フェロモン感情整合診断AI”。
視線追跡、脈拍、皮膚電気活動、呼吸パターン、ホルモン分泌量。
それらをもとに「蟻に対する感情の誠実度」を数値化する。
校長が画面を差し出した。
そこには、白石のデータ。
表情スコア:9.1(好意)
生理スコア:2.3(恐怖)
総整合率:38%
→ 判定:偽装反応の疑い
「この反応は……“蟻感情偽装罪”に抵触する可能性があります」
数日後、校内は騒然となっていた。
匿名のSNS投稿が拡散されていた。
『うちの学校の先生、共生アピールしてるくせに、心の中では蟻をキモいと思ってたらしい』
『偽善者すぎる。#蟻嫌い教師』
生徒の目の色が変わった。
「先生、ほんとは蟻キライだったんでしょ?」
「今まで授業で嘘ついてたんですか?」
保護者からも問い合わせが来た。
「子どもに“嘘の共生”を教えないでください」
白石は何も言えなかった。
──好きか、嫌いか。
それが“証明される時代”になってしまったのだ。
数週間後。
白石は教壇に立ち、ゆっくり語りはじめた。
「……確かに、私は“完璧な共生者”ではないかもしれません。時折、自分でさえ怖いと感じる日もあります」
白石の言葉にざわつく教室。
「しかし、それでも……私は、蟻たちと“一緒に生きい”と思ってきました。
好きとか、嫌いとかじゃなく、私は“ここにいたかった”んです」
「誰かと一緒にいるために、人は感情を“整えよう”と努力しなければなりません。
その努力まで、嘘だって言われたら……共生なんて、できるわけありません。」
白石は熱弁を振るう。
生徒たちは一様に黙っていた。
そのとき、一匹の蟻が、教室の床をゆっくり歩いていった。
白石はそれを見て、小さく微笑んだ。
「君は……今日も、ここに来てくれたんだな」
【数日後の共生庁広報誌】
“蟻感情偽装罪”についての運用基準を一部見直す方向で協議中。
フェロモンAI診断の結果だけで処分を行うことは、「過剰な心情介入」との指摘もあった。
人間が、誰かを“怖い”と思う気持ちを、完全に消すことはできない。
それでも、共にいようとする意志。
それが、本当の“共生”ではないか──
白石はまだ、今日も教壇に立っている。
もう一度、生徒と、蟻と、向き合うために。
そして…ちょうどスーツの右の袖に蟻が歩いていた。
白石は無意識に左手で勢いよく払っていた…。




