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第58話 蟻鍋事件

それは、都市の片隅にある小さな飲食店で起きた。


「里鍋屋」——郷土鍋を売りにした店だった。

客足はまずまず。特段うまいわけではないが、値段の割にけっこうボリュームがあり、常連客も多い。



「あっ……今、なんか落ちましたよ」


昼下がりの仕込み中。

厨房の片隅にいた新人バイトの声に、店主の間宮は手を止めた。


「何が?」


「たぶん、蟻……だと思います。鍋の中に」


大鍋の湯の表面には、黒く細い影が一つ、浮かんでいた。

ぷかり、とも、じわじわ、とも言えない曖昧な揺れ方で、


店主は黙ってお玉で救い、そのままゴミ箱に捨てた。


 「あっ…」


「おいっ、見なかったことにしろよ。」

店主は静かに、そう言った。


だが、その一言に、バイトの佐野は動揺を隠せなかった。


「でも、これ……営業中だったら、お客さんに出すんですか?」


「うるせぇ。営業中じゃないからいいんだよ。まあ、これくらいならいいんだよ!」


佐野はまだ入りたてで何も言えず、ただ引き続き与えられた仕込みを続けた。


 

翌週、保健所の立ち入り調査が入った。

匿名通報によるものだった。


「鍋に蟻が落下した」「天井の梁に蟻道がある」「店主が意図的に放置している」


調査の結果、厨房の真上——エアコン配管付近に「活蟻跡」が発見された。

さらに、過去に作られた「防蟻対策用のパテ」が一部意図的に剥がされていたことも分かった。


店主・間宮は、管理不行き届きによる食品衛生法違反容疑で逮捕。


「落ちたのは一匹だけじゃないですか。しかも営業中じゃない。

“鍋の虫一匹”で、人間一人を社会から追い出すんですか?」


取り調べで間宮はそう語った。


 

だが、取り調べでわかってきたことは、今まで常習的に行われていた事実だった。


・仕込み中に蟻が落ちても「火が通ってるから問題ない」とする独自主観

・従業員に「黙っておけば大丈夫」と指導していた。



そう、そしてそれを密告したのは、あの新人バイトの佐野だった。


彼は調査員にこう話した。


「正直、言うの迷いました。でも、食べることって、信頼だと思うんです。

誰も気づかなければいい——そんな空気が一番気持ち悪かった。

自分の良心が、鍋の底に沈んでく気がしたんです」




裁判では、共生か衛生か、文化か科学かが問われた。


弁護側はこう主張した。


「蟻は既に“人類と共生する種”として法的にも認められている。

問題は“落ちたこと”ではない。“落ちたことを問題とした社会構造”だ」


裁判では、店主は最後まで無罪を主張した。


「落ちたのは事故です。

“人間側の衛生観”で蟻の存在を問題視するのは、差別に近い。

共生とは、本来“あるがまま”を受け入れることではないか?」


だが結局判決では、


「管理責任において“意図的な寛容”は、職務怠慢と見なされる」

「そして何よりも故意であれ、蟻を死なせてしまったことは極めて重罪である。」


判決は、店主に対し懲役5年を言い渡した。


 

事件以降、「厨房内蟻対策ガイドライン」は全国で厳格化された。

また、“調理場の共生構造”を巡る議論も加熱している。


——人間が作る料理の中に、どこまで他者を許容できるのか。

その問いが、いまも燻っている。

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― 新着の感想 ―
新着から来て一気読みしました。 「共生」の名のもとに蟻に支配されていく社会と人々の様子を淡々と描いていて、読み応えがあります。 続きも楽しみにしています。
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