第67話 踏破証明
――証明できなければ、誰も信じてくれない…
●朝7時42分。市営地下鉄・A2出口前。
「あれっ……ない」
スーツ姿の男が、鞄の中を探る。駅の壁際には、すでに10人ほどの列ができていた。
スタンプ台の上に置かれたのは、今日の日付が記された「踏破証明印」。
その日、一匹の蟻も踏まずに終えた者だけが受けられる、いわば“倫理のスタンプ”。
男――間島悠司、37歳。営業職。2児の父。
普段はきちんと毎朝ここでスタンプを押していた。だが今朝は、証明用の台紙を忘れていた。
「……あの、今日もちゃんと避けて来ました。台紙は会社に忘れてきて……」
駅員は申し訳なさそうな顔をしながら、機械的に答える。
「あの、申し訳ありません。スタンプは“記録媒体への押印”が義務となっています。お忘れの場合は、踏破済みでも無効となります」
悠司は口を開きかけたが、何も言えず、ただうなずいた。
後ろの列からは、かすかにため息が漏れた。
「証明なき誠実は、無価値だぞ!」
ふと振り向いたが、もう誰が言ったのかもわからなかった。ただ、その言葉だけがやけにクリアに耳に残った。
●午前10時10分。商談の席。
「……ところで御社の“踏破率”の方は、最近はいかがです?」
取引先の課長が言った。冗談のような口ぶりだが目は笑ってない。
「ええ、ご安心を…弊社では月間で97%の踏破率を維持しております。ただ……今日実は、私が証明台紙を会社に忘れてしまいまして……」
「え? 今日の分、押してないの?」
「いえ、実際にはちゃんと踏んでません。今朝も、蟻の導線をきちんと確認して、慎重に来ましたので……」
「いやいや、間島さん。誰も見てなかったんですよね? それじゃあ、踏んでないことをどうやって証明するんですか?」
その場の空気が、一瞬凍りついた。
「まぁ、うちは倫理スコアの低い企業とはお付き合い出来ないってだけなんで。お気になさられないでください。」
笑い声の中に、確実な拒絶が混じっていた。
●午後6時過ぎ。帰宅途中の電車。
優先席の近くに、灰色のステッカーが貼られていた。
共生帯:蟻保護者優先着座ゾーン
(踏破証明書提示で優先着席)
間島はそのステッカーの“隣”に立った。荷物が重く、足も痛い。座りたい。
だが、スタンプを押していない者がその近くに立つだけで、周囲の空気が刺さる。
斜め前の女子高生が、スマホを自分に向けているのが見えた。
(やべ…SNSで晒される……)
彼は立ったまま、座るのを我慢し、吊革を強く握りしめた。
●夜10時、自宅。
子どもが走り寄ってきた。
「ねぇ、パパ! 今日のスタンプ押した!?」
妻が言う。「明日、学校に提出らしいの。“親子共踏破月間”で」
間島は、わずかに視線をそらした。
「今日は……ちょっと、忘れちゃった。けどちゃんと避けたよ。ほら、朝の駅の導線も見たし、地面も……」
子どもは、不思議そうな顔をしたあと、こう言った。
「でも押してないんだよね? じゃあ、ほんとは踏んじゃったんじゃないの?」
妻も黙っていた。
その沈黙が、“信じてあげたいけど、今はダメ”というメッセージに聞こえた。
悠司は、座ったまま膝に顔を埋めた。
●深夜。 タバコを買いに出掛ける。
間島はひとり、ふと立ち止まり地面を見ていた。
「俺は、踏んでなんかないんだ。ちゃんと避けたし。……俺は、誰よりも慎重にやってきたんだ」
足元では、一匹の蟻がゆっくりと通り過ぎていく。
その背中を、誰も見ていない。
ただ悠司だけが、それを避け、通り過ぎた。
ポケットの中には、誰にも見せられない証明書がある。
自分自身しか知らない、“誠実な一日”の記憶。
それは、紙にも記録にも残らない。
だが、確かにここには存在していた。




