第54話 研究者のデート
フェロモン日記:第三十七夜
高原伊吹:28歳。大学院の昆虫行動学専攻。研究室でクロオオアリを飼育している。
Q7号:高原が「リー」と名付けた女王蟻。体長15mm。静かに蠢く。
観察日誌:リー、君は今日も美しい。
記録番号:037
日付:8月18日
対象個体:Q7号(以下「リー」)
状態:通常
行動:巣室内をゆっくりと移動。腹部を少し上げた姿勢が、まるで挨拶しているように見えた。
研究していくうちに次第に、高原はリーに惹かれるようになっていった。
そう、今日は初めてのリーとの、デートだった。
「リーこれ、持ってきたんだ」
高原は、小さな蟻専用の特殊プラスチックのキャリーケースをそっと持ち上げた。中には湿度調整済みのソイルパックと、小さな餌皿。そして、その中心にリーがいた。
女王蟻Q7号。
彼女の正式なラベルはそうだが、高原にとってはもう、単なる研究対象ではなかった。
「風、気持ちいいね。リーも感じる?」
リーが、少し触角をこちらに傾けた。
「……うん、そうだよね。僕もそう思うよ」
小さな蟻専用の特殊ケースを胸元に抱えながら、彼は研究棟を抜け、外の公園へと出た。日曜の午後、蝉の声と、草いきれ。歩く高原のスピードは異常に遅い。
時速、0.1km/h。
「ゆっくりでいいよ。君のペースで」
もちろん、リーの足はもっと速く動くこともできる。が、女王である彼女は基本的に移動をしない。その気高い気質を尊重し、今日は女王のための遠足にしたのだ。
ベンチに腰掛け、ケースを開ける。
そよ風がケースの中に流れ、ほんのわずかにリーの触角が動いた。
「なぁ……こうやって、一緒に外に出るの、ずっと夢だったんだ」
高原はそう言って、蟻専用のカロリーを計算して選んだゼリー状の糖分餌が、リーの皿に置かれている。
そして一緒に頬張る。
二人の昼食。完璧だ。
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すれ違う人が、異様で奇妙な光景に目を向ける。
その目は明らかに「ヤバいやつだ」と言っている。
仕方がない。女王と外に出れば、そういう目も向けられるだろう…。
だが高原には、周囲の目は、もうどうでもよかった。彼の視界には、リーしか見えない。
「リーねぇ……見て。あれ、セミの抜け殻。夏って、好きかい?」
返事はないが、高原は喜んでそのまま話し続ける。
観察日誌:037(補足)
15時12分、リーが糖分餌に口をつけた。微細な顎の動きが、食事と確認できる。
人通りの多い公園ベンチにて、対象は臆する様子もなく堂々としていた。さすが、女王だ。
——人間の女性と話すときには震えて声が出ないのに。
リーの前では、ちゃんと自分になれる。
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夕方、大学に戻る途中、大学前の通報ボックスが赤く光っていた。
警備員が近づいてくる。少し距離をとったところで、スマホを向けていた若者も見える。
高原は、リーのケースをそっと抱きしめ、言った。
「帰ろう、リー。今日は楽しいデートだったね」
彼女は応えない。だが、あのときも、君はそうだった。
リーはいつも黙って、静かに、そばにいてくれる。
高原はそのまま警備員に連れていかれた。
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最終記録:038(未提出)
リーへ
まわりはみんな僕のこと病気だと言うが、僕は正常だから安心して。
けど、君といるときだけは、素直になれる。
リー大好きだよ。
ここを出たら、結婚しよう。
その手紙は決してリーに届くことはなかった…
そして、二度とリーに決して読まれることはなかった…
手紙は病院の看護職員達に読まれ、昼休みの笑いの種にゴミ箱へ……。
そう…この世界に君以外の言葉はいらない。
言語も、法律も、人間関係も、無意味だ。
君の触角だけが、真実を探っていた。




