表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/279

第54話 研究者のデート

フェロモン日記:第三十七夜


高原伊吹たかはら・いぶき:28歳。大学院の昆虫行動学専攻。研究室でクロオオアリを飼育している。

Q7リー:高原が「リー」と名付けた女王蟻。体長15mm。静かに蠢く。



観察日誌:リー、君は今日も美しい。


記録番号:037

日付:8月18日

対象個体:Q7号(以下「リー」)

状態:通常

行動:巣室内をゆっくりと移動。腹部を少し上げた姿勢が、まるで挨拶しているように見えた。



研究していくうちに次第に、高原はリーに惹かれるようになっていった。



そう、今日は初めてのリーとの、デートだった。


 

「リーこれ、持ってきたんだ」


高原は、小さな蟻専用の特殊プラスチックのキャリーケースをそっと持ち上げた。中には湿度調整済みのソイルパックと、小さな餌皿。そして、その中心にリーがいた。


女王蟻Q7号。

彼女の正式なラベルはそうだが、高原にとってはもう、単なる研究対象ではなかった。


「風、気持ちいいね。リーも感じる?」


リーが、少し触角をこちらに傾けた。

「……うん、そうだよね。僕もそう思うよ」



小さな蟻専用の特殊ケースを胸元に抱えながら、彼は研究棟を抜け、外の公園へと出た。日曜の午後、蝉の声と、草いきれ。歩く高原のスピードは異常に遅い。


時速、0.1km/h。


「ゆっくりでいいよ。君のペースで」


もちろん、リーの足はもっと速く動くこともできる。が、女王である彼女は基本的に移動をしない。その気高い気質を尊重し、今日は女王のための遠足にしたのだ。


ベンチに腰掛け、ケースを開ける。

そよ風がケースの中に流れ、ほんのわずかにリーの触角が動いた。


「なぁ……こうやって、一緒に外に出るの、ずっと夢だったんだ」


高原はそう言って、蟻専用のカロリーを計算して選んだゼリー状の糖分餌が、リーの皿に置かれている。

そして一緒に頬張る。

二人の昼食。完璧だ。


 

---


すれ違う人が、異様で奇妙な光景に目を向ける。

その目は明らかに「ヤバいやつだ」と言っている。


仕方がない。女王と外に出れば、そういう目も向けられるだろう…。

だが高原には、周囲の目は、もうどうでもよかった。彼の視界には、リーしか見えない。


「リーねぇ……見て。あれ、セミの抜け殻。夏って、好きかい?」


返事はないが、高原は喜んでそのまま話し続ける。




観察日誌:037(補足)


15時12分、リーが糖分餌に口をつけた。微細な顎の動きが、食事と確認できる。

人通りの多い公園ベンチにて、対象は臆する様子もなく堂々としていた。さすが、女王だ。


——人間の女性と話すときには震えて声が出ないのに。

リーの前では、ちゃんと自分になれる。


---


夕方、大学に戻る途中、大学前の通報ボックスが赤く光っていた。

警備員が近づいてくる。少し距離をとったところで、スマホを向けていた若者も見える。


高原は、リーのケースをそっと抱きしめ、言った。


「帰ろう、リー。今日は楽しいデートだったね」


彼女は応えない。だが、あのときも、君はそうだった。

リーはいつも黙って、静かに、そばにいてくれる。


 

高原はそのまま警備員に連れていかれた。


---


最終記録:038(未提出)



リーへ

まわりはみんな僕のこと病気だと言うが、僕は正常だから安心して。

けど、君といるときだけは、素直になれる。

リー大好きだよ。

ここを出たら、結婚しよう。



その手紙は決してリーに届くことはなかった…

そして、二度とリーに決して読まれることはなかった…


手紙は病院の看護職員達に読まれ、昼休みの笑いの種にゴミ箱へ……。


そう…この世界に君以外の言葉はいらない。

言語も、法律も、人間関係も、無意味だ。


君の触角だけが、真実を探っていた。


 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ